01-12.水潦へ突き落としました

「それで抱かせた?」

「嫌でした。だからその場から離れようとしたんですけど、うまく……足が動かなくて。なかば強引に由稀ゆうきさんを取り上げられてしまいました」

 十四年前なら、安積あづみはいまの由稀たちよりずっとおさない。深涯みはて慶栖けいすの年齢を知らないが、たとえ安積とひとつ違いであったとしても、その年頃のひとつの差は大きい。まして慶栖が成人だったなら、安積に抗えるすべはない。易々と手を離したのではない、あっけなく奪われてしまったのだった。

 抱いている子が入れ替わってしまったのは、安積の本意ではなかった。

 深涯はかける言葉なく、安積のこわばった頬を静かに見つめた。

「慶栖さまは代わりみたいに還り子もどりごさまをわたしに抱かせて、なるべく遠くへ、できれば外輪山を越えるよう言いました。わたしは由稀さんを置いては行けないと反発しましたが、あららぎの宮の……水潦すいろうへと追い詰められて。突き飛ばして逃げ出そうと思うのですが、慶栖さまの神似しんじか、それとも恐怖心ゆえかわかりませんが、どうしても足を踏み出すことはできませんでした。そのうち、地面に白い糸状のものが這っていることに気づいたんです。はじめは虫か蛇かと思ったんですが、もとを辿ると慶栖さまの持つ枝からこぼれていて……。どういうことか訊ねましたが、慶栖さまは微笑みながら、わたしを……水潦へ突き落としました」

 安積は両手で顔を覆った。深涯はただじっと彼女が落ち着くのを待つ。安積は白い指先を震わせながら顔をあげた。

「……泳いだことなどなかったわたしはすぐに水を飲んで溺れそうになりましたが、それはほんの一瞬のことで、気づけば、龐樹ほうじゅを挟んでこの村の反対側にある水潦に流れつきました。深涯さまが龍脈りゅうみゃくを辿られたのでは、とお話ししたのも、わたし自身こういったことを経験したからなのです」

 肩を落とし、安積は大きく息を吐く。

「あの日、祥稲さちねさまからお言葉をちょうだいしたばかりでした。安積のおかげでいつも由稀さんは機嫌よくいてくれる、安積に由稀さんのいのちを預けましたよ、と。それなのに、それなのにわたしは由稀さんを守れなかった……。あのとき、わたしが身を挺していれば……由稀さんがあんなふうになることはなかったのに。そう思うとわたしは悔やんでも悔やみきれないのです」

「あんなふうって?」

「髪と瞳の色です。楔原せつげんでは一葦一色いちいいしきの理と呼ばれる法則があります。人は生まれるときにひとつ色を与えられるというもので、竜家も還り子さまもしょうも多くの民も、みな色彩はひとつきりなのです」

「ああ、それでおれのことを」

 深涯は安積が先ほど清堂せいどうで、一葦一色の理の外と呟いたのを覚えていた。

 安積は、はいと頷く。

羅依らいさんのお母さまが深涯さまに気づいたのも、この理を知っていたからと思います」

「実はおれがとんでもなく年寄りで、髪の色が抜けているだけかもしれないとは思わないのか」

「老いるとたしかに髪は白くなりますが、瞳もまたおなじように淡くなっていきますよね。深涯さまの瞳はそうではありませんから」

「しかし、それなら由稀のなにが問題なんだ。たしかにあいつは硝ではないから奇妙だとは思うが」

「由稀さんは、竜家のほとんどがそうであるように、髪も瞳も黒だったのです。慶栖さまに抱きあげられ、わたしが水潦に落ちてしまうそのときまで、たしかに黒だったのです。……それが、おなじ水潦から慶栖さまが出てきたときには、いまのそら色に。まさか生まれ持った色が変わるなんて、聞いたことがありません。しかも彩姿に……」

 安積は壁に背を預けて、目を伏せた。

「この村にいるうちは、由稀さんがほんとうの意味であの色のことを理解するのは難しいでしょう。みな、由稀さんの出自を知っていますから。ですが、一歩でも森の向こうへ出たなら、話は違ってきます。……深涯さまはもう羅依さんと旅をなさってご存知ですよね」

「否応なくな」

「それでも深涯さまのことを還り子さまと思う者も多いでしょうから、まだずっと穏当かと思われます」

 深涯は壁に半身でもたれながら、首を傾げた。

「色のほかに、由稀に変化はあったか?」

「と、仰いますと?」

「そう……たとえば性格が変わったとか、顔つきが変わったとか、物言いが」

 そこまで言って深涯は自分で笑いを洩らした。深涯とおなじことを思った安積もともに小さく笑った。

「生後四か月ほどの子の物言いですか?」

「まあ……そうだな」

「多少、あーと言って指差す対象が増えたかもしれません。子どもは日ごと成長しますから」

「妙なことを訊いた。忘れてくれ」

 深涯は羅依が置き忘れていった羅依自身の鞄を肩にかけた。出ようとすると安積が志木しきの家まで案内すると言う。彼女は火の始末をするからと慌てて奥へ下がっていった。

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