TBの一生

みにぱぷる

TBの一生

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「まーくん、早く早く」

 美咲が私の右手を引っ張る。

「まーくん、遅いよ」

 美玲が私の左手を引っ張る。私は二人の少女に抵抗する気もなく彼女らに身を任せる。彼女らに引っ張られて辿り着いた先は、寺橋邸から数キロメートルのところにある川だった。私がここ、寺橋家に来た時から全く変わりのない美しい川である。昼間は鴨が数羽、川で自由自在に泳ぎ回っていて、夏の夜は蛍が見られることもある。山奥だからこそ見られる美しい川と美しい景色である。

 彼女たちは数羽の鴨を見つけると私の手を離して、鴨の方へと走り去って行った。私はへなへなとその場に座り込んだ。この川は浅く細いので、まさか溺れるなどということはないとは思うが、油断はできないので注意して見守る。

 それにしても彼女たちも大きくなったものだ。私が寺橋邸に来た時は、生まれたばかりの双子だったのに。しかし六年経てば子供は成長するものだ。それに比べて私は....。毛も減り、体も長年の疲労でボロボロ。成長以前の問題だ。

 今は夏休みで、彼女たち家族が訪れているのは、寺橋邸。寺橋邸は寺橋家の別荘で、古都奈良の山奥にある。二階建て古風な大きな屋敷で、庭には小さなプールもある。こんな大きな別荘を持っている寺橋家は日本でも有数の富豪で、寺橋家の当主、寺橋昌吾氏は日本トップの電化製品店、寺橋電機の会長である。六十を越えた今でも健康で、休日にバッティングセンターでバットを振るのが趣味である。そしてその後継がほぼ決定していると言っても良い寺橋昌吾氏の一人息子、寺橋律氏も優秀で、東京の名門大学を卒業後、寺橋電機に入社し、現在は取締役として、数年後、昌吾氏が前線を退いた後の後継者として、準備をしている。また、その律氏も健康で、休日は会社の友人とテニスをするのが趣味である。

 そんな家に私は律氏の双子の娘の世話をするために、二人が生まれるとほぼ同時期にこの家にやってきた。最初は彼女らが幼すぎて、私の仕事はあまりなかったが、彼女らが二、三歳になる頃には、彼女らの世話に勤しむ毎日となった。私はそれが楽しかった。彼女たちは私にとっての癒しのような存在になった。彼女たちも私のことをいつしか、”まーくん”と呼ぶようになり、関係はどんどん深まって行った。この調子で成長していけば、私の背丈を超える日はそう遠くはないだろう。私は彼女たちの成長を喜びつつ、内心、彼女たちが中学や高校に入学する頃には、私は必要なくなってしまうのではないか、と怖くもあった。だが、今は目の前のことを、彼女たちの成長を見守るのが仕事なのだ。

「まーくん、そろそろおうちに帰ろー」

 美咲がやってきて言った。美咲のズボンは鴨と追いかけっこをしたせいで、びちょびちょだ。美咲は美玲は顔立ちや背丈がとても似ている上に、服装が一緒なので見分けらrない人もいると思うが、美咲は美玲より精神年齢が大人なので慣れてくれば区別は簡単につく。

「もう帰るのー」

 美玲が不満そうに川の水を蹴る。飛び散った水がちょっとだけ私にかかった。

「帰ろうよー。美咲もう、お水で遊ぶのに飽きちゃったー」

「わたし、もっと遊びたいぃ!」

 美玲が足をジタバタさせて不満を訴える。美咲は泣きそうな顔で私に助けを求めてくる。私はどうすればいいのだろう....。不意にそよかぜが吹いて、頭上の木から木の枝が落ちてきて私の背中に当たってそのまま地面に落ちた。

「いこう」

 私がそう言うと、美咲は嬉しそうに私の右手を握って駆け出す。

「待って!」

 美玲がそう言って走ってついてくる。私は美咲に引っ張られて、腕がもげそうだった。少女というのは力の加減ができないのが恐ろしいが、そこが可愛らしいものである。


 寺橋邸に戻ると屋敷の玄関で、寺橋和子夫人が鬼のような形相で待ち構えていた。寺橋和子夫人は律氏の妻で、大物女優。なので、顔立ちは整っていて美しく、声もよく通っている。私がこの家に来たのは彼女の推薦があったからなので、私にとっては命の恩人でもある。そんな彼女だが子供への教育は過度なほどに厳しい。

「私かお父さんなしで、外の遊びにいっちゃダメってルールでしょ?」

「でも....まーくんが一緒だから....」

 美玲が私の方を見て言った。私はどう返したらいいのかわからず戸惑ってしまった。

「今何時かわかる?」

 和子夫人が言う。

「五時....です」

 頭を垂れて美咲が言った。美玲は美咲の後ろでずっともじもじしている。

「ルールでは何時までに戻ってこないといけないんだったっけ」

 和子夫人がギロリと二人を睨みつける。

「....四時半です」

「ルールを守れなかったらお仕置きなのはわかってますね?」

 美玲が体を震わせ、美咲がそれを庇うように一歩前に歩み出る。

「美玲も何とか言いなさい」

 和子夫人にそう言われても美玲は怖くてなのか、言葉を発さない。和子夫人はいい加減耐えかねた様子で、玄関の手すりを蹴ると、その勢いのまま奥の方に引っ込んでしまった。

「美咲....ごめんね」

 美玲が頭を下げた。私はその様子を無言で見守る。美咲は気にしないで、といった様子で美玲の肩に手を置いた。美玲は目に溜まっていた涙を拭いてこくりと頷いた。にこりと美咲は笑い返すと今度は私の方にやってきて、

「まーくんも、気にしちゃダメだよ」

 と私の手を取って言った。

「お母さんは怖いけど、とっても優しいの。ルールを守らなかったら怒るのは仕方ないの」

 どう返せばいいのか分からず私は無言で彼女の目を見つめた。幼さだけに支配されている美しい目だった。私が初めてこの家に来た時となんら変わりのない目だ。私は彼女にずっとこの目であって欲しいと思っている。美玲にも。社会の闇や辛い一面を見せつけられてもなお。

「まーくん....」

 美咲の後ろで美玲が言った。目は涙で潤っている。さっき拭いたはずの涙はまた彼女の目を包んでいる。今にも泣き出しそうな彼女の目は美しくはあったが、見ていられなかった。かといって目を背けることもできず私は彼女を見つめる。

「まーくん....ごめんなさい」

 彼女は私に飛び付いて私を深く抱きしめた。私の頭の中ではその様子が、まるで何度もシャッターを切ったかのように分割されて再生された。彼女は私に抱きつくと私の胸で涙を拭いた。私は抱きしめ返すこともできず、唖然としたままでいる。彼女の涙で私の胸はどんどん湿っていき、まるで彼女の悲しみを移されたかのような感覚に囚われた。

「いこう」

 私がそう言うと、美玲は可愛らしく、小さく頷いた。私を抱くのはやめたが、私の右手をぎゅっと握ったまま、美咲と美玲は笑い合って、寺橋邸の中へと駆けて行った。


 和子夫人が美咲と美玲を罰する様子は幸運にも見ないで済んだ。ただ、和子夫人の部屋の隣、応接間にいた私の耳には説教の様子と泣き声をあげる二人の声が嫌なほど聞こえてきた。和子夫人は初めはここまで厳しくなかった。それは事実だ。ただ、いつしか彼女は人が変わったように厳しくなった。そのいつしか、というのがいつなのかはわからない。ただ、何かをきっかけに変わってしまったのだろう。美咲や美玲が一人で遊びに行こうとしたら引き止め、こっぴどく叱った。これだけならまだましだが、和子夫人と遊びに出かけた時も、少しでも和子夫人の視界を離れれば、二人の少女は叱られた。なので、彼女たちはかくれんぼや鬼ごっこといった遊びをしたことがほとんどない。

 私が来た時の和子夫人は優しい人だった。美咲や美玲を叱ることもなければ、彼女らに対して何かを禁じることもほとんどない。こんな私のことも大事にしてくれて、本当に器が大きく素晴らしい人だと私は何度も尊敬した。だが....。

 私が考え事に耽っているうちに時は経っていて、いつの間にか時計の短針は一周してまた同じ位置にあった。和子夫人の部屋の電気は消えている。説教はもう終わったようだ。だが、ここでゆっくり座ってくつろぐのもいいものだ。しばらくゆっくりしておこう。そう思い私が眠りにつこうとした時、呼び鈴のチャイムの音が聞こえてきた。誰か人が訪問してきたのだろう。和子夫人が駆け足でやってくる。応接間と玄関は繋がっているから、玄関に行こうとすると応接間を通ることになるのだ。 和子夫人が玄関の扉を開けると背が低く痩せた、紳士風の男が立っていた。髪は丁寧に整えられて、ワックスもかかっているように見える。服装もきりっとしているのだが。色白で綺麗な顔立ちをしている点なのか、彼が童顔である点なのか、どこか違和感を覚えた。

「こんにちは。和子夫人ですね」 

 丁寧に頭を下げた男だったが、それが逆に不機嫌な和子夫人の気に触ってしまったようで

「誰なの、不気味ね。とっとと帰ってください」

 とお叱りを受けていた。彼も悪いタイミングで来てしまったものだ、と私は思わず同情してしまった。和子夫人に叱られても、男は戸惑う様子も見せず、あどけなく笑うと、ポケットから名刺を取り出す。

「和銅電機の取締役、水谷です。水谷京と言います。よろしくお願いします」

 和銅電機?寺橋電機のライバル企業ではないか。その取締役がなぜここへ?和子夫人も同じことを思った様子で、訝しげに首を傾げた。

「昌吾氏に招待されてきたのですけれど。ほら、ここに招待状が」

 水谷と名乗った男の差し出した招待状を、時折男の顔を見つめながら読み、和子夫人は納得した様子で頷いた。

「どうぞ、中へお入りください。義父は奥のリビングでサッカーの試合を見ています」 

 和子夫人と水谷氏は共に応接間を通ってリビングルームへと消えて行った。応接間を通った時、水谷氏が私の顔をまじまじと見つめてきたのは....多分気のせいだろう。

 それにしても唐突な訪問である。彼は一体何をしに来たのだろうか。まさか、長い間ライバル同士の両者がカルテルやらトラストを結ぶのだろうか。考えられない話ではないが、しかし。では、何故なのか。あの男が寺橋電機のスパイ?これもありえない話ではないが、しかし、完全に腑に落ちる解答ではないのは確かだ。では、何者か。もしかしたら、水谷氏と昌吾氏はプライベートな関わりがあるのかもしれない。同じ大学出身とか、同じ高校、中学出身などなど。しかし、年齢は大きく離れているだろう。水谷氏は童顔で、真っ黒な髪を見る限り、多めに見て三十歳。一方の昌吾氏は六十近い。少なくとも三十近い差がある。そんな二人にプライベートな関係があるとは。

 そんなことを考えていたら、応接間の扉が開き、昌吾氏がのっそりと姿を現した。気がつけば三十分ぐらい経っている。

「おお、ここにいたのか。遊び相手がいなくて孫が悲しがってるから、来てくれ」

 ああ、私は馬鹿だ。私はくつろぐためにこの家にやってきたのではないだろう。私がこの家にやってきた目的は、彼女たちの世話をするためなのだ。なに呑気にくつろいでいる。

 私がそう自分に戒めているうちに、昌吾氏の背後から可愛らしい二人の少女がひょこっと顔を出した。説教によりへこんでしまった彼女たちの顔は私と目が合うと同時に一気に明るくなっていく。美玲が私の方に駆け寄った。それに続いて、まってー、と声を上げながら美咲も走ってくる。

「もー、まーくん。早く一緒に遊ぼ」

 と美咲が言い、

「絵本がいい!」

 と美玲がはしゃぐ。

「じゃあ私が絵本とってくる!」

 美咲がそう言って走り去っていく。昌吾氏は笑顔でその様子を見守りながら私の横に腰掛けた。その上にちょこんと美玲が座る。

「美玲も大きくなったなぁ」

 昌吾氏がしみじみと言うと美玲が

「でもおじいちゃんには勝てないよ。いずれ勝てるのかな」

 と言った。昌吾氏はいずれ勝てるさ、といった様子で美玲の背中を撫でた。私は隣でその様子を見ているうちに自然と心が温まるのを感じた。

「絵本持ってきたよー!」

「おし、じゃあ読もう」

 美咲がドタドタと音を立てて応接間に戻ってくる。一冊の絵本を抱えている。タイトルは”かちかち山”。彼女たちの大好きな本だ。

「やったーかちかち山!」

 美玲が嬉しそうに万歳をする。美咲は私の横に座ると私の膝に”かちかち山”を差し出した。


 ”かちかち山”の読み聞かせが終わる頃には夕食の支度ができていて、ダイニングは香ばしい香りに包まれていた。

「美味しいです!素晴らしい味ですね。これは、和子夫人が?」

 食事が始まるやいないや、グラタンを口に運んで、水谷氏が言った。

「ええ。ありがとうございます」

「いやー気に入ってくれて嬉しいよ、水谷さん。ビールは飲まれますかな」

 昌吾氏が満足げにビール瓶に手を伸ばす。

「いえ、大丈夫です。酒には弱くて」

「おお、そうかそうか」

 私は美咲、美玲の隣に座って彼女らの世話をしながら会話に耳を傾けた。そのうち、美咲が正面に座る律氏に訊ねた。

「ねーねーあの人だーれ」

「父さんの仕事に関する話をしに来てくださったんだ」

「おしごとのだいじなおはなし?」

「そうだよ。さ、早く食べなさい。冷めてしまう」

「はーい」

 美咲が会話してる間に美玲は驚異的な速さで食事を口に運んでおり、もう皿の上は空になりつつあった。

「水谷さんはこの別荘、どうです?気に入りましたか」

 酒が入ってきた昌吾氏がやや興奮気味に言うと水谷氏は爽やかな笑顔を浮かべて

「とっても気に入りました。日本の古城風の外装も素晴らしいですし、内装も。流石、寺橋家の屋敷です」

「いやー嬉しいことを言うなぁ。はっはっは。実はな、この屋敷はわしと親交の深い建築家に依頼して作ってもらったんだがな。これは彼に改めて感謝することにしよう」

 昌吾氏はそう言いながら次の酒を注ぐ。水谷氏もお茶をコップに注ぎ、乾杯の仕草をした。場が盛り上がってきたところで、和子夫人が真剣な様子で言った。

「因みに、水谷さんは今日どういった用事で来られたのですか」

 場が一瞬凍りついた。昌吾氏がごくりと唾を飲み込むのを私は確かに見た。

「言ってしまっていい話なのかはわからないんですけれど」

 水谷氏が頭を掻きながら言う。

「実は私、寺橋電機のスパイなんです」

 スパイという大きな告白の割にさらっと言ったので現実味が湧かなかった。しかし、昌吾氏が付け足して言う。

「律にも言ってなかったな。まあ彼がスパイであることはわししか知らなかったからな。はっはっは。和銅電機に勝つ準備はできたから連れ戻したわけだよ」

 なるほど。寺橋電機の景気がとても良いなんていう話はあまり聞かないが、会長の昌吾氏が言うのだ。本当のことだろう。

「和銅電機の取締役まで昇り詰めるのは大変だったでしょう」

 和子夫人が猫撫で声で訊ねる。

「いやいや、そんなに大変な話ではないですよ」

「ほう?」

 律氏が興味津々に訊ねる。

「つまり、わざと寺橋電機の嘘のデータを流すんです、和銅電機に。すると、和銅電機はそれを信じて私の職をどんどん高くしてくれるんです。面白いぐらいですよ。気がついたら取締役になっていました」

「なるほど」

 律氏が腕を組んで頷く。

「ごちそうさま!」

 少し会話が途絶えてきた時、美咲の元気な声が響いた。皿の上は綺麗で全く食べ残しがない。ちなみに、先程まで驚異的な速度で食事をしていた美玲は彼女の宿敵・トマトによって完全に食事の手が止まっている。和子夫人は美玲のトマト嫌いを克服するため数日に一回はトマトを夕食に出す。ただ、これも、例の和子夫人が厳しくなって以来始まったことで、元々はやはり、ここまで厳しくはなかった。私はそのようなやり方で苦手な食べ物を克服するのは無理だと思うのだが....。

 美咲はきっちり皿を台所まで運ぶと流しに持っていき、丁寧に流しに置くと、また元の席に戻ってきた。この家では全員が食べ終わるまで座っていなければならない、というルールがある。

「本当にきっちりした子ですね。美咲さんも美玲さんも」

 水谷氏が感心して言うと和子夫人は姿勢を正して

「将来的には寺橋家の名に恥じぬ子供に育てなければなりませんから」

 と誇らしげに言った。

「ここまで素晴らしいお子さんを育てるのにはなかなか苦労されるでしょう。では、どのような教育をすれば良いか教えてほしいものです」

 水谷氏がそう言った時、和子夫人の目が一瞬下に動いたのを私は見逃さなかった。やはり、彼女自身後ろめたさを感じている部分はあるのだろう。そこで沈黙が流れかけた時、律氏が押し殺した声で言った。

「水谷さん。あなたは何しにここに来たんですか。和銅電機の取締役にあなたの名前があった記憶がないのですが」

 鋭い指摘だった。水谷氏がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。この様子で水谷氏が和銅電機の取締役でないことは分かった。私は、水谷氏がどのような返しをするか注意して見ていたが水谷氏はなかなか黙ったまま口を開かない。律氏はにやりとして更に水谷氏を攻める。

「答えられないのも立派な返事ですよ。あなたは実際のところ何なのですか」

 昌吾氏の表情は真っ青だった。場の緊張が強まってきた時、水谷氏がついに口を開いた。

「流石です、律さん。実は私が取締役になるのは来月からで今はまだ取締役じゃないんです。このことは昌吾会長にも嘘をついてしまっていました。すみません」

「なるほど。いや、疑ってすまなかった。性分でね」

 律氏はとりあえず納得した様子で頷く。昌吾氏の真っ青だった顔はだんだん素の色に戻っていった。

「まあその程度の嘘、別に気にするもんでも無い。とりあえず、明日、わしの部屋に来てくれ。和銅電機のことについて色々教えてもらおう」

「了解です」

 気がつけば水谷氏はグラタンを食べ終えていた。紳士風の見た目の割に、妙に食べるのが早い。尚更、疑わしくなってくる。こういう食事の場では最も偉い人より早く食べ終わってはいけないというマナーがあったような気がする。

 その後、やっとトマトを美玲が食べ終わり、夕食は終わりとなった。私と水谷氏は夕食が終わってもダイニングの椅子に座ったままでいた。水谷氏はスマートフォンを取り出して誰かとメールを打っている。私はそれをこっそりと盗み見した。宛先は影になってうまく見えなかったが文章ははっきりと見えた。

「明日来てください。今のところはばれてないですよ。でも、油断はできないです。よろしくお願いします」

 やはり、この男には裏があるようだ。まず、文章である。明らかに、紳士風の今までの口調とは違う。確かに、丁寧な口調なのは変わっていないがやはり、妙に感じる。そしてこの文章を読んで、彼の顔を改めて見ると違和感を覚える箇所がある。妙に髪が似合っていないのだ。そして、文章の内容。今のところはばれてない、という箇所から誤魔化してることはもう疑う余地なし、である。

「水谷さん、暇なら一緒に世間話でもしないかい?」

 律氏に声をかけられて、水谷氏は、是非、と返事をするとズボンのポケットの中にスマートフォンをしまった。私はダイニングルームの席に座ったまま昌吾氏と律氏、そして水谷氏の会話に耳を傾けることにした。ダイニングルームとリビングルームは仕切りなく、つながっているのだ。美咲と美玲は和子夫人と風呂に入っていて今リビングルームにはいない。昌吾氏は眼鏡をかけて、新聞を読んでいて、律氏はビールを飲んでいる。

「突然で申し訳ないですが、水谷氏は推理小説というものに興味がお有りですか」

 律氏が訊ねると、水谷氏は頷いて

「大有りです。律さんも興味があるんですか」

「まあ、少々。折角なので、一冊貰ってくれませんか」

「いいんですか」

 水谷氏が興奮気味に言うと律氏は

「推理小説は好きなんですが一度トリックを知ってしまうと何度も読む気になれないんです。これとかどうですか。剣翔太の『暗い建物の殺し』。現実にあった事件の再現という形式を取ってる作品で、結末には驚かされますよ」

 と立ち上がって本棚の方に向かった。リビングルームの大きなソファの裏に大きな本棚があり、そこに様々な小説や論文が並んでいる。

 剣翔太の作品は読んだことはないが、寺橋邸内で見かけたことがある。確か、昌吾氏は剣翔太のファンだったはずだ。剣翔太は、本業は探偵の小説家で、実際にあった事件を小説風に再現して出版している。

「剣翔太。うーん、聞いたことがない作家ですね。ですが、折角なので頂きます」

 水谷氏は、律氏が本棚から取り出した一冊の本を受け取って言った。

「やや?これは興味深い」

「どうされましたか」

「いやいや、水谷さんのような若い者には関係ないよ。勿論律にも、だ。健康グッズだよ」

「昌吾氏は十分健康なように見受けられますけれど」

「いやー父さんは健康バカなんですよ。まあ健康に興味がないよりよっぽどマシなんですけどね」

「お前もこの歳になればわかる」

 昌吾氏は、新聞で見つけた健康グッズの情報をメモ用紙に記して言った。

 その時、リビングルームの扉が開いた。

「パンダのパンちゃん。ペンギンのギンちゃん。シーラカンスのシーちゃん!」

 元気にそれを繰り返して美咲が姿を現す。服は紫色のパジャマに着替えている。そして、続いて美玲が

「ライオンのライちゃん。シマウマのシマちゃん。フクロウのフク爺さん!」

 と元気にスキップしながら姿を現す。服は緑のパジャマに着替えている。

「フクロウだけ爺さんなんですね」

 水谷氏が呟いた。律氏は苦笑いすると立ち上がり

「さあ、二人とも寝なさい」

 と声をかけた。

「もうすぐ九時になるわよ」

 そう言いながら、頭にタオルを巻いた和子夫人も出てくる。

「はーい」

 二人は元気よく返事すると、おやすみなさい、と私に言って、和子夫人の寝室に駆けていった。和子夫人も二人を寝かすためについていく。

「水谷さん。風呂どうぞ」

 律氏が言うと水谷氏は遠慮気味に

「部外者が二番目に入るなんて偉そうですよ」

「昔の日本じゃないんだ。順番など関係ないだろう」

 昌吾氏がそう言ったので水谷氏はほっとして

「じゃあ先に入らせていただきます。鍵ってついてますか?」

「ついてなかったら恐ろしいな、ついてるよ」

 律氏は笑ってそう言った。水谷氏はそうですよね、と頷くと、開けっぱなしになっていた扉からリビングルームを出て、風呂に行ってしまった。なぜ鍵がついてるか訊ねたのかは少し違和感を覚えたが、とりあえず気にしないでおこう。

 少しして、和子夫人が戻ってきて、リビングルームでは、大きな机を囲んで昌吾氏、律氏、和子夫人が談笑をしている。昌吾氏と律氏、和子夫人は対面になるように座っており、昌吾氏の背後に、リビングルームの出入りの扉がある。私は隅の方の椅子に座りながら彼らの話に耳を傾けた。

「和子さんもそんなに叱らなくてもいいんじゃないか。美咲も美玲も、とても落ち込んでたぞ」

 昌吾氏が言う。和子夫人は首を横に振って

「いいえ。私は彼女たちを立派な女性に育てて、素晴らしい男性と結婚してもらって寺橋家の血筋を残していかなければならないのです。甘くして、彼女たちが堕落した子供になったり、彼女たちの身に何かあれば困るでしょう!」

 と叫ぶ。

「しかしな」

「父さん。和子を責めないでくれ。和子は和子なりの教育をしているんだ」

 律氏が言うが、昌吾氏は退かない。

「二人のためを思っているのはわかる。だが、今時の男性が堅苦しい女性を好むとどうして言えるんだ」

「堅苦しく育てている、なんて、そんな。そんなふうに育てた記憶は全くありません」

 和子夫人が机を強く叩いて反論をする。元々、口論が得意なタイプではない律氏は口を挟まず肩身狭そうに見守っている。

「厳しすぎるだろう。子供達に罰を与えるなど虐待とやっていることは同じ....いや、あんたがしていることは虐待だ」

「虐待と仰るのですか。私は子供を殴ったり叩いたりした記憶は全くありません」

 和子夫人が金切り声を上げ、律氏は思わず耳を塞いだ。その時、奥の部屋から小さい声が聞こえてきた。

「おかあさん、どうしたの」

 美咲の声だ。和子夫人の声に目を覚ましてしまったのだろう。

「俺が寝かしてくる」

 律氏はそう言うと席を立ち、リビングルームを出て、和子夫人の寝室へと去っていった。そして、律氏が出て行くのを見送って昌吾氏は近くに置いてあった自分の鞄を取るとゆっくり開けて、長細い棒を取り出した。和子夫人ははっとして、目を見開いた。

「これで二人を打っていたのだろう。この鞭で」

 昌吾氏はじっと和子夫人を見つめる。和子夫人は口をわなわなと震わせて何も言い返せずにいる。そして、その様子を見守る私の怒りは頂点に達しようとしていた。和子夫人が鞭を使って体罰を....。

「この鞭のことを律に言おうか?律はどんなふうに思うだろうな」

 昌吾氏は手元でその鞭を弄んでいる。和子夫人の様子を楽しんでいるようにも見えた。和子夫人はじっとその鞭を見つめている。そして場が膠着してきた時、リビングに繋がる扉が開き、律氏が帰ってきた。昌吾氏はその鞭を隠そうとはしない。

「やっと寝てくれたよ。和子もこれからはもう少し静かにしてくれ」

 律氏はそう言ったが、和子夫人は返事をしなかった。律氏はその様子から場の雰囲気を察して恐る恐る昌吾氏の方を覗き込んだ。真っ先に律氏の目は昌吾氏が手に持つ鞭の方に行った。

「これは、なんだ。なんなんだ。父さん、父さんのものなのか?」

 律氏の問いかけに昌吾氏は首を横に振って返した。

「じゃあ、誰の」

「これは、和子さんのものだ」

 昌吾氏は悲しそうにそう告げた。律氏は机を物凄い勢いで叩き、和子夫人を睨みつけた。和子夫人は流石に強気に返す余裕もなく、目を伏せる。

「和子、お前は何をやっているんだ。愚か者が。父さん、和子にはよく言っておきます。以後こんなことがないように....」

「そういう問題ではないだろう」

 動揺する律氏に昌吾氏が一喝した。

 律氏と和子夫人は無言で首を垂れている。昌吾氏は一度咳払いをしたあと、押し殺した声で

「和子さんには家を出て行ってもらう」

 と言った。

「なんで!」

 和子夫人が大声を上げた。

「子供に体罰するような女を置いてはおけない。寺橋電機の信頼にも関わる問題だ」

「体罰って、それはあの子たちがルールを破ったからやっただけなの。ルールなの。ルールなの!」

 和子夫人は狂ったようにルール、という言葉を繰り返したが、昌吾氏はそれを一蹴した。

「ルールだったら体罰をしても良いのだな。和子さん、あなたの考え方は十分わかった。幸運なことに、お前は女優だ。すぐに新しい相手が見つかるだろう」

 和子夫人は助けを求めるような目で律氏の方を見たが、律氏は深い溜息をつくだけだった。

「さあ、出ていけ。お前の荷物はお前の事務所の方に箱詰めして送っておく」

 昌吾氏が手に持っている鞭で和子夫人を指して言う。

「じ、じゃあ、あの子たちはどうなるのよ!」

 和子夫人は金切り声を上げる。昌吾氏はそんな和子夫人を軽蔑するような目で見て言った。

「律が預かる」

「じ、じゃあ、私の、私の美咲と美玲は....どうなるのよ!」

 パニックになった和子夫人は同じ質問を繰り返すが、昌吾氏は非情に言う。

「お別れだ。さあ、とっと出ていくんだ」

 昌吾氏は立ち上がり、リビングの窓を開けた。その窓は屈めば大人もギリギリ通れそうな小窓だった。

「なんで私がこんな小さな窓から出て行かなくちゃならないの!せめて、最後に、二人に会わせて」

 和子夫人は跪き、手を顔の前で合わせて言った。が、昌吾氏は許さなかった。

「二人に合わせればお前が何をするかわからない。さあ、出て行くんだ。おい、律、お前も何か言わないか」

 律氏は突然振られて戸惑いつつ小さくこう言った。

「お前の体罰はやはり許せない」

「くそ、覚えてろよ」

 和子夫人は律氏と昌吾氏に向かって吼えると、小窓から出て行った。昌吾氏はそれを見送ると手に持っていた鞭をぽいっとゴミ箱に投げ捨てた。そして、小窓を閉めると、名残惜しげに小窓の方をぼんやり眺める律氏に言った。

「律、あの女のことは忘れるんだ」

「あ、はい。すいません」

 律氏はそう言いつつも和子夫人のことを捨てられないでいる様子だった。そこからリビングルームは沈黙に包まれたのだが。私は誰かから見つめられているような気がして、リビングルームのドアの方から....。あの目は、どこかで見覚えのあるような目だ。これは、あの客人、水谷氏の目にどことなく似ているような。優しい目をしているが、どこか人を疑っているような目だ。

 私が少し見つめ返しているとその目が消えて、扉が開き、水谷氏が姿を現した。髪にはまだワックスは残っていたものの洗い落ちた部分も多く、少し印象が変わっていた。が、そちらの方が違和感がなかった。まだ学生だと言われても違和感ない容貌だ。

「とてもいい風呂でした。広い風呂を一人で使えるなんて幸せです」

 さっぱりとして気持ち良さそうな表情を浮かべて彼が部屋に入ってきた。入ってきてすぐ、重たい空気の流れるリビングルームを見て水谷氏は興味深そうに眉を顰めた。

「どうかされましたか」

「あ、もう上がったのですか、水谷さん」

 昌吾氏がハッとして言った。

「烏の行水、とよく言われます」

 そう笑いながらも、水谷氏は訝しげに二人を見ている。

「客人用の寝室は廊下を真っ直ぐ行って右に曲がった所にある。一番奥の部屋を使ってくれ」

「ありがとうございます。ですが、折角なので、十時ぐらいまで、少しここでゆっくりさせていただいてもよろしいですか」

「ああ、どうぞ。横空いてるんで座ってください」

 律氏の誘導に従い、水谷氏は律氏の横に座った。

「食べますか」

 ソファの前にある机のいかにも豪華な皿に丁寧に置かれた数枚のクッキーを指差して、律氏が言った。

「すいません、甘いものは苦手で、チーズケーキは大好きなのですがね」

「じゃあ、明日チーズケーキを買ってきますよ。近所にいい店があるんです」

「是非お願いします。あともしかしたら、明日、私の同胞のものが来るかもしれないのでよろしくお願いします」

 同胞の者?....あのメールの相手のことだろうか。

「それは....」

 律氏は断ろうとしたが、昌吾氏はそれを遮って

「わかった」

 と言った。律氏は何か言おうとしたが昌吾氏がそれを睨み、律氏は口を閉じた。

「そういえば、律さんはミステリー小説が好きなんでしたよね」

「ええ。古今東西様々なミステリーを読んできました。まあ、大体が父さん譲りなんですけれどね」

「昌吾会長はミステリーファンなんですね」

「まあ、わしも親父譲りなんだがな」

「昌吾会長の親父、となると、少年探偵団ですか」

「親父はどちらかというと、少年探偵団より海外物を読み漁ってましたな。シャーロックホームズとか、エルキュールポアロとかな」

「なるほど。古典的というと批判になってしまうのでしょうか。でも古典的で私も好きです」

「古典的ね。うむ。わしは若い頃、数作自分で書いてみて、出版社に送ったこともあるんだが、結局小説家にはなれなかったなぁ」

「父さんは小説家を目指してたんですか?」

「いいや、目指してはない。その頃から寺橋電機の後継として期待されていたから、目指そうにも目指せなかった、という方が正しいか。ただ、わしの作品がどれほど面白いのか、評価してもらいたかっただけだな」

 昌吾氏は名残惜しい様子ではあったが、しかし、その過去を楽しんでいるようでもあった。

「私はそろそろ」

 水谷氏はそう言って立ち上がった。もう午後十時か。

「おお、もう十時か。時が経つのは早いもんだ」

「今日はありがとうございます」

 水谷氏はぺこりと一礼するとリビングルームから出て行った。

 水谷氏が出て行くのを待ったかのように昌吾氏の表情が暗くなり、また和子夫人の話題になった。

「和子の体罰をお前は知っていたのか」

「いや、それは....」

 律氏は言葉を濁らせた。その様子を見て昌吾氏は溜息をついた。

「知っていたんだな」

「すいません」

「どうして止めなかった」

「それは....」

 律氏はまた言葉を濁らせる。

「お前にとって、和子と子供たち、どちらが大事なんだ」

 昌吾氏のその質問が刺さったのだろう。律氏はうっと声を漏らすと黙って俯いてしまった。昌吾氏はまた溜息をつく。

「その程度の気の弱さで、お前はうちの会社を担っていけるのか。わしはそれが一番不安だ」

 昌吾氏はそう言ってソファーから立ち上がった。そして、新聞を折り畳み机の上に丁寧に置くと、健康グッズに関することが書かれたメモを乱雑にポケットに入れてリビングルームを出て行った。律氏は昌吾氏が出て行ってから少し経つと、ゆっくり立ち上がり、とぼとぼとリビングルームを出て行った。結局後に残された私はちょっとずつ眠気に襲われていき、そのまま眠りの世界へと旅立ってしまった。


 


 翌朝起きてすぐ、何か起こったのだと私は察した。律氏が慌ただしくリビングルームをぐるぐる回っていている。そして、リビングルームのソファでは水谷氏が深刻そうに両手を顔の前でクロスさせて座っている。まだ朝の七時だ。そんな時間にこの様子とは、本当に何があったのだろうか。

「やはり、律さん。警察に連絡した方が良いと思います」

 水谷氏がそう促すが律氏は首を横に振る。

「いや、そう警察に連絡はできない。事は重大だ。慎重に処理しなければ、我が社の信頼に関わる。とりあえず、病死と処理するために....」

「しかし、警察に連絡するのがやはり定石でしょう」

「それはそうなのだが。くそ。誰だ、父さんを殺したのは」

 昌吾氏が殺された?まさか。昨日まで元気だったのに。そんな。

「子供たちはまだ寝ていますか」

 水谷氏が訊ねると、律氏は見てくる、と言ってリビングルームを出て行った。水谷氏が出て行くのを見て、スマートフォンを取り出すと部屋の隅の方に移動して、耳に当てる。

「もしもし。僕です、水谷です。まずいことになりましたよ。昌吾会長が死んだんです。どうやら他殺で。....本当に面倒なことですよ。....はい、はい。わかりました。では、僕はもうこの家を出て行っていいですね。....入れ替わりに来る?それは少々リスキーじゃありませんか。....了解です、では」

 水谷氏は電話を切ると足早にリビングルームを出て行こうと扉の方に向かう。そして、水谷氏と入れ違いに律氏が部屋に戻ってくる。

「どうしました?水谷さん」

「ちょっと部屋に物を置いてきてしまって」

「なるほど。出来るだけ早く戻ってきてくださいね。あなたもこの殺人事件の容疑者なんですから」

 水谷氏ははあ、と深く溜息をつくと部屋を出て行った。律氏は、慌ただしく部屋を回り続ける。

 その様子をぼんやり眺めながら私は、先程の水谷氏の電話を振り返る。相手は誰なのか。そして、あの会話はどういう意味なのか。そして、水谷氏は今から帰る....そうか、水谷氏が犯人なのか。今から逃亡を図ろうとしている。いや、それなら、何しに、電話の相手はやってくるのだろうか。水谷氏の共犯なら来るべきではない。

「おい、そこの、お前」

 律氏に突然呼ばれて私ははっとした。律氏は私の方をぐっと睨みながら近寄ってくる。

「何ぼけっとしてんだよ。お前がぼけっとしてるから父さんは死んだんだ。父さんは殺されたんだ。くそが。どう責任取ってくれるんだよ!」

 律氏はどんどん近寄ってくる。

「うちの会社はこれからどうなるんだよ!おい!子供たちは!お前はちゃんと世話できてんのかよ。おい!お前!大体....」

「....う」

 律氏に背中をどつかれて私は小さく声を漏らした。私は更なる攻撃を予想したが、律氏はそこで我に返ったのか

「ああ、何をしているんだ、俺は。それにしても、水谷はどこへ行った。まさか、あいつ逃げたのか」

 と叫んで今度は水谷氏を探しにリビングルームを出て行く。律氏が出ていき、扉がガン、と大きな音を立てて閉まった時、私ははっとした。和子夫人が殺したのではないか。和子夫人は昨晩の件で相当、昌吾氏に腹が立っていただろう。動機もある。和子夫人が昌吾氏を殺した。これが最もしっくりくる答えである。しかし、そう解釈しても納得できない謎はある。まず、あの正体不明の客、水谷氏は本当は何者なのだろうか。彼が何者であるか、はこの事件の本質に関係はないのだろうか。しかし、彼が来た翌日にこんな事件が起こったのだ。やはり、事件に関係があるのではないか....。

「荷物がなくなっている?あいつはどこいったんだ」

 律氏が怒鳴り散らしながら姿を現した。やはり、水谷氏はどこかへ逃走した。やはり、彼には裏があるのだ。この事件は和子夫人が犯人、ということだけで終われない何かがあるのだ。私はそう考えた。

 律氏はキッチンへ向かうと乱暴に冷蔵庫を開いた。そして、中から缶ビールを二本取り出すと、その場で開けて、口に流し込む。口に入らなかったビールが口から流れ出て、口元はビールで汚れてしまっている。それでも、律氏はどんどんビールを流し込む。あっという間に二本のビールは空になった。そして、酔った勢いで叫んだ。

「どこいったんだよ、あいつは!」

 運悪く、その前の大声で目を覚ました二人の少女が扉をゆっくり開けて恐る恐るリビングルームに入ってきた。律氏は慌てて口元を服の袖で拭う。

「お父さんどうしたの?」

 美咲が訊ねる。が、律氏は返事をしない。その様子が子供達にも不自然に見えたようで美玲も

「何かあったの?大丈夫?」

 と心配げに言う。律氏は少し間を置いてから消え入りそうな声で私を指差して言った。

「娘たちの面倒を見てくれ。二人とも、彼が遊んでくれるそうだ」

 私は唐突に話を進められて戸惑いつつも、これが私の仕事だということは当然忘れなかった。和子夫人がいなくなっても、和子夫人から命じられた仕事は変わらないのだ。私がそう思い、二人と遊びに行こうとした時、呼び鈴のチャイムが鳴った。



2



 小田憲は名探偵である。多分その事実に誤りはない、と自分で思っている。今まで色々な事件を解決してきたし、警察からの信頼もあるように思える。小説上にしかいないような、そんな名探偵に近い存在だとも思っている。助手と共に難解な事件を解決して回り、金に不自由することもなければ、対人に不自由することもなかった。依頼人と親しくなり今も個人的に会う機会がある、ということも多々ある。実際のところは本業は探偵ではない。だが、色々あって、事件に巻き込まれ、一躍有名人になり、探偵でもないのに、様々な人が事件の調査を依頼してくるという始末だ。

 そして、今、小田は事件現場に向かっている最中だった。しかし、その事件現場というのが山奥にあり、車の運転免許を取得して間もない彼にとっては少々厄介な道だった。

「これだけ頑張って走らせてつまらない事件なんてこと、まさかないよなぁ」

 ハンドルをぎゅっと両手で握りしめて言う。定期的に車は断崖絶壁を登ることもあり、正直小田にとっては地獄そのものだった。片手をハンドルから離し、一度冷や汗を拭う。しかし、また、ハンドルを握って少しすれば冷や汗でべとべとになってしまうのだ。ラジオから流れる今流行の、耳にタコができるぐらい聞いた曲も集中力を削ぎ、小田を眠りの世界へと引き寄せる。

 ぐおおおおおん、という物凄いエンジン音で小田の意識は眠りの世界との狭間から一気に現実へと引き戻された。どうやら、枝がタイヤに絡まったようである。

「僕はやっぱ山派じゃなく、海派だな」

 そう呟いて、車を降りると後部のタイヤを確認する。確かに、細長い枝がタイヤと車体の間に挟まっている。しかも、この枝の形が嫌らしくて、ちょうどタイヤに引っかかるような位置で曲がっている。小田は何度か引っ張ってみたが、取れそうにない。仕方なく、タイヤと車体の隙間に片手を伸ばし、先端の曲がった先を一度折って回収した。すると、先程までなかなか抜けなかった残りの部分も自然と取れて、小田の足元に落ちた。

 小田は手を払うと、再び車体に乗り込み、エンジンをかけた。

「もう勘弁してくれよ」

 小田は再び車を発進させた。

 それからずっと、いくら進んでも、木、草、土、の三つで構成された光景が広がる。花は視界に映らない。単調な風景。いくら緑が好きな人でもここの風景が好きだという人はまずいないだろう。

 車のナビゲーションシステムが目的地まで残り一キロだと示している。しかし、こういう場所での一キロはそう短い距離ではない。ラジオの番組が終わり、高校野球の生中継が流れる。小田はラジオのチャンネルを変えるが、他の局では、小田の興味の完全射程圏外の料理や、釣り、落語が流れている。小田は諦めて、チャンネルを高校野球中継に戻した。ちょうど小田の地元の高校の試合だった。小田の地元の学校は二死満塁の好機を迎えている。小田がそれを応援しようとした時、突然、ラジオの音声がザザザザザと乱れ始める。どうやら山奥に入りすぎてついに圏外になってしまったようだ。

「本当についてないな」

 小田は半ば呆れ気味にそう言い、溜息をついた。

 それから数分して、ナビゲーションシステムが目的地到着を告げた。その頃には高校野球中継の音声は復活していた。

「これが寺橋家の別荘か」

 小田は目の前に聳え立つ、江戸時代の屋敷風の建物を見て言った。そして、その建物の前に駐車場のようなスペースがあったので、小田は慎重にそこに車を停車させた。運転初心者にとって車の停車は建物にぶつけないか、と冷や冷やしてならない、一つの山場である。

 小田は額の冷や汗を拭うと、少し身なりを正して車を降りた。

 小田は、玄関に、チャイムもなくて鍵もないのでは、などと変な期待を抱いたが当然、そんなことはなかった。チャイムを鳴らすとすぐ、背の高い堅いの良い男が姿を現した。

「おはよう御座います」

 小田が律儀に挨拶すると、男はぶっきらぼうに

「あなたは誰ですか。何をしに来たんです。こっちは今忙しいんですけど」

 と返した。小田は胸ポケットから折り畳まれた紙を取り出すとそのまま相手に渡した。

「昌吾会長から呼ばれてきました。小田さとしと言います。さとしは憲法の憲です」

「父さんから呼ばれた?なるほど」

 男は紙を開いて確認する。そこには、招待状、小田憲様へ、と書かれていて、最後には寺橋昌吾、と綴られている。

「なるほど。そういえば昨日も変な奴が来たが、その男も君の仲間なのか?」

 寺橋律がそう思ったのは、小田と水谷に少し似た点があったこともあるだろう。背の高さこそ、水谷より小田の方が遥かに高いが、色白な点や、少し謎めいた空気を纏っている点が似ているのだ。

「水谷京君のことですか」

「そうだ、そいつだ。和銅電機のスパイだと名乗っていたが」

「あれは嘘です。探偵として来ました。彼は僕の助手をしてくれています」

「探偵?何の用だ」

 男が吼える。

「先程、昌吾会長のことを父さんと呼びましたね。じゃあ、あなたは寺橋律さんですか」

「そうだ。で、お前は何しに来た。そして、水谷はどこに行った」

 寺橋律が怒鳴るが、小田は冷静に

「僕は、奥さんの体罰問題について調査するために来ました。あと、水谷は帰りました。もう用が済んだからです。そして、僕は事件を解決しに来ました」

「事件?」

「そうです、事件です。会長、殺されたんでしょう」

 寺橋律はぎょっとして小田の方をまじまじと見つめる。

「なぜ知っている」

「水谷君から電話で聞きました。ああ、メールでも聞きましたよ」

「あいつ、言いふらしてるのか!」

 寺橋律がまた吼える。が、それを抑えて、小田が

「いえいえ。僕にだけ教えてくれました。事情はわかっていますよ。内密にこの事件を処理したいのでしょう。そういう時こそ、僕の出番です」

 と言ったが、寺橋律はピンと来ない様子だった。

「つまり、警察を呼ばずに事件の犯人を捕らえて、会長の死は病死か何かにしてしまいたいのでしょう。そういう時に使うのが探偵ですよ」

 この説明でやっと納得がいき、寺橋律は頷いた。

「なるほど。では、早速事件の調査をしてくれ。死体のある部屋へ案内しよう」

 

 寺橋律の案内で辿り着いた事件現場は、殺人事件の現場を見慣れている小田にとってもやはり、胸に刺さるものがあった。

 部屋の中央で寺橋昌吾が倒れている。胸は血でぐちゃぐちゃ、刺し傷の数は遠目では確認できない。目は驚いたように見開いて、口も大きく開いている。大の字に倒れるその死体は、確かに寺橋昌吾のものであった。椅子が倒れているところから想像するに椅子に座っている時に襲われたのだろう。

「二、三カ所の刺し傷か」

 小田はひらりと死体の横にしゃがみ込み、確認して言った。

「僕がもう少し早く来ていれば。しかし、血のせいでよく見えないな」

 ぶつぶつと何か言いながら死体の周りを歩き回る小田を、寺橋律は不安げに見守っていた。

「この部屋は鍵がかかるのですか」

 小田が訊ねると、寺橋律は頷いた。

「なるほど。それは内から?それとも外から?」

「内側からだ。鍵がかかっている状態でこの部屋に入るなら、この部屋の鍵が必要になるはず」

「なるほど。死体発見時、鍵はかかっていましたか」

「かかっていなかったはずだが」

「では、昨晩、あなたが最後にこの部屋を確認しようとした時、鍵がかかっているのを見ましたか」

「寝る前に、父さんに用があって入ろうとしたんだが、鍵がかかっていて、入れなかったのを覚えている。嘘だと思うなら、水谷とかいう助手に聞けばわかる」

「いえいえ、疑いませんよ。ところで、この部屋に窓はないのですか」

「うむ」

「つまり、この事件の犯人はこの部屋の鍵を所有していた人物だ、と。この部屋の鍵はどこにありますか」

「子供たちを除いてこの家の身内全員持っていますし、予備鍵がリビングルームの棚にあります」

「なるほど。しかし、昨晩、この家に侵入者が入った可能性もあるんですよね」

「わからないな。戸締まりはしたが、まあ、ここの広さのせいもあって、完全な戸締まりはできないんだ」

 小田はなるほど、と繰り返して何度か頷くと、部屋を出て行った。寺橋律は慌ててそれについていく。

「どうかなさいましたか」

 足早に歩いていく小田に追いついて寺橋律が訊ねると小田は

「今日の午後暇ですか」

 と寺橋律の質問を無視して言う。寺橋律は半ば呆れ気味に、

「娘たちと、北宝公園に行くつもりだが」

「そうですか。北宝公園で会いましょう。午後四時頃でどうでしょうか」

「娘たちに父さんの死を悟られたくないのだが」

 応接間に入る扉を開けながら寺橋律が言う。

「そこは配慮します。協力しないなら、こちらもあなたに協力できなくなるケースがありますが、そこはご理解の上でよろしくお願いしますね」

 小田は応接間を足早に通り抜けると、寺橋律の返事を待たずに玄関の扉を開けて、寺橋邸を後にした。そのまま車に乗り込んでから、寺橋邸の方を見ると、寺橋律が唖然としている。

「本当に面倒な男だ」

 エンジンをかけて、そのまま車を走らせようとして小田ははっとして、がっくりと肩を落とした。

「今度はあの山道を降りるのか!?」




「おかしいですね。律さんはもっと律儀な男だったはずですが」

「本当に?」

「はい」

 小田と水谷が互いに砂糖をいっぱい入れたコーヒーを口に運びながら、『楽々カフェ』店内で話し合っている。『楽々カフェ』は地元の人から愛されている小さなカフェで、値段の安さや、居心地の良さなどの魅力により、多くの人が話し合いや勉強、読書の場として利用する。

「まあ実の父が殺されれば、興奮するのも仕方ないかもしれないですね」

「まあそうだね。あと、彼女の所在は確認してくれた?」

 彼女とは寺橋和子のことである。あの日、別荘を出て行った後、どこに行ったかわからなかったのだ。

「近くのホテルを回ったら見つかりました」

「大変だっただろう」

「いやいや、すぐ見つかりましたよ。まあ人気女優ですから」

「で、彼女のアリバイは確認できたかい?」

「できましたよ。十分すぎるアリバイがあります。彼女はつまり午後十時頃から翌日の午前二時頃まで、ホテルのバーで酒を飲んでいたことが確認されています。それを見かけた客も複数いますし、バーテンダーの証言も得られました。その後は、ホテルに泊まったようです。頼み込んだら防犯カメラを見せてくれました。そこには確かに、ホテルの宿泊室に入る和子夫人の姿がありました。そして、部屋から出てきたのが、午前八時過ぎ。十分なアリバイでしょう。」 

 水谷は肩にかけていた茶色の鞄からメモ帳を取り出して読み上げた。

「ホテルの何階に、彼女は泊まったのかもわかっている?」

「十五階です。窓から飛び降りることはできませんよ」

「おお、素晴らしい。ありがとう。他にわかったことは?」

「直接和子夫人から話を聞くことができなかったので、情報はこれぐらいしかないです。しかし、午後十時に僕が就寝した時、昌吾会長は生きていたので、いくら早くても犯行時刻は午後十時以降。更に僕が昌吾会長の死体を確認したのが、翌日午前七時。僕の発言が虚偽でない限りは、和子夫人のアリバイは成立します」

 水谷は一気に喋ったせいで喉が痛くなり、コーヒーを一気に飲み干した。

「本当にありがとう。なかなか緊張しただろう?」

「少し冷静に振る舞うのが大変でしたけど。そこは普段の小田さんを真似る感じで。ところで、この情報で十分ですか」

「素晴らしい!この情報はこの事件の容疑者の幅を一気に狭めてくれた!本当に助かるよ、水谷君」

 小田は拍手して言った。その音に反応した周囲が、怪しいものを見るような目でこちらを見てくる。が、小田はそれにお構いなしで興奮した様子で喋る。

「本当に君には迷惑をかけた。和子夫人が追い出される様子を盗み見してくれたりとリスクのあることもしてくれた。本当に助かったよ」

 水谷は誇らしげに思いつつも、肩を窄めて

「小田さん、声大きいですよ」

 と小田を咎めた。小田は、すまない、と謝ると少し姿勢を正して、また話し始めた。

「午後四時から、律さんに話を聞きに行くが勿論来るね」

「当然です。でも、律さん、来ますかね」

「僕が捜査を中断すれば彼は警察に依頼せざるを得なくなる。だから、絶対乗ってくる」

「でも、別の探偵に依頼すれば済む話でしょう」

「彼はこの事態を出来るだけ他者に知られずに収束させたいんだよ。だから、彼は他の探偵に依頼することもあり得ない」

「なるほど。でも、いいんですか。小田さんの当初託されていた仕事は、和子夫人の体罰を暴くことでしたよね。こんな殺人事件の捜査....」

「お金は問題ない。律さんからがっぽり取ればいいさ」

「でも」

「僕にもいい加減休暇が必要だって?休暇なんて取ってたら死体が腐ってしまうぞ」

 これを言われるのは何度目だろうか。『休暇なんて取ってたら死体が腐ってしまうぞ』は水谷が小田と出会った頃からの彼の口癖である。そして、毎回それを言われるたび、水谷の心もウキウキしてくるのだ。

「こんなこと話していたら、もう三時だ。遅れるわけには行かない。行こう」

 小田はコーヒーを一気に飲み切り、立ち上がった。




 渋滞もなく、車でスムーズに進めたので、約束の時刻より十分近く早く着いたが、既に寺橋律はベンチに座って待っていた。小田は時計を見て、自分が遅刻していないことを確認し、寺橋律に向かって手を上げた。寺橋律はそれに気づいて、立ち上がり、小田の方にやってくる。水谷は小田の一歩後ろに立って、メモ帳を準備した。

「こんにちは寺橋さん」

「やあ、小田さんに水谷さん。で、何を聞きたいんです?」

「簡単な職務質問ですよ。とはいえ、立ったままやるのも変な話です。そちらのベンチに座りませんか」

 小田は駐車場側にあるベンチを指差して言った。が、寺橋律は首を横に振った。

「立ったままで大丈夫だ。早急に済ましたい。で、質問はなんだ」

「わかりました。まず一つ目。昨晩から今朝にかけて、あの別荘にいた人が容疑者です。誰がいましたか」

「私と和子です」

「娘さんたちを容疑者から外すのですか」

「子供に人が殺せるわけがない」

 むすっとして寺橋律は言ったが、小田はじっと彼の方を睨んだ。

「全員上げてください」

「わかったわかった。私と和子と美咲、美玲。ああ、あと、父さんも一応いたと言えるか。被害者ですけれど」

「わかりました。では、次に。動機の観点です。昌吾会長は誰かから恨まれていたりしましたか」

「和銅電機の社員からは恨まれていたと思います。和銅電機の社員といえば、あなたの助手も容疑者の一人でしょう」

「そ、そんな!」

 水谷はかっとして言い返したが、小田はそれを止めて

「水谷君。落ち着きなさい。君も容疑者の一人であるのは事実だ」

「そんな....」

 水谷はがっくりと肩を落とす。そんな水谷をほっておいて小田が話を進める。

「他に誰かから恨まれていた、とか近所付き合いが悪かった、などはありますか」

「ないです。近所付き合いはとても良好でした。父さんは立派な人でしたから」

「なるほど。ありがとうございます」

 小田は頭を下げた。水谷も続けて頭を下げる。その様子を見て、寺橋律が訝しげに言った。

「しかし、性格が変わりましたね、水谷君。今は未熟な弟キャラに見えるが、あの時は立派で本当に優秀なスパイに見えた。どちらかというと名探偵側の人に見えましたよ」

 水谷は褒められたのか、褒められていないのか分からず、反応に困ってしまったが、小田がそれをカバーして

「水谷君は立派で優秀な弟キャラだったんでしょう」

「なるほど!面白い!」

 そう言って寺橋律は声を出して笑った。小田もそれに合わせて笑い出す。水谷は不気味で仕方なくなり、一歩後ずさった。小田は水谷に引かれていることに気がついたのか笑うのをやめて

「今日はありがとうございました。明日までに犯人を見つけましょう。明日朝、そちらの別荘に行かせていただきます」

 と言い、もう一度頭を下げた。

「こちらこそありがとうございます。それにしても、すいませんね、昼間は取り乱してしまって。無礼な物言いをしたでしょう。お許しください」

「気にしてませんよ」

 小田は飄々と言った。

「喉が渇いたな。水谷君、駐車場の自販機で買ってきてくれないか」

「小田さんはいつも通り、メロンソーダでいいですか」

「当然。律さんも喉が渇いたでしょう?何にします?」

「コーヒーをお願いします」

「了解です」

 水谷が駐車場の方に行くと、すぐ、公園の遊具から二人の少女が駆けてきた。美咲と美玲だ。二人とも砂遊びをしていたのか服が茶色っぽくなっている。二人にはこの事件を悟られたくないという寺橋律は少し表情を強ばらせた。

「おとうさーん。いっしょにあそぼ!あそぼ!」

「今日はまーくんはいないのかい?」

 寺橋律は美咲と美玲の頭を撫でながら尋ねた。

「うん。いない。留守番してる」

 その会話を見ていて違和感を覚えた小田が会話に割り込んで言った。

「まーくん?」

 それを訊ねられてぎくっとして寺橋律は目を逸らした。

「別荘にいる人は全員教えてください、と言ったでしょう!」

 小田は語気を強める。美咲と美玲は二人で可愛らしく不思議そうに小田と寺橋律の顔を見ていたが、美咲はぽんと手を叩いて言った。

「おじさん、まーくんについて聞いてるの?」

「そうだよ。教えてくれるかい」

 小田が優しい声で尋ねる。

「えっとね、まーくんは私たちが幼い頃からいるの!私たちと遊んでくれて....」

「使用人かな?」

「使用人?」

 美咲が首を傾げる。

「お世話をしてくれたり、遊んでくれたり、絵本を読んでくれたり....」

 小田が説明すると先程まで黙って話を聞いていた美玲が

「それそれ!!!」

 と叫んだ。

「ありがとう。君たちのお父さんにはもう少し話があるから、ちょっと向こうで遊んで待っているんだ」

 小田がそう優しく諭すと、美咲と美玲ははーい、と元気よく返事をして、二人で手を繋いで遊具の方へとかけて行った。それを見送ってから、小田が押し殺した声で問い詰める。

「なぜ、まーくん、というその使用人のことを隠したんです」

「そ、それは、えっと。彼は犯人ではないと思ったから、です」

 口調で嘘だというのはすぐにわかった。小田は、そのまーくん、という人物が鍵を握ると察し、さらに寺橋律に問う。

「その使用人はいつから、寺橋家で働いているんですか」

 寺橋律は額に流れる汗を拭き、舌が絡れながらも必死に

「子供たちが産まれて数ヶ月ぐらいしてからですよ」

 と答える。

「まーくん、という使用人の本名は?」

「ええと。その」

 寺橋律は困った様子で頭を掻いた。それを見て小田がさらにさらに責め立てる。

「隠し事をするんですね」

「ああ、わかった。許してくれ。将大。鹿田将大だ」

 寺橋律は完全にパニックに陥っていた。

 良いタイミングなのか悪いタイミングなのか、飲み物を自販機に買いに行っていた水谷が戻ってきて

「はい、買ってきましたよ」

 人の良い笑顔を浮かべて言ったが、小田は、回れ右をして、水谷に

「帰ろうか。興ざめたよ」

 とわざと寺橋律に聞こえる声量で言った。水谷は戸惑った様子で小田と寺橋律の顔を見比べる。

「お待ちください、えっとその」

「まさか、そこまで嘘をつかれるとは」

 小田はさらに追求しようとしたが、寺橋律は必死ではぐらかして話題を変えた。

「あ、えっと、それにしても、よくあの山道を車で登って来られましたね」

 小田は溜息をついて応じる。

「まあ、なかなか大変でしたけど」

「明日は私が迎えに行きましょう」

「ああ、大丈夫ですよ。大丈夫。明日は立派で優秀な弟キャラ君に運転してもらいますから」

 小田は後ろにいる水谷の肩をぽんぽんと叩いた。




「まさか、本当に僕に運転させるつもりじゃないですよね」

 北宝公園からの帰り道、水谷がハンドルに手をかけながら言うと、助手席に座る小田はにこっと笑って

「立派で優秀な弟キャラ君、よろしく」

 と煽る。水谷はやれやれ、と首を小さく横に振った。

「いつまで、そのあだ名続けるんです....」

「この事件の関係者を整理していきましょう」

 突然、真面目モードに切り替わった小田が水谷に被せるように言った。

「あ、はい!」

「ぐだぐだ、冗談を引っ張っても事件は解決しないからね。立派で優秀な弟キャラ君」

 小田が真面目モードなのか不真面目モードなのか全く見当がつかず、水谷はとりあえず、真面目モードと捉えて話を進めることにした。

「まず、寺橋律。彼の興奮した様子はやはり怪しいですね」

「そうだね。動機もある」

「動機?なんでしょう」

「昌吾会長が死ねば次の会長は誰になります?」

 水谷ははっとして

「そうか!昌吾会長が亡くなれば、次の会長は当然、その息子、寺橋律になるということか。なるほど。これは十分な動機だ」

 とうわずった声を出した。

「立派優秀弟君、落ち着いて。まだ彼が犯人と決まったわけではない。例えば、和子夫人」

「しかし、彼女には十分なアリバイがあります」

「しかし、彼女が他者を利用して昌吾氏を殺した可能性は否めない」

「利用した?」

「例えば、寺橋律」

「うーん」

「そして」

 小田は意味ありげに間を置いてから言った。

「二人の子供たち、美咲、美玲」

 水谷は片手をハンドルから離し、食ってかかって言い返した。

「いやいや、まさか。子供ですよ」

「しかし、体罰を受けていた。昌吾会長を殺すように命じて、しなければ殴る、と脅していたのかもしれない」

「いや、しかし」

「刺し傷は複数。これも子供だからこそ、なのかもしれない。どれぐらい刺せば死ぬのかわからないから何度も刺した。何度も何度も刺した」

「それは大人でも同じでしょう。どれぐらい刺したらよいかわからないから何度も刺した」

「その通り。だから、あくまで仮説だよ。そして、別の方向から子供が犯人である可能性はない」

「別の方向?」

「物理的に不可能なんだよ。彼女たちの背丈では、昌吾会長の部屋に入ることはできない。あそこの鍵穴は高いんだ。さっき公園で見かけた限り、彼女たちの背丈は平均的な五、六歳の子供より小さい。彼女たちには鍵穴は開けられないだろう」

「これは外部犯でない限り、容疑者全員に可能性がある話ですが、鍵を使わなくても、用がある、と言って昌吾会長に内から鍵を開けてもらうという手もありますよ」

「その通りだ。けれど、昌吾氏は椅子に座っているところを犯人と争って椅子から落ち、落ちたところを刺されて死んだようなんだ。つまり、刃物で刺す前に、犯人と昌吾会長は争っているんだよ。子供がもし昌吾会長を襲っていたら、昌吾会長がそれに負けて椅子から落ちるなんていうことはないでしょう?」

 水谷はうむぅ、と唸った。小田はその様子を楽しむように笑って話を続ける。

「そういえば、明日、大事な調査をする予定だけど、水谷君も来れる?」

「すいません。明日は旧友と会う用事があって」

「了解。ところで、さっきから水谷君はどこに向かっているんだ?」

「どこって、うちの事務所....あっ」

 水谷は驚いて声を上げた。慌てて近くのコンビニに車を入れる。

「まさか、僕との会話に熱中して一キロも事務所を通り過ぎてしまうとは。流石だね、立派優秀弟君」

 水谷はちょっとむすっとして

「非立派不優秀兄君が運転すればよかったのに」

 と言った。それを聞いて、小田は突然、腹を抱えて笑い出した。水谷は予想外の反応に驚き、引き気味に

「どうしましたか?」

 と訊ねると小田はひーひー笑いながら答えた。

「不優秀じゃなくて、非優秀だろう」

 後日、不優秀も非優秀も、非立派も不立派も、そんな表現がないと知ることになる。


 


 翌日早朝、小田は目を覚ました。冷蔵庫から朝食のヨーグルトを適当に取り出すと、一気にスプーンで食べきり、ヨーグルトをゴミ箱に捨てると、すぐに服を着替えて家を出た。事務所の方に寝泊まりすることも多い小田だが、今日の調査場所が、自宅の方が近いので、自宅で夜を過ごした。自宅で朝食を食べるのは数日ぶりである。

 まだ午前五時で、大体の車道に、車は走っておらず、目的地まではほんの数十分で辿り着いた。目の前に聳え立つ豪邸の表札を確認する。『寺橋』。確かに、ここが寺橋家の家だろう。まさか、兵庫に、しかも、家のすぐ近くにあるとわかった時は、小田も驚いた。

 呼び鈴を鳴らすと、腰の曲がった老人が姿を現した。額の皺や、真っ白の髪を見限り、六、七十歳だろうか。衣服は立派で、とてもよく似合っており、それが更に、昔の海外の小説に出てきそうな執事のイメージに重なる。

「どちら様でしょうか」

 声もよく通っており、小田は緊張しながら名刺を渡した。

「小田探偵事務所の小田と言います。今日は、寺橋家に勤める使用人の方について伺いにきました」

 当然、目的は謎の使用人、鹿田将大について情報を集めるためである。

「探偵の方ですか....使用人が何かしたのですか?」

「いえ、そういうわけでは。立ち話は疲れますし、中にあげてもらえますか」

 そう小田が提案したが、老執事はきっぱりとそれを断った。

「ご主人が帰ってくるまでは中に人をあげることはできません」 

「わかりました。では、本題に入りましょう。僕が聞きたいのは一つです。ここの使用人の中で、昌吾会長たちと共に別荘へと向かった使用人について伺いたいのです」

 小田が説明すると老執事は首を傾げて、小田の目をじっと見つめた。

「あなたは本当に探偵ですか」

「え?」

 小田も首を傾げる。老執事は不思議そうな表情のまま、小田に説明する。

「使用人は誰も向かっておりませんよ。別荘に向かったのは、ご主人様、律様、和子様、美咲様、美玲様、の五人だけでございます」

「そんなはずは」

「お引き取りください」

「いや、しかし、鹿田将大という使用人が....」

「お引き取りください」

「でも....」

 門が閉められ、老執事は屋敷の方へと消えて行った。小田は何かが分かりそうで分からない、それが悔しくて自分の頭を叩いた。


 狐につままれた気分のまま、小田が向かったのは、兵庫県警である。兵庫県警には小田が親しくしている刑事が一人いる。彼なら、鹿田将大という謎の人物について調べてくれるだろう。

 数十分、入口の受付前にある椅子に座って待っていると、メガネをかけた男、小田の知人の刑事である、内田警部が現れて言った。

「調べたところ、そんな名前の人物は見つかりませんでした」

「本当に?寺橋家の使用人ですよ?」

「はあ。嘘をついてどうするんですか」

「いや、となると。そんな馬鹿な」

「何が馬鹿なんですか。本当の話ですよ。今にも過去にも、寺橋家使用人、鹿田将大なんていう人物はいないです」

 

 結局、その日の小田の調査は何の成果もなく終わってしまった。しかし、その日の晩、水谷から送られてきた「犯人は分かりましたか」というメールにはこう答えた。

「完璧です。明日をお楽しみに」と。


 


 水谷の運転の元、一行は寺橋邸に向かっていた。水谷は汗を流しながらハンドルを両手でしっかり握る。

「水谷君、申し訳ないね。運転」

「帰りは何が何でも運転してもらいますよ!」

 水谷は助手席に座る小田を横目で睨んだ。

「わかったわかった。帰りは運転するよ。それより、今は事件に集中だ」

「事件に集中?犯人はわかったんでしょう?」

 水谷は何気ない様子で聞いたが、小田にとってはひやりとする質問だった。小田は未だに犯人がわかっていない。寺橋律か、鹿田将大か。そこが未だに分からないのだ。

「ま、まあ。わかってはいるが。しかし、まだ捕まえられてはいないだろう」

「確かにそれはそうですね」

 小田は何とか言い逃れできたと胸を撫で下ろした。水谷はギョッとして訊ねる。

「まさか、犯人逮捕で一芝居打つわけではないですよね」

「それは大丈夫だ」

「もう一芝居打つのは勘弁ですよ。僕が毒殺される演技をしたり、突然狂って発狂する演技をしたり、果てには女装させたりもしましたよね」

 うんざりした調子で水谷が言ったので、小田は面白くなって、からかう。

「毒殺の演技は上手かったよ。本当に死んじゃったのかと思ったよ。突然狂った演技をしたあの時はすまなかった。狂った演技をさせといて犯人を取り逃してしまった。女装は....悪くなかったよ、またする?」

「しませんよ」

「まあ、ああいう修行のおかげで、今回の事件の、スパイのなりすましも成功したってことで」

 と小田は適当に返して、窓の外をぼんやり見る。どうしようか。まだ事件の犯人はわかっていない。誤魔化すことはもうできないだろうし。本当にどうしようか。小田は頭を悩ませるが、なかなか名案は降ってこない。

 突然、小田はあ、と声を上げた。名案が降りてきたわけではないが、聞き忘れていた重要な問題を思い出したのだ。

「水谷君、君は鹿田将大、という人間を知っているかい」

 内心、小田は、知っている、という回答を期待していたが、そう都合良くはいかなかった。

「知りませんけれど。ですが、誰です?」

「ああ、そうか。気にするな」

 小田は額を押さえた。最後の希望も打ち破られた。

 そうして、名案が降りてこないまま、寺橋邸が視界に見えてきた。寺橋律が屋敷の前に立って待っている。とても忙しない様子だ。

「どうしました、小田さん?着きましたよ」

「うん?ああ、おっけいおっけい」

 何がおっけいなのだろうと自分で思いながら小田は車を降り、まあ何とかなるはずだ、と早歩きで寺橋律の方へ向かう。寺橋律はよく来てくれた、というよりはやっと来たか、という様子だった。

 リビングルームには雑然と物が散らばっている。和子夫人がいないせいでなかなか片付けができていないのだろう。小田はソファに腰掛けて、指を顔の前でクロスさせる。

「そのポーズは水谷さんもしていましたね。小田さん譲りだったとは」

 寺橋律が笑うと小田は真面目な表情で

「シャーロックホームズ譲りです」

 と返したのだが。その時、小田の視界に、寺橋律の背後に、妙なものが映った。その妙なもの、が起爆剤となり、小田の脳内で今までの記憶の断片が一気に走馬灯のように駆け巡った。ああ、この快感は、そうだ、まさに、それなのだ。小田は過去にこれを味わったことが数十回ある。そう、これは、事件が解決する時の、ひらめき。

 小田は突然、立ち上がると寺橋律を押しのけて、その妙なものの方へ向かう。そして、乱雑にその物についている名札を確認して、小田の興奮は最高潮に達した。

 その、熊のぬいぐるみ、テディベアの首元にかかっている名札には丁寧に整った字が並んでいた。『まーくん』。そう、これが謎の使用人、鹿田将大の正体だったのだ。


「全ての事件の謎は解けましたよ。犯人は寺橋律さん、あなたしか考えられない」 

 小田はきりっとした目で寺橋律を睨みつけた。寺橋律は一瞬たじろいだがすぐに、立ち直って抗議の声を上げるのかと思われたが、彼は抗議はせずにその場にへなへなと崩れた。その様子を見て小田は自分の推理が正しいことをを確信する。しかし、水谷は何が何やら、という様子なので、小田は推理の続きを語ることにした。

「この事件はとても単純な事件なんだよ、水谷君。ただ、様々な偶然と仕組まれた必然が絡み合って、複雑に見せていただけなんだ」

「複雑?」

「鹿田将大、という僕が昨日一日を使って探していた使用人は実際はいない。実際は、テディベアの名前だったんですよ」

「鹿田将大?さっき車で聞かれた時もわからなかったんですが、どういう成り行き何ですか」

「実は、僕は昨日一日を使って鹿田将大という人物を追っていたんだよ」

「というと?」

「順を追って説明しよう。まず、最初、昌吾会長が殺された時、容疑者は寺橋律さんか和子夫人の二人だった。しかし、和子夫人にアリバイがあることがわかり、僕の中では犯人は寺橋律さんで確定した。しかし、公園で僕の確信を揺るがす出来事が起こった。そう、それが、新しい容疑者の浮上。新しい容疑者とは、使用人、鹿田将大という人物のこと。子供たち二人がその使用人の存在を認めたため、僕はその使用人はいるのだな、と思った」

「ちょっと待ってくださいよ」

 水谷が口を挟んだ。

「どうしたんだい?」

「今、小田さんが語るような出来事、公園でありましたっけ」

「そう、そこが偶然、の部分なんだよ。いや、遠回しに言えば必然だったのかもしれないけれど。つまり、水谷君が飲み物を買いに行っている間に起こった出来事なんだよ。もし、あの場に水谷君がいれば、すぐにそれを否定しただろうね。そんな人物は見かけていない、と。ただ、水谷君がいなかったからこそ、寺橋律さんが嘘をついたというのはある意味必然とも取れるかもしれないね。寺橋律さんは、鹿田将大という実在しない人物、というと語弊があるかもしれませないけれど、実在するぬいぐるみを人間だと語ることで、僕の頭に新たな容疑者候補を作り出した。そして、僕はそれにずっと悩まされて、犯人の分からないまま、今日を迎えたんだよ!しかし、なかなかこの二人のうちどちらが犯人か絞り込むことができない。今思うと恥ずかしいことだ。まさか、僕は人間とぬいぐるみ、どちらが犯人なのか、を考えていたのだからね」

「じゃあ、鹿田将大という名前は、寺橋律さんがその場で思いついた物なんですか?」

「いいえ。一応、あのぬいぐるみには『まーくん』という名前があるようだね。いや、もしかしたら『まーくん』ではなく、『くまくん』という名前なのかもしれないね。幼い子供は自分の言いやすいように名前を変換してしまうことがあるからね。『まーくん』だから将大。鹿田に関しては僕の推測だが、熊田、だと捻りがなくばれるかもしれない、だから、熊ではなく鹿にしたんじゃないかな。まあ、少しでも凝った方が安全だ、という犯罪者の心理だよ。どうでしょうか、当たっていますか」

 小田は床にしゃがみ込んだままの寺橋律に訊ねた。寺橋律は小さく頭を縦に振る。

「そういえば、娘さんが読み聞かせをして遊んでもらった、と言っていたんですが、それは、『まーくん』が読み聞かせたのではなく、『まーくん』に読み聞かせていたんですね、娘さんが。この家の英才教育や娘さんの年齢からすれば考えられない話ではないでしょう?」

 小田の質問に寺橋律は頷く。

「あなたは、迂闊だったんです、寺橋律さん。今、熊のぬいぐるみをそこに置きっぱなしにしたのも迂闊ですし、容疑者が少ない状況で昌吾会長を殺したのも迂闊です」

 小田はそれだけ語ると、ぐっと伸びをして、リビングルームを出て行こうとした。

「警察に言われるんですか。私の娘たちに、親殺しの娘、などというレッテルを貼るのですか」

 寺橋律はか細い声で訊ねた。小田はにこりと笑って首を横に振った。

「いいや、約束通り言わないですよ。僕は犯人を探しに来ただけですからね」

 小田はそう言い残すと、水谷と共にリビングルームを出て行った。それと入れ違いに戻ってきた二人の少女は何が起こったのか分からず、無邪気に、熊のテディベア、『まーくん』をぎゅっと抱いた。




「テディベア症候群って知っているかい?」

 行きに、帰りは運転すると言い張ってしまったため、運転を任せられている小田がハンドルを握って言った。

「知らないです」

「Teddy Bear Syndrome」

「うーん」

 聞き覚えのない言葉で水谷は首をかしげる。

「これは妙な偶然だがね、多分、寺橋律はテディベア症候群だったんだと思うんだよ」

「なんですか、それ」

「何も考えずに孤独を癒すために結婚する傾向のことだ」

「ピンとこないです」

「つまり、テディベアのような役割を結婚相手に求める傾向のことだ」

「なるほど」

 それでもまだ水谷がしっくりこない様子だったので小田は説明を始めた。

「寺橋律は金には困っていなかったが孤独だった。だから、和子夫人にテディベアのような役割を求めたんだ。しかし、和子夫人は互いに愛し合って互いに、いい家庭を作りたい、と思っていた。そこで小さなすれ違いは起こっていたんだけれど、子供が産まれていない状態ではそれが表に出ることはなかった。しかし、二人に子供が産まれて、次第に和子夫人は寺橋律の態度が気に障り始めて、そこからどう狂ったのかは分からないが、和子夫人は、寺橋律に子育てはできないと感じて、そして」

「体罰をするようになった、と」

「そういうこと」

「でも、飛躍がありすぎるように感じますけどね」

「まあ、これもあくまで仮説だよ」

 小田はそれだけ言うと、黙ってしまった。水谷は聞きたいことがあったが小田が黙ってしまったので質問するのはまたにしようかと思った。しかし、今聞かなければもう聞く機会がないかもな、と今聞くことにした。

「一つ聞いていいですか」

「うん、いいよ」

「なんで、小田さんは犯人がわかってないのに、わかってるって、僕に嘘ついたんですか」

 水谷は何か深い事件解決のために必要な理由があるのではないかな、と思って聞いたのだが小田からの返答は予想外のものだった。

「わからないって恥ずかしいじゃん」

 小田はそう言って微笑んだ。こんな名探偵、名探偵として許されるのか。いや、こんな名探偵だから許されるのだ。明確に言葉には表せないが、水谷は少なくともこういう名探偵が一番良いのだ。なんでもわかっている名探偵など楽しくないし、共感できない。凡人と同じような知能に見える箇所もあるけれど、行動でそれを補う。それが水谷の尊敬する、小田憲という名探偵である。

「そういえば、この事件も本にするんですか、小田さん」

「流石にこんな恥ずかしいお話、作家、剣翔太の名に傷がつくだけだ。やめておこう」

 小説家剣翔太こと名探偵小田憲はそう言って、真っ白の歯を見せて、笑うのだった。



3




 どこかから陽気で、どこか繊細なクリスマスソングが聴こえてくる。それに合わせて、タンバリンや鈴の音も少し。雪は降っていないものの、雲ひとつないクリスマスの、冬の夜空は美しい。私のことをショーウィンドウ越しに見つめてくる子供はいたが、その親が値札を見て買うのを拒む。

 私の頭の中を様々な新聞記事が飛び交う。『寺橋電機会長殺害』『寺橋律、逮捕』『寺橋家で体罰か。老執事が話す驚きの真相』『寺橋電機倒産』。

 半年も経たないうちに私の身の回りで全てが目まぐるしく変わってしまった。私と、寺橋一家との平和な日常はもう取り戻せないものとなってしまった。あの探偵が去って行った後。どうやら、あの探偵が寺橋家の自宅を訪れたのを目撃していた和銅電機の者が寺橋家について調査、その結果、寺橋昌吾氏殺害事件が世間一般に知れ渡ることとなった。世間は驚愕に包まれたが、すぐ後継人として寺橋律氏が指揮を取り、見事寺橋電機の信頼失墜は避けられた。かに見えたが。九月末、寺橋律氏が警察に逮捕され全ては変わった。一気に寺橋電機の景気は悪くなり、倒産を噂され始めた時、ついに和子夫人の体罰が週刊誌の報道で明らかになったのだ。板江という老執事が昌吾氏を殺した律氏への報いとして、週刊誌に体罰の全容を語ってしまったのだ。その結果、そのまま寺橋電機は倒産に追い込まれた。寺橋律の二人の幼い娘、美咲と美玲の面倒は、寺橋律の叔父が見ることになったが、寺橋律の叔父も寺橋家の人間だということで反感を買い、元々勤めていた会社をクビになった。そのため、二人の子供を養うお金にするために私は売りに出されたのだ。私はブランド物の会社が作ったテディベアなので、高価で、なかなか売れない。そうして、私は、五万という値札と共にショーウィンドウの中にずっといる。もう二ヶ月近くここにいる。

 うん?あれは、あの後ろ姿は、あの可愛らしい、お揃いの水色の服は。大人一人と少女二人。二人の少女の後ろ姿はとても似通っている。二人の少女のうち、片方が私の方を振り返った。私は気づいてもらえたのではないか、と少し思ったが、少女はすぐに元の方を向いて、歩き去って行った。そんなわけない。彼女たちが美咲と美玲だったなんてこと、ないだろう。第一、あんな綺麗な服を着れるほど寺橋家にお金はない。ああ、そんなこと考えてどうする。私はもう永遠にここから出られない。一生をここで終えるのだろう。

 しかし、私はいつ死ぬのだろう。まず、人形は死ぬのだろうか。かといって喋れないので他の人形に聞くこともできない。いや、喋れないという言い方に語弊があるのは認めなければならない。私は一応、喋ることができる。背中にあるボタンを押すことで「いこう」と声を発することができる。しかし、今は、昌吾氏が殺された翌朝、昌吾氏の死に興奮した(実際は昌吾氏を殺してしまい興奮してしまっていたわけだが)律氏に背中を叩かれた際に、私の発声装置は壊れた。なので、背中を押しても「....う」としかでなくなってしまった。

 もしかしたら、私は特殊な、意志を持った人形なのかもしれない。いや、この意志自体、美咲や美玲の妄想の世界にあるもので、意志など持っていないのかもしれない。しかし、もし後者なのだとしたら....。

 そういえば、さっきから私の頭の回転が妙に鈍い。そして、眠たい。実は、人形は人から捨てられると少しずつ意識が薄れていき、やがて死ぬのかもしれない。ここで眠ってしまえば、私の意識が戻ることはないだろう。もし、誰か私の買い手が見つかれば私は目を覚ますかもしれない。けれども、そんな買い手が見つかるわけないだろう。起きていればもしかしたら、また、美咲や美玲に会えるかもしれない。いや、これも私の楽観的思考なのだ。

 こんなことを考えていたら、また寝るのを忘れてしまう。こんなこと考えずに寝よう。


 老テディベアはこうして一生を終えた。

 

 


 

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TBの一生 みにぱぷる @mistery-ramune

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