十秒間ランナーズハイ
鰐蛇
第1レーン:銃より足で
「ぱぁん」と間延びしたピストルの音が聞こえる。これは空砲だ、と自分に言い聞かせながら、重い一歩目を踏み出した。恐怖に震える体を動かし、二歩目。ほぼ無意識に三歩目。ここまで来れば、もう大丈夫だ。銃声が鳴った場所からまるで全力で逃げるように、神山大は走っていた。走りながら、あの日を思い出していた。まだ暑かった校舎、傾き始めた西日。影は延び、雲は色付いた。「ランナーズハイって知ってる?」とチームメイトだった加藤が訊いてきた。「もちろん。自分が速すぎて、意識がイっちゃうやつだろ。」前の女子が顔をしかめるのも構わず、俺は続けた。「でもたしかそれって長距離の話だろ。関係ないやん。」「いやそれがさ、マジで集中してる人は短距離でも起こるらしいよ。」と加藤。「実はオレもなってたりしないかなー」「無理だろ。このチームでなってるとしたら、三好かオレだろ。お前、自分が何秒台か考えてみろよ。」「それを言ったらお前だって、三好と並ぶほどのタイムじゃないだろ」「うるせえよ」ベラベラ大声で喋りながら、目的地につく。野球部の使うグラウンドに圧迫されているほど小さい滑山高校陸上競技練習場には、直線のコースが50メートルしかない。つまり、俺たちの主戦場である100メートルを練習するのにも、途中で反転する必要がある。なんて非効率的!しかし、校外で練習すると一回ごとに学校に報告しないといけなくて、先月顧問が辞めたこの部活はここでひどいタイムを出し続けるしかなくなっていた。ところが、その反転も含むタイムで11秒を切らんとしているのが、顔よし器量よしの三好だった。その三好に次ぐのが俺だった。とはいえ、まず幽霊部員を除けば五人とマネージャー二人しかいないこの部活で二位だろうが、何も意味はなかったが。「さて、今日は反転せずに行きますか。」このコースの先をそのまま行くと、三好の家に着く。「いつもより遅い三好を叩き起こそうぜ。」三好は家が厳しいらしく、毎度学校終わりでいったん帰宅してから出てくる。「っし行くか」当然ピストルなんて持っていないので、マネージャーの合図でスタート。珍しく加藤がリードしたまま、50メートルを超えようというとき、人通りの少ない練習場前の道路に人影を見つけた。「三好じゃね?」と言った加藤の方を見ていたため、その人影の不自然さに気付くのが遅れた。上着もズボンも真っ黒で三好のセンスではない。さらにそいつが持ってる黒い物が、陸上選手を走りださせるピストルだ、と気付いた時には、既にそれは火を噴いていた。加藤の自己最速レベルの走りは、皮肉な事にピストル音によって止まった。血を流しながら倒れる加藤を見て、いつの間にか走りだしていた。無意識に、まるで普段歩く時に右足の次は左足、なんてこと気にしないように、どこを走っているのか、なぜ走っているのか、そんなことは気にしていなかった。心のどこかで、これがランナーズハイなのか、という何か冷静すぎて逆に落ち着かない自分がいた。次に起きた時には、既に5時間が経っていて、自分も全く知らない町にいた。迎えに来て、と親に電話しようとしたところで全てを思い出し、慌てて戻ろうとしたが来た道が分からないし、切符で電車に乗ろうにも財布はおろかリュックすらどこかで落としたようでなくなっていた。泣きながら、迷いながら、転びながら、わけもわからずさまよい歩いているところを警察官に発見してもらい、なんとか家に帰れた。そしてそのあと、事件の概要を知った。滑山高校陸上部は、俺以外皆死亡していて、隣の野球部にも重傷人が出ていた。犯人はまず三好の家に押し入って三好を殺し、そのあとグラウンドで銃をぶっ放したらしい。犯人は逮捕されたものの、未成年だったため個人情報は公開されず、俺は犯人の顔どころか裁判すら見ることは叶わなかった。事件のあと、三好の葬儀は家族だけでひっそりととりおこなったと、初めてみる三好の父親から連絡されたが、もうそこに行く気にはならなかったし、当時の俺は何に対しても無気力になって家に三年間引きこもっていた。事件についてきかれるのも、自分が思い出すのも嫌だった。しかし、昼夜問わずパソコンやゲームのモニターを見つめるだけだった生活も変わった。きっかけは同い年のスプリンターだった。彼の家庭状況は悲惨だったらしく、例えばプロフィール欄はほぼ空欄。しかし彼の成績は、まさに三好が生きていたら残しそうな活躍だった。顔もなんとなく似ている気もしたし、まさに三好に「戻って来い」と言われた気分だった。それで陸上を再開したのが二年前で、今ようやくトップランナーの一人として偽三好あらため藤田と並び立つ候補、くらいにはなれた。皮肉なことに、あの事件以降100メートル走でもランナーズハイに入れるようになり記録が爆伸びしたのだ。今、端の藤田の50センチほど後ろだ。失った青春を取り戻す気分で、神山は足を早めた。
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