第五話 取引①

 ◆

 事件から二週間が過ぎ、黎は学校に復帰した。久しぶりに袴姿に着替え、首元のあざを隠すためのスカーフを巻いてもらうと鏡に映る自分の姿にため息を漏らす。


「お嬢様……、御気分が優れないのでしたら……」

「いいえ、大丈夫よ」


 黎を気遣う使用人に強く首を振って見せた。もう誰かから気遣いの言葉をかけられるのは正直苦痛であった。


 事件の直後、黎はあまりのショックで自室にこもって誰にも会わない生活を送り続けていた。


「お可哀かわいそうに、黎様」「赤軍に襲われたことがショックで……」「あの首の火傷やけど――」


 使用人のささやき声が扉の向こうから聞こえてくる。黎をあわれむ言葉を遮断するように黎は布団を頭から被った。

 黎がこんな風になってしまったのは当然の成り行きであると使用人たちも理解していた。凶悪なテロに巻き込まれ、目の前で民間人が大勢殺され、自身も銃を突き付けられ殺されそうになり、美しい絹肌に一生消えぬあとをつけられた。


 赤軍と言う国を傾ける悪魔に心身を傷つけられた、可哀想な公家の令嬢。


 その文句は使用人だけでなく、家の外でも声高に叫ばれた。大抵はこれをネタに赤軍排斥の論調を強めようとする政治家や、皇族のゴシップを記事にして発行部数をあげようとする醜聞屋のどちらかだ。


 黎を本気で心配している人間がどれほどいるのか。

 そう言う言葉を聞く事にうんざりして、黎は外に出る事が億劫おっくうになってしまった。使用人たちもそれをとがめない。父も当然のように顔を出さず、部屋に来る者と言えば君塚と小夜くらいだった。


『大丈夫、大丈夫よ、黎。私がついてる』


 見舞いに訪れる小夜はいつも黎をやさしくだきしめてくれた。けれどもそんな小夜ですら、黎にとっては罪悪感をとのらせる悩みの種になってしまっていた。

 黎はあの事件の真相を誰にも告げられずにいた、――小夜にすらも。

 黎を襲ったのは赤軍ではなく碧軍の兵士だ。新聞社の襲撃はともかく、公園での発砲事件で咎められるべきは赤軍じゃない。だが、相手は国防を司る碧軍だ。皇帝に仕えているという信用は勿論、政治家や財閥とも密なつながりがある。

 黎は公家とはいえ今はただの女学生。今黎が声を上げて『あれは碧軍の仕業だ』と公表しても、恐らく簡単にもみ消されてしまうだろう。


「きっと貴女の見間違いです」「恐怖で混乱していらしたのです」「お可哀そうに、気が触れたのかもしれません」


 そんな風に片づけられたら、黎の言葉はあっさりと跳ねのけられてしまう。それどころか、黎に狂人のレッテルを張られてしまうのが落ちだろう。

 仮にそうでなくても、黎が事件の真相を知ってしまったとして、軍が黎を野放しにするとは思えない。すでに何十人という民間人の死を闇にほうむっているのだ。黎に対しても何らかの圧力をかけてくるに違いない。そしてもし黎がそれを誰かに話したと知られれば、その人にも危害が及ぶ。

 煌との婚礼を間近に控えた小夜には、決して言えない。そしてそれを黙って押し通す事の辛さに黎は押しつぶされそうになった。大好きな小夜に隠し事をする事は、碧軍に傷を負わされた以上に黎の心を縛った。


 だから黎は学校に逃げる事にしたのだけれど。


 朝の教室にはすでにクラスメイト達が半数以上集まっていた。入室してきた黎の姿をみるなり、そこにいた全員がお喋りを止めこちらを向く。


 驚き、戸惑い、哀愁、奇異、同情。


 言葉にしなくとも視線で伝わる。彼女たちにとって黎はこの教室の異物でしかない。

 元々黎は小夜以外に友達と呼べる子はいなかった。小夜は持ち前の明るさで周囲の子たちとも打ち解けたけれど、黎一人では小夜がいなければこんなものだ。黎は視線を無視すると静かに自分の席に座った。


 ――居心地が悪い。


 家を出ても黎の身体にまとわりつくのは、黎の身体を縛り上げる、残酷な他者の目であった。



 授業を終えた放課後、黎はまっすぐ図書室へ向かった。今日一日は息も出来ない程苦しくて、学友も教員も皆冷たい陶人形のように思えた。


 ――やっぱり、家にいた方がましだったかもしれない。


 あの薄暗い部屋で布団を被っていた方が、まだ誰の目にも触れられない。時折聞こえてくる使用人のひそひそ声と時折訪ねてくる小夜さえ避ければ、心穏やかに平和でいられた。


 人気のないところに行きたい。

 そう考えてふと思いついたのが、この学校の図書室だった。本館から離れた別館の一階にある図書室は、生徒の利用もほとんどなくしんと静まり返っている。

 目的地であった図書室へとたどり着くと、黎は静かに入室した。

 放課後の図書室は水を打ったように静かで、かしましい少女たちの笑い声はどこか遠い世界の物のように思える。放課後の女学生たちはお茶会やお買い物に夢中で、わざわざ学校に残ってここを利用するものは誰もいない、幸運なことに今は司書の先生も席を外していた。

 校舎の一階の端にあり誰も廊下を通らず、窓の外も発電機と雑木林くらいしかないので人通りは皆無だ。静かで誰もいない、黎だけの秘密の場所。


 黎はようやくほっと一息をついた。

 窓際の一番奥の席に座ると鞄を置き黎はそこでしばし物思いにふける。試験も近いし、折角なら試験勉強でもすればいいのだけれど、どうにもそういう気にならない。

 埃っぽい机に突っ伏すと頬がひんやりと心地よい。遠くから木々の擦れる音と小鳥の鳴き声がする。静かで薄暗い図書室の中は本当に外の世界から切り離されたようだ。


 ――このまま誰にも見つからなければいいのに。


 黎はふとそんな事を考えてしまった。生まれてこの方後ろ向きだと思っていた自分でも、そんな風に考えたのは生まれて初めてだった。幼い頃からずっと小夜が側にいてくれた黎は、一人で消えてしまいたいと思う事は一度もなかったのだ。

 でも今は違う。黎は小夜ですら会いたくない者の対象になってしまっている。

 黎はギュッと目を閉じる。瞼の裏にはうっすらと涙の膜が生まれていた。


 ――寂しい。


 矛盾している。一人で消えてしまいたいと思うのに、一人でいる事はひどく寂しい。


 誰も私を構わないで。誰か私を見つけて。


 相反する声が黎の中から響いてくる。頭の中がぐちゃぐちゃだ。これからどうしていいか、黎にはちっともわからない。


「――おい」


 目を閉じていると耳鳴りがしてきた。かすかに、幻聴も聞こえる。


「おい、起きろ。――死んでんのか?」


 誰かの声がする。寂しさのあまり、夢を見ているのだろうか。と、


「おい、こら。起きろ!」


 激しい声に黎はハッと覚醒した。幻聴ではない、誰かが黎を呼んでいる。キョロキョロと辺りを見回すと、


「……」


 すぐ側の窓の向こうに瑠璃色の宝石が輝いていた。


「お、やっと起きた。さっきから呼んでたんだぞ」


 無骨だが精悍せいかんな顔立ちの美丈夫が目の前で手を振っている。


「ん? どうした? まだ寝てんのか? おーい」


 黎は息も止めてその目の前の光景を凝視して、


「きゃあ!」


 今更になって黎は飛び上がって悲鳴を上げた。


「し、し、シンさん⁉」

「こら、声がでけぇ。静かにしろ」


 シンが焦ったように口に指をあてて静粛に、というポーズをとった。黎は頭が真っ白になって、視線を右往左往と泳がせる。

 窓の外側から寄りかかって図書室を覗き込んでいたのは、先日偶然な出会いを果たしたシンに違いなかった。

 違いないはずなのだが、


(なんで? なんで、シンさんがここにいるの? ここ学校――)


 そんな黎の心の叫びを読んだのか、


「マジで騒ぐなよ。女学校に忍び込んで捕まるなんて不名誉極まりないから」

「本当ですよ⁉ どうしてこんなところにいるんですか⁉」


 大声にならないように声を荒げて叫ぶ。思わず図書室内に誰もいないことを確認しつつも冷や汗が止まらない。と、


「お前に会いに来たんだよ」

「えっ……」


 黎は呆けた顔をした。何を言われたか一瞬わからなくて、でもその意味を理解した途端黎の身体が熱くなる。


「お前に話したいことがあってな。あの事件以来ずっとお前を探してたんだけど、全然姿見せやがらねぇし。ようやく出てきたと思ったら護衛でぎっちりガードされてるし。仕方ねぇから警備の手薄っぽいこの学校に忍び込んで――」

「私も会いたかったです!」


 黎は思わず叫んだ。黎は気づかないうちに窓から身を乗り出して、逆にシンの方が黎の気にされたじろぐ。


「あの時、ちゃんとお礼が言えてなくて……、シンさん急にどっか行っちゃったから」

「ああ……、そうだったっけ」


 黎は自分でもよくわからない高揚感に包まれていた。さっきまで一人で消えてしまいたいと思っていた事など一瞬で頭の中から吹き飛んで、「ああ、そうだ」と、黎は鞄の中からスカーフを取り出した。


「これ、お返ししたくて」

「――ああ、これか」


 それは事件の日、シンが首の怪我を隠すように巻いてくれたスカーフだ。絹の上質な肌触りに赤い睡蓮すいれんと瑠璃色の草蔓くさつる柄の繊細な刺繍。この宵暁国には珍しい、どこか異国情緒を感じさせるものだ。生地もやや年季の入ったもので、長年大事にしていた物のように感じられる。いつかまた出会えるかもしれないと、黎はこっそり鞄の中に忍ばせておいたのだ。

 スカーフを受け取ったシンは、少し懐かしそうに目を細める。やはり大切なものだったのだろうか。


「あの、……それで、お話って何ですか?」


 シンの様子をじっと見つめていた黎はふと思い出したようにシンに尋ねた。危険を冒して女学校に忍び込んでまで黎に話したかったこととは何だろうか。シンも顔をあげると、きょろきょろと辺りを見渡す。


「ここじゃさすがに話せねぇんだけど。……お前さ、この学校抜け出すことできるか?」

「抜け出す……?」


 意外な提案に黎は目を白黒させた。


「もう、授業は終わってますし、後は六時ごろ家の者が迎えに来る事になってますけど……」

「なら六時までにここに戻ってくれば問題ないってわけだ」


 シンはしめたとばかりに指を鳴らした。時刻は午後三時、今日は試験勉強をするからと伝えたので後藤の車の迎えは少し遅めにしてもらっている。


「なら今から外に出る準備をして、正門を右に曲がった交差点のところまで来い」

「えっ、でも……」

「五分待ってこなければ俺は帰る。あとはお前で判断して決めてくれ。――じゃ、またあとでな」


 そう言うとシンは身をひるがえしてあっという間に姿を消してしまった。

 まるで嵐のような一瞬の邂逅かいこうだった。だが、黎は何故か心臓がドクドクと鳴り響いて落ち着かない。


 学校を抜け出す? 今から、シンさんとどこかに行くの?


 急展開過ぎて自分でも何が何だかわからない。わかるのはそれが皇女としてあるまじき行為だという事だけ。そしてその事に、何故か胸をおどらせている自分がいるという事だけ。と、


「――五分⁉」


 考えてみれば物凄く短い制限時間だ。呆けている場合ではない。黎は荷物を引っ掴むと慌てて下足室まで駆けだした。

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