自殺志願者とエゴイスト
吉宮享
自殺志願者とエゴイスト
屋上の外縁で一人寂しく立つ女子生徒――
目下には校舎の壁が長く続き、その向こうに地面が広がっている。
あと数秒先には、そこに光里の死体ができあがるのだ。
――高校生になって、光里には友達がいなかった。
クラスの女子グループのリーダーが、光里のことを気に入らなかったというのが始まりだった。光里は女子グループから無視され、仲間外れにされるようになった。元々同じ中学出身の友達がいなかったこともあり、光里は今、学校で孤立している。
そんな孤独もあって、光里は自殺を図るに至った。
光里が体の重心を空に預け、その身を宙に投げようとした、そのときだった。
「何をしている?」
背後から声をかけられた。放課後に、立ち入り禁止の屋上へわざわざやって来る人間が自分以外にいるなんて、予想外だった。
光里が振り向くと、そこには、彼女と同じクラスの男子生徒が立っていた。
名前は
光里が透と会話をするのは、初めてだった。
「君は確か同じクラスの孤立女子。えーっと……篠宮……光里、だったか?」
光里の顔を見て透は言う。間違ってはいないがすごく失礼だ。孤立女子ってなんだよ。
「こんなところで何をしているのだ?」
二度目の問い。光里は面倒に思いながらも答えた。
「見てわからない? 今から飛び降りようとしてるの」
「なるほど」
透は自分から訊いたくせに、さも興味のなさそうな返答をしてくる。とても自殺する人間への対応とは思えない。透にとっては、光里が死のうと関係ないのだろう。
光里が気にせず飛び降りようとすると、
「あ、ちょっと待ってくれ」
また声をかけられる。
「なに?」
光里は振り返りながら、不機嫌に言葉を投げつける。透はさっきよりも光里との距離をつめていた。
「僕にとっては、君が死ぬことなどどうでもいいのだが――」
「ならほっといてよ」
「いや、それがそうもいかない。死んでもらうのは勝手だが、よく考えたら『ここ』で死なれると死活問題だ」
「は? 死に場所なんてどこでもいいでしょ。それこそ私の勝手よ」
「どこでもいいならなおさらだ。『ここ』はやめてくれ。僕が困る」
「『困る』って……」
自分本位な物言いが、頭にきた。
「じゃあ聞かせてよ。何が困るのよ」
「簡単だ。君にこの屋上から飛び降りられては、屋上のセキュリティがより強固になる可能性がある。今はまだドアに鍵がかかっているだけで、窓から自由に出入りできる。しかし屋上から飛び降り自殺などという事件が起こればそうもいくまい。もし窓まで封鎖されたら、僕がここに出入りするのが難しくなってしまうではないか。ここは僕の憩いの場だ。そのような事態になっては困る」
光里は、透が昼休みに教室にいるところを見たことがなかった。憩いの場と言うあたり、いつもここで昼食を摂っているのだろう。
「……つまり、結局は私が死のうとどうでもいいわけね」
「ああ。生きるも死ぬも君の自由だ。ただ、死ぬなら他人の迷惑を考えてくれ」
「他人の迷惑って言われても、さすがにあんたみたいなケースは想定外よ」
はぁ、とため息をつきながら、光里は屋上の外縁から足を下ろす。
「お、自殺をやめてくれるのか。助かる」
やはり上からの物言いがむかつく。
「別にあんたのためにやめたわけじゃないわよ。横やりを入れられて今日は自殺する気が失せただけ。またあとで自殺するわ」
「うむ、しかしここでの飛び降りだけはやめてくれ。自殺するにしても僕に迷惑をかけるな。まあ、可能なら僕以外の人間にも迷惑にならない死に方を推奨する。たとえば自室で首吊りというのが良いのではないか? ……いや、それもダメか。あれは死後の筋肉の弛緩と重力の作用で、糞尿を垂れ流しにする惨めな死に方だ。現場の掃除が大変になるだろう。清潔を保ったまま死ぬには、寝た状態であることが望ましい。となるとやはり毒物で静かに死ぬのが最良だな。気体のものでは周囲に広がってしまうから、液体か固体のものを直接摂取するべきか。しかし気化しやすいものもあるから気をつけなければ……」
こいつはなぜ、人の死に方を自問自答しているのだろう。
もう関わるのも面倒くさい。光里は屋上を後にするために、透の横を通り過ぎる。
「おい、待て。まだ行くな」
またもや呼び止められる。どうでもいいわりにはすごく食いついてくるなこいつ。
光里は透に聞こえるように大きく舌打ちをしながら振り返った。
「今度はなに?」
「一つだけ訊きたい。自殺の動機はなんだ?」
「私の生死には興味ないくせに、動機は気になるの?」
「そうだ。自殺をする人間が何を考えているのか、興味がある。参考までに教えてくれ。さもなくば君が自殺をしようとしていることを教師に伝える」
さりげなく脅迫までしてきやがったよこのやろう。
光里にとっては、別に教師に知られたところで自殺の意志は変わらないが、説教や追及が面倒くさい。
それに、こいつに素直に従うのは癪だと思い、光里は言い返した。
「もしそんなこと伝えたら、私が屋上から飛び降りようとしたことも、あんたが屋上にいたことも、教師にばらしてやるわ。そしたら多分この屋上もさらに規制されて、もう気楽に屋上へ出られなくなるわよ」
「それなら仕方ない。合鍵でも作るか。規制されると屋上に出るのは難しくなるとは言ったが、困難なだけだ。少し手間取るが、不可能ではない」
一蹴された。合鍵なんて本当に作れるのかと思ったが、おそらく何を反論しても、理屈と屁理屈の限りを尽くして論破させられるのがオチだろう。そんな言い争いの、なんと不毛なことか。
「……わかったわよ。喋ればいいんでしょ」
「ああ、感謝する」
透は直立したまま、無表情でお礼の言葉を口にする。まったく感謝しているようには見えない。しかしいちいちツッコんでいると日が暮れてしまうので、光里は語りだした。
光里の自殺の動機には、同級生からの仕打ちが直接的に関わっているわけではない。
クラスメイトに無視された程度で気を病むほど、光里は弱くない。しかしそんな嫌がらせを受けるうちに、果たして自分は誰かに必要とされているのかと考えるようになった。
学校では友達もおらず、陰湿ないじめを受けるだけ。両親も、仕事が忙しいこともあるだろうが、光里をあまり気にかけていないように思う。
――私を必要としている人なんて、この世に一人もいないんじゃないか?
――だとすると、私はなんで生きているのだろう。
周りの人間にとっては、自分が生きていても死んでいても変わらないのかもしれない。
それならいっそのこと死んだ方が何も悩まずに済むし、楽になるのではないか?
――死んだように生きるならいっそ、死んでしまえばいい。
――それが自殺の理由だった。
「……なんだその動機は?」
動機を聞き終えた透は、不可解そうな顔をしながら光里を凝視する。
「今の話のどこに、自殺を決起させる要素があるのだ? 自殺をしたいと言うからどんな理由かと思ったが拍子抜けだ。失望したよ」
透はとてもつまらなそうな顔をしながら、『もう用はない』と言わんばかりに、光里を素通りして屋上から去ろうとする。その態度に、光里の堪忍袋の緒が切れた。
「うるさい! 私がどうして死にたいかなんて誰にも関係ないでしょ! あんたなんかに何が分かるっていうのよ!」
「その通りだ。君の動機は僕には関係ない。興味で訊いただけだからな。そもそもその動機は、僕には到底理解できないものだ」
歩を進める足を止めて、しかしこちらを見ないまま、透は光里に言い返す。
「君が本当にそんな理由で死にたいなら勝手にしてくれ。僕には君の生死を決める権利などないからね。とはいえ、ここまで付きあってくれた礼だ。一つだけアドバイスをやろう」
透は光里の方へ向き直り、見下すように語り始めた。
「自殺の動機を聞いた限りだと、君は『死にたい』のではない。生きる意味がわからないだけなのだろう?」
「それは……」
反論ができない。光里は確かに、『死にたい』から自殺するのではない。
「それに、その動機には君の意思がない。誰にも必要とされていないから死にたいというのは、おかしい。君が自殺することに僕の意思が関係ないように、君が生きることにも他人の意思は関係ないはずだ」
いつも一人で過ごしている透が言うと、その台詞には妙な説得力があった。
光里は、誰にも必要とされていないから、生きる意味がわからなくなっていた。
そんな彼女を、この生意気な男は今、否定している。
「別に、誰かに必要とされることが生きる意味ではない。だから、誰にどう思われてるかなど考えないで答えろ」
透は、光里の瞳を視線でとらえて、問う。
「君は本当に死にたいのか?」
その眼は、光里の真意を探る。中途半端な回答は許されない。そんな圧力を感じた。
「私は――」
光里は、正直な気持ちを透に告げた。
「――わからない」
正直な答えは、それでも中途半端なものだった。
光里の回答を聞いた透は、表情を変えずにもう一度質問した。
「それなら、生きたいのか?」
「……それもわからない」
答えは、変わらなかった。
――自分が死にたいのか生きたいのか。
そんな単純な二択さえ選べない。
曖昧な答えしか出せない自分が情けなくて、光里は歯噛みをしながらうつむいた。
「それならば、とりあえず生きてみるという選択肢もあるはずだろう」
「え?」
透の言葉に、光里は顔を上げる。
「生きたいか死にたいかわからないのなら、今はとりあえず生きてみるのもまあ悪くないのではないか?」
「……そんな理由で生きててもいいのかな」
「当たり前だ」
当然のように、透はうなずく。
「そもそも、生きる意味がわからないのは何も君に限ったことではないだろう。『なんで生きてるのか』などと訊かれて明確な回答を出せる人間など、たいしていないのではないか?」
「じゃあさ、あんたは生きる意味って考えたことあるの?」
「ない」
きっぱりと言い放つ。
「極端な話をすれば、地球だっていつかは滅びる。僕たちが何をしようと、すべてが無駄になる日はやってくるのだ。なのにいちいち『自分が生きていることに意味があるのか』などと考えていても仕方がない」
「それならあんたはなんで生きてるのよ」
自分で生きることに意味がないと言い張っている人間が、一体なんで生きているのか。光里はその答えが聞きたかった。
「うーむ、強いて言うなら、ゲームが楽しいから生きているようなものか」
「は?」
予想外の回答に、光里は思わず間の抜けた声を出してしまう。そんな彼女を気にも留めず、透は言葉を続けた。
「僕はゲームをしていると楽しいと感じる。もちろんそれは、掘り下げていけば決して意味のある行動ではない。僕が楽しいからゲームをするだけだ。結局のところ、生きている理由などそんなものだろう」
光里をおいてけぼりにして、透はさらに続ける。
「『楽しいから生きている』。それで結構だ。人間なんて、自分のしたいことをするために生きてるに過ぎないからな。『世のため人のために』とか言ってる人間でさえも、『自分が誰かを助けた』という満足感を得たいだけで、なにも本気で他人の肩代わりをしたいわけではない。まあ、その思考も僕には理解不能だが。……っと」
透は何かを思い出したように、長々しい持論の展開を区切る。
「『一つだけアドバイスをやろう』と言ったが、語りすぎてしまったな。まあ、今言ったこともあくまで僕の見解だから気にしなくてもいい。君の考え方にもまた、僕の思考は関係ないからね」
鼻につく言い方をしてから、透は回れ右をして窓の方へ歩いていく。
「もう一度言う。僕にとっては、ここ以外で自殺してくれればそれで結構だ。君の生死は僕には関係ない」
じゃああんたの家の目の前で死んでやろうか?
喉まで出かかった言葉を光里は飲み込んだ。向こうが帰る気なら、もうあえて関わるような真似はしたくない。
「しかしそれでも、もし君が先刻のようなつまらない理由で死ぬなら――」
透は最後にこちらを一瞥して、一言。
「君もまた、その程度のつまらない人間だったということだ」
その言葉を残し、透は窓の向こうへ消えていった。
屋上には光里だけがとり残される。
最初のように屋上で一人になった光里は――
「…………うるっせえええええええ!」
叫んだ。
「なんだあいつ! いちいちむかつく言い方ばっかりして! おまけに人のことを『つまらない人間』って、何様だよ! あんな奴にバカにされて黙ってられるか!」
自分の口から出てるとは思えない暴言が飛び出してくる。それほどに、不満がたまっていた。
「もうこうなったら意地でも死んでたまるか! 生きてやるよ! あいつを見返してやるよ! 見てろよちくしょおおおおおおお!!!」
あっけなく、自殺は撤回された。あれだけ自分に『関係ない』と言っていた透に止められるなど、光里にとってはこの上なく不本意なのだが。
「つーか、あんだけ高説並べといて自分は結局『ゲームが楽しいから生きてる』ってだけかよ!」
と言ったところで、光里は気づく。
――ゲーム好き。――妙にカッコつけたような上からの態度。――鼻につく偉そうな物言い。
「……もしかしてあいつ、ただの中二病?」
気づいたら夜の帳が下りている。真実は闇の中だった。
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