第11話 悪魔の、狼の瞳
かたかた、と窓ガラスを打つ風の音が気になって、厚手のカーテンを閉めようとベッドから出る。長い毛足の絨毯越しに、下の階からひっきりなしに人の気配が行き来するのを感じ取る。こんな夜に、と思いながらも窓辺に歩み寄れば、玄関にはランプが吊り下げられた馬車が止まっている。
すぐに廊下も騒がしくなる。押しの強い足音の主を使用人たちが懸命に止めているようだった。その人は言った。
「この邸の主を誰だと思っているの。わきまえなさいな」
足音は一つになった。扉の前で立ち尽くすリリーローズの前でドアノブが回った。四角く切り取られた廊下の明かりを引き連れてやってきたのは、すらりとしたシルエットをした女性。暖かそうな毛皮の外套に身を包み、首元には白い狐の襟巻をつけている。白く塗られた顔で浮いた赤い唇に笑みを乗せているが、眼には欠片も温かみが映らない。
「この母に告げもしないで勝手に宮殿に行き、勝手に殿下とお会いしたそうですね。挙句、向こうから婚約を考え直すと言われた、と宮殿ではもっぱらの噂です」
パン、と母に頬を張られた。強く叩かれたわけではないが、反射的にリリーローズはその頬を押さえた。
「愚かな娘ね。我が家がどれだけ苦労して、お前を王室に嫁がせようとしてきたのか、わかっていないのでしょう。お前の結婚に賭けてきた母の気持ちを踏みにじって、これまでと同じように平穏に屋敷に住めると思わないことですよ」
母の言葉はリリーローズの予想通り。唇が思わず綻ぶほどに、母は自分の言いたいことだけを言う。リリーローズの意見などはなから求めていない。
「こんな時に笑うの? なんだってこんな気味の悪い子になったのかしらね。お前は母の言いつけを破ったの。お前に仕込んだ礼儀作法、ダンス、歌、楽器や教養もすべて無駄にしたの。ああ、それと数年かけて磨き上げた身体も傷物にもしましたね」
包帯を巻かれた腕を掴まれたリリーローズは声にならない悲鳴を上げて蹲った。
「私はお前に幼いころから散々言ってきたでしょう。お前の頭からつま先まで、全部お前自身のものではありません。生まれた時から主が決まっているのです。お前は、妃になるために生まれてきた娘なのですから」
痛みで崩れ落ちた身体が無理やり起こされた。母の怒りに燃えた眼がリリーローズを覗き込む。ぎりぎり、と母の手に力がこもる。
「お母さま……おやめ、ください」
「いいえ、お前はわかっていないのですよ……! 私はこの二十年間ずっと屈辱に打ち震えつつもお前の存在があったからまだ我慢が効いていました……! しかし、お前が駄目になった時、また次を仕込まねばならない手間を考えていないでしょう。お前ほど完璧に仕上がった淑女をまた作り上げるための時間は! もう一度婚約者選びの競争を勝ち抜けますか! しかもお前の妹ということなら、他家よりも不利な立場にもなるのですよ!」
「まさか、また誰かを殿下の婚約者にするおつもりですか。レイアとユーリアを? あの子たちはまだ十歳にもなっていなかったはずでしょう!」
母の下で暮らしている双子の末の妹たち。二人ともそれぞれすでに別の婚約を結んでいるはずだった。
「そんなものはいくらでも破棄できます。よりよい縁組を求めて、女は婚姻するものなのですから、あの子たちも喜んでいましたよ」
「待ってください……! 妃なんてなれたとしても一人だけです! お母さま、あの子たちに妃の座を争わせるつもりですか。もっとも近しい姉妹同士ですよ……!」
「肉親を蹴落としてこそ、妃の資格があるというものではありませんか。お前にはなかった闘争心も身につく。お前の時ほど悠長に構えていらないのですからね」
リリーローズが問いただしても、母にはそれを疑問にも思わず、むしろ苛立ちを彼女に向けてくるような喋り方をする。
「あと、お前にも手伝わせます。他の婚約者候補から選ばれたという『実績』がありますからね。近くで殿下の気に入るような振る舞いを身に付けさせます。……子どもを教えるのは得意だそうですからね」
孤児院で子どもたちに勉強を教えていることを揶揄される。しかし、それ以外のことについて頭がついていかない。
母は部屋の外に向かって叫んだ。
「誰か! レイアとユーリアを連れてきなさい!」
「レイアとユーリアを連れてきたのですか……!」
「当たり前です。母はお前に失望したのです。お前の都合はどうでもよろしい。こちらは時間が無いのだから」
「そんな! お父さまは⁉ お父さまは何とおっしゃっていたのですか!」
「あの人は家族以上に仕事の方に関心があるの。きっとまたなにもおっしゃらないに決まっている」
くっきり描かれた眉がきつくひそめられる。そこへ二つの影が部屋に飛び込んできた。
レイアとユーリア。本邸に住むリリーローズとはほとんど会えない妹たちだ。二人とも背中に垂らしたブルネットの髪をなびかせながら、リリーローズに突進した。
「お姉さま!」
「お姉さま!」
よく似た二つの顔が、廊下からの明かりに照らされる。まだまだ無邪気な可愛い妹。
「レイア。ユーリア……」
リリーローズが二人の肩に手を回そうとしたけれど。二人はそろってその手をどけた。代わりに、
「お姉さま! これ、何?」
先ほどから開いていないリリーローズの拳にレイアが気づいた。
「あ、本当だ、見せて!」
ユーリアが拳の指をほぐす。先ほど外して持っていた指輪が手のひらにある。
すると、母の眼の色が変わった。
「リリーローズ。……それは、殿下からいただいた指輪ですね?」
「は、はい……」
母は嬉しそうな顔をする。それは純粋とは程遠く、リリーローズは身震いをして指輪をしまい込もうとした。
「レイア、ユーリア。リリーローズの手にあるのは、クラウディオ王子殿下からのものです。リリーローズはこれを奪った妹に、特別にお妃教育をつけてくれるようですよ」
「ほんとう!」
「うれしい!」
双子たちが飛びかかってきた。
懸命に守ろうとしたのに、指輪はあっという間に奪われてしまった。
最初に手にしたレイアが明かりにかざして、綺麗な白ね! とはにかむ。そして無邪気に指輪を手にはめようとする。リリーローズは見ていられなかった。
「……いやだわ、この色。気持ち悪い」
ややあって、レイアは指輪を外した。そこをすかさずユーリアが奪い取る。
「やだっ。レイアとおんなじ色だ。ねずみの色!」
「え……」
リリーローズは、見た。灰色に黒い砂がまじったような指輪の宝石。さきほどまで淡い白色になっていたとはとても思えなかった。
「ちょっと、貸しなさい!」
今度は母がユーリアの持っていたそれを受け取って嵌めた。指輪の色はまたも変化する。黒に、赤紫がまだらに交じり、さらに濃い泥の色が覆い隠し……と、まったく安定しない。
さらには、
「痛い!」
母は金切り声を上げて指輪は床に叩きつけた。指輪の嵌っていた指を押さえているが、そのすき間からぽたぽたと、赤い滴が垂れた。
リリーローズは、透明な石へと戻った指輪を拾い上げて付ける。彼女が見下ろしている間に、指輪は普段と同じように宝石の中に白い霧が充満するようにして、真っ白になった。もう一度外しても、透明には戻らなかった。再び嵌めても、指から血が出ることもない。
静かに指輪を見下ろしていると、寒さで凍った川が早春の訪れに融けたように理解する。
――これは、リリーローズのもの。誰の物でもない……リリーローズだけのものなのだ。
それがたまらなく嬉しく思うのは、なぜだろう。
「まあいいでしょう。私はだめでも、レイアとユーリアが嵌められるのですから。王室に伝わるその指輪は妃だけが嵌められると聞いています。持っていれば何かと使えますよ、レイア、ユーリア」
「はい、お母さま」
「わかりました、お母さま」
妹たちはこくりと頷く。母を何の疑問もなく信じているのだ。母の期待に応えることこそ、自分の幸せ。母の期待に応えたら、もっと愛してもらえると思っている。どんな思いよりも純粋な願望を妹たちは抱いていた。かつてのリリーローズのように。母に愛してもらうために、姉妹に決定的な亀裂が入っても構わないと思わせるなんて……普通の母親が仕向けることではないはずなのだ。
自分はまだいい。もう慣れ切っているのだから。でも妹たちを、その仲を歪めてしまうようなことは許せなかった。
「……もう、やめましょうお母さま。『道具』にだって限界があります。第二、第三の『リリーローズ』を作ったところでお母さまの願いは永遠に叶いません」
貴族たちの中では有名な話があった。母は現国王の王妃の最有力候補であったが、国王は母を選ばなかった。そこには各家同士の均衡や、他国との関係など、高度な政治的事情が働いていたのかもしれないが、とにかく母は王妃になれなかった。父とも、ほんのわずかばかり屈辱感が薄れるからという理由で結婚したという噂。半分ぐらいは真実を映しているだろう。
自分の代わりに、娘を使って、王室に自分の血を入れる。母は野望に燃え、次々と子どもたちを生んだ。王室に男子が生まれると、母は死に物狂いで王子の妃にする娘を望み、そして叶った。クラウディオ王子のためだけに生まれ、王子の隣に座る人形としての存在。それが『リリーローズ』。
「たとえわたくしたち姉妹の中で王族との婚姻を為したとして、お母さまは『妃の母』にはなれても『妃』にはなれません!」
「母をそんな底の浅い人間と思っているのですか。お前こそわかっていないのです。妃になれなかった女性がどれだけ哀れなことか。世間に指さされ、笑われるということの惨めさはお前の想像以上です。世界そのものから嘲笑される気持ちは? 毎日毎日、息をするたびに少しずつ殺されていく感覚は、お前にはわからないのでしょうね。――お前は王子殿下のために作った子。これまでずっと幸福だったから気づかなかったのです」
鬱蒼と微笑む母は、リリーローズの耳元に口を近づけた。
「これは世界に対する私の復讐ですよ。お前という『道具』が使い物にならないのなら、次を用意する。復讐がなせなかったら、この母は死ぬしかないのです」
母の長い爪がリリーローズの左手を引っかき、指輪を外せ、と声もなく強請ってくる。
「お前だっていずれ母と同じ気持ちがわかることでしょう。レイアかマリーアのどちらかが殿下の隣に並び立つ時、お前は妹を殺したいほど憎むのです」
リリーローズは、自分の部屋を歩き回るレイアとマリーアを見る。そっくりな顔を突き合わせ、にこにこと可愛らしく笑っている。
「身に覚えがあるはずです。母は今でも鮮明に記憶していますよ。昔、半狂乱となったお前は私につかみかかり、こう叫びましたね? ――『殺してやる』、と」
息が止まる。
「お姉さま?」
「なんで?」
妹たちが最後の言葉だけを聞きつけ、ぱたぱたと駆け寄って来た。リリーローズは答えられなかった。母は自分の襟巻から顔を出す狐の頭を撫でた。
「お前たちにも話しておいてもよいでしょう。姉のようにはなってはならないという教訓のためにも」
双子の娘の頭も撫でた。
「お前たちの姉が悪魔を拾ってきたのを、母が退治したのです。しかし、こともあろうに悪魔に心を奪われていたお前たちの姉は母に襲い掛かり、『殺してやる』と声を上げました。周囲の者たちが懸命に引きはがさなかったら母は本当に殺されていたかもしれませんね。あの頃までは母の言うことに背かなかった子だったのですが、あれから少し変わりました。それもまた悪魔の仕業でしょう」
母の告げた事実は自らに都合のいいところを抽出し、希釈したものだった。
リリーローズから見たものと全然違う。――まったく。
「お母さまの見た悪魔は、わたくしには傷ついた小さな命でした。狩りの仕方もわからないでまごついていた小さな仔狼でした。毎日毎日、近くの小屋へ様子を見に行き、怪我の具合を見て、餌を与えました。仔狼はわたくしに怯えていましたが、根気よく世話をしているうちに少しずつ距離が近づいて、あの子はわたくしの膝で寝付くようになりました。『モイ』と名付けたその子は怪我もすっかり治ったので、森の奥に放つことも考えていたのに――」
この先のことを言おうとすると、喉に声が押し込められて苦しくなった。
「お母さまはわたくしと仔狼のことを聞きつけて、わたくしのいぬ間に『モイ』を殺しました。殺しただけでは飽き足らず、お母さまは『モイ』を、襟巻、にして……それを着けて、わたくしの前に出てきましたね――?」
素敵な襟巻になったでしょう?
つい昨日まで血液が通い、あたたかな身体をしていた『モイ』が目の前で母の装飾品にされているのだ。黄色い眼はガラス玉に変わっていた。もう、吠えることもできない。
母の嬉しそうな声音と目の前の光景に混乱し、リリーローズは嘔吐した。胃液のついた唇を拭い、顔を上げた彼女は我を忘れて飛びかかった。『モイ』を返してほしかった。その時に『殺してやる』、と言ってはいけないことを叫んでまで。
だが『モイ』は返してもらえなかった。
正確に言えば後に返してもらえたというべきなのか。気まぐれに与えられる、『母のお下がり』という形でも。
「それがなに?」
母がつまらなさそうな顔をした。妹たちも腑に落ちないように首を傾げている。
「どれも些末なことではありませんか」
母から与えられた明確な拒絶はリリーローズを打ちのめした。
「そんなことよりも母にその指輪を渡すのです。お前が持つよりはよほど有益ですからね」
リリーローズは薬指の指輪を手で隠した。
「お母さま。まさかこれを使って、殿下を利用なさるつもりではありませんよね……」
「どうかしら。でも、お前はそういうことはひどく嫌がりましたね。わたくしの命令を素直に聞くようで、肝心なところで邪魔してくる……。今回も勝手に婚約を解消してきて、横やりを入れる。それこそ、何のためにお前を産んだのか」
「……お母さまがいつもおっしゃっている通りですよ」
彼女は声を引き絞った。
「『クラウディオ王子殿下のために生まれた』。ならば殿下のためにならないことをわたくしがしないというのも道理ではありませんか。それにこの指輪だって、殿下がわたくしに下さったもの。婚約がなくなった暁には、わたくしから殿下にお返しするのも当然のことではありませんか……」
言いながらある決意が固まっていく。母に取られていいように利用されるよりは、自分から殿下に返す。それまで指を飾る真っ白な宝石はリリーローズのものに。
「お前、母に逆らうつもりですか」
逡巡して、首を横に振りたかった。でも母の言うことにはどうしても同意できない。
「いいでしょう。お前には外出の権利を認めていましたが、それを剥奪しましょうか。この部屋の外には一歩も自由に出させず、婚姻もできない篭の鳥となって朽ち果てるのです。お前はそれに耐えられますか?」
最後通牒を出す母の言葉に、黙りこくったリリーローズの寝間着の袖を引っ張る者がいた。
「お姉さま。謝った方がいいよ?」
「お母さま、怖いから……」
母の怒気に当てられたレイアとマリーアが泣きそうな顔になっている。
「わたくしのせいであなたたちまで巻き込んでごめんね」
「それはいいの!」
「いいのよ!」
彼女は微笑んでから、二人の肩に手を置いた。
「レイアとマリーアは双子だから互いが近すぎて、喧嘩をしてしまうこともあるかもしれないし、相手が本当に嫌だと思うこともあるかもしれないわ。でもね、二人でいたら、楽しいことは二人分、悲しいことは半分になるの。生まれた時から一緒に分かち合える相手がいることはとても幸福なことだから、忘れないでいてね」
双子はきょとんとしつつも、こくりと頷いてくれた。
「リリーローズ。そうやって勝手なことを吹き込んではなりません」
母はリリーローズから双子を引きはがし、あっちに行きなさいと追い立てた。
「お姉さま……」
「せっかくお話したかったのに……」
ぽつんと独り言だけ零して二人は残った母娘を気にしつつも出ていくしかなかった。
「レイアとマリーアにわたくしが悪影響を与えると思っていらっしゃるのですね……」
「ええ。お前は得体が知れない。それとも変なところであの人の血が出てしまったのかしらね。一時期は随分とお前に野蛮なものを仕込んでいたでしょう。女のくせに狩猟を覚え込まされて戻って来た。孤児院に出入りするようになったのもあの人が連れて行ったから。他の子どもには見向きもしなかったのに、お前だけ。あの人がいなければよかった」
リリーローズにはわかっていた。母は本気で自分の夫を邪魔者だと思っている。
この家の当主夫妻には圧倒的な亀裂が走っているのだ。父と、母と。そして家のことを取り仕切る母の気の強さに、父は結婚当初から匙を投げている。基本的に家には居つかず、国内を仕事で回っていた。
父は言葉少なだった。母は父がリリーローズを構っていたというが、それは違う。父が娘に向ける視線は養豚場で豚を買い取る商人と同じだ。どれが一番よく肥え太った豚か、体つきや澄んだ眼から見定め、どう料理するのか算段している視線なのだ。父がリリーローズを連れて領内を巡り、その生活を見させたのは彼女を高く売り出すための「投資」の一環だったと感じている。あるいはほかの「商品(令嬢)」との「差別化」をはかったのだ。リリーローズはごく普通の令嬢とはずいぶんと毛並みが違った存在となっていた。そのためか、候補の中でも一人目立った彼女は王太子妃に内定した。すると、父は再び邸に帰ってこなくなった。
母は父を罵っているが、結果的には父は母の望む方向に動いている。母はそのことに気付かないが。昔から、ちっとも変わっていない。きっとこれからでもそうだ。娘が一人声を張り上げても届かないことも知っている。しかし、もう一度、と後ろ髪を引かれる思いで小さく主張してしまうのは実の母親だから。
「お母さまには心穏やかにいてほしいです。人を恨んだり、怒ったり、妬んでほしくありません。もっと幸せになれる道はあるではありませんか。お母さまには七人もの子どもがいます。この間も孫が生まれましたでしょう? 自分の血を引いた子どもたちに囲まれる人生だって誰もが羨む素敵なものになったはずです。お母さまが昔、恥をかいたとしても、すでに遠い過去のものです。今もこだわったところでわたくしたち家族がばらばらに壊れるだけです。もう嫌なのです、こんなことを続けるのは」
「なるほど、お前の言いたいことはよくわかりますよ」
母は顎を上げた。
「しかし、そんな平凡なものが母の夢であると思っていましたか? お前は母の何を見ていたのです? この母の胎から生まれ出ておいて、母のものを何一つ受け継ごうとしないのはどういうわけです?」
瞳が、鋭さを帯びる。
「お前を産んだのは、人生最大の失敗でしたね」
全身から力が抜けた。
母が何を言っているのかわからない。
「お前の母であることもやめましょう。お前はもういない。存在しなかった子なのです。あとはどこへなりとも好きにすればいい」
母がとうとう、リリーローズの存在価値を否定した。
クラウディオ王子の妃となることを期待されて生まれた『リリーローズ』。一番にリリーローズの存在を望んだのは、母だったはずではないか。なのに、その母が拒否するのか。
リリーローズの頭の中が、柘榴の中身を混ぜたようにぐちゃぐちゃになる。
「指輪を渡しなさい」
母だった人が近寄って来る。リリーローズは後ずさった。
「渡しなさい!」
――『リリーローズ』がリリーローズで無くなったら、何になる?
ふと遠くから王子様の声が聞こえてくる。――君が空っぽだということだ。
「渡せ!」
空っぽだった人間は何になる。人でなくなったら何になる。
「あ……あ……」
追い詰められ、脅えた動物は時として、反逆に転じるもの。人と動物との違いは理性の有無とも言われるが、なんといっても結局、人は動物だ。
リリーローズは声もあらんかぎりに吠えた。狼のように尾を長く伸ばした、野太い声を。
目の前の人間はびくりと肩を揺らした。震える指先で娘だった何かを指さした。
「以前と同じ、その眼。悪魔の……狼の眼!」
その時、彼女が肉薄した。母の視界に目いっぱいに広がったもの。かつてよく見知っていたはずの琥珀色の冷たい光彩。好悪を超えた何かを湛えている。それこそが、娘を人外めいた存在へと変えているように母には思われた。
狼だ。狼にのしかかられているのだ。母は甲高い叫びをあげてぱったりと倒れた。
リリーローズは二本脚で駆け出した。静かに歩かなければならないはずの廊下を、裸足で走る。髪が横になびき、邸の使用人たちの横をすり抜け、追い越していく。
「お嬢様?」
不審げな問いかけにも答えない。代わりに言葉にならない唸りをあげる。
今まで生きていた中でもこれほど身体が軽かった時はない。胸に溜まった澱が、口が開くたびに流れ出して、止まらない。それこそがリリーローズの身体を突き動かすのだ。
動く分には着るものは薄い寝間着で十分、ヒールのある靴もいらない。綺麗に髪を結い上げることもなく、過剰な宝飾品で飾り付けることもない。世界には無駄なものが多すぎる。全部そぎ落としてしまえばいい。
かつての人間はもっと単純に生きていたはずだ。お腹がすけば空腹を満たすために狩りに行き、水がほしければ川から汲めばいい。男も女も何のしがらみもなく、気持ちのままに堂々と愛を語ればいい。
エントランス前の両開きの扉もこじ開けて、星空の下へと躍り出る。何にも覆われない白い足が砂利と芝生を踏みしめた。白いレースのついた寝間着の裾をから揚げながら庭園を横切った。その外れには一頭の馬と小屋がある。かつては『モイ』を保護していた小屋だが、今は誰もおらず、彼女はここを一人で使っている。
小屋の内部は暗闇に包まれていたが、物の配置は感覚だけでわかる。ものの数秒でリリーローズは壁にかけてあった外套と狩猟用のブーツを調達して、すばやく身に着けた。中央の奥の棚の粗末な木の小物入れから中身をつかみ、一つは外套の内ポケットに入れ、もう一つは身に着けた。白くて大きな狼の牙の首飾り。革紐のついたそれを首にかける。
小屋を出ると、馬を繋いでいた木からはがし、馬具も付けないで飛び乗った。
邸の方からはいくつものランプの光がこちらへちらちらと揺れていた。それを背後に裏門に行く。裏門は古びていてすぐに壊れる。馬上から門を押せば案の定たやすい。侯爵家の敷地内を出てからは、スピードを上げる。
美しい丸い月の夜だった。月が地上に落ちてきそうなほどだ。吐く息は白く、身体はかじかみ、腕の傷はしくしく痛む。馬上姿勢を低く保ち、リリーローズは咆哮した。
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