推し死

@ko-sho-u

波乱の一週間と八年

 推しが死んだので会社を辞めることにした。浮気もせずに八年ずっと推し続けていた。会社は一年くらい前から、辞めたいな辞めたいなとは思っていたものの、いまいち一歩踏み出すことでたきずまごついていたが、推しが死んだことで踏ん切りがついた。明日辞表を出す予定だ。


  推しと出会ったのは高校2年生の9月。なんとなく学校に行くことができなくて、仮病を使って休んだ日のことであった。午前中の間はあくまで風邪っぴきとして布団にくるまっていたが、午後になると目も冴え、腹もすいてきたので、食べ物を求めて階段を降りてみると誰もいない。この時間は祖母がいるはずなのにおかしいなと一瞬不安になったが、ダイニングテーブルの上に「病院に行っています」と書かれたメモ用紙を発見したので杞憂に終わった。なぁんだ安心。しかし、祖母がいないようでは私は食べ物にありつくことができない。冷蔵庫の中を探しても、食べられそうなものは浅漬けのきゅうりだけで他はなにもない。胃に収まった蛇が食い物をよこせと暴れまわっていることにとうとう耐えかね、私は財布を握りしめ近所のコンビニに向かうことにしのだ。

 外へ出ると、9月だというのに秋はまったくやる気をみせず、おいてけぼりにされた夏と蝉がけだるげに残業を頑張っていた。先ほどまでクーラーのきいた寝室で三度寝にふけっていた私にとっては、どれほどの暑さであろうと拷問に等しく帰りたいことこの上ないが、進むしかない。向かい風におでこのニキビを晒しながら、せめてパジャマを脱げばよかったと若干後悔した。コンビニまでの距離は100メートルほどもないが、着く頃には汗が背骨を伝っていくのがわかるほど汗をかいていて、自動ドアから飛び出してきた冷気を思わずうっとりと味わってしまった。しかし、すぐに自分がパジャマ姿であることを思い出して菓子パンを二つとプリンを一つ、暇つぶし用の漫画雑誌を買って、そそくさと店を出た。帰りもまたそれなりに汗をかいて、家に着くなりテーブルの上に漫画雑誌を置いた。そして、お行儀悪くパンをむさぼりながら、パンを触った手で漫画のページをばらばらとめくり、漫画を触った手でパンを口に詰め込み始めた。

 適当にパラパラとめくっては、家族がいれば絶対に味わえないであろう背徳に興奮したり、興味があるところだけはパンを置いて真剣に読んでみたりしていると、ふとある扉絵に視線が止まった。それは、奇をてらった作風のバトル漫画で、連載が始まったばかりの期待の一作らしく、まだ単行本も発売されていなかった。ほとんど興味本位で、いったいどんな作品なのか品定めしてやろうという奇妙な対抗心を持って私は漫画を読み進めた。そこで私は、大げさな運命に出会うことになる。

 最初の一コマ。右端の結構目立たないところに彼を見つけた。幸の薄そうなビジュアルがタイプだった。いつもなら、私ってこういう子がタイプなんだな。で終わるものなのだが、今日は違った。なんというか、気持ちが妙に浮ついてそわそわする。彼の視線が自分の視線と絡んでいるように見えて思わず雑誌を閉じてしまった。次に開いたのは雑誌ではなくスマホで、自分が今まで読んでいた漫画の情報を片っ端から集め始めた。作者の名前と単行本が発売されているのか、三回くらい検索したあたりで、自分がこれから彼を推すという事実は7が素数であることと同じくらい明確だようやっと

 それからの人生は彼と一緒に育ったといっても過言ではないだろう。それから数か月もしないうちに単行本一巻が発売されて、下校中の寄り道は禁止されているのに遠回りして買いにいったことを覚えている。それからも順調に巻数を増やして、八巻あたりでアニメ化されると知ったときは飛び上がるほど嬉しかった。大学受験中はさすがにがっつりと推し活できなかったが、週に一度彼の声が聴けることが心の支えになった。数少ない彼のグッズも買ったし、イベントにも行った。本当にずっとだ。ずっと推し続けてきたのだ。人間関係で悩みぬいて結局大学を休学してしまったときも、就活が厳しくて精神が参ってしまったときも、なんとか地方の広告代理店に就職できたときも、常に推しを思っていた。それなのに。


 推しの死を知ったのは一週間前。三月二十四日の午後七時半過ぎ。最近は忙しくて連載を追えてなかったし、SNSも開けていなかったが、ようやっと会社帰りに買えた単行本を布団の上で読みふけっていた。物語は二年にわたり抗争を続けてきた敵勢力との最終戦が佳境に差し掛かっていた。最初はモブキャラとほぼ同じ扱いだった彼も、最近は出番が増えてきて、コマに映るシーンも多くなってきて嬉しかった。今考えると、ここからすでに破滅の足音は迫ってきていたのかもしれない。時間と本の厚さが比例して減っていく読書にふさわしい清閑な部屋。最近あまり眠れていなかったので、活字を読むと目の奥がずきずき傷んだが、ページをめくる手は止められない。ページ数も残り少なくなって、主人公の味方もだんだんと少なくなり、敵との闘いは大いに盛り上がっていた。敵が放った強力な攻撃を主人公一行が弾き返す。それには彼も少し協力していた。しかし、そこで事は起こった。敵の攻撃に乗じて死角からもう一人の敵が主人公の懐に飛び込んできた。その手にはナイフ。目ざとい彼はそれに気づいて主人公を押し飛ばした。そして、次の、最後のページで、ナイフは彼の心臓を深く突き刺していた。彼は目をカッと開き、口から血を出して地面に倒れた。


 本当に信じられなかった。自分が今見ている光景が、真実なのか確かめなければならないのだろうが、それもままならない。信じたくない。これは現実に起こっていることなのだろうか。思考はまとまらず、手は先ほどのページで止まったままだ。部屋の静寂が痛いくらい耳に残る。時計の針がいつもより数段早く、無常に過ぎ去って、結局私がした行動は布団にもぐって目をつむり眠ることだった。あの瞬間の自分はおそらく何をやっても正常な判断ができないくらい気が動転していたから、眠ることでこれが夢になると半分本気で思い込んでいた。しかし、現実をそう簡単に片づけることはできず。いつもより二時間も早く目が覚めた私は、恐る恐る昨日読んでいたはずのページを開いてみた。やはり彼は死んでいた。カーテンの隙間から差し込む朝もやの光を受けて白光した藁半紙が、今まさに死んでいる彼の顔色を映しているように見えた。

「・・・死んでる」

 そう毒づいた自分の声は部屋の壁に吸い込まれて消えた。

 それから今日までの記憶はひどく曖昧だ。日々、会社に行って帰ってくるまでをたんたんと繰り返した。SNS関係には一切触れずにすごした。もちろん漫画にもだ。あれ以上の仕打ちを受けそうな気がして怖かったから。時間がたつにつれ、彼が死んだことへの衝撃はじわじわと心臓を破壊していき、最後に残ったのは空虚さだけ。私は、それに耐えられなかった。だから、推しが死んだから、会社をやめることにしたのだ。本当は一年くらい前からやめたいと思っていたのだが、彼のために稼ぐと思ってここまで頑張ってきた。毎日早起きすることも、残業することも、上司や同僚との関係を穏便にこなすことも、全部推しのためにしてきたことだった。数少ないグッズを買い漁って、無理にでもイベントに参加するためった。なのになんだ?この状況は。全部おじゃんじゃないか。作者はどんな神経をしているんだ?まだこれから活躍の場を作ることもできただろうに、主人公を成長させるための踏み台で終わらせるなんて・・・。そんなことをぐるぐると考えていると、ふと虚しさは大きな波になって私を飲み込む。こんなに打ちのめされた経験は生まれて初めてだった。そのうちに、自分が働いていることへの意義が見出せなくなった。他人から見たら異常にみられるかも知れないが、私にとっては一大事で当たり前の思考だ。だって、生きるための縁がなくなってしまったようなものなのだから。


 リビングの時計は十二時を示し、日付はついさっき変わったばかり。辞表なんて初めて書くから大分手間取っている。馬鹿正直に推しが死んだので辞めますと言うこともできないし。でもなんとか終わらせて、今日中に提出するつもりだ。家中探し回ってやっと見つけたまともな便箋にあることないこと書きなぐっては消して、また書いて。そうしていると、廊下とリビングをつなげる扉からぬっと誰かが顔を出した。

「お姉ちゃん何してんの」

 いつもこの時間なら部屋にいるはずの妹が、眠たげな顔であくびをしつつそう言った。階段を下りる音がまったく聞こえなかったので、それほど集中していたことに自分自身驚いた。

「ごめん仕事してて、起こしちゃった?」

「いや、水飲みに来ただけ」

妹は食器棚から取り出したグラスに並々と水を注ぐと、ダイニングテーブルのいつもの位置に腰を下ろした。

「明かりついてたから、ドロボーが入って来たのかと思った」

「あはは、ごめん。でももうちょっとで終わるから」

妹は水を飲みながら、鼻だけでふーんとつぶやくと、向かいの席からおもむろに便箋を覗き込んできた。

「一身上の都合により・・・ってこれ辞表じゃん。お姉ちゃん、仕事辞めるの?」

「・・・うーん、まあ、ちょっといろいろね」

私ははぐらかしたが、妹はそれで許してくれる性格じゃなかった。

「いろいろって何よ。え、お姉ちゃん会社でなんか嫌なことあったの?いじめでもあった?それとも・・・なんか病気にでもなっちゃったの?」

 妹は机から身を乗り出して、矢継ぎ早に追及してくる。ふと、妹にまくしたてられているうちに、両親に仕事を辞める旨を伝えていなかったことに気づいた。やはり、こういったことは事前に家族へ伝えておくべきなのだろうか。実家暮らしともなると、一層相談しておいた方がいいのかな。考えることもままならなくなってしまっていたので、そんな簡単なことにすら考えが至らなかった。

「お姉ちゃん聞いてる?」

「え、あ、うん。・・・ゆうちゃん明日月曜だし、学校でしょ。まだ寝なくていいの?」

「いいんだよ私のことは、どうせ明日三連休で休みだし、そんなことよりお姉ちゃんだよ。なんで会社辞めちゃうの。理由、教えてよ」

 もうこれ以上はぐらかしても、妹の追及は止まらないだろう。どう説明すればいいものなのか。家族の前でこの話をされたらたまったものではないが、だからといって上手い言い訳もまだ思いついていないのだ。いや、ここはもう正直に話してしまおう。いくら嘘をつき続けていたって、いずれボロは出るし。察しの良い妹ならすぐそれに気づいてしまうだろうから。

 「実はさ・・・」私は事の顛末を妹に説明し始めた。妹はしばらくするまた眠たくなったのか、目をつぶって船をこいでいるように見えたが、黙って聞いてくれているようだった。ときどき不明瞭に「うん」とか「あー」と言っているのが聞き取れた。

「だからね、お姉ちゃんはね、本当にあの子がずっと好きだったの」

「知ってるよ、部屋にグッズいっぱい飾ってあるもんね」

「うん、本当にさ、もしかしたらこれからもっといっぱい活躍の場ができたのかもしれないのに、なんであそこで死なせちゃうのかなって。本当に作者は読者の気持ちがわかってないよ。やっと出番も増えてきてさ、世間の人にもっと知られるのかなって思ってたのに・・・」

 言葉はだまになって次から次へと現れる。

「今までずっと推してたんだよ。マジでずっと、好きだった。なのにさ、あの仕打ち。本当にどうかしてると思う。あの子に貢ぐためならなんだってやっててこれたのに。今までそうやって生きてきたのに。本当にわかってないよ作者。」

 妹はじっと押し黙って、耳をそばだてていた。先ほどの眠たげな顔とは打って変わり、何かを考えているようだった。そしておもむろに口を開いた。

「お姉ちゃんの話を聞いてて思ったのがさ」

 妹は唇をもにょもにょ動かして、咥内に唾をいきわたらせていた。しばらく間をおいて、妹は言った。

「お姉ちゃん本当にそいつのこと好きなん?」

 心臓が急速に縮んだ感覚がした。耳の血管を唐突な速さで血が巡っている音が聞こえた。

「・・・なんでそんな風に思ったの?」

 問いに答えることができず、逆に聞き返して時間を稼ぐ。その間に体を落ち着けておきたかった。

「質問に質問で返すなよ、でも、うーんなんだろ。お姉ちゃん『作者は読者の気持ちがわかってない』って言ってたけどさ。お姉ちゃんは逆に作者の気持ちをわかってないよね。てか、わかろうとしてないよね」

 妹の言葉が無音の部屋に反響して、いつもより数倍大きな声に聞こえた。私が何も答えず黙っていると、彼女はまた言葉をつづけた。

「たしかに、小説とか漫画とかの本質って読者にエンタメを提供することだから、読み手側の気持ちも考えなきゃいけないのは、まあ当たってると思うよ。でも、作者あってこそのキャラクターじゃん。生み出す人間がいなくちゃ、あいつらはただの線と点じゃん。それら全部ひっくるめて好きなのが本当の『推し』ってもんじゃん」

 言葉が切れ味の良いナイフのように脳みそへ突き刺さる。傷心している姉によくそんなことが言えるなぁと、負け惜しみなのか半ば感心している自分がいた。

「・・・そりゃそうだけどさ、自分の子供をあんな風に殺す人なんている?」

 質問を質問で返すんじゃなかったとも思った。

「うん、さっきの言い方は語弊があった。ごめん。作者が生み出してんのはさ、そのキャラだけじゃないじゃん。主人公もヒロインも敵もストーリーも伏線も全部作者が作ってるわけじゃん、その漫画は。全部が全部作用してお姉ちゃんの『推し』が生まれてるわけじゃん。全部愛してあげようよ、それが推し活ってもんでしょ。それに、作者がそのキャラクターのことホントに嫌いだったんなら、もっと適当なところで死なせてたと思うよ。最期は主人公をかばって死ねたんだから、いい落としどころだったんじゃないの」

 ここまで完膚なきまでに言い負かされると思っていなかった。なんだよ、家族なんだったらもう少し寄り添った言い方をしてくれてもいいじゃないか。

「私はね、お姉ちゃん」

妹はさらに神妙な面持ちで切り出す。

「お姉ちゃんは『推し』を推すことが自分のステータスだと勘違いしてると思う」

その一言にハッと私は顔を上げた。

「お姉ちゃんはまっとうに『推し』を推してるんじゃなくて、ただ依存してるだけだよ。だから仕事辞めるなんてぶっ飛んだ思考になっちゃったんじゃない」

自分でもわからない、がその一言が、心の琴線に触れたことは確かだった。やり場のない怒りが、妹にも作者にも世間にもこみ上げてきて、途方もなかった。

「あんたに何がわかるの」

せめてもの抵抗として細く小さくそう呟いた。自分も理解していない自分を明かされそうな気がして怖かったからだ。妹は一瞬むっとしたようだったが、私が泣きそうになっていることにちょっと驚いて、またいつもの涼し気な顔に戻った。

「結構知ってるよ。まあ姉妹だしね。でも知らないこともある。例えばお姉ちゃんが何でその子を好きになったのかとか」

時計の針は一時を指そうとしていた。

「なんで好きになったのか教えてほしい、かも」

私はしゃくり上げそうになるのをこらえながら、思考を巡らしていた。なぜ彼を好きになったか。そういえば、それについて深く考えたことは今までなかったかもしれない。私はなんであの子が好きなんだろう。ビジュアルが好みだったのはもちろんだが、それ以外にも理由はあるはずだ。そう、読み進めていくうちに奇妙なシンパシーを感じたのがきっかけだったようなきがする。彼は、主人公が組する組織でお調子者のような役割を担っていた。なんとか組織の力になろうと尽力するが、空回りばかり繰り返してしまって、その失敗をみんなは話の種にして、彼もそれを笑う。でも本当はもっとまっとうに組織の役に立ちたいんじゃないかと思ってしまった。そして、彼の状況はかつての私の状況とよく似ていた。これといった特技や才能もなく、役に立つことがしたいと思っているのに失敗ばかりで、それならせめてみんなを笑わせる人間になろうと自ら失敗を笑いに変えるも、自尊心はズタボロで、夜な夜な泣いていた。そんな自分と。だから、私は彼を自分の半身のように扱っていたのかもしれない。自分を慰めることができないから、彼を慰めることで、自分も慰められていると勝手に勘違いしていたのかもしれない。自分と彼をあまりに投影しすぎて彼から離れることが、裏切り行為に等しいのだと思っていた。だから大学でも彼と同じように振舞って、結果精神不調になり休学にまで至ってしまったのではないかと、今考えればそう納得がいく。私は彼を半身のように思っていたが、彼は作者の織り成すストーリーの舞台装置の一人で、彼と同体であり真に彼を愛していると言えるのは作者だろう。その事実を彼が舞台装置として花々しく死んでしまったことで知ってしまい、自暴自棄になって、辞職するというなんとも死に急いだ選択をとろうとしてしまったんじゃなかろうか。

「お姉ちゃん大丈夫?」

あまりに長く考え事をしていたせいか、妹が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「ううん、なんでもない」

いつの間にか出てきた鼻水をじゅるっとすすりながら、そう答える。妹の涼し気な顔がいつもより陰っていることにその時気づいた。

「言っておくけど、お姉ちゃんは推しのためとか言うけどさ、推しはお姉ちゃんに何かしてほしいとか言ってるわけじゃないからね」

妹の顔はこちらをうかがうような不安げな顔だった。

「だからお姉ちゃんがお姉ちゃんのために行動しても罰は当たらないんだよ」

妹の言う通りだった。私と彼の関係は推し活と呼ぶにはあまりに歪すぎたし、私も自分の殻に閉じこもりすぎていた。


 月曜日の朝、私はいつも通り会社に出勤した。辞表も一緒に連れてきたが、まだ書き終わっていなかった。午前の仕事が始まる頃に同僚に話しかけられた。聞くと、私が最近元気がなかったことを心配してくれていたようだった。昼休憩になると私は真っ先に昼食を食べに社外へ出た。いつもだったら会社近くのコンビニで済ませてしまうのだが、今日は少し歩いた商店街にある定食屋で食べることにした。気になってはいたが入ったことがない店だったのだ。店に入ってすぐ、から揚げ定食を注文した。数分とたたずに出てきたそれは食欲のそそるいい匂いで、それだけでドーパミンが飛び出てくる。初めに手をつけたのは、から揚げではなく付属していた白米だった。白米を食べるのはひどく久しぶりだった。朝は時短のために食パンを食べるし、昼はコンビニの総菜パンで、夜ご飯はわざわざ米を食べる気にもならなかったから、ここ何年かはとんとご無沙汰していた。そういえば、生まれて初めて推しにあった日のことは覚えているのに、いつから暖かい白米を食べないようになったのかは全く覚えていない。ひどく奇妙に感じた。白米とから揚げを交互に食べながら、私は考える。彼のいないあの漫画はこれからどういう結末へと向かうのだろうか。この一週間であの漫画の作者はどこまでストーリーを進めたのだろうか。あの漫画の主人公は彼を失ったことで泣くだろうか、もう立ち直れないと思うくらい心がくじけることはあるのだろうか。それとも、主人公の胸の中で彼はまだ生きていることになって、味方の死すらも乗り越えてしまうのだろうか。やはり思いつくのは、今までかじりつくように見ていた漫画のことだったが、頭の隅では純粋に今後のストーリーが気になっている自分がいた。どうあがいたって終わりは来るのだ。だったら最後まで楽しんだ方が損はないんじゃないか。代金を支払うとき散り散りになった思考をそう結論づけた。商店街を出て空を見上げると、空には薄く雲がかかっていたが、太陽の光が雲の切れ間から刺していることに気づいた。それがまぶしくなって目を細め、おもむろに腕時計を見やると、もう午後の始業時間が迫ってきていた。私は小走りで道を駆け会社に戻った。四月に差し掛かった日の暖かい風が頬を撫でた。

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