第四話 矢矧志貴④

 ◆

 香芝かしば区の繁華街で起こった赤軍と碧軍の衝突は帝都を震撼しんかんさせる騒ぎとなり、すぐさま久遠院の屋敷にも伝わった。

 そしてその暴動を境に新堂と出かけたはずの黎が行方知れずになったというしらせは、久遠院家を騒然とさせる。

 護衛についていた片桐と千川、そして急遽軍の指揮に当たっていた新堂から黎が消息を絶ったことを聞いた久遠院家は大騒ぎとなり、すぐさま使用人総出の捜索が始まった。

 居合わせた小夜もまた、顔面を蒼白にして黎の無事を祈る。刻一刻と時間が過ぎる中で、我慢できなくなった小夜はソファを勢い良く立ち上がる。


「私も探しに行くわ」


 居間を出ていこうとする小夜をそこにいた使用人たちが引き留める。


「なりません! 小夜様、外は危険です!」

「でも黎が!」


 黎が行方不明になったという知らせを聞いた時、小夜は頭が真っ白になった。知らせを持ってきたのは黎についていった片桐と千川だ。途中で黎と新堂の姿を見失い、探している最中に香芝公園の近くの新聞社で爆発があり、さらに公園内で碧軍の大捕り物が勃発した、と。

 小夜は焦燥のあまり自身の頬に強く爪を立てた。皮膚が破れ、血が滲む様子に慌てて近くの使用人が小夜の手を抑える。

 まだそうと決まったわけではない。けれど、暴動が起きた繁華街近くを黎がうろついていた可能性が高いという事は小夜が一番よく知っていた。

 だって小夜は今朝教えてしまったのだ。二人の護衛をくために香芝区の西半田通りを通れと。もし黎が小夜の言う通り西半田通りを通って彼らを撒き、その直後暴動に巻き込まれてしまっていたら――。


「どいて!」


 居てもたってもいられず、小夜を抑える使用人を蹴飛ばして玄関に急ぐ。


「お待ちください! 小夜様!」


 使用人たちの手をかいくぐって玄関にたどり着くと、同時に扉が開いた。そこに構えていた人物に小夜は足を止める。


「煌様……!」

「小夜、黎はまだ戻っていないのだな?」


 久しぶりに対面した煌はいつものような余裕のある笑みではなく、目は血走り頬は青白かった。荒く息をしているところから黎の捜索に相当走り回ったと見える。小夜は煌も黎の事を案じている事に安堵し、同時に胸がひどく傷んだ。その隣には洋装を身に纏った、煌と同年の男が立っていた。見知らぬ男だが、小夜はその正体にピンと来る。


「貴方が新堂様ですか?」


 小夜の予想通り、その男は目を逸らし気まずそうにうなずいた。途端、小夜の頭に血が上る。初対面だとか、軍の将校だとか、そんなものは頭の中からすっぽ抜けて、小夜は新堂の頬を容赦なく強打した。


「小夜っ!」

「黎はどこに行ったのですか⁉」


 小夜は涙交じりに叫んだ。


「軍人である貴方がついていながら、このていたらくは何ですか⁉ もし黎の身に何かあったら、私は絶対に貴方を許さない!」


 煌に抑えられながらも、小夜は怒りのすべてを新堂にぶつけた。新堂は答えない。小夜にぶたれたところを押さえたまま、何も言わずに立ち尽くす。


「……全く、申し開きもありませんよ」


 やがて新堂が自虐めいた笑みをこぼした。小夜は怒りが収まらなかった。新堂を責めたとて黎が戻ってくるわけではない。でも怒りをぶつける矛先がなくて、小夜は歯を食いしばって荒く息を吐く。――その時だった。


「黎様がお戻りになりました!」


 扉の向こうから使用人の誰かの叫び声が聞こえた。小夜は弾かれたように屋敷を飛び出す。


「黎!」


 正門の前に立っていたのは小夜の大切な妹。顔色は悪く、あちらこちらに怪我のあとがみられるけれど、その姿は今朝見た時のままだった。小夜は黎を抱きしめた。小夜の腕の中で小さな体がぶるりと震える。


「無事で……、よかった……!」

「……小夜。うん、心配かけてごめんね」


 気づけば二人で泣いていた。小夜は黎の肩に顔をうずめて嗚咽を漏らす。


 良かった、良かった。

 黎が無事に戻ってきてくれた。それだけで小夜は嬉しくて。だが、


「黎!」


 小夜たちのもとに煌と新堂も現れた。黎の姿を確認すると煌は気の緩んだ表情になり、安堵にため息を漏らす。


「無事だったんだな」

「……煌様。ご心配をおかけしてすみません」


 頭を下げる黎に柔らかい笑みを向ける煌の姿に小夜はどうしてか胸騒ぎを覚える。二人の姿を見ていられなくなって、小夜は無意識に目を逸らした。


 ああ、嫌だ。私、どうして――。

 この二人が一緒にいるところを見ると胸がうずく。二人とも大切な人なのに。


「黎様」


 幸いにもそこに新堂が顔を出した。新堂はひどく申し訳なさそうに、黎に頭を下げる。


「申し訳ありません、黎様。貴女を一人にしてかえって危険な目にわせてしまった」

「い、いえ……」


 不意に黎の表情が一変した。危険な目に遭ったとはいえ、安堵していたはずの彼女が明らかに怯えた表情になる。黎の体がふらりと傾くのを慌てて小夜が支えた。


「黎⁉ しっかりして!」

「ごめん、小夜……。私疲れちゃって……」


 黎の顔は蒼白だった。体にも力が入っていなくて小夜の腕の中で項垂うなだれる。


「とにかく黎を休ませてやりなさい。新堂、私たちは一旦帰ろう」


 煌の一言を皮切りにその場はお開きになって、黎は使用人たちに運び込まれ屋敷の中に消えていった。


「小夜も、今日は早く休みなさい」

「はい……」


 改めて小夜は煌に向き直る。即位や婚礼の話を聞いて以来顔を合わせていなかった。本当なら、今日も顔を合わせてはいけなかったのだろうが、


「久しぶりに君の顔が見れてよかった」


 煌に頭を撫でられると、小夜も胸がいっぱいで泣きそうになる。煌と顔を合わせるだけで安心する。一か月前まで定期的にこの屋敷で会っていた頃とは明らかに違う感情が小夜の中で沸き起こって、そんな自分に小夜自身も戸惑う。


(煌様と夫婦になるなんて、想像も出来なかったけれど)


 小夜は自分が思う以上に、煌をしたっていることが今更になって思い知らされる。


「こんな時に悪いのだが、君に伝えておかないといけない事がある」

「……はい」

「今日の騒ぎでどうなるかわからないが、明日皇帝陛下の退位のご意向が各新聞に示される。それをもって、私と君の婚礼の儀の日取りも明かされる」


 小夜は息を呑んだ。


「予定では、私たちの儀礼は次の紀元節。――三か月後だ」


 三か月後。それが小夜に与えられた期限。久遠院小夜としての、皇太子妃になる前の最後の時間だ。この時を過ごせば小夜は珀宮はくのみや入内じゅだいし、皇太子妃として煌に嫁ぎ、いずれ皇帝となる煌と共に国を支える。跡継ぎを生み、国母となってこの国を導く立場になる。


「入内すれば君は今以上に行動を制限されることになる。だから今のうちに、心残りの無いように――」


 しかし煌は途中で苦しそうに口をつぐんだ。そんな顔をさせてしまうことに小夜は罪悪感で一杯だった。


「……わかりました。煌様、お忙しくなるでしょうが、どうかお体だけは、大事に」

「ああ、君もね」


 握られた手が熱い。泣きそうになるのを必死にこらえて、小夜は煌を見送った。




 屋敷の中に戻ると黎は自室ではなく居間のソファに座っていた。目の前には温かなお茶が置かれているが、手を付けられてはいない。


「横にならなくていいの?」

「……うん、少し落ち着いてから」


 黎の頬に少し血色が戻ってきていたので小夜は少しほっとした。小夜は黎の隣に腰掛け小さな頼りない背中を優しく撫でてやった。


「大丈夫よ。もう怖い事なんてないわ」


 臆病な黎は幼い頃から事あるごとに泣いていた。小夜それを時にわずらわしく思う事もあったけれど、いざ沈む黎を目の当たりにすると小夜の身体は勝手に動いてしまう。


(そうよ、たとえ煌様の事があったって、私の一番は――黎)


 この先どんなことがあっても、それは不変の真理だと、そう思っていた矢先、


「――? 黎、それは何?」


 小夜は黎の首に見覚えのないスカーフが巻かれているのに気づいた。少し色あせた、でも美しい文様が施された上質な絹のスカーフ。小夜がそれに触れようとすると、


「……!」


 突然黎が弾かれたように立ち上がった。手をはねのけられた形になった小夜は突然の事に呆然とする。見上げると、小夜と同じくらい驚いている黎の顔があった。


「あ――、違うの、これは」


 黎はしどろもどろになって目を泳がせる。さっき玄関で見た恐怖におののく姿でも、気落ちしている姿でもなく、


 ――もっと別の、違う何か。


「ごめん、小夜。もう部屋に戻るね……ありがとう」


 黎は話を切り上げ逃げるように居間を飛び出していった。その様子は明らかにおかしい、でも小夜にはその理由がわからなくて。

 ただ、小夜は大切に想っていた妹が一瞬だけまるで別人になったような、そんな当惑を抱いた。

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