だから今日、俺は彼女との一線を越える。

御厨カイト

だから今日、俺は彼女との一線を越える。


「綺麗な花火……」



 さっきから空を彩り、響く大きな鼓動たちを見ながら俺の横で立っている彼女はそう呟く。

 その横顔は今年が最後だと言わんばかりの表情で、その花火の光を一身に浴びていた。


「確かに、綺麗だ」と、俺がいつものように応えると「だよね!」と彼女は笑う。


 でも、俺の隣で笑う彼女の方が何億倍も綺麗だった。その笑顔を誰にも見せたくないくらいに。

 俺は小さく息を吐いてから空を見上げる。そして、一番綺麗に見えた花火を思い浮かべ、脳裏に焼き付ける。


 きっと、これが彼女と見れる最後の花火なんだろうな。






 だって、彼女はもう死んでいるのだから。






 ********






 どんなに悲しい事があっても、日は進むし季節は巡る。

 まるで「それでも前に進め」と神様に言われているような気分だ。

 ……なんて、柄にもない事を考えてしまう。


 祖父母の家の縁側に腰掛けながら『俺』こと長倉亮ながくらりょうは、夜空に浮かぶ月を眺めていた。


 今日からお盆休みという事で、俺は両親と共に田舎の祖父母の元を訪れていた。

 正直、高校生にもなるとあまり気が乗らない行事だし、そもそもそんな気分にもなれなかったのだが、祖父母が「孫の顔が見たいから2,3日でもいいから泊まりに来てくれ」と言うものなので渋々親に連れられてやってきたのである。

 この時期になると親戚もこの家に集まるので、只今リビングでは現在進行形で大宴会が執り行われていた。


 小学生の頃は無邪気に美味しいものを食べて楽しんでいたが、この歳になると周りの目や言葉が気になるようになる。

 それに加え、周りの大人たちの独特な空気に乗り切れず、居た堪れなくなった俺はトイレに行くふりをしてその宴会から逃げ、この縁側にたどり着いたのだ。



「はぁ……つまんね」



 毎年の事ながら、何故あんなどんちゃん騒ぎができるのか、俺には全く理解できない。

 俺は、一つ大きな息を吐いてから縁側に寝転がり、目を閉じる。

 人の多い場所にいたからか、少し火照った体にそよそよと吹く夜風が心地良い。

 そのまま、うとうととし始めたが流石にここで寝たら風邪をひくと思い、体を起こして伸びをする。

 肩の関節がポキッと鳴った。


 ふと辺りを見渡すように視線をずらすと、やはりお盆という事もあってまん丸な木のお盆の上にきゅうりの馬とナスの牛が置いてある。

 田舎でこのお盆の時期になると必ず目にするそれは、この時期独特なものを感じさせる。

 どうやら、ご先祖様とか故人があの世からこの現世に帰ってくるという言い伝えらしく、きゅうりの牛とナスの馬を飾ることで魂を乗せてくることが出来ると信じられているらしい。

 ……迷信、といえばそれまでだがもうこの世にいない人が帰ってくるなんて、なんとロマンがある事か。



 ……俺だってあいつが帰ってきてくれたらいいのに。

 もう会う事が出来ない大好きな人を脳内に思い浮かべ、俺は再び目を閉じる。



 そんな時だった、あの声が聞こえたのは。



「亮、そんな所で寝ると風邪ひくよ」



 ……ははっ、どうやら俺は幻聴が聞こえるようになったらしい。

 でなきゃ、この世に居ない人の声がいきなり耳元で聞こえるはずが無いのだから。



「亮、起きてる?」



 また、聞こえる。この声だ。

 耳に焼き付いて離れない声。でも、もう聞くことは無いと思っていた声。

 思い出に包まれた声は、優しく俺の脳内に響き渡る。


 神様か何だか知らないがこんな残酷な事しないでくれよ。

 どうせ目を開けたって誰もいないのに……期待しちゃうだろ。

 胸が張り裂けそうになりながら、俺は諦めるように軽く息を吐き、ゆっくりと目を開ける。



 すると、そこには――



「……えっ?」



 目を疑う光景が広がっていた。

 そこに居たのは、俺がずっと会いたいと願ってやまない人だったのだから。

 少し赤みがかかった黒いロングの髪と人懐っこい綺麗な瞳、最後に会った時と同じ白いフリルのワンピース。

 あどけなく可愛らしい、いつもの彼女の笑顔と目が合った俺の脳は混乱していた。

 なんでだ?俺は……幻聴の次は幻覚か?

 困惑と驚きの表情のまま呆然としている俺を見て、彼女は相変わらず可愛らしい笑みを見せた。



「久しぶり、亮」



 今、目の前にいる彼女は確かにそう言った。

 その笑顔も、声も、あの時と何一つ変わらない。

 でも、そんな訳が無い。彼女はもう死んでいるのだから。

 まだこの状況をうまく理解できない俺は口をパクパクとさせたまま固まっていた。



「亮、驚きすぎじゃない?」



 そんな俺を見て、彼女はクスクスと笑う。

 手を口元に当てながら喉を鳴らすように笑う彼女の仕草もあの頃のままだ。

 やっと落ち着いた俺は未だに追いつかない頭を必死に動かし、彼女に問いかける。



「さ、沙樹さき、な、何でここに……」



 少し上ずった声で言葉を紡ぐ俺。

 我ながら情けない声で、ちょっと恥ずかしくなった。

 沙樹はそんな俺を見て優しく口を開く。



「んー?ふふふっ、お盆だから帰ってきちゃった!」



 ニコニコと喜びの隠せない様な笑顔を見せる彼女。

 まるでおかえりと迎えてもらった子供のような、そんな表情だった。




 こうして、俺は半年前に死んだはずの恋人、岸谷きしたに沙樹さきとの再会を果たしたのだった。





 ********






 沙樹とは幼馴染だった。

 元々家が隣同士という事で家族ぐるみで仲が良く、自然と彼女ともよく遊ぶようになった。

 小中は同じ学校で、同じクラスにも何度もなり、登下校も一緒。

 その時から彼女の事は気になっていたが、それが『恋心』なのかは分からず、昔から活発でいつも笑顔な彼女に対する『憧れ』だと思い込んでいた。


 明確に、この『本心』に気づいたのは高校生になってから。

 結局、高校も同じ所に進学した俺たちだったが一緒に帰ったり、休み時間にお喋りをしたりと疎遠になることはなかった。


 特段何かきっかけがあった訳では無かったと思う。

 ただ、彼女の笑顔や仕草、人柄などに心が魅かれていると分かった時、俺はそれが『恋』だと認識した。

 そんな、やっと気づけた気持ちを何とか形にしようと、俺は彼女の誕生日に告白をしたのだ。

 急だと思われるかもしれないが、実は彼女に告白しようと決意したのは高1の7月で、彼女の誕生日はその半年後の1月。

 要するに俺は半年間勇気が出ず、行動に移すことが出来なかったのだ。


 緊張しすぎて自分が何を言っているのかも分からなくなるほどにドキドキしながら何とか絞り出した言葉は、今でもはっきり覚えている。



「ずっと前から好きでした……俺と付き合って下さい」



 ありがちな言葉だったが、彼女は泣きながらも笑みを浮かべ「はい!」と答えてくれた。

 後で知ったのだが、どうやら彼女も俺の事が好きだったらしく、今思えば俺が早く勇気を出していれば彼女と一緒に居る時間も長くなったはずなのに、と後悔している。



 そんなこんなで、俺たちは晴れて恋人同士になった。

 と言っても、今までもよく一緒にいたからか普段の生活は何ら変わることは無かったが。

 夜に電話をかける回数と休日に出かける回数が増えたぐらい。

 あと手を繋いだり、ハグをしたり……頑張ってキスもしてみたり。

 ……こう考えると大分変わったのかもしれないな。

 まぁ、今まで「幼馴染」だった関係性が「恋人」へと変わったのだから当たり前なのかもしれない。


 俺は、この関係がとても好きだった。

 そして、それは沙樹も一緒だったらしく、お互いにベタ惚れしていたと思う。

 初々しく、本当に幸せな日々だった。




 そんな幸せの絶頂に立ち、この状態がずっと続くと思っていた俺だったが、ある日突然彼女が死んだ。

 忘れられない、高校2年の1月22日。

 丁度昨日は彼女の誕生日&付き合って1年のお祝いをしたばかりだった。

 どうやら、その日は友達とカラオケに行っていたのだが、その帰り道で交通事故に遭ってしまったそうだ。

 他にも轢いた相手は居眠りしていただの、そのまま轢いて逃げただの色々説明されたが、最早今の俺の耳には何も入ってはこなかった。



『沙樹が死んだ』というたった一つの事実に俺の心は壊されたのだ。



 それからの事はあまり覚えていない。

 いつの間にか葬式は終わっていたし、あっという間に彼女の体は骨になり、何も喋らない石となっていた。




 瞬く間に彼女という存在を失い、絶望だけが残った俺はただ空虚な日々を過ごすようになってしまった。






 ********





 しかし、それから半年後。

 そんな彼女が突如俺の目の前に現れる。

 人生、何があるか分からない。


 情報量の多さによってぐちゃぐちゃになった感情を吐き出すように軽く溜息をつく俺だったが、当の本人はそんな俺を見て少し首を傾げた。

 取り敢えず、もっと彼女に近づこうと1,2歩足を踏み出すと沙樹は「あっ、ちょっと待って」と慌てて両手を前に出す。

 彼女の行動で頭の上に「?」が浮かぶ俺だったが、彼女は近くにあった木の棒を持って、自分の足元に一本、線を書いた。



「……沙樹?」


「うーんとね……ちょっと説明が難しいんだけど……実はこの線の向こうは『あの世』なんだ。『この世』の人が越えちゃったら『あの世』に連れて行かないといけなくなるから、絶対に亮はこっちに来ちゃダメ」


「えっ……嘘……」


「ホント、なんかそういう決まりなんだって」



 彼女は簡潔な言葉で紡ぎながら少し眉を寄せ、真剣な表情で俺を見る。

 ……つまりは今の沙樹には近づけないし触れられない、という事か。

 その証と言わんばかりに彼女は腕を伸ばしてもギリギリ触れられない距離の場所に立っている。



「もー、そんな顔しないでよ。確かにお互い触れる事は出来ないけどちゃんと君の傍にいるから、ね?」


「でも……折角、また会えたのに……」


「……私だって亮と手を繋いだり、ハグしたりしたいよ?でも、流石に君の事をあっちに連れて行きたくはないんだ。だからこそ……また会えたからこそ、いっぱいお話しよ?」



 涙を堪えるように眉を更に寄せながら、彼女はそう諭す。

 ……多分、俺も彼女と同じような表情をしているんだろうな。

 ここで駄々をこねて、また彼女を困らせるのは嫌だし。

 ……それに、俺もまた沙樹と話がしたい。

 ずっと会いたかった彼女とせっかく話せるのだ、色々聞きたい事はあるだろうしな。

 俺は深く頷き、何とか笑顔を浮かべる。



「……うん、分かった。ごめん」


「ううん、こっちこそごめんね……君を1人にしちゃって」


「……ホントだよ、俺の事置いていきやがって。結構寂しかったんだからな」



 少しおどけたように俺は言った。

 もちろん、全部本心だ。でも、彼女にそんな姿見せたくないから全部冗談みたいに言う。

 すると、沙樹はまるですべてを包み込むような優しい笑みを零しながら、こう返した。



「そこら辺も踏まえて、色々聞かせて」



 ……見抜かれてやがる。

 普段はどこか抜けている部分がある彼女だったが、こういう時は途端に勘が鋭くなるからな。

 やっぱり、彼女には敵わない。俺は苦笑を浮かべ、沙樹の目を見る。

 ……あぁ、本当に変わってないなぁ。彼女の大きな瞳が、俺を吸い込むように見つめ返した。



「分かった。いっぱい積もる話あるけど大丈夫か?」


「望むところだよ!」



 彼女が勢いよく頷き、俺は再び笑顔を浮かべる。

 それからというものの、俺たち二人はお互いが居なかった半年を埋めるように色んな話をした。

 俺の近況や進路の事、そこから派生して俺たちの今までの思い出など、今話題になっていることや他愛もないことまでそれこそ沢山の事を話したのだった。

 途中、沙樹から「新しい彼女出来た?」と聞かれた時はもしも水を口に含んでいたら吹き出していたであろうほどびっくりしたが。

 でも、嘘はつきたくないので素直にいないと答えたら「ふふっ、そっか」と満足そうにニヤニヤしていた。


 どうやら俺の中で自分たちの仲が切れていない事をちゃんと言葉にしてくれたのが嬉しかったらしい。

 ニヤニヤしながらも少し安心したように胸を撫で下ろしてからはすぐにさっきの様な可愛らしい笑顔で彼女は俺の話に相槌を打ってくれた。



「そういえば、沙樹の方はどうなの?」


「えっ?」


「いや、ずっと俺ばっかり話してるから今度は沙樹の話も聞きたいなーって」


「あー、なるほどね。うーん、そうだなー……でも、『あの世』って基本やること無くて暇なんだよね……」


「へぇー、そうなんだ」


「そうそう、だからこういうお盆とかの行事で『この世』に来れる機会があるとめっちゃ嬉しいんだよ!」



 沙樹は嬉しそうに、少しはしゃいだ声で答える。

 ……そうか、彼女にとってお盆というのは数少ない会える機会の1つなのか。

 そんな楽しそうに話す彼女を微笑ましく思いながらも、俺の頭にある思い浮かんでいた疑問を解消するために問いかけた。



「てか、お盆って毎年あるけど毎年帰ってこれるの?」



 俺の欲や願望も込められた質問を聞いた瞬間、彼女は表情を曇らせて俯く。

 そんな彼女の様子に嫌な予感がしながらも、答えを待つ俺に沙樹は顔を上げたが、その表情は悲しそうな色を滲ませていた。

 そして、逡巡するように口をモゴモゴさせながらも彼女はゆっくりと口を開いた



「それがね……多分、今回で最後だと思う、帰ってこれるの」


「……えっ?」



 最後という言葉に、俺の思考が止まる。

 呆然とする俺に向かって彼女は尚も寂しげな表情を浮かべながら続けた。



「期待させて本当にごめん!実はお盆って帰ってこれる人数が決まってて、くじで帰れる人が選ばれるんだよね。でも、そのくじって今までに死んだ人全員が対象になるから、一回当たったらもう当分当たんないらしくて……だから、亮が生きている間に帰ってこれるのはこれで最後かも……」



 彼女の声はだんだん小さくなっていく。

 それでも、俺は彼女が紡いだ言葉を聞き逃さなかった。

 あまりにも残酷な現実に脳の処理が間に合わなかった俺は思わず黙り込んでしまう。

 少しの間、俺たちの間には沈黙が流れた。


 やっと、俺の脳が情報を処理し終え、状況を理解した俺は喉の奥につっかえていた想いを吐き出す。



「……それって――」



 だが、俺の掠れた声で言った続きは見事にかき消されてしまった。




 ひゅるひゅるひゅーーーっどーーん!!!

(もう会えないって事か)




 急に途轍もない轟音と共に、空に大きな花が咲いた。

 そして、それを皮切りにして次々に色とりどりの花が空に咲き誇る。

 俺たちの意識は完全にそっちに向いてしまった。



「うわぁー、花火だ!」



 そんな空を見ながら呆然とする俺に沙樹はいつも通りの元気な声で話しかける。

 さっきまでの表情が噓のように彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、空を指さしていた。

 彼女の視線につられて俺も再び空を見る。

 赤、青、緑など様々な色の花火が大きな音と共に満開となり、パラパラパラと儚く消えていく。

 まるで今の俺らのような空を見ながら彼女は「凄いね!」と満面の笑みで言うものだから、俺は「そうだな」と返した。



 ……これが最後の花火か。



 空に向かって咲き乱れる花火とそれによって光り輝く彼女の横顔を見ながら、俺はこの光景を忘れないように目に焼き付けるのだった。






 ********






 次々と咲く火の花に俺らが見惚れているとあっという間に夜が更けていくのが分かるほど時間が空いていく。

 空に広がる花火は、段々とその数を減らしていき、それに比例するかのように俺の心にポツンと穴が開いたような感覚に陥っていた。


 そして、



「花火、終わっちゃった……」



 最後の火が消える。



 それは、この光景の終わりを俺たちに告げる合図でもあった。

 彼女の言葉が耳に届き、俺は空に向けていた視線をゆっくりと彼女に戻す。

 沙樹は少しだけ寂しそうな色を滲ませた笑みで俺を見つめ返していた。


 ……きっと、彼女も分かっているのだろう。

 この光景が終われば、もう俺とは会えなくなってしまうと。

 だから、彼女はずっと俺の傍にいてくれたし、俺は少しでもこの時間が続くように願った。

 でも、そんな時間はもう終わりだ。

 何も言えなくなった俺に向かって、沙樹は続ける。



「そろそろお別れだね……って、もー、ホント君は泣き虫なんだから」



 困ったような笑みを浮かべながらそう言う彼女。

 そんな沙樹の言葉に俺は何も返せなかった。

 だって、その通りなのだから。泣かない方が無理だよ、こんなの。

 溢れて止まらない。



「泣き止んでよー、私も泣きたくなっちゃうじゃん」


「だって……」


「……大丈夫だって、私はずっと君の傍で見守っているからさ。それなら寂しくないでしょ?」



 寂しいよ。

 だって、もう沙樹に会えないから。

 でも、それは言葉にはできなかった。

 それを言ってしまうと、きっと俺はこのまま彼女から離れられなくなるから。

 これ以上は彼女を困らせたくないし、俺自身がもっと辛くなる。

 だから、俺は泣くのを堪えるようにゆっくりと息を吐きながら頷いた。



「……そうだな」


「でしょ?だから……ほらっ、笑って。最後ぐらい君のカッコいい笑顔見てみたいな」



 首を横に少し傾け、軽く微笑みながらそう言う彼女。

 ……そうだよ、最後ぐらい笑顔で送らないと。

 俺は一度深呼吸をしてから口角を無理やり上げる。

 そして、彼女に向かって笑みを浮かべた。

 ちゃんと笑えているかは分からないが、彼女が満足そうにしているからきっと上手く笑えたのだろう。

 沙樹はそんな俺に安心したように笑みを深くし、目尻に涙を浮かべながら「ありがとう」と呟いた。



「もうこれで心残りは無いよ。ありがとね、亮」


「ううん、こっちこそありがとう。会いに来てくれて」


「そう……じゃ、そろそろ行くね。バイバイ」



 そう言って、俺の返事を待たずして彼女はゆっくりと俺に背を向ける。

 彼女が俺から離れれば、きっともう会えなくなる。

 折角会えたのに、また離れ離れになる。それが分かっているからこそ、俺はまだ彼女と話したいことがあった。

 でも、これ以上彼女に負担をかけたくないし困らせるわけにもいかないので唇を嚙んでその気持ちを抑える。


 ……沙樹がこの世界から消えてしまうまであと僅かだ。

 彼女が消えれば、またあのゴミのような日々が始まる。

 彼女がいない絶望しかない世界での生活が始まってしまう。

 あぁ、動悸が止まらない。笑顔で見送ると誓ったのに。

 これ以上求めたら、彼女を困らせてしまうだけなのに。


 そんな今まで自分の奥底にあった暗くドロドロとした思いが頭を渦巻く。



 気づくといつの間にか俺は引かれていた一線を越え、彼女の腕を掴んでいた。



「……えっ?」と彼女は困惑の一言を零している。


 ……やってしまった。

 これだけはやっちゃいけないと思っていたのに。

 でも、もう後の祭りだった。



「えっ、ちょっ、りょ、亮!?な、何してんの、この線越えちゃダメって言ったじゃん!」


「あっ、ご、ごめん……でも、やっぱり沙樹と離れたくなくて……」



 過ちに気づいた俺は掴んでいた彼女の腕を離し、俯く。



「……はぁ、最初に言ったよね。この線を越えちゃったら君を『あの世』に連れて行かないといけなくなるって。今は片足だけだからまだ大丈夫だと思うけど」


「それは勿論分かってるんだけど……。沙樹ともう会えないだと思ったら体が勝手に動いたというか……何なら、いっそのことこのまま連れて行って欲しいというか……」



 段々と声は小さくなっていく。

 これが我儘なのは分かっていた。だけど、本心でもある。

 あの地獄の日々に戻るよりも、このまま彼女と一緒に逝けたらどんなに良いだろうか。


 ……でも、彼女の様子を窺うように顔を上げた時に見た沙樹の浮かべる苦しそうな表情ははっきりと俺の目に映り、視界に焼き付く。

 彼女のその表情を目の当たりにしたことで、自分がいかに過ちを犯してしまったのか改めて思い知らされる。

 そんな罪悪感によって黙ってしまった情けない俺に対して、苦しそうな表情をしていた彼女だったが一度呆れたように息を吐くと、俺の手を取り優しく微笑んだ。



「ホント……君ってバカな人。……でも、ありがとね。そんなにも想ってくれて嬉しいよ。だけど、流石に君を連れて行くことは出来ないし、そんな事したくない」



 凛とした声で彼女はそう言う。

 その答えは、俺の考えを肯定するものではなかった。

 分かっていたこととはいえ少し落ち込んでしまう俺の事を一瞥して、彼女は続ける。



「私だって君と会えなくなるのは凄く嫌なんだよ?今だって君に抱き着いて離れたくないくらい。……でも、我慢してるの、必死に抑えてるの。これ以上君を『あの世』に引っ張らないように。……だって、君にはまだこの世で生きていてほしいから。君だけが見える景色を沢山見てほしいから。私が君と共に生きたこの素晴らしい世界を『絶望』という言葉で締めくくってほしくないから!」



 そんな彼女の言葉に俺はハッとした。

 俺がさっきしてしまった過ちは、彼女に迷惑をかけるだけでなく覚悟までも軽んじてしまったという事。

 ……なら、ここで彼女の言葉を受け入れるのが正解なのだろう。

 俺が何も言えずにいると彼女は更に続ける。



「ちゃんと天寿を全うして、こっちに来る時があったら、またいっぱい喋ろ?私、待ってるから!」



 彼女はそう力強く言いながら、先ほど取った俺の手を両手でギュッと包み込む。

 沙樹は最後にしっかりと自分の意思を伝えてくれたのだ。

 彼女の体温によって包み込まれた俺の両手からじんわりと体全体に暖かさが広がっていくような気がした、

 さっき頑張って止めたはずの涙がまた溢れ出してくる。

 だけど、今度の涙は『悲しみ』だけじゃなかった。


「分かった?」と言わんばかりに俺の顔を優しく覗き込んでくる彼女に対して俺は一回大きく頷く。



「うん、それじゃ、今度こそちゃんとお別れ。君の思い出話、楽しみにしてるね!」



 そう言うと沙樹は俺から一歩後ろに下がり、俺に向かって笑顔で大きく手を振りながら呟いた。



『バイバイ、亮』



 その言葉が耳に入った瞬間、俺の目の前から彼女は忽然と姿を消した。

 それと同時にまるで彼女の後を追うように空にまた一つ大きな花火が上がる。



(あぁ……本当に行ってしまったんだな)



 段々と小さくなっていく花火をぼんやりと見つめながら俺は心の中でただそう思った。





 ********






 目が覚めると、俺は祖父母の家の縁側で寝転がっていた。

 ……どうやら、いつの間にか寝ていたらしい。

 俺はゆっくりと体を起こし、伸びをする。

 肩の関節がポキッと鳴った。


 それにしても……夢、だったのか。

 一応スマホで確認しても、俺が宴会から逃げてこの縁側に来た時の時間からまだ15分ぐらいしか経っていない。

 でも、まぁ、幸せな夢だったな。沙樹にも会えたし、何なら話も出来たし。

 ……あぁ、会いたいな。



 いや、こんな事言ったらまた沙樹に怒られてしまいそうだから止めておこう。

 ちゃんと最期まで生きて、彼女に会いに行かなくては。

 大丈夫、彼女は俺の傍でずっと見守ってくれているのだから。何も心配は無いさ。


 軽く胸を数回叩きながら、俺は一回深呼吸をする。



 すると、いきなり『ひゅるひゅるひゅーーーっどーーん!!!』という轟音が辺りへ響き渡った。

 何事かと思い、慌てて空を見上げるとそこには、



「あっ」



 あの夢で見た時と同じような大きく、そして綺麗な花が咲いていた。

 まるで沙樹のように優しく、明るく、そして芯の強そうな真っ赤な花火。



 俺はそれを見て頬にただ一筋の涙を流しながら、呟いた。






「綺麗な花火……」










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だから今日、俺は彼女との一線を越える。 御厨カイト @mikuriya777

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