第六話 影の手

 誠の自宅マンションから10分、駅を通り過ぎるとその建物はあった。

 道路側の壁面に「ワークアウト ドルフィン」の看板文字が午後の日差しに光っている。

 

 通常よりも高さのある三階建。

 一階がスイミングスクールのプール。入口に受付と事務室、二階が更衣室とトレーニング室、三階はヨガやダンス教室用のスペースになっていると誠が説明する。


 まだ点検作業が続いているのだろう。駐車場には何台か車が停まっていた。○○設備機器と書かれた車もある。開け放されている正面玄関の自動ドアの辺りにもちらほら人の行き来があった。


「ね、木下、木下君、ちょっと入ってみたいんだけどさ、見学とかできないかな?」

「こんな時にさすがにそれは無理なんじゃない。

 ていうかさ、もう誠でいいよ。僕も俊介って呼んでもいいだろう?」


 高畑の最初の頃のイメージがここにきてだいぶ変っていた。

 誰とも交わろうとせず周囲から遠ざかっていたのに今はまったく別人だ。しかもこの押してくる感じ。いったい何がこいつをこんなに積極的にさせるのか、誠は不思議で仕方なかった。


「いいよ。君もね。平田華さん。華、って呼んでいいよね」

 華は少し納得いかないようなしかめっ面をしたが「いいよ、それで」とぶっきらぼうに答えた。


「でもさ、、今きっとお取込み中だから見学なんてむりなんじゃない」華は俊介に呆れつつごり押ししそうな予感がして止めた。


 それでも俊介は、

「そうかな。ちょっと見るくらいなら許してくれるんじゃない?僕訊いて来るよ」というなりさっさと玄関口へ向かっていった。


「ちょっ、ちょっと」「やれやれ、いったい何を見たいんだろう」

 顔を見合わせふたりが追いかける。

 どうもこの先ずっとこんなパターンになるような気がして華は金曜日のことを後悔し始めていた。


 

 受付の女性は、拍子抜けするくらいあっさりとプールの見学をOKしてくれた。

 ただし奥のガラス越しにお願いしますといわれ、三人真っ直ぐそのまま奥へ進んだ。

 誠がここの会員だと女性は知っていた。だから許可してくれたのかと思ったのだが、プールを覗いてみると中には誰もいない。今日の作業は終了したようだ。さっき見かけた大人たちは帰る支度をしていたようだ。

 

 大きなガラス越しに50m8レーンのプールが見える。水は抜かれていた。

 小さい子たちのクラスは保護者がここから見学できるようになっていた。

 ベンチがいくつも並んでいる。事故のときも保護者はここから見ていたに違いない。水が張られていれば側面の窓から差し込む日差し溢れる屋内プールを。


 受付の奥から電話の音がしている。どんなやり取りが交わされているのかはわからないが、切れたと思ったらまたすぐ音がしている。ひっきりなしかかってきているようだ。もしかしたら退会の連絡かもしれないと誠は思っていた。

 四、五日離れていたただけなのに何だかとても懐かしさを感じる。またあの水の感触を味わいたくなってきていた。



 俊介は隅から隅までプールを眺めていた。

「ん?」一面のガラス窓の端から端まで移動しながら眺めていたが立ち止まった。一点を凝視している。

「どうしかしたのか?」「なに?俊介、君」駆け寄るふたりに、「いやなんでもない」と答えたがちらっと黒いものが見えたような気がしていた。


 その時いきなり辺りに「ガガガッ」と音が響き、プツンと室内の照明が消えた。昼間でも建物の中は照明が点いていた。それが一斉に消えた。

「なんだろう」「停電?」

「帰ったほうがいいかもね」華の声にふたりがうなずく。

 受付は無人だった。通り過ぎると開け放されていた玄関ドアが閉まっていた。

 センサーの真下に来たのにドアが開かない。停電の影響だろう。


 聞こえていた電話の音も今は静かになっている。さっき応対してくれた女性は奥の事務室で原因を探っているのかもしれない。すぐに停電は解消されると誠たちはそう思っていた。



「あのー、見学終わったので、帰りまーす。玄関のドア、手で開けちゃいますよおー

 どうもありがとうございましたー」

 奥に向かって大きく声をかけ華はドアの隙間に手をかけた。こじ開けようとしたのだ。

「自動ドアって、電気切れても鍵がかかってなかったら手で開けられるんだよ」

 うちのお母さんそういってた」

 職場のスーパーの防災訓練で華の母が聞いてきたという。

 だが開かない。


「僕がやってみる」誠が手をかけるがびくともしない。俊介も一緒になってやってみるがまったくダメだった。ドアが開かない。


「あっ、」誠がいきなり横に倒れた。

「なに?どうしたの、」華が驚いて声を上げた。

「いったあー、なんだ?」起き上がろうとしたが誠は右足に違和感を覚え尻もちをついたまま足元を見た。足が動かない。


 停電とはいえ入口周辺の窓から外の日差しが薄っすら差し込んでいる。室内はそこそこ明るかったが受付のドアが半端に開いて影を作っていた。そこにサッカーボールくらいの塊がある。そこから手が、人の手のようなものが伸びていた。

 

 伸びた人の手が誠の右の足首を掴んでいる。

 だが誠にも華にもそれが見えていない。

 誠には何かが自分の足に絡みついているような感触だけがあった。

 

 すかさず俊介はそれを踏みつけた。その手が一瞬ひるんで掴んでいた足を放した。

 そうして影がゆっくり起き上がった。

 と同時に足をさすっている誠の背後からもうひとつ揺らぐ影が現れた。


 真っ黒な墨のような影と、透明な揺らぐ人影が相対している。

 どちらも小さな子どものように見える。互いに相手を見つめ緊張している様が俊介にはよく見えていた。


「ガガッ」、受付の奥から物音がして一斉に室内の明かりが点いた。

 途端にどちらの影も消えていた。



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