第5話 涼は厳しい寒さの欠片

 頬が上気するのを感じ、レアはうつむいた。ケアヌにこれ以上、期待するのは自分のためにも彼のためにもならない。ここを出てからレアは一人も同然なのだ。


「それなら貰う。でも、売っちゃうかもしれない。だって私、売れそうな物、他に持ってないもん」

「良いよ。レアの役に立つなら」


 そう言うとケアヌはレアの目線の先に屈み、頭上にかかる布を両手で目深に引き寄せる。


「但し、騙されないようにね。レアはすぐ人を信じるから。ここを出てから先、君が信じて良いのはアヌヘアさん、たった一人だよ」


 ケアヌが自分自身の名もロカヒの名も出さないのは意図があるのだろう。

 しかし、それ程、注意深くあらねばならない、という意味なのか、それ以上に思い当たることがあってのことかは彼女には判らなかった。彼のいつも曖昧な微笑は考えを読ませてはくれない。


「ケアヌは母様のことは信じるの?」


 不意にこぼれた問いにケアヌは意外な程、驚く表情を見せた。その動揺を隠すように彼は目を閉じる。


「信じるよ。アヌヘアさんは真っ直ぐな人だから。君と似てる」

「父様と兄様はそうじゃない?」

「ハクメレさんは言霊のために普段は口数少ないから僕にはよく判らない。ロカヒは真っ直ぐだけど融通も利かないね。情より法を選ぶこともあり得る。その方が彼自身の道は拓けるから用心はした方が良いと思う」


 それからケアヌは苦笑し、レアの目をじっと見た。


「でも、これは僕が勝手に思ってるに過ぎないよ。アヌヘアさんを母より母親と思って来たから、どうしても彼女には甘くなる」


 ケアヌはレアが物を散乱させた床から鞄を拾い、吟味ぎんみするように中身を幾つか外に出す。そして、散らばる品の中から水や薬を選り分けながら声を潜めて言った。


「アヌヘアさんに君が僕といることを知らせようとはしてる。伝わるか判らないけど。駄目な時は後でまた試してみるよ」


 見張られているだろうアヌヘアとの接触が危険なことは明らかだ。彼がそこまでする理由はない。少なくともレアとの間にそのような借りは彼にない筈だった。レアは躊躇いがちに尋ねる。


「どうしてそこまでしてくれるの?」

「ほら……だから君はすぐ人を信じる、って言うんだよ」


 ケアヌのその笑みはどこか哀しそうにレアには見えた。しかし、その笑顔をすぐに消し去ると、


「君のためじゃない」


 彼は言い切った。


「僕はアヌヘアさんに救われて来た。異能を必要としない彼女が憧れで、僕の名前の『アヌ』はアヌヘア涼やかな香さんから貰ったと想像したりして、彼女みたいになろうと思って勉強もしたんだ。だから、彼女を助けたいだけ」


 一度、棚の方へと向き直り、何かを手に戻って来るとケアヌはいつもの彼の微笑を浮かべる。


「小刀と男物の服を入れておくから。地下に潜ったら髪を切って着替えて。大丈夫、レアなら男の子に見えるよ」


 逃亡の困難を思い遣っての言葉と知りながらレアは顔をしかめた。しかし、それに気付かず、ケアヌは荷造りを続ける。


「他にも必要になりそうな物や計画の紙を入れておくから。それで数日、凌いで。その間に計画を覚えてね」

「私、禁足地にいれば良いの?」


 ふと思い付いてレアは尋ねた。目の前で進む現実的な逃亡の作業に少しずつ彼女も不安と緊張が増して行く。

 ケアヌは少し考える風に見えた。しかし、また笑いかけるとレアの頭を布越しに撫でる。


「禁足地には特殊な洞穴があって不定期に岩戸が開く。それを見逃さずに中に入るんだ。余り長くは開いてはいないそうだから」

「不定期って、いつ開くの? ずっと先だったら……」

「三日より長く閉じていたことも、一日より短く開いたこともないらしい。昨夜、岩戸は開いてる。明日か明後日には入れる可能性が高い」


 彼は時間を確かめた。鞄の上の方に幾冊か本とレアの肩掛けキーヘイを雑に詰め込み、中途半端にふたは開けたままにする。


「レア、この洞穴の一番、奥の岩だけ禁足地の外なんだ。そこに地下の側からだけ開けられる、一族でも知る人の少ない出入り口がある。君はその岩の隣りで待ってて」


 見知らぬ道を行くレアが日没頃までに着かなければ彼の語った計画は破綻するかもしれない。彼が急いでいるのが口調から動きからレアにも伝わって来た。

 しかし、いざ行かなければならない、と思うと急速に恐怖は募って行く。


「岩戸はすぐ判る? 禁足地で人に逢ったら?」


 レアはケアヌの袖を握り、見上げた。


「禁足地に入ったら山の見える方を目指すんだ。お詣りで行く神殿とは別方向で余り人は来ない。逢ったとしても禁足地の沈黙の掟があるから最初に挨拶の仕草をしたら顔を見られないようにすれば良い。受胎の願いを隠す人も多いから」


 答えながらケアヌは彼女の目の高さに淡褐色の双眸を合わせる。何度も何度も頭を撫でながら、口調だけ早めて彼は言い聞かせた。


「山の方の道は見落としがちらしい。間を開けて目印に木を植えてあるから、追うと行けるはずだよ。最後の木の傍にハウメアの木像がある。珊瑚はここに捧げて。木と神像を結んだ延長線に進むと岩戸があるよ」


 そして、彼はレアの手に鞄を握らせる。


「さあ、行って!」


 ケアヌに背を押し出され、レアのすくみかけた足がたたらを踏んだ。その勢いに巻かれるように体は動いて彼女は部屋の扉を開ける。廊下を抜け、玄関を飛び出し、道を渡って見知らぬ門へと走り込んだ。そこに探さずとも竹藪が広がるのを見付け、彼女は中へ中へと駆ける。

 家の上階から外の様子を見た後、ケアヌは部屋に戻った。レアの脱ぎ捨てた服にはまだかすかに体温が残るかに思える。彼女の好む赤を躊躇いがちに裂くと、


「御免、約束を守れなくて」


 彼はぽつりと呟いた。

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