第三章 月の眷属
ウユギワの浅層
淡く光る苔に覆われた洞窟に、魔物の甲高い唸り声が響いた。
この世界に生まれて七年、俺は「ゴブリン」という魔物を初めて目にした。
雑巾みてえなボロ布を服にした小男で、肌は茶色くゴツゴツしている。禿げ上がった頭の両サイドには長い耳が垂れ、黄ばんだ目と歯を剥いて俺を威嚇している。
〈——
視界の端に無音のスキル表示が浮かび、古びた銅剣を頭上高く構えたゴブリンは猿のような奇声を上げて俺に銅剣を振り下ろした。
……まあ、当たったりはしない。
左半身から剣を振り下ろしてきたゴブリンは俺が軽く回避してみせると悔しげにニノ太刀を繰り出してきたが——この程度かよ、ウユギワ迷宮。七年も準備して損した気分だ。
〈——三ノ太刀:チェスト——〉
〈——四ノ太刀:チェスト——〉
〈——五ノ太刀:チェスト——〉
邪鬼心示現流は三毛猫の父・ラヴァナさんが得意とする剣術だった。五歳からこっち三毛猫獣人の幼馴染から何度もこの技を使われ続けた俺には、本家本元のはずの
七ノ太刀まで避けてみせると邪鬼は疲弊して動きを鈍くした。
〈——単純暴力:棒で殴る——〉
俺は手に持った〈ひのきのぼう〉で雑にゴブリンを殴った。370万MPを費やして強化された〈ひのきのぼう〉は目視し難いほどの強烈な光を放ち、棒のはずなのに敵の胴を一刀両断した。
剣使いのゴブリンの脇には細長い杖を装備したゴブリンもいたが、俺は〈単純暴力〉を発揮してそいつも棒で斬り殺した。単なる棒で杖ごと袈裟斬りに焼き切ってやった。
叡智の女神アクシノが戦闘の結果を通知する声が聞こえる。お仕事モードのアクシノは、楚々とした声で必要なことのみを伝えて来た。
〈ゴブリン5匹を撃破しました。パーティ戦とは言い難いため、カオスシェイド()は単独で615経験値を得ました。基礎レベルが上がりました。〈鍛冶〉のレベルが5になりました。さらに、錫杖の
——おお、レベルが上がった。
二分割されたゴブリンたちは焦げた傷口から血を滲ませてグロかったが、俺も冒険者の息子として七年過ごしたお子さんだ。人型だろうが魔物に同情の気持ちなんて沸かず、それより自分の成長が嬉しかった。
ステータスを念じて確認してみるとMPが700近く増えていた。イマイチ効果に実感の無い〈知性〉も増えたし——なにより、修行アプリを経由せず格闘スキルが手に入った! ミケと違って搦め手が多い俺に物理スキルはありがたい。
ステータス画面に輝く〈邪鬼心夢想流〉の文字に鑑定をかけていると、通路の奥のほうで見物していた三毛猫とメイドが走ってきた。
オレンジと濃茶と白が混じった複雑な髪色を持つミケは、黒い耳をペタッと伏せ、憂いを帯びた緑色の瞳で俺に訴えた。
「にゃ。カッシェは子猫にその光る棒を譲渡すべき☆」
「ざけんな。『ただの棒じゃん』って馬鹿にしてただろ?」
「やった☆ それじゃお姉さんに!?」
「シュコニにもあげません」
金髪・碧眼のウェイトレスは「ええ〜!?」とあざとく叫んで身体をくねらせた。黒地に白のヒラヒラがついたメイド服の下に革の鎧を着ていなければたわわなお宝が揺れたのだろうが、背負った日本刀がカタカタと鳴るだけだった。
「……カッシェはケチ。ずっとそう。だから子猫は食事のとき仕方なく——」
「おい泥棒猫。この状況で怪盗術は勘弁してくれよ?」
ミケが桜色のマントを翻した。先だけ白い虎のようなしっぽが動きに追随する。
イケニエの老人に許可をもらってウユギワ迷宮の第1層に突入した俺たちは、ただの一度も苦戦しないまま2層目を踏破し、現在、迷宮の第3層を歩いている。
出現する敵は雑魚ばかりで、俺はもちろん誰も苦戦することはなかったし、誰一人怪我をしていない。
俺と同い年の七歳の子猫は白いシャツの首元を彩る赤いリボンをいじくり回し、真紅のスカートを履いた腰に手を伸ばした。ベルトに下げた〈シルフの懐刀〉を不満げに抜く。
ミケはゴブリンの死骸をほじくって俺のインベントリに5つの魔石を放り投げると、周囲の壁や行く手を阻む崖崩れに目をやり、実につまらなそうに唇を尖らせた。
「……にゃ。この道も行き止まり。天井が崩れて子猫を通せんぼしている」
「だねぇ。1層目はまだ原型を留めていたけど、地下3層は、いよいよ私が知ってる道じゃなくなってる。私、剣閃の風が突き止めた20層までの情報を買ってるんだけど——もはや全然違うダンジョンだね。地震のせいさ」
「にゃ……ミケは遠回りに飽きた。女給はあまりに気楽すぎるし、子猫はもはやねむたいのだが? 敵はカッシェが〈棒〉ですぐ倒すし、ミケは——ミケは早く10層より下に行きたい」
「よせよミケ。文句があるならシュコニみたいに〈地図〉を描いてくれ。ミケは冒険の女神に加護をもらってるはずでしょ? 地図のスキルは、女神ニケが与えてる能力のはずだ」
俺は子猫を黙らせてメイドさんが「紙」にメモを取るのを待った。焦る気持ちはミケと同じだが、「地図」は必要だ。
羊皮紙が普通のこの世界だが、シュコニは俺が紙を提供すると面白がり、最初のうちこそ「ペンの走りが鈍い……」などと難儀していたが、すぐに対応して〈地図〉のスキルを発動してくれた。
シュコニは第3層の地図に行き止まりを追記すると、明るく笑って来た道を振り返った。
「よし、道を戻るぞ子供たちっ! ご両親が心配なのはわかるけど、焦るな。今はまだ良いけど、第5層からはスケルトンが出るし、9層あたりでオークが出始めるぞ? ホネはともかく、ブタはEランク冒険者の私が全力で逃げる強さだっ! 特に黒いのは即死の危険がある!」
「にゃ? ミケなら逃げずにぬっ殺す。オークなんてパパが毎日狩ってくる。カッシェも生まれてすぐに倒した雑魚。子猫の敵ではない」
ミケは得意げに無い胸を張ったが、俺はシュコニの胸囲を信頼していた——いや失礼、経験に基づく彼女の指示を信頼していた。
「おう、おう、油断してるねぇ。成人前で、まだ本当の名前も無いガキンチョのくせに……まぁ駆け出しの冒険者は一度は天狗になるものさ」
シュコニは気楽に笑った。
「カッシェの噂は聞いているけど、ミケはまだオークと戦ったことが——おっと」
会話しているうちに背後の通路から魔物が飛び出してきた。
スケルトンだった。
初めて目にする骸骨の化物に俺とミケは対応しきれなかったが、シュコニは慣れた手付きで日本刀を抜き、青錆の浮いた銅剣と盾を装備した髑髏を斬り殺した。
「3層なのにもう出たか。普段は5層からなのに……にしてもツイてたね、骸骨だったら私でも勝てる」
解体スキル持ちのミケは反応に遅れたことを悔やむように骸骨のホネを砕いた。頭蓋骨の中から魔石が顕になる。シュコニはミケに言葉を続けた。
「こんなふうに突然危なくなって逃げる時……あるいはキミらのご両親と迷宮から脱出する時っ! 地図が無ければ道に迷うぞ?」
シュコニはミケに言った。
「例えば、〈鑑定〉はダンジョンの道を教えてくれない。叡智の女神でも迷宮の中は知ることができないんだ。だからキミらのご両親が8年前に20層を突破したときは大騒ぎだったと聞いたよ。たくさんの冒険者が少しずつ探検して、百年かけてようやく19層までだった地図に新しいページが追加されたわけだからね——カッシェ、スケルトンの剣と盾は使えそうかな?」
俺はすぐに〈鑑定Lv1〉を二連発した。
「合わせて312
「うーん、安いけど持っておこうか。売れることは売れるし、武器や防具は壊れることがある」
シュコニは俺より広いLvの〈倉庫〉を開き、ミケは骸骨の魔石と武器を投げ入れた。不満そうな顔のままシュコニに言い返す。
「……地震で地図が変わったのはわかった。でも、ギルドが10層までは道を探索してるはず」
「そうさ。任せ給え♪ 10層までの〈最短ルート〉ならギルドから情報を買ってあるよ。緊急事態だし情報料は激安だったが……でも、崩れた迷宮の〈詳細な地図〉が無いと帰る時にそれが命取りになるかもしれないし——うん、ごめん。もう正直に言おう。
私は崩落後の詳しい情報を集めてギルドに売りたいから、多少遠回りでも崩れた迷宮を調べさせてもらう。キミらへの報酬は、私だけが知ってる〈10層までの最短ルート〉の情報ってことだね」
「にゃ……!?」
「ミケ、やめろって」
ミケが再び怒りの表情を浮かべたが、俺は割って入った。
「
ダンジョンに突入してはや3層目、熟練冒険者のシュコニは俺たちのリーダーとしてパーティの方針を指示し、安全マージンを確実に取りながら俺たちを3層目まで誘導してくれていた。
まだ19歳ではあるが、彼女の冒険者としての腕前は単純なステータス上の値では計れない。シュコニは俺らとお喋りしている間も常に周囲に気を配り、斥候の才能に恵まれているはずのミケに先んじて奇襲を察知してみせたし、ステータス上は知性が千を超えているはずの俺は〈地図〉をまったく描けない。
「えへへー、悪いねミケ。でも、私がキミらの両親の誰かで、キミらが〈剣閃の風〉と関わりの無いどこかの子供だったら、キミらの両親も同じようにしたと思うぞ?」
シュコニはミケに舌を出し露悪的に笑って見せたが、すまなそうな顔を隠しきれていないあたりに彼女の善良さが出ていると思う。
でもボランティアじゃねえんだ。シュコニはパーティに貢献しているし、冒険者たる彼女の要求は正当だった。
俺は崩落し行き止まりになったダンジョンの壁を見ないようにした。3層でこれだ。10層以降はもっと酷いかもしれない。
「……おいミケ、落ち着けって。俺にも子猫にも寝泊まりできる〈倉庫〉スキルは無いし、何度も言うけど、文句があるなら〈地図〉くらい描いてくれ。俺の〈叡智〉の加護はダメだ……実はアクシノって地図が読めない系の馬鹿なのかもな?」
〈はあ? おいカオスもう一度言ってみろ〉
無理して軽口を叩くと脳内に粗野な声が響いたが、無視だ無視、お疲れ様でした。一般の冒険者に経験値を知らせる「お仕事モード」以外では口調が荒いのが叡智さんの残念なところだ。
「よしっ! それでは道を戻るぞー?」
俺は返事を返したがミケは無視だった。シュコニは少し申し訳なさそうに笑った。
「わかったよ、そいじゃ4層への最短ルートを行こう。ギルドの情報によると道を戻って左に下ると〈階段〉だから……それで、4層まで下ったらまた少し探索させてよ。ひょっとするとギルドが見落とした『生き埋め』を見つけて助けられるかも」
シュコニは軽く「生き埋め」という言葉を使い、ふてくされていたミケが少しだけやる気を取り戻した。
レベルが充分に高く、〈防御〉ステータスも装備品も上等の〈剣閃の風〉が生き埋めになっているとは思えないが、それでも未発見の被災者がいたら助けたいもんね。
ゴブリンやスケルトンに襲われた行き止まりを引き返した俺たちはシュコニの先導で左手に進み、緩やかな坂を下った。
先は三叉路だったが、ミケが舌打ちしたせいかシュコニは「こっち」とすぐに最短ルートを教え、右手の道を下っていく。
すると〈階段〉が見えてきた。
父さんから話を聞いていた通り、ずっと自然の洞窟のようだった迷宮の道が急に開けて、誰かが削ったような真四角の部屋の中央に大理石で作られた白い階段が現れる。大理石の手すりには苔が生えていた。
ミケは嬉しそうに階段を降ろうとした、が——……。
「ふおっ!? 待ちたまえミケっ!」
「に゛ゃ!?」
「怒らないでよ、違う。ほら、そこの壁……ちょっと変じゃない?」
「……にゃ?」
シュコニは子猫のしっぽを掴んで静止させ、階段を囲む真四角な壁の一点を見つめた。三毛猫とメイドは緊張した顔を見せたが——俺にはわけがわからない。
ミケが三角耳をピンと立てた。
「にゃ。シュコニはよくぞ見つけた……しかし三毛猫の〈罠感知〉スキルは、あれが『ただの罠』だと警告しているが? 触らなきゃ平気」
「そうだねぇ、ただの罠に見えるねぇ……私が持ってる〈罠感知〉でも同じさ。しかし刮目せよ子猫っ! 私たちには、便利な〈鑑定くん〉がいるではないかっ! それもレベル9!
鑑定くんさえパーティにいれば、私らの〈罠感知〉なんてゴミだ。知ってるかい? 罠の中には、あえて『罠だぞ☆』って見た目のくせに、〈鑑定〉すると宝箱を隠した小部屋だったり、下へショートカットできる抜け道だったりするものがある。どちらにしろ大儲けできる情報だ。ポコニャ先輩だって——」
「にゃ! ママがゆってた! これみよがしの罠を見つけた時は、叡智様が秘密を教えてくれる。叡智様でも道はわからないけど、罠なら見抜ける。こういう時はMPなんて気にしないで、思いっきり〈鑑定〉する……!」
ほほう? 出番のようですな。
〈壁に偽装した回転扉です。軽く押せば通路が開き、直後に小規模な落石を起こします。奥は通路になっていて、鑑定Lv9の範囲では、邪鬼と骸骨が20から25体程度控えていると予想できます。また、どこかに抜け道が隠されているでしょう。抜け道の先は——むぅ、予想はムズいが……いや、たぶん、おまえらすっごくツイてるぞ? ——その抜け道の先は最低でも第15層、最大で、第19層に続いているはずです!〉
俺が鑑定結果を読み上げると興奮にしっぽを太くしたミケが怪しい壁にナイフを突き立てた。扉は衝撃でクルッと回転しすぐに小石が落ちて来たが、俺たちは誰も巻き込まれない。
そして扉の先には——ゴブリン13体とスケルトン5体が待ち構えていた。子猫がスキルを発動し、俺も足元の小石を拾う。
〈——
〈——
ミケが流れるような動作で両手を振り回すとゴブリン5体が手刀に切り刻まれ、骸骨3体が俺の投げた小石に打ち砕かれた。
シュコニも黙っていない。
〈——天然理心流:
肩に背負った日本刀を抜き放った黒メイドはスケルトンのうち1体を切り伏せると、
〈——天然理心流:三段突き——〉
目にも留まらぬ三連撃で残る9匹のモンスターを切り伏せてしまった。この人、これでほんとにEランクなの?
「にゃ!? シュコニ、強い……!」
「ふはは☆ 褒めてもなにも出ないぞっ。そもそも冒険者が『強さ』なんて誇ってもね。イケニエさんも言っていたけど、私らの仕事は冒険することだ。戦うことじゃない」
ミケが感嘆し、俺は不安になった。
俺はゼロ歳の時、オークの中でも特に強いとされる黒豚を殺したはずなのだが——オークって、一瞬で10体の敵を切り伏せるEランク冒険者でも「逃げるレベル」なの?
俺がこれまで倒してきたのは村の周辺で出る「
(……そういやいつだったか、「元気なオークはもっと強い」って母さんが……)
俺が不安にかられたのと同時に——頑丈に見えたダンジョンの床が、突然崩れ落ちた。
「うええ、落とし穴!?」
熟練冒険者のシュコニはまだ落ち着いていたが、
「ッ、ニャー!?」
ミケは慌てて叫んだし、それは俺も同じだった。
床が抜け、俺と三毛猫は急な坂道を転がり落ちた。ゴツゴツとした岩肌が全身を打つ。HPを消費せずに済んだのは服屋でもらった黒ジャケットのおかげだろう。
(……鑑定!)
転がりながら自分の革ジャンに無詠唱の鑑定をかけると、
〈黒革の上下の耐久力が7減りました。また5、9、さらに3……〉
叡智の女神が脳内で続々とカウントダウンし、俺のすぐ隣では、ミケが装備している真紅のスカートやリボンタイ、桜色のマントが同様の役目を果たしていた。
坂が少しだけ緩やかになったが、回転の勢いはまだ止まらない。俺は〈ひのきのぼう〉を手放さないよう強く握り、ようやく着地した——と同時に叫んだ。
「アクシノ、鑑定! ここはどこ!?」
〈——おそらくウユギワ迷宮の第17層でしょう〉
俺の左右に子猫とウェイトレスが転がり落ちてきた。彼女らが起き上がる前に、俺は大昔に聞いた——できればあんまり聞きたくなかった唸り声を耳にした。
そこは野球場くらいの広さがある半円状の空間で、天井も5、6メートルはある。そんな空間の中央に、懐かしくなる敵がいた。〈ひのきのぼう〉が青白く輝く。
「……おう、久しぶりだな。祭りや台所じゃ串に刺さったおまえのオトモダチとよく会うが」
一軒家の二階から窓を開いてこの光景を見れば、お団子のように3つ並んだ
俺たちの前に、3体の黒いオークがいた。
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