地獄は続く……

 奈央は登校するなり、視線の先に原口華菜子を見つけた。

 彼女の顔色が優れない様子を見て、奈央は気分をよくする。食事も喉を通らないほどの心労なのか、彼女は以前よりも明らかに痩せたのがわかる。頬の肉が削げ、頬骨が目立っている。あれでは周囲にきつい印象を与えるだろう。

 翔太から聞いた話では、原口華菜子は風俗を辞めていないという。店長が退職を拒否したらしい。それもそうだろう。彼女は見た目は悪くないから人気もあるはず。ああいう店が稼ぎ頭をそう簡単に手放すはずはないだろうと思った。

 当初の目的では、翔太たちにレイプさせて完結だった。風俗店に誘ったのは翔太の案だった。そして要求した金も手に入れてこれで終わりにするはずだったのだが、原口華菜子が弱っていく姿を見て、奈央の悪意はますますエスカレートしていった。

 次の作戦はすぐに思いついた。

 奈央は生け垣に身を寄せて目立たない場所に立つと、スマホを手にして電話をかけた。

「あ、片岡先輩? おはようございます。奈央です。元気でしたか? あの、いきなりなんですけど、原口華菜子って覚えてますか? 黒髮ロングの眼鏡かけた子なんですけど……。あ、覚えてる? よかったぁ。あのですね、実はとっておきの情報があるんですよ。実はですね——」



       *  *  *



 華菜子はランジェリー姿で、ローションとおしぼりが入った小さなカゴを持って個室の部屋に向かった。

 ノックしてからドアを開け、ピンク色の室内に入って無理に笑みを作って客にお辞儀をした。

「あ、本物だ」

 顔を上げた瞬間に飛び込んできた言葉に耳を疑った。

 華菜子は客の顔をまじまじと見た。何となく見覚えがあるような気がした。

「やや。まさか、本物の原口華菜子に会えるなんてな」

 二十歳前後に見える客は、感激したように目を輝かせている。

 華菜子は、自分を知る人間がこの店に来たという事実に震えが止まらなくなった。当然、知っている人間が店に訪れるのではないかという恐怖は常にあったが、目の前にいる客の発言から、どうやら誰かに聞いて華菜子がこの店にいることを知っていたらしいことがわかる。

「またあの女だ……」

 伝えた人物は、直感で本田奈央だと確信した。

 白シャツをだらしなく着崩した長髪の男が言った。

「おれのこと覚えてない? お前の二個上の、片岡だよ」

 名前を聞いて思い出した。確か、落ちこぼれ集団の一人で、学校で何かと問題を起こしていた男だ。高台の神社でレイプしてきた男子生徒たちといい、本田奈央にはこの手の知人が大勢いるようだった。

「おい、何黙って突っ立ってんだよ。早く横に座れよ」

 片岡が、ピンクのベッドを叩いて隣に座るよう促してくる。

 だが、華菜子は、ドアの前に立ったまま動くことができなかった。

「おい、何してんだよ。おれは客だぞ。金払った分はしっかりサービスしてもらうかんな」

 それでも何も言わずにうつむいていると、片岡はおもむろに立ち上がって襲いかかるように向かってきた。

 華菜子は手首をつかまれ、無理やりベッドの上に放り投げられた。手首をつかまれたときの感触で、片岡が相当な力の持ち主だということがわかった。

 片岡は興奮気味に上着を脱いで上半身裸になると、突進してくるような勢いで身を寄せてきた。

「や、やめて!」

「うるせえな。こっちは金払ってんだ。最低限のことはしてもらうからな」


 行為が終わり、片岡は煙草を吸いながら言った。

「いやがる女を無理やりってのも楽しいもんだな」

 華菜子は半ば放心しながら彼の言葉を聞いた。

 膣内が痛みで疼いていた。本番行為が禁止の店だったが、片岡はそんなことお構いなしに挿入してきた。濡れてもいない状態で、彼は強引に自分のものをねじ込もうとしてきた。ところがうまくいかず、華菜子が用意してきたローションを使った。人工的な潤滑油の助けを借りると、彼は躊躇なく挿入してきて激しく腰を動かしてきた。慣れない体はすぐに痛み出し、華菜子は痛みに叫び出しそうになったが、余計な面倒は起こしたくないという思いから、店の人間に助けを呼ぶことはできなかった。店長にこれ以上目をつけられたくなかった。

 片岡は一度華菜子の中で射精したあと、十分ほど休憩してから再度挿入してきた。もうそのときには抵抗の意思を見せることはなかった。すべてに絶望していたから、もうどうでもよくなっていたのだ。

 二度目の射精も膣内で終えると、片岡は下着だけを穿いてベッドに腰かけて煙草を吸い始めた。

「そろそろ時間だな」

 スマホで時間を確認した片岡はそう言うと、床に散らばっていた服を拾い始めた。

 彼はズボンを履きながら華菜子に向かって言った。

「おれ、お前のこと気に入ってたんだ。まさかこんな形でお前とヤレるなんて、神様って本当にいるのかもな。きっと、日頃の行いがいいんだろうな、おれって」

 じゃ、また来るな、と言って片岡は満足そうに部屋から出ていった。

 華菜子は、力なく彼が出ていったドアを見つめた。

 おそらく、あの男は再びやって来るだろう。それも、それほど間を開けずに——。あの男は、自分よりも弱い人間には徹底的に強くなれるタイプの人種に違いなかった。その証拠に、華菜子を服従させているときの満足しきった顔は醜悪そのもので、弱者をいたぶる快楽に完全に酔いしれていた。強い者には弱く、弱い者には強いという、人間として最低な部類に入る男に違いなかった。

 とはいえ、そんな悪意ある男をここに呼び込んだ人物こそが、諸悪の根源だといえた。もちろん証拠などないが、片岡の来訪には、本田奈央の意図があったと華菜子は確信していた。今湧き上がってきた彼女への憎悪に比べれば、片岡への怒りは取るに足らぬように思えてもくる。

「あの女、いったいどこまでやれば気が済むんだ……」


 その夜。華菜子はいつものように日記に向かった。

 仕事での出来事を詳細に書き綴る。そのあと本田奈央への恨みをつらつらと書き続け、最後にもう一度、今日のことを振り返り、中学の先輩だった片岡の暴挙に、ふつふつと怒りがぶり返してきた。

「あの男も、殺してやりたい……」

 この夜、華菜子の復讐リストに、片岡の名もしっかりと刻まれたのだった。



       *  *  *



「原口、ちょっといいか?」

 帰りのホームルームを終えたところで、華菜子は担任教師に声をかけられた。

 これまでこんな風に声をかけられたことがなかったので、とてもいやな予感がした。

「はい、何ですか……」

 今日も仕事のために早く帰る必要があったのだが、さすがに教師の呼びかけを無視するわけにもいかなかった。とはいえ、遅刻をすると、店長から罵声を浴びせられるため、気が気ではなかった。店長の小島は、退職を伝えた日以来、華菜子に対してかなりトゲトゲしくなっていた。

「ちょっと、職員室のほうに場所を移そうか」

 それでは遅刻確定だと思い、華菜子は慌てて言った。

「先生、すいません。あの、今日は家の用事があって、あんまり時間が……」

「ああ、そうか。なら、ここで手短に済ますとするか」

 教師の言葉に、華菜子はほっと胸をなで下ろす。

 教室内に生徒がほとんどいなくなったところで教師は言った。

「原口、どうしたんだ? 最近、成績が落ち込んでるようだが」

「すみません……」

 謝りながらも、その程度のことだったのかと安心している自分もいた。

「何か悩みがあるなら、先生がいつでも相談に乗るぞ」

「いえ、別に悩みとかじゃ……。成績が落ちてるのは、たぶん体調が悪いせいだと……」

「ああ、そういうことか」

 体調が悪いという一言で、教師は納得したようだ。人は原因を見つけるとそこに飛びつきたがるというが、まさにその通りの反応だった。

「だが、学年で上位だったお前が、こんなに成績を落とすなんてな。まあ早く体調を治してくれよな。このままじゃ、志望大学に受からないかもだからな」

「はい、わかりました」

 当たり障りのないことしか言えぬ無能な教師に、華菜子は軽い憤りを覚えた。



       *  *  *



 奈央は遠目から原口華菜子を観察する。焦りながら自転車に乗って、腰を浮かしながら漕いでスピードを出して校門を抜けていった。今日も出勤日なのかもしれない。

 今日の原口華菜子は、数日前よりも顔色が悪いように見えた。日に日にやつれていく彼女の姿を見て、奈央は愉悦に浸っていた。

 とはいえ、これで終わりにするつもりはなかった。次はダメ押しの一撃を与えるつもりでいた。その一撃で完全に彼女を潰すのだ。

「原口華菜子、覚悟しときなさい。あなたの人生を終わらせてあげるから」


 雑居ビルが連なる周囲は完全に暗くなっていた。

 奈央は、翔太から聞いた原口華菜子が勤める風俗店が入っているビルが見える位置に陣取っていた。

 だいぶ冷え込んでいた。上着を持ってこなかったことが悔やまれた。退勤時間がわかればそれまで近くのファーストフード店で時間を潰せただろうが、退勤時間がわからないだけに、ビルの近くで待機するしかなかった。しかし、これからやろうとしていることの効果を考えると、少しくらい待たされようが問題なかった。奈央はビルの入り口にスマホを向けたまま、自販機で購入したペットボトルのミルクティーを飲みながら気長に待った。

 決定的瞬間を捉えないといけないから、ビルに向けたスマホは動画モードにしてあった。充電が切れたときのことも考えてモバイルバッテリーも用意しておいた。

 ようやく原口華菜子がビルから出てきた。一時間四十分待ったことになる。長時間待ったかいあって、原口華菜子がビルから出てくる様子をしっかりとスマホに収めることができた。あとは、決定的瞬間の場面でスクショを取ればいいだけだ。

「明日がどうなるか楽しみだな」



       *  *  *



「綾、おはよ」

 教室で声をかけると、綾は露骨に顔をしかめて離れていった。

 華菜子は、自分の顔から血の気が一気に引いていくのを感じた。

「そんな……」

 親友だと思っていた友人からあからさまに拒絶されて、胸にナイフが突き刺さったかのような痛みが襲った。人目がなかったならば、このまま床に膝をついてしまいそうだった。

 気づくと、教室の空気がおかしいことに気づく。華菜子は、みなの視線が自分に向かっているのを感じた。だが、目を向けると、彼らはすぐに視線を逸らしていった。

「何なの……」

 教室の中で一人だけ丸裸にされたかのような羞恥心が襲いくる。両手で自分の体を抱くようにして席に着く。いまだ、教室の雰囲気はおかしなままだった。周囲からヒソヒソ話が聞こえてくるが、自分のことを話していることが雰囲気から察せられた。

 自分の顔が青ざめていることを自覚しながら、華菜子は震える体を必死に両腕で抱いて押さえつける。

 朝礼が始まると、さらに驚いたことに、担任教師までもがバツの悪そうな顔をしていた。華菜子は逃げ出したくなった。教室の雰囲気といい、教師の態度といい、何かよからぬことが起こったのだ。

 朝礼が終わり、授業が始まり、小休憩に入り、二限目の授業が始まった。その間、華菜子は一度も席を立つことはなかった。とにかく亀のように身動きせずに息を潜めていた。自分が動くことで、これ以上注目を浴びたくなかったからだ。

 そしてそれは、二限目の授業中に起こった。いきなり、教室のドアが開かれ、担任教師が姿を見せたのだった。担任教師は教鞭を取っていた数学教師を呼び寄せると、軽く耳打ちした。数学教師がうなずくと、担任教師は教室内に一歩踏み込むと、華菜子に視線を向けてきた。

「原口、ちょっといいか」

 担任教師の言葉に、教室内に無言のざわつきが起こった。みな、わけ知り顔で顔を見合わせている。担任教師は深刻そうな顔をしていた。その顔には、微塵みじんも笑みは見られなかった。

 華菜子は晒しものになっているのを感じながら教師のもとに向かった。周りの生徒たちに過度に注目されているのがわかり、まるで犯罪者にでもなったかのような気がした。

「ちょっと来てくれ」

 担任教師は目を合わすことなくそう言って廊下に出ていった。

 華菜子は足取り重く教師のあとに続いた。


 連れてこられた場所は校長室だった。校長室など一度も入ったことはなかった。事態の深刻さがうかがえた。

 校長室に入るなり、華菜子は息を呑んだ。両親がいたからだ。二人は緊張気味に身をこわばらせていた。

 両親の前には、初老に近い校長が二つ並んだ一人掛けのソファの一つに座っていた。

「まあ、掛けたまえ」

 校長が座ったまま、両親が座るソファに掛けるよう促してきた。

 ところが、硬直した体は思うように動いてくれなかった。

「原口、さあ」

 担任教師に軽く背中を押されて、ようやく足を前に踏み出すことができた。それでも、太もも全体が麻酔薬でも打たれたかのように感覚がおぼつかなくて、歩くのに苦労させられた。一歩一歩足を踏みしめながら、わずか数メートルの距離を時間をかけて進んだ。

 ようやく両親が座るソファに腰掛けることができたが、彼らと目を合わせることはできなかった。両親のほうも、目を合わせてこようとはしなかった。こんなとき、どんなことがあっても子どもを守るのが親の務めではないかと思ったが、両親は完全に学校側に味方しているように見えた。

 担任教師が校長の隣の一人掛けソファに腰を下ろした。足を大きく広げて座り、両手を組んで前かがみになる。これ以上ないくらい深刻そうな顔をしていた。

 わずかばかりの沈黙にも耐えられないといったように、華菜子の父親が校長に聞いた。

「あの、うちの娘は、どんなことをやらかしたんでしょうか……」

 華菜子は父親の情けない声を聞いて絶望的な気持ちになった。その声には、娘を守ろうという気持ちはいささかも感じられなかった。家族ですら味方でないという状況に、生きた心地がしなかった。

 校長は身を前に乗り出すと、テーブルの上に置かれていた白いA4用紙を裏返して言った。

「今朝学校に、こんなものがメールで届いたんですよ」

 父親がその用紙を受け取り、母親がそれを覗き込む。華菜子も恐る恐るそれを確認した。

 確認したとたん、心臓が止まった。それは、風俗店が入ったビルから華菜子が出てくるところを捉えた写真だった。

 両親はまだ事情が飲み込めていないようで、父親が校長に尋ねる。

「こ、これは……」

 校長が言いにくそうに説明した。

「えー、どうやら、その華菜子さんが出てきたビルはですね、ちょっと高校生が立ち入ってはいけないようないかがわしい店が入っておりましてね。えー、何て言いますか、俗に言う風俗店が入っているビルなんですよ」

「華菜子! あんた、何てことを!」

 母親が悲鳴に近い声を上げた。

 ずっと下を向いていた華菜子だったが、母親の甲高い声に反応して顔を上げてしまう。両親はともに、顔をまっ赤にしていた。恥ずかしさと怒りがない交ぜになったような顔だ。この瞬間、本来はどんなときでも守ってくれるのが家族だと思っていたが、両親がこの場で完全に学校側に回ったのを見て、家族の絆という幻想が一瞬で消え失せていったのを肌で感じた。今、血で繋がった両親とはいえ、彼らは完全に他人と同等となった。

 校長が言いにくそうに口を開く。

「ご存知のように、当校では生徒のアルバイトは禁止しておりますし、さらにアルバイト先が……あれですから、とりあえず本日から停学扱いにさせていただいて、処分のほうは後日決定させていただこうと思うのですが……。お父さん、お母さん、それでよろしいですか」

「ええ、ええ、それで構いません。本当にご迷惑をおかけして申しわけございませんでした。娘にはあとできつく言って聞かせますので、本当に、本当に申しわけございませんでした」

 父親は何度も頭を下げて校長に謝罪した。

「まあ、華菜子さんにも何らかの事情があったのでしょうから、ご自宅に帰ってから、みなさんでゆっくり話し合われたほうがよろしいでしょうね」

 華菜子はぞっとした。両親とこのまま自宅に帰ることなど考えられなかった。もう完全に他人だという思いが強かった。

 それに当然、もう高校には通えない。仮に退学処分を免れたとしても、どんな顔して学校に行けばいいのかわからなかった。全校生徒が事情を知る学校に通うなど、想像しただけでも地獄だった。

 風俗で働いていたことの、もっともらしい言いわけも思いつかない。レイプされたとも言えない。それを伝えることは、自分が劣等な人間だと伝えるようなものだからだ——。

 出口の見えない今の絶望的な状況に、体が正直に反応した。吐き気と耳鳴りが同時に起こり、顔から血の気が引いていくのがわかった。さすがの両親も、今まで見せていた敵意を引っ込めて、心配そうな顔つきをしているのがわかった。とつぜん目が回り出して、自分が傾いたのか、校長室が傾いたのかわからなかったが、校長室の景色があいまいになっていく。吐き気がさらに強くなったところで、華菜子は意識を失った。


 気づくと、保健室のベッドの上にいた。

 顔を横に向けると、白衣を着た保健室の先生の姿があった。二十代半ばのきれいな女性で、男子生徒から人気が高かった。体育教師と交際しているという噂もあった。

「目が覚めたのね。気分はどう?」

 優しく声をかけてくるが、その目を見れば、華菜子が何をしたのか知っているのは間違いなかった。

「貧血で倒れただけだから大丈夫だとは思うけど、念のため、ご両親に迎えにきてもらいましょうか」

 自分の娘よりも、学校側の味方についた両親の顔など二度と見たくなかった。


 ——もうわたしは、どこにも居場所なんてない。


 華菜子はベッドから飛び降りると、保健室の先生を振り切るようにして上履きも履かずに駆け出した。こんな残酷な世界に、もう一分一秒でもいたくなかった——。

 幸い授業中だったため、全力で走る華菜子を咎める者はなかった。階段を全力で駆け上がる。両親も憎かったが、当然それ以上にあの女への憎しみのほうが大きかった。諸悪の根源は、あの女なのだから——。心臓が悲鳴を上げて息が切れるのも構わず、華菜子は階段を休まず駆け上がっていく。

 校舎の屋上に出た。迷いはなかった。死んであの女を呪ってやる。

「本田奈央、わたしはお前を、絶対に許さない——!」

 華菜子は憎悪を爆発させながら躊躇なく柵を飛び越えた。



       *  *  *



「まさか、本当に自殺するなんて……」

 奈央は呆然としながら、自宅に向かって歩いていた。

 自殺するかもしれないと思っていたし、それを望んでもいた。しかし、いざ死なれてしまうと、後味の悪さだけが残った。いたぶっている間は、とても面白かったというのに……。

 学校は騒然となった。パトカーと救急車がやって来た。ろくな説明のないまま臨時休校となり、全生徒が帰宅することとなった。だが、学校側のアナウンスがなくても、原口華菜子が屋上から飛び降りたというニュースは全生徒に広まっていた。そして自殺した原因は、風俗店で働いていたことがバレたからだということになっていた。


「奈央」

 帰宅するなり、母親から声が掛かった。

 母親の表情から話の内容はすぐに察しがついた。

「今、あなたの高校から連絡が入ったの……。原口さんって子、もしかして、あなたの中学生の同級生だった子?」

「そうだよ……」

「ああ、やっぱり……」

 母親はさらに深刻そうな顔をして見せた。

 奈央は二階に上がろうとするが、母親はすぐには解放してくれなかった。

「その子、悩みでもあったのかしらね……。あなた、心当たりとかないの?」

「あるわけないじゃん。あの子とは大して仲良くなかったし」

「そう……。でも、あなたも何か悩みごとがあったら、一人で抱え込まないですぐに相談するのよ」

「うん、わかった……」

 母親はまだ話し足りないようだったが、奈央は構わず階上の自分の部屋に向かっていった。


 ベッドに横たわると、奈央は得体の知れない恐怖に襲われた。

 原口華菜子が、自分のことを恨みながら死んでいったことは間違いないと思った。奈央は怨念とか呪いとか信じていなかったが、そんなものが存在しないと決めつけているわけではなかった。ゆえに、彼女が成仏しきれずに、自分のところに化けて出てきたらと思うと、震えが止まらなくなってしまった。

「あの馬鹿、何で自殺なんかしたのよ——!」

 奈央は枕に顔を埋めて苦悩した。



       *  *  *



 奈央は原口華菜子の通夜に友人たちといっしょに参加した。行きたくはなかったが、自分だけ辞退するのは不自然かと思い渋々ながら出席したのだ。

 その際、原口華菜子の家族の憔悴した顔が印象に残った。また奈央は最後まで、彼女の遺影に目を向けることができなかった。


 数日後のこと。教室で友人の紗希子が声をかけてきた。

「奈央、聞いた?」

「何を?」

 紗希子は言いにくそうに答えた。

「あのね、ここだけの話にしてね」

「うん」

「原口華菜子って、妊娠してたらしいよ」

「え!?」

「真紀のお父さんって、警察に勤めてるじゃない。そっからの情報なんだけどね……」

 奈央は何も言えなかった。

 レイプで妊娠してさらに苦しめばいいと思っていたが、原口華菜子の自殺後にその話を聞かされると、後味の悪さだけが残った。

 できることなら、これまでのことをなかったことにしたかった——。


 気分が沈んでいるのは奈央だけではなかった。原口華菜子と一時交際していた雅達也などは、目に見えて憔悴していた。

 雅への思いがまだ残っていた奈央は、原口華菜子への罪悪感がありながらも、雅の弱っている心につけ込むことにした。

「雅君」

 学校帰りに声をかけた。

 雅は、心ここにあらずといった顔をしていた。

「よかったら、途中までいっしょに帰ってもいい?」

「うん、いいよ……」

 雅はどこか上の空という感じで答えた。

 奈央は雅と並んで歩き出すが、会話はなかった。質問をしても、淡白な答えが返ってくるだけで、会話のラリーは続かなかった。

 それから二週間ほど、奈央は雅と帰りをともにした。少しずつ会話も成立するようになり、雅が心を開いてきていることがわかると、奈央は再び雅に思いを伝えた。今度はあっさりと了承をもらえた。

 原口華菜子のことを思うと後味は悪かったが、奈央は結果的に目的を達っしたのだった。



       *  *  *



「華菜子、ごめんなさい。本当にごめんなさい……。心の底から反省してる。だからもう許して……」

 奈央は墓石に向かって声に出して謝罪の言葉を繰り返した。

 とはいえ、本気で謝罪していたわけではなかった。

 原口華菜子が自死したときは、罪悪感を覚えて苦しくなったのは事実だったが、もとはといえば、彼女が雅と付き合い始めたことが原因であって、彼女がそんなことをしなければ、奈央だって男友だちを使って彼女に乱暴など働かなかったのだ。そう。すべての元凶は、原口華菜子にあるのだ——。

 しかし、死人が出て、身の危険を感じていたから、形だけでも謝罪しなければいけないと思って原口華菜子の墓に足を運んだ。

 太陽の位置がだいぶ低くなってきていて、オレンジ色の西日が見えてきた。

 こんな場所に長居はしたくなかった。それに先ほどから、誰かに見られているような気がしないでもなかった。

 岩国が言うには、謝罪が受け入れられたら心霊現象は止まるという。形だけの謝罪ではあったが、やるだけのことはやった。あとは様子を見るだけだ。

「こんだけ謝ったんだから、もう余計なことしないでよね……」

 もしこれでも現象が収まらなければ、岩国啓一郎に墓まで来てもらってお祓いをしてもらおうと思った。呪いの対象がわかっていれば祓えると彼は言っていた。頼むときには、奈央に恋人を奪われた原口華菜子の逆恨みだろうと説明すればいい。本当のことを話せば、岩国は奈央のことを軽蔑して助けてくれないおそれもあるからだ。

 気づくと、数分前よりもあたりは暗くなり始めていた。奈央は逃げるように墓地をあとにした。



       *  *  *



 男は人気のない暗い廊下を歩いていく。

 203号室の前で立ち止まると、周囲をさっと確認して人目がないことを確認してから、薄手の白い手袋を装着して、合鍵を使って中に入る。

 男はすぐに浴室に向かう。浴室に入ると、狭い浴槽の中に両足を踏み入れ、顔を上げて天井にある点検パネルに手を伸ばす。そして点検パネルを少しだけ押し上げて横にずらして三十センチほどの隙間をつくる。その隙間に手を入れて取り出したのは小型の卓上スピーカーだった。この二か月間、大いに活躍してくれたものだ。アマゾンで五千円ほどで購入したものだが、充分に元は取れただろう。

 続いて男は、浴室を離れて八畳ほどのリビングに足を踏み入れる。

 まずは、白い壁に掛かっている時計を外す。裏には心霊現象を演出していた、小さな仕掛けが付いていた。両面テープで付けていたそれを外す。次に男は、窓際のカーテンに歩み寄り、カーテンの裾に手をやる。両面テープで貼りつけていた裾の部分を剥がすと、裾の中に仕込んでいた仕掛けを取り出す。

 最後に、白い机の上に置かれていた、横長のデジタル時計を手に取る。プレゼントと称して人を介して渡したものだったが、監視カメラが仕込まれたものだった。

 男は部屋全体を見渡した。これで完了だ。もうこれで、心霊現象を人為的に起こしていたという証拠はなくなった。

 最後の仕上げに、男はベッド脇の丸い座卓に一枚のA4用紙を置いた。それは日記の一ページをコピーしたものだった。乱れた筆跡は、書き手の憎悪を如実に表していた。

 文面の一文を、赤ペンで囲ってあった。


 “いつか絶対に、あの女にも私と同じ目にあわせてやる。”


 これであの女にも、真意はしっかりと伝わることだろう。

 男は203号室を出ると、隣の204号室に鍵を開けて入っていく。

 室内の照明を点けると、男はコルクボードが掛けられた白い壁の前に立つ。

 コルクボードの中央には、“本田奈央”の顔写真が貼りつけられていた。

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