第36話 ~守ってみせます~

 

 その翌日、成人の儀と同じ正装に身を包んだギルバートは、朝から皇太子の屋敷の前に立っていた。

 兵の報告を受け、皇太子の側近で、ギルバートの大伯父でもあるボイが飛んでくる。


「お前! こんな朝早くからどうしたんだ。学校は?」

「今日は休みました。皇太子殿下に謁見を賜りたいのですが、いらっしゃいますか?」

「馬鹿! 約束もなしに押し掛けて来るなど、何を考えているのだ。それに殿下は今から総合病院の視察に向かわれる。お前の相手をしている暇などない」

「では、お帰りになるまで此処で待たせていただきます」


 ギルバートは玄関ポーチに腰掛ける。


「ギル!!」


「なんの騒ぎだ?」

「皇太子殿下!」


 青ざめた顔で叫ぶボイを余所に、ギルバートは静かに立ち上がると、オーレン皇太子へ向けて礼をする。


「朝早くに申し訳ありません。皇太子殿下にどうしてもお伝えしたいことがありまして。お戻りになるまで、こちらで待たせていただいても宜しいでしょうか?」


 オーレンは何も答えず、藍色の瞳でギルバートを射る。ギルバートの灰色の瞳は、ひるむことなく、その鋭い矢を受け止めた。

 暫く視線を交わした後、オーレンは小さく頷くと口を開いた。


「戻るのは15時過ぎになる。それでもよければ中で待っていなさい」

「ありがとうございます」


 案外すんなり下りた許可に、ギルバートは内心ほっとしていた。


「殿下! 宜しいのですか? 今日はご政務も……」

 長い足で馬車へ向かうオーレンの後を、ボイが小走りで追い掛けて行く。


 間もなくボイは再びギルバートの元へ戻り、強い口調で言った。

「何の話か知らんが、絶対に失礼のない様に。分かったな」


 そして屋敷から何やら大量の書類を持ち出すと、オーレンと共に馬車に乗り出掛けて行った。




 応接室に通され、ソファーに座っていると、トレーを持ったシェリナ皇太子妃が顔を出す。


「皇太子妃殿下」


 立ち上がるギルバートにシェリナが微笑む。

「いいのいいの、座ってて」


 テーブルに一旦トレーを置くと、シェリナはギルバートの姿を見て言った。


「ギル、成人おめでとう。とても立派ね」

「ありがとうございます」

「そのタイ……もしかしてユリナの?」

「はい」


 愛おしげにそれに触れるギルバートに、シェリナは目を細めた。


「よく似合っているわ。あの子は昔から手先が器用でね、そこは私に似なくて本当に良かったわ」

 そう言いながら、シェリナは紅茶を淹れていく。


「朝早いから、もしかしたら朝食もまだかなと思って。これ、ユリナが今朝作ったチーズサンドなの。よかったら召し上がれ」

「ありがとうございます。頂きます」


 にこにこと自分を見つめる皇太子妃。本当にこの女性ひとはユリナと似ているな。


「じゃあゆっくり食べてね」

 空のトレーを手に立ち上がるも、シェリナはうーんと首をひねりながら、ぶつぶつ喋る。


「レンが帰って来るまで暇よね……家にある本は、ギルなら全部読んだことありそうだし。あっ! ちょっと待っててね」


 応接室を出るシェリナ。暫くして、大量の本を乗せたカートを押す侍女と共に戻ってきた。


「これは……」

「私とユリナの愛読書。『不器用姫が王子の心を結ぶまで』。二十年以上前からずっと続いている恋愛小説で、今は初代の姫の孫の代のお話。これならギルも流石に読んだことないでしょ?」

「はあ……その手のジャンルは一度も」

「良かった! じゃあきっと良い暇つぶしになるわ。それにね、これを読むと恋愛の全てが分かるのよ」

「恋愛の……全て」


 ごくりと喉を鳴らすギルバートに、シェリナは真剣な顔で頷く。


「でもね、19巻と29巻は少し刺激が強いから気を付けて」

「分かりました……覚悟して拝読します」


 シェリナが出ていくと、ギルバートは本の山を見た。最後の本の表紙にある数字は56。恋愛だけでこんなに文章が書けるものなのか……面白い、受けて立とう。

 彼の中の貪欲な知識欲が、それに手を伸ばした。



 一時間半後────


「シェリナ様! 大変です! ギルバート様が!」

「ギル!?」


 ソファーではギルバートが天井を仰ぎ、血だらけの手で鼻を押さえている。タイを汚さない様にと必死だ。


「まあ大変!」


 メイドらがタオルを持ってワタワタする傍らに、一冊の本が落ちているのにシェリナは気付く。拾い上げたその表紙の数字は18。


「あっ、間違えちゃったわ」



 ◇


 オーレンが屋敷に戻った頃には、ギルバートはげっそりとしていた。

 あの後、他の巻でも危うく何度か鼻血を出しかけ、安全の為にタイを外して56巻全てを読破した。メイドが呼びに来ると、改めてタイを結び直し、ふらふらと執務室へ向かう。

 そんなギルバートの顔を見るなり、オーレンは問い掛けた。


「……何があった」

「少し……鼻血を出しまして……もう大丈夫です」


 オーレンは首を傾げるも、引き出しから小さな箱を取り出し、ギルバートに差し出した。


「成人おめでとう。君に用意していたものだ」

「……ありがとうございます」

「開けてみなさい」


 中には一本の美しい万年筆が入っている。角度によって色が変わる光沢のある素材で、ギルバートの紋章が刻印されている。


「これは……サエラですか?」

「ああ、君と共に成長していくことを祈って」


 サエラとは、魔力を含むサレジア国の希少な鉱物だ。使う内に持ち主の手に馴染む性質があり、主に剣など武器の柄に使用される。高価なのは勿論、加工が大変難しく、小さな万年筆一本でも、仕上がるまでに約一年もの時間を要する。


 前から用意してくださっていたのか……

 ギルバートの胸に温かいものが込み上げる。


「ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」


 初めて見るその柔らかい表情かおに、オーレンは目を見張った。

 彼に何があったのだろうか?


 オーレンはすうと息を整えると、穏やかな声で言う。


「合宿では、ユリナの魔力を抑えてくれたそうだな。ありがとう」

「いえ」

「……君とユリナを許嫁にした時、両家で話し合い、エメラルドの魔力のことは子供達には伏せようと決めていた。だが結果的に騙していたことに変わりない。反発して当然だ」

「いえ……それは……驚きましたが」

「私は娘可愛さと、ご両親の恩情に甘えて、君を軽視していたのかもしれない。どうか許して欲しい」


 頭を下げる皇太子に、ギルバートは言葉を失くす。


「君は何も悪くない。ユリナのことは忘れて、幸せな人生を歩んで欲しい」


 ユリナのことを……忘れる?


「君は賢すぎる故に、人との付き合いが困難なこともあるかもしれない。だが今朝、私と対峙したあの眼差しがあれば大丈夫だ。きっと望む道で大成するだろう」


「……それは出来ません!」


 叫びに近い声が室内に響く。


「ギルバート」

「私が今日お伝えしたかったのは、ユリナ様のことです」

「ユリナの?」

「はい。ユリナ様をコレット・ベリンガムの元へ委ねられるのは、危険だとご忠告に参りました」


 オーレンの顔色が変わる。


「どういうことだ?」


「単刀直入に言います。コレット・ベリンガムの地の魔力では、ユリナ様の魔力を抑えることが出来ません。彼は揺らす力に長けていますが、鎮める力はそれ程強くないのです」


「どこでそれを」

「先日の合宿で実技を行ったのです。お疑いでしたらワイアット先生にご確認下さい」


 オーレンは顎に手を当て思案する。


「……やはりご存知なかったのですね。そうでしょう、彼はユリナ様を手に入れるのに必死ですから。このような大切なことを黙って、自分の利益の為だけに婚約しようとする男は、信頼に値するでしょうか? それに……彼は承諾したそうですよ」


「承諾? 何を」

「彼の魔力で抑えきれなくなったら、目を傷付けて欲しいというユリナ様の申し出を。彼はベリンガム家の為なら、ユリナ様に何をするか分かりません」


 藍色の目が険しくなる。


「コレット・ベリンガム本人から直接聞いたので間違いありませんよ」

「……何故君は私にそのようなことを伝えるのだ」

「私もユリナ様が欲しいからです」

「何?」

「ユリナ様が他の誰でもなく、私を愛しているからです。ですから私も、ユリナ様を望みます」



 しんと静まる室内。


 目を見開くオーレンに、ギルバートは畳み掛ける。


「私の地の魔力は、コレット・ベリンガムの何倍も鎮める力に長けていますから。必ずユリナ様の魔力を抑え守ってみせます。あの綺麗な瞳を傷付けることなど、絶対にさせません」

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