その5 修羅場。

角部屋のドアが、ゆっくりと開く。

その下の角が、寝間着を入れた籠に当たる。

部屋の主がそれをスーッと部屋の中に引き入れた。


部屋の中は暗い。

電気は消しているようだ。


部屋から出て来た埜瀬は、覗き込むようにして、階段の様子を見る。

その後スーッと、音を立てない歩き方で2階の廊下を進み、階段へと足を運んだ。



ヤバい



私は直感した。


心臓がバクバクする。

緊張で体が震える。


夫にワンギリ。

続いてメッセージを入力する。

これは元々、夫と話し合って決めていた行動。


スマートフォンのカメラを起動して録画ボタンに触れる。

埜瀬が階段を下り切ったと思われるタイミングで、静かに物置を出る。

壁に身を隠しつつ、階段の様子を窺う。


埜瀬の姿は見当たらない。


私はスマートフォンを右手に持ち、録画しながら、足音を立てないように静かに下りる。

階段を下りきったところで、私の目は、キッチンのドアの前に立つ埜瀬の背後を捉えた。


埜瀬は...




服を持ち上げ、そこから刃物を取り出した。




!!!!


一瞬、身体が硬直した。


刃物を取り出した埜瀬は、すぐにキッチンの扉を開けず、いったんぐるりと周囲を見回した。

こちらの存在に気付かれた!


その瞬間...



新井:「させるかァ!!」



私は叫び、スマートフォンを埜瀬に投げ付けた。

と同時に、埜瀬に向かってダッシュする。


埜瀬の位置まで約5歩。

私の手から放たれた録画担当機器は、埜瀬の腰に命中した。


埜瀬はそれに一瞬視線を落とすと、こちらに向けて顔を上げ、刃物を振り上げた。

そして、刃物を振り下ろす動作を始めようとした直後...



私の


右拳が


埜瀬の


顔面に


届いた。



同時に、左手で、埜瀬の右手首を掴む事に成功した。


右の一撃で相手を倒すつもりだったけれど、相手は踏み留まり倒れなかった。

とにかく刃物を奪い取りたいと考えた私は、右手も使って埜瀬の手を開かせようとした。

埜瀬は左腕を私の首に巻き付けて、その手で髪の毛を掴んだ。



「親指を掴んで」



頭の中で声がした。



「本来曲がらない方向に全力で引っ張れ」



そうだった。


こんな事も、教わっていた。



私は刃物を持った埜瀬の手の親指を力づくで引っ張り、その手の甲に向けてひん曲げた。



埜瀬:「ん˝あ˝あ˝!」



気持ち悪い声と共に、埜瀬の手から刃物が落ちる。


その時...



イケ:「はるか!」



夫がキッチンのドアを開けて出て来た。

そして、足下の刃物に気付き、素早く玄関方向へ蹴飛ばした。



イケ:「はるか!交代だ!」



「交代だ」と言われても、埜瀬にヘッドロックされ、髪も掴まれて動けない。

どうしようか、と考える前に、夫が動いた。



右の拳が


埜瀬の


顔面の中央に


炸裂した。



私の時と違い、埜瀬はバランスを崩して後ろに倒れた。

私も巻き込まれて倒れた。


すかさず夫は、私を掴んでいる埜瀬の左手を捕まえる。

そして、空いた方の手で、埜瀬の小指を掴み、本来曲がるべきではない方向に一気に力を加えた。



瞬間、私をロックしていた腕の隙間が広がった。



私は素早くそこから逃れ、立ち上がった。

夫が入れ替わるように埜瀬の上に乗った。



マウントポジション



そこから夫は、今度は左拳を顔面に入れた。

それを食らった埜瀬は、次の攻撃を防ぐべく、両手を顔の前に出す。

すると夫はその両手を掴んで、体重をかけて埜瀬の動きを押え込んだ。



イケ:「はるか、玄関を開けて、警備の人を呼んで!」


新井:「はい!」



すぐさま私は言われた通り玄関に走り、その扉を開けた。

広がった外の景色のすぐ右手前に、短髪で四角い体型のマッチョが居た。



新井:「助けてください!こっちです!」



そう言うと、マッチョは素早く反応し、建物の中に突入した。

移動しながら、無線で何かやり取りをしている。



警備:「池本さん、代わります。」



埜瀬を押え込んでいる夫の横に回ったマッチョは、私にはわからない`固め技'を埜瀬に極めた。



警備:「池本さん、離れても大丈夫です。」



マッチョの声を聞いた夫は、埜瀬から体を離した。

その瞬間から、埜瀬は暴れるように体を動かし、喚き始めた。



埜瀬:「っざっけんなよ!オァ!!離せ!離せぇええええ!!」


埜瀬:「邪魔すんなァ!!」


埜瀬:「私達はァ!!永遠になるんだよォ!!」



埜瀬は激しく叫び、マッチョから逃れようともがく。

しかし、マッチョは無表情で押え込み続けている。


そうしているうちに、警備員がもう1人やって来た。

警察ももうすぐ来るという。



その「もうすぐ」は意外と長かった。

けれど、状況を変える事無く、マッチョは押え込み続けてくれた。


警察官が到着する。

確認が入った後、埜瀬は連行される事となった。



埜瀬:「なんでそんな女なんだよ!」


埜瀬:「アタシは介護もできるし、してやってただろ!」


埜瀬:「アタシの何が気に入らねンだ!?」



埜瀬の最後の喚きは、夫に対する女の感情を発したものだった。



連行される埜瀬。

夫は、その埜瀬の正面に立ち、面と向かった。



イケ:「ありがとうございま。私はあなたを愛せないのではありません。」


埜瀬:「え?」


イケ:「なのです。」


埜瀬:「っざっけんなよ!!んなゴミ、とっとと捨てろやァ!!」



埜瀬がまた激しくもがき始めた。


夫はそれを言い切った後、すぐに埜瀬に背を向け、私の方に向かって来た。

そして、私を、力強く抱き締めた。



...



....



.....




イケ:「あ。」


新井:「どうしたの?」


イケ:「この場合、返金しなくてもいいんだよね?」

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