街に蠢く影
あんらん。
第一話 誠と華と俊介
誠は、悩んでいた。
通っているスイミングスクールのことだ。
幼稚園の年少からだからもう七、八年にはなる。
中学に入ってからもずっと通っていた。
去年からの「選手コース」の活動で部活も免除してもらっている。
思い返すと通い始めたあの頃がとても楽しかった。
水に浮く感覚と水中を進む心地よさが誠を虜にした。
そして鯨だ。
同じ頃映像で目にした鯨の、しなやかに水中を進むその姿に惹かれた。
踊るように歌いながら泳いでいる。それは心底楽しそうだった。
誠は食い入るようにいつまでも見つめていた。
小学校に上がる前の夏、誠は母の郷里の南の島で大怪我を負い、長い入院生活を強いられた。あのとき何が一番辛かったかというとプールに入れないことだった。
怪我をした事の顛末はまったく覚えていないが、病室でその頃同じ夢ばかり見ていた。
鯨と一緒に泳ぐ夢だった。
銀色に光る大きな鯨が目の前を泳いでいく。そのすぐ脇を誠が一緒に泳いでいるのだ。
夢を見るたび幸せな気持ちになった。
辛い入院生活に耐えられたのはあの夢のおかげだった。
なのにもうあの鯨はこの頃まったく夢に現れてはくれない。
大事な物を失くしてしまったような喪失感に寂しさが募っていた。
なぜだろう。
回復後、怪我の後遺症を心配した母にいわれるまでもなく、リハビリのつもりでスイミングを再開した。
元々筋はよくフォームも綺麗だといわれていた。
再開して四年経った去年、コーチから「選手コース」を勧められたが、誠にはその気はなかった。
気が変わったのは「一般コース」よりプールを使える時間が格段に長くなると聞いたからだ。
でもいざ水泳選手を目指すことになると求められるのは、より効率的により速く泳ぐにはどうするのか、どうすれば記録が伸びるのか。それだけだった。
目の前にあるのは体幹の強化に、増える筋トレメニュー、フォームの改善等々だった。のびのび手足を伸ばしてゆったり泳いでいる場合ではなかった。
―――あんなに楽しかったのになんだろうこれは。
そうして誠は気付いた。心から求めていたのは、水と一体になる心地よさだったのだと。記録は伸び悩んでいる。日に日にスクールに通うことが億劫になってきていた。
教室に残っている者たちのおしゃべりをぼんやり聞いていたら、いつの間にか下校時間になっていた。
だらだらと玄関に向かう誠の背後に勢いよくぶつかって来た者がいた。
「いっ、たあ、」
「ごめんごめん、急いでんの。ほんとごめんね。
あ、あんた、木下誠。
なにサボってんのよ、・・今日は、・・の整理、するっていった、じゃない、・・もう・・」
風のように駆けていった。おしまいまで聞き取れなかったがすっかり頭から抜けていた。誠も同じ図書委員なのだ。
―――あ、忘れてた。今日は図書室の作業があるっていってたな。にしてもなんだあいつ、何そんなに焦ってんだ。平田のやつ。
そう平田華は急いでいた。
今日は母の代わりに年の離れた弟の康太を保育所まで迎えに行かなくてはならない。
母の働いているスーパーのパート仲間が二日前から休んでいて、残業になるからと朝、頼まれたのだ。
なのに図書室の整理に思いのほか時間を取られてしまい、気付けばもうお迎えの時間になっていた。「あいつのせいだ」明日文句のひとつもいってやらなくては。
図書委員の仕事は地味だけれど好きだった。
小さい頃からの本好きで今も寝る間を惜しんで読みふける毎日だ。エンタメ、ラブコメ、サスペンス等々、ジャンルを問わずタイトルを見て面白そうだと思ったものに手を伸ばしていた。
中学の委員会活動は小学校でもそうだったように図書委員以外考えられなかった。
華にはもうひとり、二つ下の妹がいる。
妹の舞は躰が弱くてしょっちゅう熱を出す。二日前もそうだった。今朝は何とか元気に学校へ行ったが気になるところだ。
妹や弟たちの面倒を見るのも嫌ではなかった。
母は近所のスーパーのお惣菜コーナーでずっと働いている。父は隣町の金属加工会社の営業で関連の地方へ出張が多い。忙しい母や父に代わり華が妹たちの面倒を見ている。頼りにされるというのはなかなかいいものだと思っていた。
通学路の直線を右に曲がって目に入った人影に見覚えがあった。
目を伏せ俯き加減に歩いている暗い後ろ姿。
―――あれっ?あれって、高畑俊介?。お昼前に早退したんじゃなかったっけ?
無口で必要なこと以外誰とも言葉を交わさない。いつもひとりでいる俊介。今もそうだった。
極度の人見知り?いや人嫌いなのかもと教室のあちこちで囁かれていた。
あいつは訳アリだからという先生たちの話しを華は小耳に挟んでいた。
―――訳アリってなに?まあ、わたしには関係ないし興味もない。それどころじゃないのよわたし。
華は俊介の真の暗さに気付いていた。
眼に覇気がない。瞳の奥に氷のような冷たい何かがある。変な薄気味悪さを感じていた。
その俊介の名前が図書室のカウンターの返却期限を過ぎたリストにあった。
「同じクラスだったよね、この子。期限過ぎてるって伝えといてくれるかな」
司書の大崎に頼まれたのだ。
立ち止まったが相変わらずの暗い雰囲気に声をかけそびれた。
それに今は急ぐのだ。華は自転車をまた走らせた。
そう俊介は、早退したのに学校へ向かっていた。
人影がまばらになる頃を見計らって。
―――あれは見間違いじゃない。そう絶対、見間違いや気のせいではない。
気になって家で横になっていられなかった。確かめなくてはならないと思ったのだ。
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