第22話 皇帝アイザック・ヴィクトリアス 01

 ヴィクトリアス帝国皇帝、銀髪と威厳のある風貌ふうぼうが印象的なアイザック・ヴィクトリアスは、人々から野心に満ちた皇帝と思われている。だが彼自身は、自分ほど無欲な統治者も珍しいのではないかと思っていた。帝都の宮殿は大国の皇帝が住むにふさわしいきらびやかな装飾と調度品、美術品の数々で彩られている。それも威儀を示すためには必要なのだろうと彼も受け入れていたが、彼の好みではなかった。極端に言えば、一般庶民のような質素な家でも、機能さえ十分ならば彼には全く不満はないのである。

 彼は歴代皇帝のように美術品や珍しい物品の収集もしているが、彼の収集品は全て帝国美術館や帝国博物館に置き、民衆も自由に鑑賞出来るようにしている。彼は美術品などを手元に置いて独占するのではなく、帝国美術館や帝国博物館の閉館日に趣味を同じくする臣下たちと共に時折訪れて、ゆっくり鑑賞するだけで満足していた。


 だが彼は大国の皇帝にふさわしい壮大な欲深さも持ち合わせていた。それは手の届く範囲全ての人々が安心して暮らせるようにすること。帝国の民のみならず、周辺国の人々も含めて。民にとって良き皇帝であること。それが彼が自分自身に課したことであった。そして自分たち皇帝家が栄華を享受きょうじゅするのはその見返りなのだと。


 皇帝にはささやかな趣味がある。絵を描くことである。今日も彼は公務を一通り終わらせ、私的なこぢんまりとした空間で絵を描いていた。彼は出先で風景を書くことが特に好きであったが、部屋で静物を描くのも嫌いではなかった。

 皇帝が絵に集中していた時、部屋に誰かが入ってきた。皇帝の個人的なスペースに不躾ぶしつけに入って来られる者は限られている。もちろん私的な時間であっても緊急の報告などが入れば皇帝は即座に公務に戻らなければならないのだが。

 入ってきたのは、銀髪を伸ばし華麗な服をまとった美しい女性。



「父上。また下手な絵を描いておられるのですか?」


「うむ。そなたはいつも辛辣しんらつだな」



 随分な言葉だが、皇帝は自分が絵が下手だということは自覚していた。現に今描いている絵も、客観的に見て下手と言うしかない。彼の描く絵については、追従ついしょうでお世辞を言われると彼は不機嫌になるから、彼の身の回りの者たちは礼儀正しく論評を避けるようにしていた。

 入ってきたのは皇帝の愛娘にしてヴィクトリアス帝国皇女、セルマである。彼女と第二皇子フィリップは、皇帝の描く絵を遠慮なく下手だと言うのである。皇帝からすれば、れ物を触るような態度をとられるよりは、いっそそう言ってくれる方がありがたいとも思うのであるが。



「フィリップ兄上より報告です。魔王軍の侵攻は防いでいるものの、兄上から攻撃に出られる状況ではないと。旧チェスター王国領西方地域において、妖魔の大集団が蠢動しゅんどうしている模様です。領主たちは対処に苦慮するであろうから増援を派遣しており、近日中に到着して排除を開始出来るであろうとのことです。旧王国領南西部では冒険者たちの活躍もあり妖魔の討伐は目前のようですが。ただ旧王国領北西部においては甚大な被害が発生している模様で、こちらからの支援もほしいと」


「そうか。対処するよう指示しよう」



 皇帝は皇女に自分の補佐を任せていた。特に皇帝家に関する事柄については皇女の担当だ。その他の事柄については基本的には宰相の担当だが、皇女の助言を求めることもある。おおやけのことだけならば皇女も公務中に報告に来るのであるが、公に出来ないことがある時は皇女は私的な時間に報告に来る。

 旧チェスター王国領西部で妖魔共が蠢動していることは皇帝も報告を受けていた。領主たちに対処をさせるつもりだが旧王国領東部からも増援を派遣するとも。だが旧チェスター王国領も広大であるから、増援を送っても一日二日で到着するとはいかない。そもそもフィリップの元まで報告が到着するのにも日数がかかっていた。

 皇帝家直轄ちょっかつ領は遠距離通話出来るマジックアイテムなどで即座に情報の共有が出来るのであるが、貴族の領地群には基本的にそのような仕組みはない。特に旧チェスター王国出身の貴族たちからは、フィリップが即時情報伝達の仕組みを構築しようとしても、内政に干渉しようとしていると取られ抵抗を受けていた。



「やはりアルバート王子が言っていたように、チェスター王国出身の貴族たちは大半が使い物にならぬか」


「はい。彼らの不正や非道、怠慢たいまんを訴える声も、フィリップ兄上にいくつも届けられているとのことです。父上にも報告しています通り、不正を犯した貴族たちの領地没収なども行っておりますが、兄上は手が回らないからこちらで適切な人員を送って対処してほしいと。こんな面倒ごとを押しつけないでほしいとも文句を言われています。自分は政治には向いていないから軍事に集中したいとも」


「フィリップにも困ったものだ。皇帝家に生まれた以上は、政治をおろそかにしてはならぬというのに」



 皇帝はチェスター王国に仕えていた貴族たちも、侵攻前の調略ちょうりゃくで帝国に寝返った者たちは領地を安堵あんどしていた。そうしなければ帝国は約束を守らない国として信頼を失ってしまうのだから。だから彼は領主たちが失態を犯し、それを理由に首をすげ替える機会を狙っていた。それが予想以上に酷い事態を招いたのかもしれないと、彼は後悔している。もっと早く対処するべきだったと。だが正当な理由もなく貴族たちの領地を没収すれば、帝国に対する信頼が揺らぐ恐れがあったのも事実である



「フィリップも余の後を継いで皇帝に就く器ではないか……このていたらくでは、広大な帝国を魔王軍から守りつつ、内政を良好に保つことは期待出来ぬ」


「ですが兄上もそれを自覚しているのは救いです。自覚しているのですから、賢明な臣下たちの言葉を聞くことも出来ましょう。それはパトリック兄上もそうですが」


「平和な時代ならばそれでもなんとかなるであろう。だが、この時代においてはフィリップもパトリックも心許こころもとない」


「……はい」



 皇帝は第一皇子パトリックも第二皇子フィリップも、自分の後継者としては心許ないと思っていた。パトリックは凡庸ぼんようで、地方の長官くらいならば良く職務を全うし善政を敷いて民から慕われるであろうが、皇帝になるのは荷が重いと判断していた。一方フィリップは将軍としては有能なものの、内政面に不安があった。

 皇帝はフィリップに旧王国領の統治を任せているのであるが、フィリップはその範囲も十分には統治出来ずに妖魔の大侵攻を招いてしまったのである。治安維持が十分に成されていて、妖魔の数を減らしていれば、妖魔の大侵攻などという事態にはならなかったはずだと。現にフィリップの手が届いている旧王国領東部では少なくとも今のところは妖魔の大侵攻は発生していない。旧王国領西部は旧王国出身の貴族たちの領地ではあるのだが、その貴族たちを統率するのはフィリップの責任なのである。彼の息子たちも自分たちの欠点を自覚しているのではあるが。



「そなたが男であったならば、余も安心して後を任せられるのであるがな」



 それに対し、セルマは優秀であった。彼女は皇帝の補佐を務めるのみならず、宮廷魔術師団の長も務めている。彼女は優秀すぎるのも皇帝にとって悩みの種であった。彼女を周辺国に嫁がせたり貴族に降嫁こうかさせるには、彼女は優秀すぎて手放せないのだから。彼女が男であったならば、皇帝は迷わず彼女を後継者に指名し、兄二人も異を唱えず自分たちは補佐をすると誓ったであろう。だがヴィクトリアス帝国において女性が皇帝位に就く前例はなく、セルマをその最初の例にする踏ん切りはまだ皇帝にはついていなかった。



「そういえばアルバート王子は、今も冒険者として活動しておるのか? そなたが王子とその従者に帝国公認冒険者のエンブレムを与えたとは随分前に聞いたが」


「はい。王子はバートと名乗っております。静かなる聖者という異名もあるようです。王子の従者のヘンリー・エイデンはヘクターと名乗り、鉄騎の異名を持っているようですね」


「ほう。その名は聞き覚えがある。そうか。あの少年たちはいまや立派な冒険者になっておったか」


「はい。王子たちは旧チェスター王国領での妖魔の大侵攻において、大功を挙げたようです。エルムステルの街の領主とその騎士団を打ち破った魔族集団の将を討ち取ったと」



 皇帝はいつも冷静な愛娘の様子が、まるで我がことのようにうれしそうなのに気づいたが、指摘はしなかった。

 彼は王子たちが今名乗っている名にも心当たりがあった。皇帝家直属冒険者の推挙の時、何度も名前が挙がっている二人組の冒険者だ。その二人は旧王国領から出て活動する様子はないことから、そのたびに否決されているのであるが。彼らがアルバート王子とその従者であるならば、旧王国領から出ないことにも納得出来た。

 皇帝はアルバート王子を見所があると思っていた。その王子たちの活躍が既に自分の耳に入る所まで来ていることに、驚きと喜びを感じた。

 帝国は既に滅んだチェスター王国と違って冒険者たちを重要視している。帝国の治安を担い、戦力としても活動する者たちとして。さすがに高貴な身分の者が冒険者に身をやつすことはまずないが。



「アルバート王子はもう十分に冒険者として功を上げました。そろそろ冒険者を引退させて、帝都に呼び寄せてもよろしいでしょうか?」


「ふむ……それもいいかもしれぬな」



 皇帝は皇女の言葉に、王子を心配する感情が含まれていることに気づいた。実際、王子たちが冒険者として皇帝の耳に入るほどの活躍をしているとなれば、相応の危険をおかしているのであろう。そろそろ冒険者を引退させて呼び寄せても構うまい。

 皇女は王子たちを冒険者として送り出したが、監視の密偵も付けて、密偵には遠距離通話アイテムも持たせている。王子が旧王国領で反乱を目論む恐れがあるのだから、それも当然の配慮だ。そして王子の最近の功績も密偵から報告を受けていた。これまで二人で活動していた王子たちの連れに少女が一人増えたようだという報告は、皇女も少し気になっているが。

 なお密偵は王子たちに気取られないように監視しているが、帝国公認冒険者のエンブレムには位置発信用の魔法も付与されているから、離れて監視することはそう難しくはないようだ。帝国公認冒険者には帝国から依頼をすることもあるし、また彼らには巡察使じゅんさつしとしての役割もあるから、後ろ暗いことのある領主たちが彼らを害したりすれば、それを帝国側で察知する手段を用意することも必要だった。そのことは領主たちにも通知してある。帝国は帝国公認冒険者たちを便利遣いするだけではなく、彼らを守る準備もしている。

 先程の皇女の言葉には、皇帝にとって聞き逃せないこともあった。



「だが妖魔だけではなく、魔族も動いたと?」


「はい。五百ほどの魔族の集団がエルムステルの街に現れたとのことです。将が討ち取られたことにより、撤退したとのことですが」


「妖魔の大侵攻において、魔族の集団が動く事例はなかったはずだ。それが魔族の集団も確認されたとなると、魔族の狙いは前線から帝国軍の兵を下げさせることかもしれぬ。そして継続的に後方地域での防備に負担をかけさせる策かもしれぬ」


「はい。私もそのように推測しております」


「厄介なことよな。それがわかっていても、対処しないわけにはいかぬ」


「はい」



 帝国本土においては、不足のない程度には兵を置いている。だがフィリップ第二皇子に統治を任せている旧チェスター王国領においては、それが間に合っていなかった。本当は領主たちの兵でそれを行うはずだったのであるが。



「それからアルバート王子が討ち取った魔族の将は、ゲオルクという名前のオーガだとも」


「ゲオルク? まさか英雄帝の英雄譚えいゆうたんのか?」


「不明です。ただ、戦う力を持たぬ者を殺すことは好まない、堂々たる性格の魔族ではあったようです。それ故にゲオルク配下の妖魔たちは街や村を攻撃しなかったとも」


「そうか」



 皇帝家の者たちには、当然初代たる英雄帝の事跡は幼い頃に教えられている。ゲオルクというオーガが英雄譚に出てくるゲオルクと同一個体かは不明だが。



「そしてゲオルクが王子と冒険者たちに語ったことには、魔族たちも数が増えすぎる妖魔には手を焼いているとのことです。人類側の領域で妖魔が増えすぎて、土地が食い潰されるのは困ると。『妖魔の間引まびき』現象は魔族側のその問題に対する対処であり、人間たちに妖魔をあえて討伐させようとしていると。このことは王子に同行していた冒険者たちがエルムステルの街に噂として流しているようです」


「やれやれ。敵から我らの怠慢たいまんを責められるとはな。宰相に命じよう。そのことは帝国の全ての臣下と貴族、そして周辺国にも通知するようにと」


「はい」



 皇帝からすれば恥じ入るしかないという思いであった。たとえ否は旧チェスター王国の貴族たちが妖魔共の退治をおこたっていたことにあるとはいえ、今は旧王国領も帝国の領土なのである。



「アルバート王子は旧王国領であやしげな動きは見せておらぬか?」


「全くないとのことです。旧王国領の不穏分子には近寄らないようにしている様子も見られるそうです」


「そうか」



 それは皇帝にとっては不満だった。王子にそれだけの覇気があれば、国を返してやっても良かったのだが。彼は統治の負担ばかり大きい旧チェスター王国の領土などいらなかった。チェスター王国が魔王軍に対抗する心強い同盟国としてあってくれるならば、それで良かったのだ。



「王子がおのが国を取り戻そうとしておらぬのならば、帝都に呼んで、そなたと婚姻させてそなたと二人で帝国を共同統治させるという手もあるな」


「……父上がそうお命じになるならば、喜んでお受けします」



 いつも冷静な皇女に似合わず頬を染めてうれしそうにしている様子は、恋する小娘のようだった。皇帝からすればふとした思いつきを口に出しただけだったのだが、こんな反応が返ってくるとは思わなかった。そして思う。本当に検討しても良いかもしれない。皇帝家の者の婚姻には政治的な思惑おもわくが絡むことは彼も理解している。だが政治的な思惑を満たした上で愛する家族たちが幸せになれるならば、その方が良いに決まっている。

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