こはるちゃん、いっしょに。

TEPPEI

第1章

奈央

「ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない……」

 ああ、今夜も恨めしい声が、浴室から聞こえてくる——。



 ◇



「あの?」

 友人との食事中にとつぜん声がかかった。顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。

 奈央は驚き、ともに食事をしていた真由美に顔を向けた。彼女も同様に困惑している様子だ。

「すみません、少しいいですか?」

「あ、はい……」

 奈央は少し警戒しつつ、男の言葉を待つ。「ナンパかな?」とも思ったが、男の目は怖いくらいに真剣だった。

「最近おかしなこと、起こってませんか?」

「え!?」

 奈央は飛び上がらんばかりに驚いた。

 こちらの驚きようを見て、男がしたり顔で聞いてくる。

「やはり、起こってるんですね?」

「あ、いえ、その……」

 混乱してうまく言葉が出てこなかった。

「あの、ちょっとこれ、何なんです?」

 向かいに座る真由美が、強い口調で男に向かって言った。

 男は反省するようなそぶりを見せて答えた。

「すみません、いきなり変なこと言って……。実は、ちょっとぼく、人よりも霊感が……」

「霊感?」

 真由美が怪訝そうな顔をする。

 奈央は、〝霊感〟という言葉に身震いしてしまう。

 改めて男を見ると、色白の肌が、霊感が強いという彼の言葉を裏づけているようにも感じられた。見た目は学生風で、自分たちと同世代のように見える。いたって平凡な顔立ちをしていて、とくに怪しい感じはなかった。

 男が真剣な顔で聞いてきた。

「よかったらぼくの話、聞いてもらえませんか」

「あ、はい……。じゃあ少しなら……」

 自分に起きていることを思えば、当然、男の話を聞かずにはいられなかった。

 ところが、向かいに座る真由美はそうではなかった。

「奈央。話、聞くの?」

「うん。ちょっとだけなら」

「でも、知らない人なんでしょ?」

「そうだけど、そんな悪い人でもなさそうだし」

「まあ、確かに、そうだけど……」

 真由美は男をチラ見して答える。

 奈央は心配する友人をよそに、大きく右側にずれて、男が座れるスペースを作った。男は遠慮がちな態度で奈央の左隣に座った。

 男は居住まいを正すと言った。

「あの、怖がらせるつもりはないんですが、落ち着いて聞いてくださいね」

「はい……」

「あなたには、命に関わるほどのレイショウが見えます」

「レイショウ?」

「霊による障害と書いて霊障です」

「そんな……」

 先延ばしにしていた問題をとつぜん突きつけられて、奈央はとまどいを隠せなかった。

「命に関わるって……。奈央、何か思い当たること、あるの?」

 真由美が聞いてきたが、奈央は何も言えなかった。だが、その無言の間が、答えになっていたかもしれない。

 黙っていると、男が言ってきた。

「近いうちに一度、お祓いとか受けたほうがいいですよ。そのまま放っておくと、取り返しのつかないことになるかもしれない」

 取り返しのつかない——。

 男の言葉は、どこか他人事ひとごとのように感じられた。これまで順風満帆だった人生が、どういうわけか、ここにきて、波風が立ち始めている——。

 何でわたしが、こんな目に遭わなければいけないの……。

 黙っていると、代わりに真由美が聞いてくれた。

「あの、あなたが直接はらったりとかは、できないんですか?」

 真由美の問いに、男は恥ずかしそうに頭をかいた。

「ほんとに申しわけないんですが、ぼくにそんな力はないんです……。昔から霊感だけは強くて、人には視えないものが視えるんですけど、ただ、祓うといった特別なことはできないんですよ。まあ例えるなら、お化けは見えるけど、退治することはできないって感じですか」

「はあ、そうですか……」

 男の言葉に、真由美が残念そうな顔をする。

 色白の男は続けた。

「さっき、この店を出ようとしたときに、こちらの方を見て、ちょっと普通じゃないほどの悪意を感じ取ってしまって……。それで、わかっていて見過ごすのもどうかと思って、声をかけさせてもらったんです」

「そうなんですね……。ちなみになんですけど、誰か知り合いとかで、いないんですか?」

 再び真由美が聞くと、男は少し考えるそぶりを見せてから答えた。

「そうですね……。知り合いに、一人だけいます。その人、職業にしてるわけじゃないんですけど、ぼくと違って、視えるだけでなく、祓うこともできます——。そうだ。連絡先を教えておきますから、必要なら連絡してみてください。彼にはぼくからも、今日のこと伝えておきますから」

 男はスマホを取り出して、ある人物の連絡先を表示して見せた。


 岩国啓一郎——、070ー7788ー22XX


 奈央は表示された連絡先を自分のスマホに追加した。

「職業にしてないってことは、普段は何してる人なんですか?」

 真由美が男に聞く。

「彼、バーテンダーやってます」

「バーテンダーかぁ」

 真由美が少し心配げに言った。

 奈央も同じ気持ちになった。ただのバーテンダーが、除霊などできるのだろうか。

 男はこちらの不安を嗅ぎ取ったようで、弁解するように言った。

「その人、バーテンダーですけど、能力は間違いないですから。ぼくも何度か立ち会ったことあるんですけど、自己流ですが、プロの霊能者と同じように祓ってましたから」

「自己流、ですか……」

 奈央は自己流という言葉にさらに不安を募らせた。

 男はここで笑顔を見せると言った。

「でも別に、無理にぼくの知人に頼る必要はないですよ。霊能力のある人は他にいくらでもいるわけですし。もしセカンドオピニオンが必要になったら、彼に声をかけてみてください。ちなみにぼくは、ヤマウチっていいます。彼にヤマウチから聞いたって伝えれば、話が早いと思うんで」

 それじゃ、ぼくはこれで、と言って、ヤマウチと名乗った色白の男は去っていった。

 男が去ってすぐに、真由美が聞いてきた。

「ねえ、奈央。何かやばいことでも起こってるの?」

「ううん。やばいってほどでもないんだけど……。ただ、ちょっと、最近おかしなことがあって」

「おかしなことって?」

「うん、実はね——」



       *  *  *



 スマホの着信音で目が覚める。時間を確認する。今夜も午前二時。

「まただ……」

 着信音は鳴り続けている。恐る恐るスマホを手に取る。「非通知設定」の文字。怖々と応答する。

「もしもし……」

 繋がるが、返事はない。ザーザーという音が聞こえてくるばかりだ。これもいつも通り。

 そこで突然、壁掛け時計がカタカタと揺れた。揺れるとわかっていても飛び上がりそうになる。続いてカーテンが揺れ、壁がドンドンと音を立てる。そして最後に、浴室から女の声が聞こえてくる。

 それは、いつも通り、恨みのこもった声だった——。



       *  *  *



「それ、充分やばいじゃん!」

 奈央が話し終えるなり、真由美は声を上げた。

 普通じゃないのはわかっていた。だが、次の日起きると、夢だったのではないかと思い、誰かに相談しようという気にならなくなるのだ。

「奈央、それが一週間ほど続いてるわけだよね?」

「うん……」

「だったら、さっきの人が言ってたみたいに、そういう人に相談したほうがいいって」

「そうだよね」

「そうだって。だって、さっきの人も言ってたじゃん。命の危険があるかもって」

「そう言ってたね」

「もう、何かひとごとだなぁ。もっと真剣に考えたほうがいいって」

「うん、そうだね……」

「もしあれだったら、今から、さっきの人に教えてもらった人に連絡してみない?」

「え、今から?」

「うん。そういうのは、早いほうがいいと思うからさ」

 確かに真由美の言う通りだと思った。これは先延ばしにするような事柄じゃない。それに彼は、命に関わるかもしれないと言っていたではないか——。

 しかし、見ず知らずの男の言うことを、そう簡単に信じてよいものだろうか……。

 悩んでいると、真由美が聞いてきた。

「あれ? 気乗りしない感じ?」

「だって、あんな形で声をかけてきた人の言うことを、素直に信じていいのかなって」

 奈央は今の気持ちを正直に伝えた。

「そうだけど……、実際にあなたに起こってることを言い当てたわけだし。それにあの人も親切心で教えてくれたわけじゃない? だったら疑う理由なんてないんじゃないの」

「まあ、そうかもだけど……」

「じゃあさ、こうしない? ネットで探して、別の霊能者に視てもらうの。これならどう?」

 ネットで見つけた霊能者のほうが、見ず知らずのバーテンダーよりもいくらかマシだと思った。それに彼女が言うように、これ以上問題を先延ばしにしたくなかった。

「そうだね。まだ時間もあるし、行ってみようか」

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