迷宮の最下層
自分の倉庫ではっと目を覚ますと、リビングでラヴァナ夫妻がヨーカンを齧っていた。
「起きたか、ムサ。鑑定してる余裕はにゃーから、自分の感覚でMPを確認しろ」
黒猫獣人のポコニャはひどく疲れた顔で食料として持ち込んだ豆に詠唱した。火炎Lv3の〈癇癪玉〉で、素直に発動してもよいのだが、小石や豆を爆弾に変えることもできる術だ。豆のような小物に
旦那のラヴァナもまた厳しい表情だった。黒革のマントの下に装備している
「……ポコニャ、これ使え」
「にゃ? 要らん」
「使えって」
ラヴァナは自分のマントを嫁に着させ、ポコニャは嫌がったものの受け入れた。旦那が重苦しく「ミケを頼む」と言った瞬間、彼女は一瞬だけ泣きそうな顔を見せたあとマントを受け取った。
独身のムサは無言でリビングの椅子に座り、陶器の水差しから木のコップに飲み水を注いだ。リーダーかポコニャがMPを消耗して出したであろう貴重な水を、ゆっくりと大切に飲む。
自分がどれくらい寝ていたのかはわからないが、寝ても状況は変わっていなかった。あのクソガキが切符を破ってからずっと、〈剣閃の風〉はひりつくような死の予感に苛まれていた。
◇
青髪のクソガキが羊皮紙を破った直後、どういうわけかムサたちは迷宮の地下25層にいた。転移の衝撃から立ち直った瞬間、鑑定持ちの黒猫が悲鳴を上げたから間違いない。
「鑑定……にゃ!? ——あちしら、25層にいる!」
年齢と同じ「25」という数字にムサは震えた。
ムサが知っているダンジョンの最下層は、16歳のとき〈剣閃の風〉として攻略した第20層が限度だった。20層から出現するイビルアントはパーティが自慢にしている剣術と相性が悪く、有効打を放てる魔法職はポコニャしかおらず……攻めあぐねているうちに女性2人が妊娠で離脱し、以来9年も地図を更新できていない。
そんな最高到達点より5層も下に位置する第25層は、地獄だった。
部屋の全体が赤い。本来は白く光るはずのコケが赤い光を出している。
そこは半径50メートルはある半球状の空間で、中央に立つ不気味な黒い大木が天井を支えていた。その枝にはいくつもの死体が——干からびた冒険者の骸が吊るされていて、ドームの床はおびただしい数のモンスターで埋め尽くされていた。
大量にいるゴブリンやスケルトンはまだ良い。領地の由来にもなっている植物系の〈シラガウト〉は、むしろ歓迎したい敵だ。
赤い実を持つシラガウトは目潰しの毒霧と黄色い種を撒き散らすくらいで、後衛のポコニャがワンパンできる程度のザコだった。その種や体は香辛料になり、迷宮の外に生息しないため売値は高いが、7層以降には出現するクソザコとして冒険者に人気が高い。
「まずいぞナンダカ……モンスター・ハウスだ!」
ムサは、25層に降りた直後にラヴァナが口にした言葉が忘れられない。
数千匹の凶悪なモンスターがムサたちを取り囲んでいた。魔物たちは一斉にスキルを発動し、スキル表示で視界が埋め尽くされたあとですべての
〈——警告不能:敵が多すぎます——〉
「——壁際を目指せ!」
ナンダカが怒鳴り、リーダーとラヴァナは即座に〈剣閃〉の名に恥じない剣筋を飛ばして周囲の魔物を斬り殺した。中には強敵のオークもいたがどうにか切り伏せ、パーティはドーム状のフロアの壁際を目指した。その距離、残り15メートルといったところか。
ムサはパーティの
「左手に知らない敵! ——やばい、叡智様が『全滅』を警告してる!」
後で知ったが、それは「オークキング」という化物だった。三階建てのビルに近い、全長5メートルはある豚の怪物はトゲのついた金棒をを振り上げていて、ムサは自分の死を覚悟して前に出た。
——誰より早く前に出て、誰より早く死ぬのが「盾」の役目だ。
ムサは雄叫びを上げながら決死の冒険に挑み、仲間のために命を投げ出した。両手に持った盾に丸太のように太い金棒が迫る。
「……!?」
運が良かった。突然つららが降って来て、オークキングの頭に当たった。キングは攻撃にしくじり、ムサにも仲間にも攻撃を当てられず、金棒は地面に突き刺さった。
パーティの全員が歓声を上げた。オークキングは地面に刺さった金棒を引き抜こうと躍起になり、その間にナンダカとラヴァナはドーム壁際までの退路を確保した。
「——ムサ!」
「……常世の女神よ……!!」
リーダーに怒鳴られ、ムサは噛みそうになりながら必死で〈倉庫〉を詠唱した。ドームの壁際に細い入り口が開かれる。パーティ全員が飛び込んだ。巨漢のラヴァナは少しつっかえたが、仲間全員で引っ張り入れた。すぐに小型のモンスターが入り口に殺到したが、リーダーと黒猫が詠唱を怒鳴る。
「——炎よ、ヨチムラカよ! 焼き尽くしてくれ!」
「うるにゃー・にゃーにゃッ、……ニャウにゃーーーーッ!」
激しい業火と濁流が侵入者を押し流し、パーティはひとまず危機を脱した——少なくとも、ムサは
「ナンダカ、まだにゃ! アイツが来る!」
「——あいつ!?」
「あれも見たことねえ敵……アクシノ様が〈ダンジョン・ボス〉だと言ってるッ!」
迷宮の壁に向かって開かれた小さな入口に茶色く太い指が見えた。指は倉庫の中を探るようにうごめき、火炎と濁流——ついでにラヴァナの大剣と、戦いが苦手なムサの投げナイフが指に反撃する。
太い茶色の指は攻撃を嫌がって逃げていき、オーク・キングより少し甲高い、ムサたちをせせら笑うような声が聞こえて来る。
今度こそ助かった。
あの巨大な指の持ち主は、倉庫に隠れたムサたちをあざ笑うばかりで内部に侵入することはできないようだ。
入り口からはゴブリンなどの小物がまだ侵入を試みていたが、ラヴァナが無言で前に出て、十字架のような細長い大剣で突き殺して行った。
「——ダンジョン・ボス?」
ナンダカが改めて聞いた。とりあえずの安全を確保し、ほっとしたのだろう。ナンダカの額から大粒の汗が流れ、あごの先から倉庫の床板に垂れた。
「……にゃ。アクシノ様が教えてくださった。いつもより何倍も早口で、口調も荒くて……あちしが知ってる叡智様とは思えなかった。苛ついて怒鳴った……」
リーダーに頷いたポコニャの声は震えていた。
「ここは迷宮の地下25層。ウユギワ迷宮の最下層で、噂でしか聞いたことがニャかった〈ダンジョン・ボス〉がいて——叡智様は、〈絶対にボスと戦うな〉と。あれと戦えば、全員が確実に死ぬって……!」
「俺たち全員で攻撃しても、死ぬ……?」
「にゃ」
ムサの知る限り、叡智の女神が冒険者に嘘をついたことはない。
例えば彼がマキリンの気持ちについてポコニャに鑑定を願った時、女神アクシノはたしなめるように神託を返した。
〈……叡智とは、あくまでこの大地の「知識」を統べる女神であり、ワタシは個人の心の秘密に立ち入ることを望みません。真実を知りたいのなら告白したらいかがでしょう?〉
要ははぐらかされてしまったわけだが、女神ははぐらかすだけで、安易な励ましや嘘をついたりはしなかった。
まだ鑑定のアナウンスは続いているようで、ポコニャがつぶやいた。
「にゃ? このあとたぶん地震……? それに、〈ヨシン〉……? 知らねえ言葉にゃ……」
叡智の女神アクシノの警告は、冒険者にとって絶対的な意味を持つ。
ポコニャが言った。
「……とにかく叡智様は、〈しばらく倉庫の中に隠れてろ〉って……」
◇
——そして、それから約4日。
ムサたちは昼夜を問わず倉庫の入口から剣を突き出し、魔法を放って侵入者を撃退していたが、それもそろそろ限界だった。
初日こそ余力のあった彼らは、外の時間が夜を迎える頃に激しい地響きを聞いた。全員が警戒しながら外を探索してみると迷宮の地面が揺れていて——その時ムサは、初めて〈ダンジョン・ボス〉を真正面から見たし、その傍らに例の「人殺し」を見た。
もとよりムサは安否を気にしていなかったが、クソガキはしぶとく生きてやがった。夥しい魔物に囲まれているのにガキは襲われず、ボスの隣で体育座りしていた。なぜか髪の毛と瞳が赤く変色していて、頭に二本の長いツノを生やしていた。
ともかく地面の揺れは倉庫の中には無関係で、剣閃の風は崩落に絶叫する魔物の声を聞きながら安全地帯に退避した。揺れが収まり、出入り口から顔だけ出したナンダカが言った。
「地面が黒い根っこだらけだ。それに、ダンジョンが広くなってねえか……!?」
とにかく、外がどうであれ彼らは倉庫にいるしかなかった。交代で夜通し入り口を見張り、交代で4枚の羽を持つ〈送風〉の魔道具にMPをつぎ込み……そんなことをしているうちに食料が尽きてしまった。
肉は魔物を倒して手に入れるのが前提で、ムサの倉庫には食料の備蓄が少なかった。
倉庫の外には魔物の肉が溢れているが、25層はモンスターハウスだ。殺して肉を回収する前に、数千はいるだろう魔物の総攻撃で最低ひとりは仲間を失うだろう。
剣閃の風はウユギワ迷宮の最下層で少しずつ飢え、残ったマトモな食料は、カオスシェイドのヨーカンくらいになっていた。
「……全員、起きたか。なら作戦がある」
ムサが寝袋を抜け出すとナンダカが言った。決意を固めた顔だった。
「俺はおまえらが寝ている間に地図を見ていた。9年前に到達できた、20層までの地図だ……21層から先を俺たちは知らないが、おまえらも自覚している通り、このままじゃ俺たちは死ぬ。もう4日目だ……食料が無いし、食えなきゃ俺とポコニャが飲み水を出せなくなる」
ラヴァナ夫妻が無言で首肯し、ムサも頷いた。
「だから、今からみんなで入り口から飛び出して北東に走ろう。20層までの地図だとその方角に下り階段があったからだ。もちろん21層から先の階段がどうなっているのかはわからない。だから、この25層の北東に24層への登り階段がある保証は無い」
闇雲に走るより少しはマシだろ? とナンダカは肩をすくめた。
「全員、逃げる時はダンジョン・ボスだけを意識しろ。まさかそんなやつが本当にいるとは思わなかったが、ポコニャがボスだと鑑定した以上、25層ではアイツが最強のはずだ」
「……にゃ。アクシノ様は〈死ぬから戦うな〉って……」
ナンダカはポコニャに頷いた。
「そうだ。全員、叡智様の言葉を忘れるな。絶対に戦ってはいけないし、〈ボス〉がどこにいるかだけを意識して全力で
リーダーたるナンダカは、一瞬ムサに視線を送った後で言った。
「魔物どもからの攻撃のうち、〈ダンジョン・ボス〉が襲ってきたときだけはパーティとして防御行動を取る。でも他の攻撃は無視して北東に走れ。仲間を助けようとするな。たぶんそんな余裕は無い」
盾役のムサにとってリーダーの指示は屈辱的だった。
せめて彼がCランクの冒険者だったら——ナンダカはムサに「みんなを守ってくれ」と頼んだだろうし、ラヴァナ夫妻も「命を捨ててくれ」と頭を下げただろう。ムサは当然同意する。そんな願いに応えられるよう、彼は今日まで冒険してきた。
しかしムサはDランクだ。Dランクの
「——わかったな? 途中、仲間の誰が殺られても助けないで放置しろ。それが誰であってもだ。反論は聞きたくないが……異論はあるか?」
誰も、なにも言わなかった。ムサは静かに肩を寄せ合うラヴァナ夫妻を羨ましいと思った。
「……なら行くぜ?」
ナンダカは指を三本立てた。彼はひとつずつゆっくりと折り——最後の指が折られると同時に、剣閃の風は倉庫から飛び出した。
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