生きるのが辛い君と死ぬのが辛い僕
琴葉 刹那
生きるのが辛い君と、死ぬのが辛い僕
雨だからだろうか。今日は調子が良かった。
病は気からと云う。それが本当なら、好きな天気である今日は、発作など起きないに違いない。
……まあ、そんなことは迷信で、体調の
とはいえ
僕は窓から視線を外し、
踵を踏まないように引っ張ってトントン。
雨音と入り混じった爪先音に少し楽しくなりながら、僕は病室を後にする。
「どこ行こうかな」
僕の入院している病院は、
とはいえ無一文である僕はどこも利用できない。だから口では嘯くけれど、こういう時に行くのは決まって一ヶ所だ。
目的地を定めて歩いていると、精神科の受付辺りで、怒気を孕んだ声が聞こえた。
「どうして自殺なんてしようとしたの……!」
その言葉にぴくっと足が止まる。次いで自然と体は後方——声の方へと向いた。
「答えなさい……!答えなさい……!」
無言で両の拳を握り締めていた少女だったが、やがて下唇を噛み締め
「——っ、お母さんには
そう言い捨てて僕の方へと走ってくる。
前が見えていないのだろうか。真っ直ぐこちらへと突っ込んできて——
「——
すんでのところで回避するも、足が絡まり
「あ!コラッ!すみません大丈夫で——」
「雨宮さーん」
「え、あ、はい!」
手を差し出した状態で固まる女性を
——奇しくもその方角は、先程少女が言った道と同じだった。
◆◇◆◇
「……うーん」
——どうしたものか。
僕は目的地だった場所へ足を踏み入れるのを躊躇していた。
目の前にあるのは小さな中庭。
かつて使われ、現在は廃れた旧病棟、その一角。
とても静かな、僕のお気に入りの場所。
しかしいつもと違って、そこには
「……」
先程の、少女。
ベンチに座って項垂れる、自殺を試みたらしい、同年代と思われる少女。
そのしみったれた空気ゆえに、どうしたものかと僕は頭を捻り回した。
しかし今戻っても暇なだけ。
なれば前に出よう。
そう思い一歩、踏み出す。
カタンカタン。
旧いトタン屋根が、小気味の良いギャロップを奏でる。
雨に穿たれた草が、中央に一本立ち据える木の葉っぱが、低く鈍い土が。
小さなオーケストラのように、開けっ広げな旧棟に音色を響かせる。
——ああ、落ち着く。
病院には、様々な者たちが集う。
社会人もいれば学生もおり、子供もいれば大人もいる。
そんな彼らが、待ち時間に取り留めのない会話をする。
傍に座ってそれに耳を傾けると、〝雨〟に好意的な言葉は少ない。
しかし、やっぱり。
雨は好きだなぁって、ただ思う。
そうやって空間に酔いながらベンチに腰掛けると、キィっと高く音が鳴る。
そして漸く、ゆっくり、ゆっくりと少女が顔を上げた。
視界の端に映ったそれに、幽霊みたいだな、なんて思いながら。
僕は酔いしれるべく微睡んだ。
……そして一分もせず目を開ける。
微睡めなかった。
というより、目を瞑ったら余計に視線を感じてしまい、全っ然落ち着けなかった。
互いの間は二メートルほど。
そこに漂うのは高らかなる音色と、空気に溶け込んだ水蒸気。
……そして、パーソナルスペースを侵害するかのように、突き抜けてくる視線。
目を閉じ、意識を沈めれば沈めるほど、鋭敏に知覚できる視線が、気になって仕方がなかった。
「……はぁ」
思わず、溜め息。
しかしどんなに煩わしくとも、他人だし、普段なら何もしない。
ただ、今は
「なに?」
意図せずして、低い声音と黒い息が出る。
それに答えたのは、やはり不機嫌な声。
「……べつに」
少女がプイッと反対方向を向く。
そしてまた、ただひたすらに雨音が散った。
望んだ静謐な空間。
しかしどうしてか。少し落ち着かない。
いつもは独りだからか、はたまた別の要因か。
そこまで考えて、少しだけ、チラッと流し見る。
すると、彼女の頬を走る雨水が、鈍く光った。
「……ねぇ、」
我知らずと漏れ出た、間投詞。
勝手に出てきた、言葉。
それはほんのりと優しく、疑問を呟いた。
「なんで泣いてるの?」
僕の不躾な質問に、彼女は慌てて涙を拭う。しかしその袖もまた、遠目で判るほどに濡れていた。
もはや水を吸わないそれで、涙を地へと払い落とす。
そうして漸く、彼女は口を開いた。
「……泣いてない」
拗ねた子供のような言葉に、僕は返す。
「泣いてたよ」
「泣いてない」
「泣いてた」
「泣いてない」
第三者のいない水掛け論ほど、不毛なものはない。
ましてや証拠や理由を指摘するでもなく、互いが互いの主張ばかり繰り返して、まるで幼子のようだ。
ただ、僕たちは駄々をこねるように、意固地に繰り返した。
「泣いてた!」
「泣いてない!」
「泣・い・て・た!」
「泣・い・て・な・い!」
「はぁはぁ。だから、泣・い・て・た!」
「だから、泣いてない!」
ヒートアップすると同時に立ち上がっていた僕は、息が切れると座り込む。だが、それでも「泣いてた」と繰り返す僕に、同じくいつの間にか立っていた彼女は、頭を掻きむしった。
「あーもう!そもそも、泣いていようがアンタには関係ないでしょ!」
「そうかもね」
それに僕は
ただ、
「泣いている子を放っておくほど、事勿れ主義ではないし、たぶんここで動かなかったら後悔する」
何かできる、
何もできない、
ただ、きっとこれを、——
だからこれは、こんな僕でも何かができる、何かを遺せる可能性がある……そんな自己満足だけれど。
動かないという選択肢は、僕にはないのだ。
「……なにそれ……変なの」
力が抜けて、トンと座る。
そんな彼女に、僕は惚ける。
「変かな」
「……うん、変。……可笑しいよ……」
「……わざわざ言い換えなくてもよくない?」
彼女は「あはは」と笑うと、ベンチの上に丸まった。まるで言い知れぬ寒さに耐えるように。
「で、結局話してはくれないの?」
その言葉にを聞くと、彼女は折り畳んだ両脚を固める両の腕に、少しだけぐっ、と力を込めた。
「うん」
「どうしても?」
「……うん」
「そっか……」
じゃあ——
僕は一息吸い込んだ。
「ちょっと喋らない?何しろ暇でさ」
一つ、提案してみる。
実際、独りで雨を愉しめない今、全く暇であるし、退屈なだけの部屋に戻るという選択肢もない。
それに、興味もある。
だから、ちょっとだけ話してみたいな、なんていう思いに突き動かされて、僕は真っ黒な瞳を彼女に向けた。
彼女は困った風に小さく笑う。
「あなたは初めて会った、何も知らない人と話したいの?」
「
「……そういう意味じゃないんだけど……」
私は話したくない。
そんな副音声が聞こえた気がして、名前を明かす。
ただ、本当に単純な疑問だったからか。
彼女はバツの悪そうに、また苦笑する。
その先に僕は畳み掛ける。
「ほらほら、名乗られたなら名乗り返さないと」
「……それどこの鎌倉武士?」
「あ、目と目が合ったら自己紹介」
「いやだからどこのゲーム?」
冷静に突っ込まれているが気にしない。
「ほらほら」
「はぁ。……
どこか諦めたらしい時雨に、僕は勢いよく破顔した。
「これで知らない人同士じゃなくなったね」
これで解決と言わんばかりの態度に、時雨は呆れ顔を顔に浮かばせる。
ただ、それすらもまた無視。
ここまで強引にやっているのだから、そんなことはすっかり些事である。
ゆえに、僕は笑顔で口火を切る。
「空は好き?」
時雨は相変わらずの呆れ顔のまま、少し考え込んだ言った。
「……まぁ、そこそこ」
「ああ、じゃあ——満天の星空って、見たことがある?」
本当に、
「……満天の星空……?」
「そう、〝満天の〟、星空」
「……う〜ん」
努めて平静に、それでいて一言一言強調するようにいう僕に、確認のように問いかけた後、彼女は暫し記憶を探る。
しかし何も浮かばなかったのか、時雨は小さく頭を振った。
「……〝満天〟と言われると……ないかなぁ」
「じゃあ、ちょうどいいね」
それは上々。
そう言わんばかりに口角が上がる。
「たぶん今夜には見れると思うよ」
雨の後は、空は澄み渡るもの。
それに土地がなかったからか。この病院は町の外れ、山間に建っている。
ゆえに空はあまり濁っていないし、空気が美味しい。
だからきっと、今夜は荘厳な景色が見えるだろうと。
経験に裏付けされた根拠を以て、謳う。
「それ、夜まで残ることになってない?」
私残る気ないんだけど。
『なんで』とかそういう疑問よりも早く立つ、弁。
出会って少ししか経っていないけれど、それでも〝ド〟が付くほどに、大いに強い呆れ。
ただ、どこかコロコロと笑っていて。
それがますます、僕の笑みを『丙』から『乙』へと深めていく。
「そういうつもりはないけど……やっぱり見てほしいね。なにせ——」
僕は雨雲の向こうを見据えて言う。
「あれはとても綺麗だから」
つられて、時雨が空を見た。
視線の先には、やはり漂う雨雲。
水気をたっぷり吸ったそれが、ゆっくり、ゆっくりと東へと動いていく。
「……時に時雨はさ」
「うん?」
「人が死んだら星になるって、そんな話、知ってる?」
少しだけ、声が震えた気がした。
少しだけ、肺が痛んだ気がした。
少しだけ、——感情が脈動した気がした。
「……うん、知ってる」
コンマ幾秒かをおいて、時雨が言う。
その胸に棲んだのは、なんだっただろうか。
——自ら死のうとした人に、巣喰ったものは。
「科学的根拠もない、法螺話。鼻で
時雨がジッと、耳を欹てる。
ポツリ、ポツリといった雨音が、幾重にも、幾つにも連なり、古臭い病棟を音で満たす。
「必死に生きて、
僕は息を吐くと、再び吸い込む。
そして万感の意を持って、告げた。
「まるで人の命は、星みたいだから。だから、信じてる……」
星と生命。
片や物体、片や概念。似て非なるどころか、全くの別物。
しかし、その本質は同じなのだと、僕は謳う。
星はなぜ光るのだろう。
恒星だから?恒星からの光を反射しているから?
残念ながら、そういうことを訊きたいんじゃあない。
僕が訊きたいのは、どうしてあそこまで人の心を惹きつけるのだろうかってこと。
例えば、平安貴族は月を見て〝花鳥風月〟と言い表し、金星を見て〝明けの明星〟とか謂った。
他にも、彗星は凶兆として恐れられ、流れ星は三回願い事を唱えると、願いが叶うと云う。
吉凶裏表どちらにしても、人にナニカを植え付けたことに変わりはなく、そう思わせるナニカが在ったことに相違ない。
夜に窓から隔たれた空を覗き見れば、眩く輝く星々が広がり、届かないとわかっていても、性懲りもなく、立体空間という平面に指を滑らせる。
そしてベッドの上、毛布を隔てて自分の膝の上に転がっている、暇つぶしの本を見て想う。
きっと、燃えているからなんだろうなぁ。
星々は燃やしているのだ。
その身を、その心を。
――まるで、物語の英雄が、その想いに身を焦がし、その心を、意志を燃やすように。
故に魅入る。魅入らさせられる。
そしてやはり、だからこそ本質的には同じなのだ。
根っこの部分では、根源的には等しいのだ。
星と、生命は。
「……そっか……」
どこまで通じたのだろう。この想いは。
ちょっとおかしいと自覚している、この考えは。
ただ、一言。
端的だけど、重い一言。
声音から、様々な感情がごちゃ混ぜになっていることが
それに、『ああ、やっぱり不器用だなぁ』って思う。
なにせもう、他人らしい他人と最後に話したのは四年前。
初対面の人との話し方も距離感も、もう忘れた。
だから、少し強引でも、こうやって詰めるしか思いつかなくて。
それがますます、自己嫌悪を際立たせる。
ただ、それでも伝えたいことがあって。
もう二度と、自分から死のうとしてほしくなくて。
そんなエゴが、僕を包み、彼女を襲う。
僕には
彼女の、絶望が。
伝聞でもない、他人の経験なら、それは当然のこと。
ただ、それは彼女にも言える。
彼女も知らない。僕のこれまでを。
悔しさも、悲しみも、辛さも、……絶望も。
みんな知らない。みんな
だって見たことがないから。だって聞いたことがないから。だって――だって、経験したことがないから。
物語の主人公のようにとは言わずとも、他の人のように走ろうとしただけで膝から崩れ落ち。
家族には皆、痛ましそうな顔をされ、壊レモノのように扱われ。
夜な夜な、枕を濡らす。
そんな思いは、してほしくないから。
そこまで思って。
「――!?」
突如、体から湧き上がる本流を感じた。肺から迫り上がる、
バク、バク、バク、バグ。
心臓が
息が、苦しい。
「ちょっと!?大丈夫!?」
時雨が何か言っている
(ここで倒れるのはマズイ……!)
何もない旧棟で倒れては、助からない。
やり残したことだって、たくさんある。
だから、今はただ――
――呑み込め
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
目が回復する。胃か肺かは分からないけど、胸やお腹のあたりでナニカがぐるぐると回る。
心臓は鳴りやまず、忙しなく酸素を入れ換えている。
「大、丈夫……なの……?」
時雨が恐る恐ると訊いてくる。今回、吐血はしていないはずだけど、やけに口が堅い。
……ああいや、うちの母が初めて見た時も、こんな感じだったっけ。
僕は呼吸を調えながら、努めて落ち着いて返事をした。
「……ああ、……うん、大丈夫」
もう何度目か、静寂が場を支配する。
それから、よほど暫くして、彼女は唐突に言った。
「……ねぇ」
「うん?」
「あなただけ喋って、不公平だから、私も喋っていい?」
「もちろん」
軽げに言うと、彼女は少し笑った。哀しそうに、儚げに。
しかしやがて、なにか強い決心をしたかのような声音で、おもむろに語りだした。
「……私さ、いじめられてたんだ」
のっけから、重い一言。
少しだけ、空間にかかる重力が、重くなった気がした。
ただ、そんな空気もいつものこと。
ゆえに僕は、しとしとと降りしきる雨の中から、彼女の声を聴きとらんと、耳を研ぎ澄ませた。
「小学校から中学校まで、ずっと……ずっといじめられてた。物を隠されたり、除け者にされたり……お腹とか背中とか、服で見えないところを殴られたり」
激情が、乗る。
内側の、ずっとずっと奥から迫り上がった感情が、時雨の体を、言葉を熱す。
空気へと溶け切った冷水が、ちょっとだけ、じめじめとしだした気がした。
次いで「でもね」と。逆接から湧き出る、慟哭。
「耐えたんだよ、私。高校になったら、離れるから。その子と成績は、結構違うから。だから、大丈夫って思ってたんだ。けど……推薦で、入ってきてて」
必死だった。
遠くの高校に行くのは、現実的ではない。
だから、だから上の方の高校に行こうと努力して。
……それが、簡単に。いとも容易く泡沫に帰して。
「同じクラスになってて……また、同じ目に合って……」
『あれ?同じ学校だったんだ』
脳にこびり付いた声が、耳を突いた時の絶望。
希望から成る足元が、崩れる感覚。
一ヶ月。
一ヶ月、耐えた。
でも、もう無理だった。
人は〝生きる〟と云うけれど、私はこれに一つ加えたい。
人は〝生かされる〟のだ。希望に。未来という、不確かなモノに。
二律背反に、二つがあやとりのように絡み合って、〝生〟は続き。
どちらか一方が無くなった瞬間、コレは裏返る。
希望が無くなったのなら、もはや生きることは望めない。
故に身を投げ出したのだ。
死へと。大いなる暗闇へと。
なのに――
『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ』
……なんで止めるのよ。
助けてくれなかったのに。ずっと無視してたくせに。
思い起こされる昨日のこと。
自室で包丁を突き立てようとして、すんでのところで止められたこと。
なんで、こういう時だけ親面するの?なんでそんなに必死なの?
あんなに粗雑に扱ったのに。話も聞いてくれなかったのに。
どうしてこういう時だけいるの?いつもどこかに行ってるじゃない。再婚できそうなんじゃないの?
渦巻くのは、怒りと疑問。
『ふざけるな』と『なぜ』が綯い交ぜになって、グルグル回る。
そうやって、なにも吐き出せず混乱している間に取り押さえられ、病院まで連れてこられてしまった。
「……へぇ」
僕は納得した風に相槌を打つ。
途中から下向きにした顔を少し上げ、また、時雨は笑う。
「……あなたも言う?バカみたいだって」
「いいや」
かぶりを振りながら、疲労と諦念に染められた言葉を拾う。
――真剣だった。
その声音は、その眼は、その心は。
哀しみが、降り落ちる雨水へと溶け込み、水蒸気となって場を満たす。
確かに知らない。たとえ語られてもソレは、経験したことにはならないし、同情はしても、実感は伴わない。
だけど、辛いことを経験したことはある。
身が焦げるような辛さを。身が焼かれるようなツラさを。
僕は、知っている。
だから、切り捨てることなんてできない。
「……悩んだんでしょ?辛かったんでしょ?なら……そんなこと、言えないよ……」
雨雲のように、重い空気が漂う中、「ねぇ」と声をしぼる。
「君はどう思ってるの?時雨はバカだったって……思ってる?」
ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、ギュッと唇を噛み締め、時雨は小刻みに震えた。
そしてよく見なければ気付けないほどに瞳を潤ませ、唇を震わせる。
「……ううん。今でも思ってる。あの時、死ねればよかったって。きっとたぶん、今、刃物を渡されたら、自分の胸に突き立てると思う」
「……そっか」
その想いを受け入れたうえで僕は――
「――時に時雨は、雨って好き?」
やはりそう、唐突に問いかける。
問われた側である時雨は、もう慣れたと言わんばかりに、「ううん」と首を横に振り否定した。
「そう」
それを背に受けながら、僕は雨の
「あっ」
「僕は好きだよ、雨。辛いことも、哀しいことも、全部、流してくれるから」
少なくとも、そんな気分にさせてくれるから。だから、雨の天気は一番好きだ。
僕は時雨を見つめると、ふとその腕をつかんで引っ張った。
「えっ」
時雨が前傾に体を崩し、一歩踏み出す
水を多分に含んだ土が、僕らの足を絡め捕り、足裏に土がこびり付く。
「ねぇ」
便利な間投詞。会話の始まりを告げ、会話へとつなげる小さな種。
僕はすぐそばでがなる雨音に負けぬよう、腹の底から声を張り上げる。
「時雨はずっと独りだったの?」
告げると時雨は目に見えて止まった。そして暫くすると、無言で涙を流した。
次いで目下に手を当て、漸くソレに気付くと、声を上げ、嗚咽を漏らした。
◇◇◇◇
「う、うわぁぁぁん!」
顔に両手を押し付け、しゃがみ込む。
なんで忘れていたんだろう。
離婚後も、ずっと気にかけてくれた、父方の祖父母のことを。
七歳の時に亡くなった、母方のお
泣きながら転校していった友達のことを。
ずっと忘れていたことが、次々と思い起こされる。
確かに今は独りかもしれない。でも、かつてはそうじゃなかった。
今に手いっぱいで、視野が狭くなっていた。そう言い表すのは簡単。……だけれど、そうするのは不義理だろう。
だから私は、罪悪感に押し潰されながら、涙を零し続けた。
◇◇◇◇
涙を零す時雨に、察した僕は彼女の胸ぐらをつかみ上げる。
寒さか、それ以外の要因か。手が震え、力が入らない。だが、それでも。
僕は、叫んだ。
「――無駄にするなよ!!」
その想いを。その行動を。
決して無駄にはしてくれるなと。
僕は、咆哮する。
「もう背負っただろうが!ここで投げ出そうとするな!確かに、確かにさ。辛かっただろうよ、哀しかっただろうよ。だけど、一度背負ったんなら、投げ出すんじゃねぇ!!!」
何度だって考えた。死ねば楽になるんじゃないかって。
でも、出来なかった。
回復の見込みもなく、お金をドブに捨ててるのに、……なんで、なんで繰り返すんだよッッッ。〝大丈夫。治る〟って。
このままじゃ、終われない。
何か返すまでは、まだ、死ねない。
だから、だからだからだからだからだから――!
口から
だけれど、そんなものは知るかと。僕は両手で時雨の襟首をつかみ寄せる。
「――生きてくれよッ!!」
恩があるのに、何も返せないのは辛いから。だから、――どうか生きてくれ。
それが、自身の望みに反するとしても。それが、どれほど辛いことだとしても。
僕は、慟哭する。
――例えエゴの押し付けだとしても、どうか――
「生きて――!?ゴハッ」
「!?血が――」
遂に、胸の奥に押しとどめていたものが、氾濫とばかりに堰を切る。膝が全く笑い、重力に従って崩れるも、僕の手はまだ、時雨の襟首をつかんでいた。
「っ!?」
「なにもかえせないのは……ツラいから……だか、ら……」
目が見えない。口は動いているのだろうか。呼吸は。心臓は。触角は。耳は。
「――何をしているの!」
「!?お、お母さん!?」
「早く運ぶわよ!」
なにも、感じない。
◇◇◇◇
「……う~ん」
雨だ。しとしとと、雨音が聞こえる。
普段なら、旧病棟に行って雨を愉しむところではあるのだが、先日こっぴどく叱られたため、仕方なしに布団にくるまった。
――天命の尽きるときは未だ来ず、こうして惰眠を貪るしかない。
今、時雨がどうしているかなど知る術もなく。
気にならない、と言えばうそになるけど、分からないのだから
ただ、願わくば。
どうか、届きますように、って思う。
僕ら生きとし生ける者は、色々なモノを抱えている。
温かかったり、楽しかったり。辛かったり、哀しかったり。
時に灯だまりに
だけど、それでも。
知らないだけで、きっともっと、辛くて、嬉しくて、苦しくて、楽しい。
そんなことが、あるから。
だからどうか、生きていてほしい。
生きていれば、きっと良いことがあるなんて、無責任なことは言えないけど。
そんなことが、あるはずだから。
「?」
寝そべって、
僕は無言でそれを取ると、その眼と暫く見つめ合って、窓を開けて右手首を振り、そっと飛ばした。
その焔鶴は、雨に穿たれ、やがて見えなくなってしまった。
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