堕ちる女
このまま、やられっぱなしというわけにはいかなかった。
解雇された数日後に、奈央はネットで調べた弁護士事務所を訪れた。
応接セットが置かれた小ぎれいな部屋で、奈央は弁護士に状況を説明した。
一通り説明を終えると、奈央は弁護士の回答を待った。弁護士の男は三十代半ばくらいで、それなりに優秀そうに見えた。しかし、彼の表情から、明らかに歓迎されていないのがわかった。
「えーと、その日記の画像を、大学や会社に送りつけたのは、そのハラグチカナコさんという人物のご家族で間違いないのですか?」
「はい。間違いないと思います」
「証拠でもあるんですか?」
弁護士の言葉に、奈央は口ごもってしまった。
「いえ、確実な証拠は……。ただ、そんな個人の日記を、家族以外の人が手にすることもないし……」
「まあ、確かにそうですが、相手に否定されたら終わりでしょうね。ちなみに現物はお持ちですか?」
「いえ……。気味が悪くてすぐに捨てちゃって……。実家に届いたものも、母が処分してしまったようで……」
「そうですか」
今になってみて、日記のコピーを後先考えずに処分してしまったことが悔やまれた。証拠として残しておけば、状況も少しは変わったかもしれなかった。
「まあ、現物があったとしても、私ども弁護士ではどうにも……。警察ではないですから指紋の採取などはできませんしね」
「そうなんですか……」
「もし、相手のご家族で間違いないと思われるのでしたら、直接連絡してみたらどうですか。それしか方法はないかと思いますよ」
「はあ……」
奈央は、弁護士の他人事のような発言にげんなりした。家族を自殺にまで追い込んだのだ。簡単に話せる話ではないというのに——。
「それにですよ。証拠もなしに訴えでもしたら、逆にあなたのほうが、名誉毀損で訴えられかねませんよ」
弁護士は事務的な感じでそう言った。
事務所のホームページには、『親身になってあなたの悩みを解決します』と謳っていたというのに、まったく親身になってはくれなかった。おそらく、金にならない案件は、こんな感じで適当にあしらっていくのだろう。
弁護士に助けを求めたのは間違いだったと奈央は思った。おそらく警察に相談しても、結果は変わらないだろうと思った。いじめの加害者という立場では、第三者の協力を仰ぐのはむずかしいだろう。今では家族ですら、敵に回ったようなものなのだから——。
奈央は肩を落として弁護士事務所を立ち去った。訪れる前は期待に胸を弾ませていたというのに、今では落胆しか残っていなかった。
* * *
「ふーん。本田さん、大学中退してんだ」
キャバクラ店の店長は履歴書を見ながら言った。
店長の名は田中といった。名前を覚えるのが苦手な奈央も、ポピュラーな名前だけにすぐに覚えることができた。先日クビを切られた会社にも同姓の男性社員がいたのを思い出す。
「こういう仕事は初めて?」
「はい」
「そっか。でも明るそうだから、問題ないっしょ」
面接は雑談といった感じでなごやかに続いた。企業の面接とは雰囲気が全然違った。高圧的な態度はいっさいなく、むしろ少し気を遣ってくれているような様子もあった。こういう業界は女子のほうが店長よりも立場が強いと聞くが、それはこの場だけの雰囲気で判断するならその通りかもしれないと思った。
「いつから働ける?」
「今日からでも」
「ほんと? それは助かるなぁ。最近人手不足でさ。ドレスとか持ってる? なければ、辞めた子が残してったのがあるから、今日はそれ着てよ」
すぐに働けることになって助かった。
その後、店長から簡単なレクチャーを受けたあと、ロッカーのある狭い控え室で開店まで待機することになった。
奈央はスマホを見ながら今後のことを考えた。前回の件があったから、しばらくは普通の会社で働く気はなかった。あのオフィスで味わった屈辱的な思いは二度と味わいたくなかった。当然、ここにも例の日記が送られてくる可能性はあった。だが仮に送られてきても、すぐに別の店に移ればいいと思った。腰掛けで勤めるような場所であれば、万が一クビになったとしてもダメージは小さくて済むだろう。
「これ、よかったら」
店長の田中がペットボトルの紅茶を渡してくれた。
最近辛いことばかりだったから、彼の優しさが胸に沁みた。
* * *
キャバクラで働きはじめて一か月が経った。
仕事は初日から順応できた。元来が社交的だったから、客との対話にあまりストレスはなかった。おおむね、どんな客ともそれなりに弾んだ会話をすることができた。それに見た目のよさから、たいていの客にチヤホヤされて気分はよかった。
仕事はコツをつかめば簡単だった。承認欲求を求めてやって来る男たちをほめ殺しにすれば、彼らは酔いに任せてどんどん金を落としていってくれた。
働きはじめた当初は、ドリンクを要求して断られて凹んだこともあったが、今ではドリンクをキャストに与えない客の判別もつくようになってきて、そういう客には、自分からドリンクを要求しないようになった。それだけでも、ずいぶんと精神的に楽になった。
とはいえ、客商売であるから、いろんな客がやって来る。ときには隣に座っただけで生気が奪われていくようなやばい客もいた。そんなときは、一時間が数時間にも感じられて地獄だった。しかし、そういうハズレ客に当たるのは稀だった。周囲のキャストと比べても、客の当たりは悪くなかった。ところが、そんな客にばかり当たるキャストも中にはいて、そういうのを見ると、運の良し悪しというものが存在するのがわかった。
当然、キャバクラでの仕事は収入面が魅力だった。フルに働けば、大手企業の課長や部長クラスの月収を得ることができた。それを思えば、何者でもない男たちをおだてて気分良くさせるだけで金が入るのだから、偽りの笑顔でいくらでもおだててやろうという気になってしまう。それに、店に来る客のほとんどが自分よりも収入が少ないのだと思うと、軽い優越感に浸ることができた。
また、多くのキャストがいやがる営業LINEも奈央は苦ではなかった。自分なりの定型文を作るようになってからは、ますます楽になった。
こんな感じで奈央は、比較的キャバクラでの仕事を楽しむことができていた。とはいえ、みんながみんな、自分と同じではなかった。すぐに辞めていく者も少なくなかった。客に少しでも触られるのが我慢できずに数日で辞めていった女もいたが、奈央は肩を組まれたり、太ももを触られたり、手を握られたりしても気にならなかった。当然、胸などは触らせなかったが、前の職場でクビになった理由が理由なだけに、自暴自棄になっていたところも少なからずあった。そのため、少しくらい体を触られた程度では喚き散らす気にもならなかったのだ。
今さら純情ぶったところで、過去の汚点は消えないのだから——。
キャバクラでの仕事に慣れると、自然と人間観察をするようになっていった。
当然十人十色だから、店にはさまざまな客がやって来る。とはいえ、しばらく店で働いていると、客の傾向というものも見えてきた。ざっくりと、大きく二つのグループに分類できた。
一つは女好きで、とにかく賑やかに飲むのが大好きというグループ。もう一つのグループは、誰からも相手にされないような寂れたサラリーマンたちだ。
社交的で賑やかに飲むのが好きな客は、接客していても楽しかった。彼らは会話を弾ませることも上手で、その間は仕事を忘れて楽しく飲むことができた。そこそこ気前もいいから、キャストに好きなものを飲ませてくれる。それはドリンクバックとして、キャストに給与として還元される。
その対局にいるのが、世間ではないがしろにされている影のある男たちだった。彼らは会社からも家庭からも大切にされないから、その心の隙間を埋めるためにキャバクラを利用する。こういう連中は、誰にも相手にされないから仕方なく店に来ているのであって、金を払ってまで異性と話したいというわけではない。そのためキャストへのドリンクを渋るなど当然金払いも悪い。それでも奈央は、そういう客に当たっても愛想よく振る舞った。機嫌を悪くされては、自分も居心地の悪い思いをするだけだからだ。ケチくさい客に対しても笑顔で接してやると、男たちは奈央の笑顔に気をよくして帰っていく。哀れな男たちは、笑顔を金で買っているという事実を理解できずに帰途に着くのだ。
また、一見して印象の悪い連中は、会話の技術が著しく低い傾向にあった。彼らは得てして自分の自慢話をえんえんと語り続けるのだが、それを会話だと思い込んでいることに奈央は初め衝撃を受けた。四十代、五十代になってもまだ、会話というものが言葉のラリーだということがわかっていないのだ。自分のことをいつまでも喋り続けて相手に質問することがない。そんな客は、話を聞いているフリをして適当に聞き流しておけばいいから楽ではあったが、彼らがプライベートでもあの調子でいるのだとしたら、相当周りから煙たがられていることは想像に難くなかった。
また、会話が苦手な口ベタな人間は、カラオケに逃げる傾向があった。若いキャストを楽しませる話術を持ち合わせていないから、会話が続かなくなると安易にカラオケに逃げるのだ。そして彼らは下手なカラオケを熱唱するわけだが、くたびれたサラリーマンの歌唱は見苦しさしかなかった。楽曲のレパートリーも、尾崎豊、福山雅治、サザンオールスターズと、たかが知れていた。個性などあったものではない。
奈央は店で人間観察を続けながら、意外と世の中には無個性がはびこっていることを日々痛感するのだった。
* * *
「奈央ちゃん、ちょっといい?」
入店して三か月が過ぎたころのことだった。出勤するなり、店長の田中に声をかけられた。
田中の表情を見て、何だかいやな予感がした。
「あの、何ですか?」
「うん、ちょっとこっち来てもらえる」
奈央は狭い事務所に連れていかれて、安っぽい応接セットに座るよう促された。
店長の田中は、もともとはホストクラブでホストをしていたという。この店のオーナーと知り合いだったことから、二年ほど前から店長を任されるようになったとのこと。やり手という感じではなかったが、面倒見がいいため、キャストからの信頼は厚かった。奈央も彼に対して悪い感情を持ったことはなかった。
とはいえ、奈央は田中の表情から、何の話だか察しはついた。おそらくまた、例のものがここに届いたのだ——。絶望感しかなかった。
田中は困り果てた表情で切り出した。
「実はさ、こんなものが届いてさ」
テーブルの上に置かれたのは、例の日記のコピーだった。
奈央はそれを見て暴れ出したくなった。こんなことが、あと何回続くのか。
日記のコピーを手に取らずにいたことから、内容を知っていると判断したのだろう。田中は言いにくそうに口を開いた。
「もしかして、前の会社辞めたのも、これが理由?」
奈央は唇を噛み締めて、小さくうなずいて見せた。
「これって、本当のことなの?」
奈央は何も言えなかった。認めれば、最低の人間だと思われるだろう。最低なことをしたかもしれないが、自分のことを最低な人間だと認める気はなかった。あのときはまだ子どもだったのだから——。
しばらくして、田中が重々しく口を開いた。
「こういう世界だからさ、キャストの過去をいちいちとやかく言うつもりはないんだけど……。ただ、これはちょっと度を超えてるっていうかさ……。これさ、昨日奈央ちゃんが休みのときに届いたんだけど、オーナーに相談したら、他の女の子たちの意見を聞いてみろってことになってさ、昨日いた子にこれ見せたんだけど、そしたらみんな、君とはいっしょに働きたくないって……。おれは奈央ちゃんがいい子だって知ってるから、こんなの届いても全然気にならないんだけど、うちは女の子あっての店だからさ、彼女たちが気分良く働けないようだと困るんだよね……」
他の女たちなんてどうでもいいじゃないかと思った。客商売なのだから、客の機嫌だけをとっていればそれで問題ないではないか。
田中は渋り切った顔で続けた。
「……だから悪いんだけど、今日で辞めてもらってもいいかな」
とたんに涙があふれ出た。そして涙が出たことで、感情を制御できなくなった。
「もうそんな過去のことで、わたしのことを苦しめないでください!」
大声を上げたことで、田中がビクッと身を引いた。
奈央は構うことなく不満をぶちまけていく。
「何でわたしばかり、こんな思いをしなきゃいけないんですか。わたしが過去に何かしたからって、そんなの他の人たちには関係ないことじゃないですか。それを寄ってたかってわたしのことをみんなで悪者にして、ひどすぎですよ。わたしが何をしたっていうんですか。ちょっと男友だちをけしかけただけで、わたし自身は何もしてないんですよ。悪いのは実際に手を出した男の子たちのほうであって、わたしに罪はないじゃないですか。それなのに、わたしは大学も辞めなきゃならなくなったし、両親からも見捨てられちゃったし、楽しく働いていた会社もクビにされちゃったしで、ひどいことだらけですよ。それなのにまだ、わたしのことを追い込んでくるんですか? ひどいじゃないですか!」
奈央はここまで一気にまくし立てたせいで息切れしてしまう。
田中はかなり狼狽している様子だ。目には同情の色も見える。
ふと気づくと、周囲が異常に静かになっていることがわかった。今は開店の準備で、男性スタッフたちが忙しなく動いているはずなのに、ホールのほうからは何も音が聞こえてこない。おそらく今の怒声を聞いて、彼らは近くで聞き耳を立ててるに違いなかった。
「奈央ちゃんの気持ちもわからなくはないけど、こっちとしても、いろいろと悪い噂が立つと困るんだよね。年配の客なんかは、こういうことにやたらうるさかったりするしさ。ただでさえ、やつらは難癖つけてクレームを入れてくるような連中だから、奈央ちゃんを置いとくと、そういうやつらの格好の餌食にされちゃうんだよ。そこんとこわかってくれないかな?」
「わかんないですよ!」奈央はさらに大きな声を上げた。「さっきと言ってること違うじゃないですか! さっきは他の女の子たちがわたしと働きたくないから辞めてくれって言っといて、今度はクレームが入るかもだから辞めてほしいって、話が矛盾してるじゃないですか。それにわたし、ここ来てから一日も休まず働いてきたんですよ。他の子が休んだときも代わりに出勤して文句も言わずにお店に協力してきたっていうのに、ひどいですよ。もう今日から来なくていいって……」
田中は困り果てた顔になっていた。
だが、何と言われようと納得できなかった。過去のことが原因で、ここまで苦境に立たされる道理はなかった。単なる子ども時代の悪ふざけで、ここまで非難されるのは理不尽にもほどがあった。
奈央は険しい視線を田中に向けていたが、彼はその視線にタジタジになっている。この場をどうにかして丸く収めたいという思いが顔にありありと表れていた。
「奈央ちゃん、わかったよ。とりあえずオーナーともう一度相談してみるからさ、今日のところはいったん家に帰ってくれないかな。頼むよ」
田中はそう言うが、考えを変える気はないのは明らかだ。彼はどうにか奈央を今すぐ店から去らせようと必死なのだ。
奈央は彼の意図が伝わり再び声を荒げてしまう。
「ここクビになったら、わたし、どこで働けばいいんですか!」
声を上げた次の瞬間、奈央の脳裏に、“原口華菜子”の顔が浮かんだ。
そして彼女は、薄気味悪い笑みを浮かべてこう言った。
——風俗があるじゃない。
天啓のような彼女の声を聞き、奈央は膝から崩れ落ちてしまった。
「ああ——!」
奈央は頭を抱えた。
田中が慌てた様子で寄り添うように身を屈めてきた。
「だいじょうぶ!?」
奈央はリノリウムの床を見つめたまま立ち上がれなくなってしまった。
続いて脳裏に、ピンクの蛍光ペンで塗られた、日記の一文が蘇ってきた。
“いつか絶対に、あの女にも私と同じ目にあわせてやる。”
「ああ、そうか……。そういうことなのか……」
結局は巡りめぐって、自分に返ってくるのだ。おそらくは、自分への復讐もそこで終わる。そう直感が告げていた。
涙が流れて止まらなくなった。ところが、なぜか顔は笑ってしまう。人生に絶望しているにも関わらず、自分のこれまでの行動に心底呆れてしまい、どうしても笑わずにはいられなかったのだ。
泣いてるのか笑ってるのかわからないような顔でいると、田中が怯えた顔をしているのがわかった。もうこの場に至っては、他人からどう見られようと気にもならなかった——。
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