第四話 矢矧志貴③

 ◆

 外はもうすっかり陽が落ちている。この町には街灯というものは無いようで道は闇に沈んだように暗い。だが、隣接する民家からはほのかに蝋燭ろうそくの明かりが漏れ出ているので何も見えないというわけではない。それに空には綺麗きれいな星がまたたいていて、光源の少ないこの場所はいつも以上に星が鮮明に見える。美しい景色だと思ったが、前を歩くシンは空の様子など全く気にも留めていないようだ。黎は慌ててシンの背中を追う。彼はこちらを振り向かない。試しに歩くのをやめてみた。すると、


「……何してる、早く行くぞ」


 こっちの事も気にしてないと思いきや、シンはすぐに振り返って怪訝な顔を返した。黎は慌てて彼の後ろをついていく。

 ちゃんと気にかけてくれている。

 それだけで黎は何だか安心した心地になった。


 昼間のがやがやとした雰囲気とは一転し、通りには誰もいない。どの家も古ぼけて小さな、今にも崩れそうな掘立小屋ばかりだが、時折かすかな笑い声が聞こえてきた。


「貧民街を見るのは初めてか?」


 不意に前方でシンが呟いた。黎はハッと顔を上げる。


「よくこんなごみ溜めみたいなところで生活できるな、って顔だ」

「……ッ! ち、違います、私は――」


 シンの嘲笑ちょうしょうに黎は急に恥ずかしくなって口をつぐんだ。平和な世の中だと言っても、この国には貧富の差があって、自分のように恵まれた環境で暮らす者ばかりじゃないとわかっていたのに。いざそれを目の当たりにすると想像を絶する格差に驚いて、黎は無意識のうちに彼らを奇異の目で見ていたのかもしれないと思うと自分の浅ましさに涙が出る。だが、


「別にそれが普通だ。ここは特に貧民の中でも最下層の連中が集まるところだから、お嬢様でなくたって困惑する」


 シンは黎を責めなかった。彼の瞳にはすぐそばの民家から漏れる薄明りが小さく反射していた。


「ここは昔から長く住んでる奴もいるけど、どこからか逃げてきた連中も多いんだ。村八分むらはちぶにされた奴とか、借金こさえて夜逃げしてきた奴とか、仕事辞めさせられて住む家なくした奴とか。そういう奴らが巡り巡って辿り着くのがこの掃きだめだ」


 昼間笑いながら黎たちを取り囲んでいた町人たちの中にもそういう人たちがいたのだろうか。


「伊地知さんも?」

「あの人も元は名家の生まれだったらしいが、西華戦争の時に旦那が戦死して、旦那の実家から厄介者扱いされて財産も一切引き継げずに家を追い出されたらしい。……まあ、よくある話だよ」


 よくある話で片付けられるほど、軽いものではないように思った。先ほどの伊地知の明るい笑顔、あの笑顔の裏に今までどれほどの苦労が刻み込まれ続けたのか、黎には到底想像ができない。


「貴方は?」

「俺はただの孤児だ」


 単調な答えに、シンはまた黙って歩き始めてしまった。




 やがて二人は集落の入口までたどり着いた。最初に入ってきた脇道とは違う、大きな門の設置された方の坂道を上ると、


「わぁ……」


 そこに広がっていたのは帝都のきらびやかな街並みだった。夜でも明るいのはガス灯や電灯が道に沿って並んでいるから。コンクリート造りのビルからは、蝋燭よりもずっと強い灯りが漏れている。

 この高さから見る帝都の街並みに黎は既視感を覚えた。その既視感の理由に、黎はすぐに合点がいった。


「霊山と、珀宮はくのみやが見える……」


 黎たちのいる高台から帝都の町を挟んでまさに対象角にそびえ立つ山と、その中腹に燦然さんぜんと立つ珀宮があった。かつてあの場所で小夜と一緒に帝都の町を見下ろしたことを思い出す。あの時は帝都は広くどこまでも遠くて、そして輝いていた。


「あそこから見える景色はさぞ絶景なんだろうな」


 シンも宵闇の中に見える珀宮を眺めて呟く。


「そんなことないです。見え方はこことそう変わりませんでした」


 何気なく言った黎の言葉にシンはギョッとした顔をして、


「見たことあるのか? 宮廷から?」


 一拍遅れて、黎は自分の失言に気が付いた。


「あ、あの、違うんです……」


 どう言い訳してよいかわからず、結局黎は黙り込むしかなかった。

 幸いにもシンはそれ以上の追及はしてこなかった。追及しないようにしてくれた、というのが正しいのかもしれないが、


「もういい、さっさと降りるぞ」


 シンは大通りに向かって歩き始めたので慌ててその後を追う。


「それで、俺はどこまで送ればいいんだ?」

「えっと……」


 黎は言葉に詰まる。いつも後藤の車で送迎されていた黎は道に詳しくない。屋敷のある中央区まで行けば多少わかるだろうか。でも、あまり屋敷に近づきすぎると正体がばれる危険性がある。散々迷って黎はあっと声を上げた。


「帝都女学校まで連れて行ってください」


 女学校からなら毎日通っているしさすがに道はわかる。歩いてどのくらいかかるかわからないが、身元が特定される心配はない。

 シンはやはり怪訝な顔をした。だが、


「さっさと来い」


 面倒そうにしながらも、彼は言うとおりにしてくれるのだ。




 夜の女学校は当然のことながら生徒たちは誰もおらず、職員室らしきところから明かりが漏れているだけだった。正門の前に到着すると、


「ここでいいんだな?」

「はい、ありがとうございます」


 黎は深々とお辞儀をした。ようやく見慣れた場所に戻ってきた黎は、ほっと息をつく。すると、そのまま帰ってしまうかと思ったシンは校舎の方を見つめていた。


「……どうかされましたか?」

「いや、お嬢様は皆こんな立派なところに通ってんだな、と」


 シンは感嘆と呟いた。その口調に嫌味や皮肉はなく、ただ純粋にそう言っているのが何だか意外だ。


「学校ってどんな事するんだ?」

「えっ」

「俺は学校ってものに通った事がないから」


 さらに意外な答えに黎は目を丸くする。今の時代一般庶民でも初等教育は大体受けているものだが。


(そういえばさっき自分は孤児だって言っていたわ)


 伊地知がいたとはいえ、身寄りのない子供が学校に通うのはまだ難しいことなのかもしれない。黎は正門の側にある花壇のふちに腰かけると、恐る恐る口を開く。


「古典や数学、外国語の授業を受けたり、科学の実験をしたり、裁縫とか琴とか舞踊とかの実技もあります」

「へぇ」

「体錬は私あんまり得意じゃなくて。小――双子の姉は運動神経がよかったんですけど」


 座学や裁縫ではいつも文句ばかりの小夜だったが、体錬の授業の時だけはすごく生き生きとしていて、運動の苦手な黎だったがそんな小夜を見ているのは楽しかった。


 でも、――小夜はもう学校を辞めてしまった。


 黎の隣の席には誰もいなくて、授業中に小言を言ってくることも、黎にこっそり答えを聞いてくることも無くなって。

 思えば黎の学校の思い出は何もかも小夜とのことばかりだ。小夜がいたから学校が楽しいと思えた。


「姉は、学校を辞めたんです。もうすぐ、結婚するから」

「……」

「私、友達とか作るの苦手でしたし、いつも姉の後ろをついていくばかりだったから。最近なんだか張り合いがなくて」


 何をしてもうつろで学業に身が入らない。気落ちしていたのは小夜だけじゃなくて、黎も一緒だった。


「私も縁談が進んでいるし、たぶん近いうちに学校を辞めなければいけなくなります。そしたら、」


 そうしたら、私たちはどうなるのだろう?

 お互いに相手の元に嫁いで、今までみたいに小夜と二人で過ごすことがなくなって。そしたら黎と小夜は――、


「嫌なのか」


 静かな一言が黎の胸に突き刺さった。


「結婚して今までの日常が全部壊されるのが嫌なんだろ?」

「嫌……、じゃないです。だって私は」

「嫌なんだろ。じゃなきゃ、なんで泣いてるんだ」


 その時初めて黎は自分が涙を流していることに気が付いた。気が付いたが最後、大粒の涙がせきを切って溢れ出し、黎の頬をしとどに濡らす。

 黎は公家だ。公家の人間は皇室を支えこの国の繁栄を願うのが務めで、小夜もそのために煌と結婚し皇后になる決意をしているのだ。だから黎もその勤めを果たさなければいけない。久遠院家のために、宵暁国よあきのくにのために。だから泣き言を言ってはいけない。我儘わがままを言ってはいけない。

 自由も、愛情も必要ない。そう思っているはずなのに、


「……いや、です」


 黎の口からこぼれたのは、その決意とは正反対のものだった。


「嫌だ! 結婚なんてしたくない! 小夜とずっと一緒にいたい!」


 黎は人目もおくさず叫んだ。こんな感情が自分のどこに眠っていたのかわからなくて、


「ずっとこのままがいい! ずっと、……ずっと」


 ああそうか、黎は心の中で叫び続けていた。


「――自由に、なりたかった」


 こんな簡単な言葉を、黎は生まれて一度も口にしたことがなかった。

 ずっと黎の中にあった。気づいていたはずなのに、見て見ぬふりをしていた。

 何度も何度も黎の中で叫び続けていたのに、黎はそれにふたをして無視し続けていた。

 初めて現れた、黎の本音。

 そんな黎を本音ごと受け止めてくれるのは、小夜でも、父でも、君塚でも、煌でもなかった。


「そうか。……そうだな」


 その男は黎を責めることもなく、励ますこともしないで、唯々黎の側にいてくれる。その温かさに黎はまた涙を溢れさせた。


 どれくらいそうしていただろう。ようやく嗚咽おえつが収まった黎はまだれぼったいまぶたを開閉し顔を上げた。

 目の前には先ほどと全く変わらないシンの顔があった。彼は何も言わずにじっと黎を見つめている。


「……っ! すみません!」


 途端に黎は恥ずかしくなって立ち上がった。今更ながらに己の状況がとんでもないことに気が付く。

 暗がりで人通りも少ないとはいえ、こんな公道で今日初めて会った男性の前で泣いていたなんて。だが、シンの方は全く気にした風もなく静かに立ち上がり身なりを整えた。


「落ち着いたならもう帰れるな?」

「は、はい……。本当にすみません、ご迷惑を……」


 頭を下げるたびに委縮してしまう黎に、シンが思わず吹き出した。


(笑った……?)


 黎は呆然とシンが腹を抱えて笑うのを見つめていた。


「どうして笑っていらっしゃるのですか?」

「ははっ、いや悪い。面白いお嬢様だと思って」


 面白いだなんていわれたのは初めてだった。多分からかわれているか、馬鹿にされているか。決して褒められた雰囲気ではなかったものの、何故だか黎は悪い気がしなかった。

 するとふいにシンがこちらに距離を詰め、


「えっ……」

「じっとしていろ」


 シンが黎の首に手をかける。思わず目をつむると、首にしゅるりと何か柔らかなものが巻き付いた。

 恐る恐る触れてみるとそれは布のようだった。絹のようなすべすべとした肌触りで、それが黎の首に結ばれていた。


「首の包帯目立つだろ。家に帰るまでそれで隠しとけ」

「あ、ありがとうございます」


 黎はシンを見上げる。まだ笑みを浮かべる彼の視線は柔らかくて黎の顔が独りでに熱くなった。その時、


「――黎様!」


 突然黎を呼ぶ声がして振り返った。現れたのは昼間町ではぐれた片桐と千川だ。二人は血相を変えてこちらに走り寄ってくる。


「ああよかった! 黎様、こんなところにいらっしゃったのですね」

「家の者がみな心配しておりました。別れた後町で暴動があって、新堂様とも別れたというものですから」

「あ……、ごめんなさい」


 二人の様子を見るに昼間からずっと黎を探していたのだろう。


「屋敷の者総出で探していたんですよ。ずっとこちらにいらっしゃったのですか?」

「いいえ、貴方たちとはぐれた後暴動に巻き込まれて」

「暴動! やはり危ない目に遭われたのでは⁉」

「ええ、ですがこの方が助けてくれて――」


 だが振り返った先にはもう誰もいなかった。黎は呆然とする。目の前に続く闇の中には人の気配がなく、最初から誰もいなかったかのように静まり返っていた。


「……? 誰かいらっしゃったので?」

「……いえ」


 黎は諦めて目を伏せた。


「屋敷に戻ります」


 そう言ってまた黎は、護衛二人に付き添われて歩き出した。

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