幕間 朝刊

 ◆

 翌日朝早くに詰め所に到着した新堂はまっすぐに隊舎の奥に向かった。


「失礼します。新堂です」


 はやる気持ちを抑え部屋の奥からの返事を待つ。しばらくして、「入れ」と老獪ろうかいな声が聞こえた。

 新堂は素早く入室し、部屋の主を見据える。


「どうした、新堂大尉。随分早い出勤だな」


 そういう貴方こそ一体いつからここにいるのだ、という質問をぐっとこらえ、新堂は素早く敬礼した。

 綾辻あやつじ玄昭げんしょう准将。帝都陸軍市街地防衛部隊の将で、新堂の直属の上司でもある男は、朝から草臥くたびれた顔をして新堂をにらんだ。


「悪いが今日は仕事が山積みなのだ。手短に頼むぞ」

「はい、……准将は本日の新聞をもうお読みになりましたか?」

「ああ読んだとも。陛下の譲位には驚いたが、皇太子殿下のご成婚とは目出度めでたい話だ」

「いいえ、自分が申し上げたいのはそちらの記事ではありません」


 新堂は体の震えを気取られないように腹筋に力を込めた。一瞬でも気を抜けば目の前の巨大な老犬に食い殺される。そういう緊張感を今まさに新堂は味わっている。


「ふむ、ではどの記事だ?」

「赤軍の新聞社の襲撃です。加えて近隣の公園で銃を発砲し民間人が巻き添えになった件について」

「ほう、……で、何か気になる事はあったか?」

「正気なのですか⁉ 軍の不祥事を隠蔽いんぺいし赤軍になすり付けるなど――」


 新堂は思わず声を張り上げてしまった。昨晩公園での発砲事件を処理し、黎が行方不明になった事を久遠院家や煌に知らせた折、軍はこの一件の責任を赤軍に被せようという腹積もりであることを知って愕然がくぜんとした。

 民を守る碧軍が、民間人を手にかけるばかりか、それを隠蔽するなど。


「不満そうだな」

「当たり前、です……」


 新堂は正直赤軍の事などどうだっていいと思っている。あんな暴力に頼る連中など社会のがんだ。滅べばいいとすら思う。だが、己の所業をなかった事にするなんて不名誉なことだけはどうしたって許容できない。


「お前の父親や兄は何も言ってこなかったが」

「家は関係ありません。これは私個人の意見です」


 頭の固い父や兄は軍の意向に異なんて唱えるはずもない。それでも新堂だけはこれを見過ごすわけにはいかないのだ。


「殿下は気づいておられます」


 すると綾辻の表情が初めてピクリと動いた。たるんだ皺の奥から壮年そうねん時代の鋭い眼光がのぞく。


「殿下がもしこの事を公表なされば、陸軍は総崩れになりましょう。そうならぬうちに、訂正を――」

「その心配はなかろう」


 だが、綾辻は新堂の助言をあっさりと切り捨てた。


「何故です⁉」

「殿下がそのような事をなさるはずがないからだ」


 綾辻は確証を抱いているようだった。愕然とする新堂に構わず、軍の将は続ける。


「簡単な事だ。今、我々陸軍が不祥事に倒れ力を削がれれば、困るのはあの御方だ。数か月後の婚礼の儀に世間は慌ただしくなる。加えて、先日トライベインとの新たな通商条約が批准ひじゅんされた。他国の侵略が及ぶかもしれないこの状況で、国防を削ぐなど自殺行為だ」

「殿下は、国の防衛をとる、と……?」

「そうだ。学友であったのにわからなかったのか? あの御方は貴様が思う以上に国をおもんばかる合理主義者で、――そして臆病者だ」


 下手をすれば不敬にもとられかねない発言、だが綾辻は気にした風もなく笑う。


「己の感情よりも国の利益を優先する。自らが国を揺るがす一手を打つことはない。上に立つ者の理想だよ、彼は」


 それは裏を返せば、下につく者にとってこれほどぎょしやすいかしらはいないという事だ。新堂は唇を噛む。煌は仕えるべき君主であり親友だ。その彼をこんな時に庇うことが出来ない自分が歯がゆい。


「私は殿下よりお前の婚約者殿の方が気がかりだ」

「――黎様、ですか?」

「そうだ。彼女も昨日の事件に巻き込まれ、一時行方不明になっていたそうじゃないか。何があったのかお聞きになったのか?」

「いえ、それがまだ……」


 黎が自宅に帰ってきて、彼女は糸が切れたみたいに意識を失った。相当なショックがおありだったのだろう事は想像にかたくない。気がせって会えなくなる可能性も高い。


「久遠院黎には必ず、何があったのかを問いただせ。彼女はあの事件に居合わせた可能性がある」

「まさか、そんな――」


 だがその可能性の方が高い。彼女はあの時公園に残って、公園での混乱の渦中に姿を消したのだから。


「時間だ、もう行け」


 綾辻は時計を確認すると、あっさりと話を切り上げてしまった。新堂はそれ以上何もできないまま、綾辻の部屋を後にするしかなかった。


 ◆

「くそっ、やられた!」


 モーニングティーを片手に優雅な朝食を楽しんでいたモーリーは、一転して機嫌を害し手に持っていた新聞紙を叩きつけた。

 宵暁国を訪問して七日目の朝。一通りの会談を終え、本日トライベインへ帰国する予定だったのに、最後の最後に強烈な一打が彼の脳天に直撃した。

 くしゃくしゃに丸められた新聞の一面には、


『今上帝生前退位の御意向、近く皇太子殿下の婚礼の儀執り行われたり』


 という一文がでかでかと踊っていた。


「あの狐め……、あえて今日まで隠してたな」


 昨日までこの大使館で連日顔を合わせていた久遠院恭夜は一切この件に関して尻尾を見せなかった。彼は皇族だ。皇帝の退位などとっくの昔に知っていただろうに。

 今日このタイミングでこの一報が公表されたのはこちらとの会談を踏まえてか、いずれにしても作為的な意図がある事は確実だ。


(どうする? 本国に連絡を入れたうえでここに居座るか?)


 皇帝退位、そして政権交代ともなれば、トライベインが付け込む絶好のチャンスでもある。次代の皇帝、皇太子煌はまだ若く内閣との連携もまだうまく取り切れない。そこを上手くついてこちらが有利な商談を持ち込む算段もできる。

 だがすでに第一段階の交渉が締結してしまった以上、当面この国との会談は見込めない。条約改正の批准は半年後だ。この約束を反故ほごにしてしまえば国際法違反で非難を浴びるのはトライベインの方だ。

 出来ることといえば、本日の帰国を急遽延期しこの国の動向を見張る事くらいか。モーリーは強く奥歯を噛む。帰国するにせよ、留まるにせよ、モーリーはしばらくの間公的なアプローチをする事が出来ないのが現状だ。


「しかも何なんだ! こんな時に共産テロなんざ起こしやがって!」


 新聞の二面には昨日帝都で起こった新聞社襲撃事件についてが載っていた。犯行は無政府主義を掲げる赤軍と呼ばれるテログループ。アウレア・イッラとの繋がりも囁かれている狂人グループの暴挙に、モーリーはますます気分を害した。が、


(ん? テロ、新聞社の襲撃?)


 モーリーは慌てて自身が放り投げた新聞を拾い上げ襲撃事件の記事を熟読した。記事を読み終えると一転、モーリーはにやりと粘つくような笑みを浮かべた。


「襲撃されたのは六代社ろくだいしゃか」


 六代社は宵暁国の四大財閥の一つ、六条財閥の傘下の子会社だ。今回テロの標的になったのも、恐らく財閥資本の関連会社であるというところからだろう。六条財閥と言えば、昨年総裁が暴漢ぼうかんに邸宅を襲撃され引退を表明したばかり。そしてさらに小さく書かれているのが、新聞社近隣の公園での発砲事件。どちらもきな臭さにあふれている。


「おい、グラント。この新聞社襲撃事件の情報を集めろ」

「は、私がですか?」

「お前しかいないだろうが」


 何をほうけた顔をしているんだ、一発殴ってやろうかと暴力的な事を考えつつ、その部下に命を下す。


「俺の勘ではこの事件、宵暁の足元をすくう一手になる。特にこの発砲事件……十中八九軍部が裏で糸を引いているはずだ。いいか、どんな些細な情報も漏らすんじゃないぞ」

「は、はい……」

「それから予定を変更して俺もしばらくこの国に滞在する。皇太子夫妻の婚礼の祝辞のためだといえば、本国もこの国も文句は言うまい」


 自分にも運が巡ってきた。モーリーはこの時確かにそう確信した。


 ◆

 同時刻、黎は翌朝の新聞を目にしてわなわなと震えた。


「そんな……、どうして」


 黎が目を通しているのは一面の『皇帝退位』の見出しではなく二面の昨日の新聞社襲撃テロに関してだ。

 赤軍が香芝区にある六代社に爆弾を投げ込み、記者二名が重傷、幸いにも死者は出なかったが社内の印刷機や所蔵資料が大破し当面は営業不能の状態となってしまった。

 白昼堂々行われた極悪非道の所業。そして、更に赤軍は鎮圧に動いた碧軍から逃れ、近隣の香芝公園に逃げ込み退路を確保するため、銃を乱射し民間人を巻き込んだというのだ。


(違う、あの時公園で銃を発砲したのは碧軍だ)


 その場に居合わせた黎はその一部始終を見ていた。何より、黎自身も碧軍に銃を突き付けられ命を取られそうになった。

 黎は恐る恐る首筋の包帯に手を当てる。あの時銃口を突きつけられた恐怖が閉じた瞼の奥底からよみがえって、黎の身体を震わせた。


 青碧の壁。冷笑を浮かべる悪魔。


 あの後再会した新堂の顔を碌に見る事すら出来ない程、あの恐怖に囚われている。


(碧軍は、己の所業を赤軍に擦り付けた……)


 その事実がまた黎の恐怖を煽る。思考を停止させ、身動きをとれなくする。


 怖い、怖い。

 もしこの真実を黎が話せばどうなる?

 もしこの真実を黎が知っていると碧軍が知れば、――どうなる?


 黎は顔を蒼白にして固まってしまった。


 ◆

 さらに同時刻の別所。同じ新聞を読んで渋面を浮かべたのは矢矧であった。

 矢矧たちにとって幸運だったのか、新聞社の襲撃は翌日の一面を飾る事はなかった。公園での発砲事件も実に薄味で、これでは新聞を隅々すみずみまで熟読する人間でなければ見逃してしまうだろう。

 声明文の一つでも出していればまた違っただろうが、今回はそれがこうそうした。必要以上に世間の批判の目を喰らうのを避けられたのは僥倖ぎょうこうだ。

 だが矢矧はそれでも頭を抱えざるを得なかった。周囲の仲間たちが今回の紙面に肩の荷を下ろす中、矢矧だけは額に冷や汗を浮かべて紙面を睨む。


「矢矧さん、どうかしたんですか?」

「……いや」

「ああそれ、ついてましたね。まさか同日に皇帝譲位の速報が出るなんて」


 矢矧が睨んでいたのは新聞の第一面だ。襲撃事件が一面に来なかった原因はこれ、『今上帝生前退位の御意向』と言う文面。今や世間はこの話題で持ちきりで、襲撃事件の事などすぐに風化してしまうだろう。

 矢矧の懸念はそこではない。断じて違う。


「それに伴う皇太子の婚礼、紀元節に行われるらしいですよ」

「……ああ」


 新聞には皇帝が退位すること以外に、皇太子の婚礼に関してや皇室についての近況も掲載されていた。これも先刻と同様、よほどの熟読者でなければ見逃してしまう情報だが、矢矧はそれを読んでしまった。


(皇太子煌と、世襲親王家の令嬢。久遠院『小夜』……)


『小夜』と言う名前には聞き覚えがあった。それもそのはずで、昨日別れたあの少女が口走った名前だ。


(姉で……もうすぐ結婚……)


 加えて迎えに来た連中が、彼女の事を堂々と『黎様』と呼んでいた。

 矢矧の表情はどんどん青くなる。昨日の出来事を思い出せば思い出すほど、矢矧の推測は確固なものとなっていく。


「いや、確かにお嬢様だとは思ったが……、待て、落ち着け」


 ぶつぶつと独り言を呟く矢矧に仲間も不穏な空気を察知しそそくさと離れていく。


(もし彼女がそうなら、あの発砲事件に巻き込まれた件、軍部にとっては相当な痛手にならないか? もし彼女が誰に襲われたかを供述きょうじゅつすれば――)


 そうなれば事件の責任を押し付けようとした軍部の陰謀は白日の下にさらされ、一転して世間の非難を浴びる事になる。碧軍も一枚岩ではないと聞いた。これは千載一遇のチャンスかもしれない。こちらから彼女に接近し、真実を公表するよう説得すれば――。

 と、そこまで考えて矢矧はふと昨日の彼女のやり取りを思い出した。


(俺何もしてないよな? 公家の人間って不敬罪にあたるんだっけ?)


 相手は皇女だ。わずかでも粗相そそうを働けばとんでもない事になる。だが、矢矧は彼女を兵の魔の手から救った。勲章を与えられる事はあっても罰せられる事なんて一つも、


「……」


 逃げる時に無理やり引っ張って足に怪我をさせたのは、


「……」


 その後たわらかつぎにしたのは、


「……あー」


 伊地知の家で彼女の衣服を脱がしたのは、


(あれ不敬罪だな)


 赤軍の主犯格ではなく、皇女に無体を強いた不届き者としてお縄につく自分を想像して、矢矧は思わず引きつった笑いを浮かべてしまった。

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