新月の誓い

緋雪

第1話 満月の浄化

 ゆかりと親しくなったのは、精神科病棟に入院している時だった。


 私は、共用スペースの明るいテーブルの上で、色鉛筆画を描いていた。夫に、家で飼っている猫の写真を持ってきてもらって、それを見ながら。3本の同色系の色鉛筆を左手の指の間に挟んで、とっかえひっかえしながら、グラデーションを作っていく。色鉛筆の柔らかな芯の感覚が心地良い。


 いつの間にだろう? 前の席に座って、じっとそれを見ている若い女の子がいた。気がついて顔を上げる。

「あっ、ごめんなさい。綺麗だったから、つい」

「ありがとう」

「あの、見ててもいいですか?」

「どうぞ」


 これが紫と交わした最初の言葉だった。


 私は人と会話するのが苦しくなっていて、入院して4日間、ずっと4人部屋の自分のスペースのカーテンを閉じ、食事もそこでとっていたから、看護師さん以外、誰とも喋っていなかったのだ。


「同じ部屋の椎名しいなゆかりです。よろしくお願いします」

同じ部屋の子だったのか。外に出てなかったから知らなかった。彼女は、19歳だと言った。

石野いしのかおるです。25歳です。よろしくね」

 紫は、多くは聞かず、ただ、私が色を塗っているのを興味深そうに見ていた。


 ここでは何もすることがない。


 心を休めに入院している人ばかりだ。 

 

 皆、それぞれ、やりたいことをボーッとやっている。テレビを観ている者、本を読んでいる者、クロスワードを解いている者……。人と関りたい人たちは、お茶を片手に集まってお喋りをしていたり、トランプやオセロをしたりしている。

 病状がよくなると、「スポーツ」、「作業療法」への参加や、散歩、外出もできるようだけれど。


 1日が果てしない時間に思えた。



「薫さん、私にも色鉛筆画、教えてくれませんか?」

紫がそう言ってきたのは、初めて言葉を交わしてから3日後のことだった。皆、1日がとても長い空間にいるので、もう長いこと一緒にいるような錯覚に陥る。

「いいよ」


 その日から、私は紫に色鉛筆画を教えることになった。

「こうやってね、力の加減を変えたり、線を重ねたりすることで立体感がでるの」

「ホントだ」

「で、近い色を、段々と重ねていくとグラデーションになる」 

「わあ〜、綺麗」

 紫は筋の良い生徒で、すぐに技法を覚えた。ただ、具体的な絵は描こうとしない。

「紫ちゃん、絵は描かないの?」

「いいんです。色がとっても綺麗なのが好きなだけなので」

そう言って、嬉しそうに、空のようなグラデーションや、シャボン玉のような美しいものばかり描いていた。


「私ね、綺麗なものが好きなんです」

そう言う紫の手首にはローズクォーツのブレスレット。耳にはアメジストのピアス。確かに色が綺麗でキラキラしている。

 というより、この子自体が綺麗なのだ。少女漫画に出てくるような、細く儚げな手足、ウエストも細い。綺麗な肌、長いまつげの大き過ぎない目、スッと通った鼻筋に、さくらんぼの色の透明感のある唇。

 虐めが原因の鬱だと言っていたが、妬みや嫉みの対象になるのは避けられなかっただろう。でも、彼女の病気の原因は、もっと深い所にあるような気がしていた。


 その日、紫は珍しく、「夜」を描いていた。青と濃紺と黒の空に、丸く明るい月が浮かんでいる。

「綺麗ね」

私が言うと、紫は嬉しそうに、

「月が好きなんです」

そう答えた。


「知ってます? 今日は満月なんです。」


 その夜、唯一天窓から月が見える携帯ブースで、紫は、天然石のアクセサリーを月光浴させていた

「満月の夜は浄化を」

「浄化?」

「必要のないものを手放し、叶った夢に感謝する、ってことです」

そう言って、紫は身体いっぱいに月の光を浴びた。


「満月の夜には願いでは?」

「願うのは新月。願うというより、新月には未来を誓うんです」

「誓う? どうやって?」

私は、紫のキラキラした天然石のアクセサリーたちに映り込む、月の光を眺めながら聞いた。


 紫は、「新月の誓い」や「満月の浄化」のことを私に教えてくれた。


「ホントにそれだけでいいの?」

「〜しますように、じゃダメなんですよね。」

「そっか。だから『誓い』なのね」

「はい」

紫は、浄化されたらしい、ひんやりとしたローズクォーツのブレスレットを腕にはめながら言った。

「気になったら、いつでも聞いてきてくださいね」

ふふっと笑って、ブースを出ていった。

私は一人取り残され、じっと満月を見上げていた。


「誓い……かぁ」

そんな未来がありますように、と願うことはあるけれど……。およそ実現するとは思えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る