第10話 血の雫

 次の日のことだった。孤児院の子どもたちは近くの丘に出かけた。マツィとエルーがいなくなり、子どもたちには特に外出禁止が申し渡されていたから、子どもたちの喜びようはほかのどんな催しの時よりも騒がしいものだった。

 一行はぞろぞろと門の外へと出た。ものものしい護衛たちが十数人集まって、行く道を遮らないように動き始める。


「昨日より増えている」


 アネットは護衛が押しとどめている見物人の群れを一瞥し、ぶすくれた顔でごちる。


「見世物じゃないのに。村のやつじゃないやつらまでいる」

「別に襲われるわけではないもの。もしも何かあっても守ってあげる」


 リリーローズはアネットと繋いだ手を見せるようにぷらぷらと揺らすと、アネットは首を振る。


「いらない。あたしは一人でも生きてきたから。必要なのは、お前の方だ」

「どうして」

「あたしはここに来て一人きりでなくなった。でもお前はずっと一人で寂しそうにしている。昔、何度かそういう仲間を見た。一緒に生きるためにつるむ同じ子どもの仲間の中にそういうやつがいると、たいていそいつは生き残れない。大人たちに擦りつぶされて、消えてなくなっちまうんだ。あの世界で生き残れるのは極悪人ばっかりなんだよ」

「でも、アネットは良い子よ。前よりずっといい子になった」

「……うん」


 アネットは何を思ったか、リリーローズが片手に持っていた昼食入りの網籠をひったくって宣言した。


「これはあたしが持つ!」

「ありがとう」


 彼女は二重の意味でお礼を言った。網籠を持ってくれたことと、リリーローズ自身の心配をしてくれたこと。初対面の時から随分と関係が変わったものだと思う。


「リリーローズ」


 浸る間もなく、心臓が勢いよく収縮した。子どもたちに囲まれて先頭近くを歩いていたはずの婚約者が自分の名前を呼んでいた。その両側にはそれぞれ男の子と女の子を連れている。


「どうかされましたか」


 横に来た彼は視線で近くの繁みを示しながら、


「あそこでキツネを見かけたと、この子たちが騒ぐのだ。あなたに一番早くに伝えたかったのだそうだ」

 二人の子どもは王子の両側で胸を張る。きっと久しぶりに見つけたからリリーローズにも見せてやりたかったのだろう。そう考えると微笑ましく、彼女はお礼と一緒に空いた手で二人の頭を交互に撫でた。ついで遠慮がちに婚約者にも「感謝します」と告げる。


 しかし、繁みからキツネが飛び出してはこなかった。人の気配を感じ、早々に離れたのだろう。

 もっと後列からふいにドゥン、と銃声が響く。婚約者は眉をひそめると、背後に控える護衛官の一人に目くばせした。護衛官がその場を離れる。

 戻って来た。その耳元に声を吹き込んでいる。


「わかった」


 婚約者は頷いた。


「ちょうど今日、近辺で狩りをしているようだ。さきほどは鳥を撃ち損ねたらしい」


 一行は胸を撫でおろした。彼はいまだ思案に暮れる顔になって、両手を塞いでいた二人にそれぞれ何事かを囁きかけて、肩に手を置く。それを合図に勢いよく走りだす。身軽になると、彼はアネットに手を差し出した。


「それはリリーローズのものだな。私が持とう」

「いやだ」


 少女の即答に、王子は苦笑い。


「警戒せずとも君のリリーローズを奪ったりしない」


 アネットの眼が三日月よりも細くなる。


「あんたみたいなやつ、知ってる。とんでもない大ウソつき。何を言ったって信用なんてしない」

「手厳しいね」


 彼は片手を上げて、前に出てこようとする護衛を押しとどめた。リリーローズはもうそれだけではらはらしてしまう。


「アネット、あのね。この方にはあまり」


 失礼をしてはいけないのよ、と言いかけたところで、少女はちらりと横のリリーローズを見上げ、その手を振りほどいた。網籠は道の上に慎重に置き、前方へずんずんと歩いていってしまう。


「殿下、あの子にはあとからそれとなく言っておきますからどうかお許しください」

「許すも何も、今の私にとやかく言うつもりはない。有事になれば私よりも護衛たちの方が黙っているまい。彼らは王室に忠実だよ」


 護衛たちの振る舞いはどれもこれもいかめしく見える。たとえ婚約者のリリーローズであっても王子の近くで猟銃を手にしたその瞬間には取り押さえられるだろう。

 王子は網籠を拾い上げた。


「それに大ウソつきというのも、的を射ているかもしれない。私は言葉を信用していないのだ。起こした行動と結果こそが真実を物語ると信じている」

「『大ウソつきが自分を大ウソつきだと主張する』というのは……それこそ矛盾しているように思います」

 正直者が自分を正直者と告げるのは矛盾しない。だが『大ウソつきが自分を大ウソつきだ』というのが真だとすれば、この大ウソつきはそもそも大ウソつきでない、正直者だということになってしまう。

「そう、まったくあなたの指摘する通りだ。だからあなたも私の言うことを信用してはいけないということになる」


 冗談とも本気ともつかない声音で同意される。


「言葉こそが嘘つきの道具ということだ。人を惑わす幻覚剤と同じで、真実を見る目を曇らせる」

「しかし誰であれ、他人を信じなければ生きて行くのは難しいのではないですか?」

「胸に一つ、誠実を貫く対象があれば他は要らない。私であればこの国家と国民だ。あなたなら何に決める?」


 リリーローズはやや躊躇いながら答えた。


「わたくしの手に届くすべての人の笑顔、です」


 婚約者は瞬間、眼を見開いた。しかし、苦々しげな顔で、


「……あなたを見ていると、時々苛立たしくなる」


 それきり何も言わなくなった。

 黙々と足を進めるうちに、目的地についた。緑の丘を駆け上る子どもたち。リリーローズたち大人は協力して巨大な敷物を広げ、用意してきた昼食を持ち寄った。

 小さな昼食会の最中にも、何発かの銃声が聞こえてきた。大人たちは子どもたちに丘の下にある森には入らないように口を酸っぱくして言い聞かせていた。


 夕方も近くなってきて、一行は帰ることになった。婚約者も、孤児院についたら夜通し馬車を走らせて、早朝には王都に到着する予定だという。

 孤児院にはまたも野次馬が集まっていた。中に、先ほど猟をしていたと思われる髭面の猟師もいて、背中に猟銃を背負っていた。

 孤児院の門前で、王子と子どもたちは別れを惜しんだ。彼は一人一人の手を両手で包み、優しい言葉をかけてやっている。リリーローズもその光景をぼんやりと眺めていると、目が合った。彼の口が「おいで」と動く。ふらりと近寄ると、握手を求められた。


「我々はここでは『友人同士』なのだからおかしなことではない」

「はい……」


 リリーローズは王子の手を握る。硬くて厚い感触に、身体の奥がぞわぞわとした。


「それともジェレミア・カーストンとの別れを思い出したか」

「え?」


 頭から冷水を浴びせられた気分で、二度相手を見つめる。――この人は、一体どこまで知っているのだろう。


「なるほど。――気持ちは、わかった」


 彼もリリーローズの眼を観察するように覗き込む。途端、握られていたリリーローズの手が痛みを訴える。

 彼も表情の変化に気づき、手を離す。


「失礼」


 ふっ、と彼は頬を緩めた。気が抜けたような、清々しさを感じさせるような表情を見るのは、初めてのことだった。同時に、彼女はとんでもない誤りを犯しているのではないかと疑った。

 次にいうべき言葉を考えあぐねる。


 王子の肩越しに、アネットが見えた。彼女は人々の輪から少し離れたところで銀色のものを手に持ち、じっと見つめている。思いつめたような顔で、それを構えなおし、まっすぐ、まっすぐ、突進しはじめた。

 アネットが持つのは銀のナイフ。昼食でパンを切るのに使われていたはずだが、一つだけ無くなってしまっていたことが頭を過ぎる。

 アネットがほんの近くまで近づいてくる。護衛たちは小柄な少女が王子に目がけて走っているとは思っていないのだろうか。ほんの小さな偶然の結果か、王子とアネットとの間を遮る者は何もない。

 咄嗟に彼女は力任せに王子を押しのけた。ついで、鋭い痛みが思考を奪う。リリーローズは声にならない叫びをあげてナイフに刺された腕をだらりと下げて、その場に座り込む。

 人々の悲鳴が上がり、視界の端でアネットが護衛たちにのしかかられ、拘束を受ける。


「リリーローズ」


 気が付けば婚約者がリリーローズの目の前で片膝をついていた。眉根をぎゅっと寄せる。


「この国の王子として礼を言う。……ありがとう」

「いえ……」


 一度は透明になったはずの景色が、ぽつぽつと白い瞬間に変わっていく。今までも幾度か味わったことのある感覚。貧血だ。


 アネットを覆っていた人の塊から、くぐもった声が一つ上がった。


「貴族の血がなんだ! 皆同じ色だ! 何が違うって言うんだ……! ふ、ぐうっ!」


 少女のうめき声が聞こえてくる。あまりのことに、リリーローズの理解は追いつかなかった。アネットが、婚約者を刺そうとした。なぜ。


「あなたはそこにいるといい」


 クラウディオ王子が地面に落ちたナイフを手に立ち上がるのが見えた。すたすたとアネットの眼前まで来ると、彼はそのナイフの刃を包むように右手を握る。


「確かに血は赤い。たとえ、この国の王子に流れる血でも赤い。この通りだ」


 掌から流れ落ちる血の雫を見せつけながら彼は淡々と語りかけた。


「しかしそのこと自体は罪の免罪符になるわけではない。仮に、どんな事情があったとしても、だ。子どもでも払わなければならない代償もある……」

「アネット……!」


 リリーローズは這ってでもアネットのところに行こうとした。

 ちゃんと話を聞かなければならない。傍にいなければ。


「リ、リリー……ローズ」


 少女の手だけが人の隙間から見えた。引き絞られた悲痛な声がすぐに周囲のざわめきの中に消えていく。リリーローズが懸命に伸ばした手ではとうてい二人の距離には足りなかった。

 あれからアネットには一度も会えていない。

 

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