行きつけだった喫茶店

@Sakurasuitou

たった一つのメニュー

 私には行きつけの喫茶店があった。

その喫茶店は私が住んでいるところでは都会の街――と言っても東京に比べたらまだまだ田舎よ――の少し外れにあった。そのためか、喫茶店の周りはとても静かであった。都会の喧騒を嫌と言うほど知っているはずなのに喫茶店へ行くための、都会に続く道を一本ずれた少しガタガタな道を歩いていると、本当にすぐ近くに数え切れないほどの、沢山の人が忙しなく歩いている街があるかしら、と疑ってしまう。それぐらい喧騒がなくなり、代わりに木々の葉が風に吹かれてサワサワと聞こえてくる爽やかな音や、川のチョロチョロと流れる涼し気な音が聞こえてくるのだ。私はその音を聞いていると、田舎のおばあちゃんの家を思い出して、落ち着くので好きだった。

その道をしばらく歩いて行くと、喫茶店が見えてくるのだ。車を停めるための場所なのか、建物の前には少しスペースがある。建物は、まるで御伽噺で出てくる家みたいで、モカ色の木のような木じゃないような素材の壁に赤い瓦屋根、少し大きくて開けるのに力を用する扉には、丁度扉を開けようとする私の目線の少し上ぐらいのところに、分度器のような半円型の厚いガラスがはめ込まれている。ドアノブには木の板がぶら下がっており、看板には“Welcome!”と書かれている。喫茶店らしいところはその看板ぐらいで、初めてそこを見たときはそこがお店なのか、只の家なのか分からなかったぐらいだ。

店内は、カウンター席が四席、テーブル席が二席あるぐらいのこじんまりしたもので、テーブルと椅子の枠は明るい色の木が、椅子の背もたれや座るところには赤色のクッションが使われている。カウンターの向こうには、大きな棚があって、コーヒー豆が入っている瓶が規則正しく並んでいた。照明や窓から差し込む光もあって、全体的に明るくて優しい印象を与えるものだった。また、内装がどこか古めかしく感じるところも私には“古き良き”を体現しているようで好きであった。

 私がその喫茶店へ初めて入ったのは高校二年生の夏である。

周りが――主に先生だけれども――やれ進路を決めろだ、やれ勉強しろだの騒いでいる中、私はやりたいことが見つからず不安で焦っていたときにその喫茶店を見つけた。と言うのも、私はその時期、家に帰るのが嫌で普段は使わないような道を使って帰っていたのだ。家で考えるよりこっち方が自分の将来のことについて考えることができたからと言う理由もあるが、どちらかと言えば、家に帰ってもどうせ進路について考えることも、勉強もしないのだから、それならまだ体を動かして悩みをどうにか打ち消そうと躍起になっていたと言う理由の方が大きいかもしれない。あと、お母さんに“勉強しなさい!”と言われるのが嫌だった、と言う理由もあるが……。

そんな感じでなんとなくフラフラ歩いていた時、ふとその喫茶店が目についたのだった。夏の突き刺さるような暑さから逃げたかった私は、ここで休憩しようと思い至ってドアの前に立った。窓から店内を覗き見る限りは喫茶店ぽいが、さっきも述べた通り喫茶店らしいのは扉にぶら下げられている木の板のみだったため、私はそこへ入るか否か数分扉の前で悩んだ。

私は、悩みに悩んだ結果、暑さに耐えきれず、勇気を振り絞って扉を開けることにした。臆病で悪い方向に物事を考えてしまう私は、扉の前で頭を抱えていたとき、扉を開けている最中でさえも、もしここが只の家だった場合、何て説明するか、最悪な場合にならないためにはどうすれば良いのか頭の中で繰り返し繰り返し考えていた。

しかしそれは杞憂に終わった。なぜなら、その喫茶店の店主と思われる女性が笑顔で出迎えてくれたからだ。女性は黒くて長い艶のある髪を下で一つにまとめ、白のワイシャツを黒いジーンズの中にしまい、緑色のエプロンをつけているスラッとした人であった。顔も整っていてどちらかと言えば日本風の美人という感じ――だって、一口に美人と言ってもいろんなタイプがいるでしょう?――であった。それでいて、何処か不思議なこの世界とは別の世界で暮らしているような、そんな浮世離れした雰囲気であった。女性は

「いらっしゃい、席空いてるよ」

と笑顔で私を迎えてくれた。私は安堵しながらも、何も言うことができずにただ黙って一番端っこのカウンター席に座ることにした。

入ったのに何も注文せずにいるのは失礼かと思って、なにか頼もうとメニュー表の存在を探した。しかし、可笑しなことにメニュー表が見当たらないのだ。どこを探しても見つからない。もしかして壁にでもかかっているのかしら、と思って壁を見回したが見つからない。見落としているのか、ともう一度周りに目を凝らしたが、見当たらず私は女性に恐る恐るメニュー表はどこにあるのか聞くことにした。

「あのっ……、すみません。 メニュー表って何処にありますか?」

最後の言葉は聞こえるか聞こえないかぐらいの声の大きさだったが、女性には聞こえたようで、

 「メニュー表? メニュー表なんて無いよ。なんせメニューはたった一つしか無いからねぇ〜」

と、彼女はどこかおちゃらけたような、待ちわびていた質問が来て嬉しいといったような調子で答えた。

“メニューはたった一つ”とは、一体全体どういうことなのだろう。私は一人頭の中で会議を開いて考えた。しかし、考えれば考えるほど分からなくなっていった。

もしかして、ここはなにかの専門店なのかしら?だとしても言い方がおかしいわ。専門店なら“頼めるもののジャンルはたった一つ”の言い方のほうがあっている気がするもの――私、国語は苦手だからこの言い方が正しいのかわからないのだけれども……――嗚呼、こんなモヤモヤするんだったらもっと真剣に国語の授業受けておくんだったわ。それにもし仮にここが専門店ならやばいことになるんじゃなくって?専門店ってどれもこれも高くて、とても高校生一人で入れるようなところではないじゃない。値段だけが高いならまだしもここがもし知る人ぞ知る、といったような店ならとっても恥ずかしいわ、こんな何も知らない高校生が一人で入っているなんてっ!

 と一人頭の中で会議というより、最早反省会といえるものを続けていると、頭の上に人影があるのに気付いた。どうやら、私が一人反省会をしているときに女性が近づいてきていたらしい。女性はニヤニヤしながらこっちを見つめており、私はなんとなく女性と目を合わせるのが気まずくて目線をテーブルの方へ向けた。すると女性は

 「何か考えているみたいだねぇ〜 ねぇ、よかったら食べてかない? 気になってるんでしょ、“たった一つのメニュー”」

と先程と同じように口角を上げながら聞いてきた。正直少し恥ずかしかったし、ムカッとしたが、そのたった一つしかないメニューが気になっていたのは事実であった。私はしばらく悩んで、どんなものが出てくるのだろうと恐怖とワクワクを持って口を開いた。

 「……。 下さい、その“たった一つのメニュー”」

 「は〜い かしこまりました。ショーショーお待ち下さい〜」

そう言って彼女がカウンターの後ろへ下がっていったのを見て、私は顔を机にくっ付けた。机に当たった頬がひんやりしているが、どうも落ち着かなかった。

つ、ついに頼んでしまった……。今も緊張で心臓がバクバクしている。体感で十度ぐらい体温が上がっている気がしてならない。暴れる心臓をなんとか押さえつけようと、いつの間にか置かれていた水をゴクゴクと飲み干した。水の冷たさのおかげか、なんとか心臓は落ち着いてきたが、“たった一つのメニュー”について考えることはやめられなかった。

一体どんなものが出てくるのかしら。もし、とんでもないゲテモノが出てきたらどうしましょう……。私、なんと言ってそのゲテモノを食べるのを回避したら良いのかしら……。

 といったようにどんどん頭の中で悪い方向へ考えが向かっていく。

て、いうかそもそもお金は如何ほどなの?とんでもなく高かったりする?

 私は不安に思って、何円入っているのか恐る恐る財布を覗いてみた。

 あらヤダっ、私、今日いつもよりもお金入っていないじゃないっ!最近寄り道ばっかりしていたからだわ……。それはそうと、二〇〇〇円あれば流石に足りるわよね……?あぁもう、せめて値段聞いてから頼みなさいよっ、私!!

 と、若干頼んだことを後悔していると、カウンターの後ろから声が聞こえて、

 「お待たせしました〜 ど〜ぞ、ゆっくりお召し上がり下さい」

と言い、女性が私の頼んだものを机に置いた。

私は恐る恐るそれを見た。そして、私は驚いた。てっきりヘンテコなものが出ると思っていたのに、目の前にあったのはなんの変哲もないパンケーキであったからだ。

パンケーキは白くて大きい平らな皿の上にのっていて、パンケーキの端の方に生クリームとミントの葉が添えてあり、表面は均一の薄いきつね色で染まっていて、粉糖がかかっていた。果物も添えられていないシンプルなものだけど美味しそうなパンケーキである。

私は頼んだものがゲテモノでなかったことに安堵しながら、パンケーキを、口に入れた。その瞬間噛むことを忘れた。口の中にあるパンケーキはとても酸っぱかったからだ。

私はそのパンケーキを甘いものだと思って口に入れた。――だって、そうじゃない。パンケーキを見たら甘くて美味しいスイーツっていう方程式が私の中で出来上がっているんですもの――でも、それは酸っぱかった。

でも、酸っぱいと言ってもあれよ?梅干し特有の酸っぱさでもなく、蜜柑とかの柑橘系の酸っぱさでもないの。そうねぇ、一番近いので言えば、苺の酸っぱさに似てる気がするわ。そういえば、気持ちも似ているかしら。甘くて美味しそうな苺だと思って買ったのに、それが想像以上に酸っぱかったときのあの感じ?って言えば伝わるかしら。

兎にも角にも私は口にパンケーキを含んだままそのまま固まっていた。すると近くで大きな笑い声が聞こえて、ハッと正気に戻った。声のした方を睨むように見るとこのパンケーキを作ったであろう、あの日本風の美人である女性が口を大きく開けて笑っていた。笑いすぎて涙まで出ていた。

 「あんた、その感じを見るにハズレだったんだね どんな味だったんだい? 私、このパンケーキにどんな感想を持ったのか聞くの好きなんだよね〜」

彼女は半分笑いながら聞いてきた。

私はこの笑い声を聞くまで、この女性がいることを忘れてしまっていた。あの間抜けヅラを見られたと思うと恥ずかしくて今すぐにでも代金を払って帰りたいが、それ以上に女性が言った“ハズレ”の意味について知りたかったため、口を開いた。

 「酸っぱい味がしました。……あの、ハズレってどういうことです?」

 「あぁ、実はねこのパンケーキ、食べた人の気分やイメージによって味が変わるんだよ。」

 「……どういうことです?」

 「そのまんまの意味だよ。 例えば最近いいことが続いて幸せいっぱいの人が食べたら吐き気がするほど甘くなるだろうし、逆に悩みを抱えまくっている人が食べると完食することが難しいぐらい苦くなる。パンケーキに辛い過去を持っている人がいたらパンケーキは辛くなる。 って、言った感じかな」

 「ふぅ〜ん…… 言いたいことはなんとなく分かったけれども、そもそもなんで気分やイメージによって味が変わるの? このパンケーキどうやって作ってるの?」

 「それは、企業秘密」

 「何よ、それ……。」

私は気分やイメージによって味が変わるという事実に驚きながらも、自然に受け止めることができた。何故か分からないが、普通に考えればありえないことでも、女性の口から出るとありえることのように感じたのだ。もしかしたら、彼女の浮世離れした雰囲気のせいかもしれない。

それに、もしかしたら私がパンケーキを酸っぱく感じたのは、私が将来のことを考えるのは不安で、やめてしまいたいと思う心と、将来のことを考えている時間はなんやかんや言って楽しいと思う心が溶け合った結果なのかしら、と予想するだけの心の余裕もあった。それに、そう推理していくのは少しワクワクした。

ともかく、なるほど、原理はよく分からないけれど、このパンケーキのお陰で“たった一つのメニュー”でもこの喫茶店は成り立っているのだ。私は脳ミソにかかっていた霧が晴れていく感覚がした。そして、水を飲み干して空っぽのグラスに水を注いで、一口飲んだ。水が渇いた喉を潤してくれたことで、さらに霧が晴れたような気がした。

 さて、もうそろそろ帰らないと流石にお母さんに怒られるかしら、と思い席を立つことにした。席を立ち、服装を整えて、レジの前へ足を進める。私の不安の最後の種であった値段は六〇〇円で、払えなくなるという最悪な状況は回避できた。私はいい経験をしたなぁ、次も絶対来よう、と思いながら店を出た。

私はその後も、何年にもわたってその喫茶店に通った。パンケーキは彼女の言う通り行ったときの気分によって味は変わった。あるときはとても甘かった。きっと志望校に合格することができたから。あるときは甘酸っぱかった。きっと初めて恋をしたから。あるときはしばらく舌に残るような苦さしか感じないこともあった。きっと何十回も携帯に励ましメール――私が面接で落ちたことを遠回しに知らせてくるの――が届いたから。

私はそのパンケーキを食べる度、自分の心が今どんな状態なのかを知ることができるような、自分を見つめ直せるような、自分を優しく包んでくれるような心地がした。今思えば、初めて喫茶店へ行った帰り道、私はいつも以上に自分の将来について考えることができていた。そんなこともあってか、自然と私の中で人生で迷ったらあそこへ行くことが私のルーティンになっていた。喫茶店には、あそこへ行ったら自分の中での最善な選択ができる、きっとこの不安もどうにかなる、という安心感があったのだ。

 でも、もうそこへはもう行けなくなってしまう。何故なら、その喫茶店は、閉店することになってしまったからだ。私はそれをSNSで知った。最初は信じられず誰かの冗談のように感じていたが、しばらくそれを見つめて、やっと現実なのだと受け入れることができた。

しかし、私には訳が分からなかった。

 だって今やその喫茶店はSNSで有名になっているもの。経営難というわけでもないだろうし、本当にどうして?彼女の性格的に人と付き合うのが嫌になったということも無いだろうし……。

 私は考えに考えても分からなくて、理由が分からずモヤモヤするぐらいなら、とその喫茶店に久々に行って彼女に直接理由を聞くことにした。久々というのも私はここ数年子育てで忙しく、その喫茶店へ行く暇もなかったのだ。

久しぶりに見たそこは何も変わってはいなかった。外見も内面も、そこにいる彼女も初めて会ったときと同じような日本風の美人のまま、浮世離れした雰囲気もそのままで、初めて来た時のことを私は思い出した。私は感傷と懐かしさに浸りながら

 「久し振り ここ、畳むんだって?」

そう声をかけると、彼女はびっくりしたような、嬉しそうな声で

 「おぉ〜、久し振りだね そう、もうここで経営するのやめようと思って」

と答えた。私はそれを聞きながら慣れた手付きで――と言っても、彼女に頼むだけなのだけれども――“たった一つのメニュー”を注文した。しばらく見ていなかったそれも変わってはおらず、美味しそうなパンケーキであった。

私はパンケーキに手をつける前にここを畳む理由を聞いた。すると彼女は

 「誰も彼も同じことしか言わなくなったから」

と呟いた。私には意味が分からなかった。普通ならそりゃそうだ、となるけれど、私はこのパンケーキは食べるときの気分やイメージで味が変わることを、何回も体験している。

 「それってどういうことよ。 あなたが言うには気分やイメージによって変わるんじゃなかったの?

って言うか、私がそれを知ってるわ」

 「それがとある日を境目にみんな同じことしか言わなくなっちゃったのよね」

 「ある日って、いつのこと?」

 「えっとね……、ここがテレビで放送された日覚えてる? そこでニュースキャスターがさ、“甘くてフワフワしてる”っていったんだよね。 そしたらさここに来る人みんなが“甘くてフワフワしてる”って言い出してさぁ…… 私、最初は店の前にお客さんが並んでいるのを見て嬉しかったんだけど、みんな同じことしか言わないことに落胆してさぁ……。

私はさ、前にも言ったことあると思うけど、人がどんな感想を持つのか聞くのが好きなの、その人の考えに触れているようで でも、もう同じことしか言わないのであればもうここにいる意味無いかなって はぁ……、こうなるんだったら取材、断れば良かったなぁ 」

確か取材したニュースキャスターは元女優かなんかで今、SNSで話題になっていたはずだ。そのせいか、このニュースキャスターが出ている番組も結構注目を集めていた。私もその番組を、頻繁に見ており、ここが取り上げられている時もリアルタイムで見ていた。このニュースキャスターは最近結婚したからそう感じたのかしら、と考えたから間違いはないはずだ。……多分。――子育ての片手間で見ていたから、確信は持てないの――

まぁ、それはそうと、私はなんとなく彼女の言いたいことが分かった。つまり、テレビのせいでここに来る人たちの中でここのパンケーキは“甘くてフワフワ”というイメージで固まってしまってたのだ。それは、人の感想を聞くことが好きだった彼女にとってはつまらなく、耐え難いことだったのだろう。私は

 「そうだったのね。」

と納得しながら呟いて、パンケーキを一口含んだ。

私は、その人達とは違うと思い込んでいた。私はテレビで知ったのではない、自分でこの喫茶店を見つけたのだ、という自信もあった。だから、私はいつも通り一体どんな味がするかしら、とワクワクしてパンケーキにナイフを入れた。

私はそれを咀嚼して飲み下し、驚きながらも自分自身に呆れて、失望して、悲しくなった。私もみんなと同じ、彼女がこの店を畳む理由となる存在になってしまっていたのだ。私の食べたパンケーキ、味の変わるパンケーキ、私はこの店が閉店するのが悲しかったから、てっきり塩辛くなると思っていた。それなのに、私が食べたパンケーキはニュースキャスターの言っていた通り“甘くてフワフワ”していた。どんなに食べても、どんなに食べても、“甘くてフワフワ”していることしか、感じることが出来なかった。

私はそんな自分に泣きたくなってきたが、ここで泣く訳にはいかない、と涙を流さないように、必死になったけど、一粒だけ溢れてしまって、そこでやっと私は、塩辛い味を感じることができたのだった。

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