第三章 講義:主観客観独立性

 翌週、黒板には再び、主観と客観の文字が書かれていた。


直央

「あれ、でも教授が居ない?」


 直央が辺りを見回すと、理美が溜息を吐いた。


理美

「教授はまだ来てないわよ。その文字は私が書きました」


直央

「はあ……お疲れ様です」


理美

「大した労力ではないけどね。良いように使われて、自分は時間通りに来ないと云うのも酷い話よね」


 何なりと愚痴を零しながらも、理美は愉しそうだった。何だかんだ云って、このゼミが好きなのだ。


 とっくに授業時間は始まっているが、教授が時間通りに来ないのは最早恒例だった。姿が見えないと思って、皆それぞれ好き勝手に過ごしている。


直央

「今日はどんな話になるんですか?」


理美

「んー、それはまあ教授が来てからのお愉しみ、と云う処ね。でも、いつもの難しい話よりは、興味深いんじゃないかしら」


直央

「そうなんですか?」


理美

「うん。日常生活にも関わっている事だしね。まあ、相変わらずの理論一辺倒だけれど」


 そう云って、理美はウィンクをしてみせる。直央は心臓が跳ねた気がした。


直央

「日常生活に……確かに珍しいですね、このゼミでは」


理美

「そうね、いつも議論とか抽象理論みたいな話が多いから……。でも意外と色色な題材を扱うのよ。教授が哲学の研究をしているからだろうけどね」


直央

「成程……確かに数学の教授だったら、本当に論理の話ばかりで、主観とか日常みたいな話は出てこないかもしれないですね」


 そうして話していると、漸く天真が姿を現した。


天真

「おや君達、授業時間だと云うのに私語はいけませんね」


理美

「それを云うなら、ちゃんと時間に間に合うように来て欲しいんですけど」


 ホウホウと頷きながら、天真は席に着いた。自分の都合の悪い事については、相手する気はないらしかった。


天真

「さて、じゃあ皆さんもどうぞご着席を。今日は前回の続きで、主観客観と云う概念の性質の話をしていきましょう」


 皆が席に着くのを待って、天真は話を続けた。


天真

「前回の話で、暑い寒いはどちらも正しいが、授業時間だと云うのは間違いなく正しいという話がありました。何故そんな違いが出たかと云うと、前者は主観で、後者は客観だから、と云う話でしたね」


 若菜はノートを捲り、あったと小さく呟いた。


天真

「ありましたか、それは良かった」


天真

「さてちょっと、温度の話に限定してみましょう。寒いとか暑いというのは個人の主観。では、客観的なものとしては何があるでしょうか」


 天真は若菜の方へ眼を向ける。


若菜

「えっと、客観……ですか?」


天真

「そう。暑いとか寒いと云う云い方だと、主観の話になります。客観的な、寒いとか暑いという話は何か思い付きますか」


若菜

「ええと……人に依って違わない、寒さとか暑さ……」


 少し考えて、若菜は思いついたようだった。


若菜

「正しく、温度ですか?〇度だったら寒いけど、気温が三〇度だったら暑い、みたいな……」


天真

「んー、惜しい。方向はあってますが、詰めがもう一つですね」


若菜

「え、えっと……」


 思い悩む若菜を視ていて、直央は頑張れと声無き応援をしていた。成程、いつも理美がそうしてくれるのが判るようだった。


天真

「今日は、ちょっと小道具を用意してきました。若菜さん、これをどうぞ」


 そう云って天真は立ち上がり、何か棒状のものを若菜に手渡した。


若菜

「これは、扇子ですか?」


天真

「そう。使い方は判りますね? それは横にスライドさせて開くのです。間違っても真横に引っ張ってはいけません。私子供の頃、それで祖母の扇子を壊した事があります」


我劉

「そんな事するのはお前だけだ」


 下らないと云うように鼻を鳴らしながら、我劉も立ち上がり、そしてゼミ室を出て行ってしまった。


理美

「こら我劉君、勝手に出て行かないの」


 理美も立ち上がる。どうも、授業中に出て行った事を咎める風ではない。


天真

「では皆さんも、一緒に廊下に出る事にしましょう」


悠弥

「えっ、廊下っすか。でも今日も暑いっすよ……」


 悠弥が愚痴を零すと、天真は愉しそうに笑った。


天真

「ふっふっふ、だからこそ良いのです。さあ、君達も来なさい。我劉君がそのまま帰ってしまわない内に」


 妙な理由だったが、皆連れ立って廊下へと出た。


天真

「さて、もう一つ小道具です。これは温度計と云って、今の気温が判る便利な道具です。どうやら今日、二六度あるみたいですね。まだ初夏だと云うのに、太陽も気の早い」


 どうも夏になると、太陽は人間から不満を抱かれるらしい。悠弥もうんうんと頷いていた。


天真

「さて、若菜さん。暑いでしょうから、どうぞその扇子で自分を扇いでください」


若菜

「えっ。でも、私だけですか?」


悠弥

「この根性悪女め……」


 恨みがましそうにしている悠弥に、最初は遠慮がちだった若菜も、寧ろこれ見よがしに扇いでみせた。成程、この娘も根性悪かもしれない。


悠弥

「教授ー、俺の分はないんすか」


天真

「ありませんよ。どうしました、そんなに汗を掻いて。暑いですか」


悠弥

「暑いっすよ。だって二六度もあるじゃないすか」


天真

「ふむ。さて若菜さん、君は暑いですか」


若菜

「ええと、取り敢えず涼しいです」


天真

「ふむ、二六度あったって、若菜さんは涼しいそうですよ。悠弥君、根性が足りないんじゃないですか」


悠弥

「だって扇子使ってるじゃないすか、ずるいっすよー」


理美

「教授教授、話が逸れて行ってるわよ」


 そう云って、理美が肩を竦める。


天真

「おお、そうでした」


天真

「じゃあ悠弥君に訊きましょう。さっき若菜さんは、〇度だったら寒い、三〇度なら暑い、これが客観だ、と云っていましたね。さあこの状況で何か気付く事はありますか?」


悠弥

「え?ええと……」


 悠弥は、扇子でバタバタ仰いでいる若菜をじっと見据える。


悠弥

「だって、若菜は扇子を使ってるから涼しいっすよ」


天真

「ほう。君は暑いけど、若菜さんは涼しいのですか」


悠弥

「……だって、主観っすから。感じ方は人それぞれで」


直央

「いや、そっちじゃなくて」


 直央は思わず、口を挟んでしまった。


悠弥

「え?」


直央

「ん、んーと、ほら、温度計は今何度を示してる?」


悠弥

「何度って、二六度……」


若菜

「あっ、そう云う事か」


 そこで、若菜は仰ぐのを止めた。


若菜

「自分の間違いに気付きました。〇度だからと云って、寒いと感じるかどうかは主観なんですね。たとえ二六度だとしても、私は今涼しいって感じてた訳で」


天真

「うん、そうそう。そんな事なのです。まあ扇子を使っていたから、本当に二十六度だったかは微妙ですが、飽く迄例え話です。では若菜さん、暑い寒いに関する事で客観と云うのは何でしょうか」


若菜

「だからやっぱり、正しく温度の事ですね。暑い寒いは主観だけど、二六度と云うのは誰にとってもそうだ、と云う事ですね」


天真

「はい、大正解。実感は主観だが、気温だとか温度だとかの、云わばスカラーは客観な訳です」


 謎な単語を口にしながら、天真はパチパチと手を叩いた。


天真

「では解説をしていきましょう。暑いでしょうから、皆中へどうぞ」


 天真の言葉に、創吾が項垂れた。


創吾

「それにしても、これだけの事なら、何も全員で連れ立って廊下に出なくとも……二年生だけで良かったのでは」


我劉

「ふん、やはりお前らも廊下に連れ出して正解だったようだな」


 小莫迦にするように我劉は鼻を鳴らした。


創吾

「どう云う事ですか?」


我劉

「教室に入る時に判る。主観に関わる話だから良く実感しておけ」


 そう云って、我劉はさっさとゼミ室へ戻ってしまった。


 中に入ると、途端に冷気に包まれた。


悠弥

「ああ、天国だ……」


 悠弥は手で仰ぎながら、そう呟いた。


天真

「悠弥君、話はまだ続くんだから、勝手に昇天しないでください。さあそれでは皆さん、どうぞご着席を。先程の若菜さんの言葉を振り返りましょう」


 再び、天真は温度計を取り出した。


天真

「今、温度計は二二度を示していますね。ところで悠弥君、このゼミ室は涼しいですか」


悠弥

「涼しいっすね。さっきまで暑かった気がしたけど、廊下から戻ってみると快適っす」


天真

「ほう、さっきは暑かったのに、今は涼しい、ですか。このゼミ室はずっとクーラーが付いているから、ずっと二二度だったと云うのに」


悠弥

「え?えっと……」


 そこで、創吾がポンと手を打つ。


創吾

「あ、我劉先輩が云ってたのはこれか。つまり、同じ二二度、同じ個人であっても、暑いと感じる事もあれば涼しいと感じる事もある」


天真

「そう。主観と云うのはそんな風に、幾らでも変動したりするんですね。一方で、二二度だとか二六度と云う数値は変わりません」


天真

「……ああ、この部屋の温度が変わらないと云う意味ではなく、二二度は二二度と云う量であって、二二度と名乗りながら実質二六度分の量を持つ事はない、と云う意味ですから気をつけてください」


 悠弥以外の全員が頷く。悠弥だけはポカンとしていた。


天真

「さて、では復習はこの辺りとして。今日の本題に入りましょう。今回扱うのはズバリ、主観と客観の独立性についての話です」


 主観と客観の独立性。何やら大仰なタイトルである。若菜は早速ノートを取った。


天真

「前回云いましたように、主観と客観と云うのは、全く関係のないものです。そして、もっと云えば独立している。二二度と云う客観事実にかかわらず、暑いとも寒いとも感じる事はできる」


天真

「そして、寒いと感じたからと云って、気温が三〇度であるなら三〇度と云う客観事実は変わらないと云う事です。こんなに寒いんだから三〇度であるはずがない、なんて云われても、温度計だって困ってしまうと云う事ですね」


 天真は、何故か温度計を労るように撫でた。


天真

「さて、前回の我劉君と理美さんのやり取りを思い出しましょう。二人は何と云っていたでしょうか」


 そう云うと、出番だとばかりに天真は二人を促した。我劉はやたら舌打ちをしており、いかにも不本意そうである。


理美

「うーん、話題、何かあるかしら」


 理美が我劉を真直ぐに見据えながらそう云う。いかにも聞こえよがしでわざとらしい口調だった。


理美

「ほら、我劉君も続けて」


 そう云われ、めんどくさいの莫迦莫迦しいのと愚痴を零しながら、我劉も口を開いた。


我劉

「何も無いなら、もうお開きにしようじゃないか。暑くて適わん」


理美

「駄目よ。暑かろうが寒かろうが、今は授業時間なんだから」


我劉

「授業時間だろうがゼミ時間だろうが、暑いもんは暑いし、怠いものは怠い」


天真

「はい結構、二人共中中役者ですねえ。さて先週二人は、こんなやり取りをしていましたね」


 我劉は忌忌しそうに鼻を鳴らした。


天真

「このやり取り、憶えています?これを受けて私、今回の題材に主観客観を扱おうと決めたのでした」


我劉

「全く行き当たりばったりな奴だ」


天真

「なあに、何だって構わんのです。どれもこれも大事な事ですからね」


若菜

「成程、我劉先輩が暑いと云っているのは主観で、理美先輩が授業時間だと云っているのは客観な訳ですね」


 二人のやり取りを無視して、若菜はしきりに頷いていた。


天真

「そう。若菜さん、その通りです。まず、そこまでは大丈夫ですか?」


 天真は、悠弥と直央の方へも顔を向けた。直央は頷いてみせる。悠弥も、一応頷いているようだった。


天真

「それは何より。では、ここからが重要なところです。若菜さん、今の二人のやり取り、メモしていますか?」


 驚いた事に、若菜はちゃんとメモをしていた。どうやら再現が始まった事で、これも授業の一環だからとメモを取っていたらしい。


天真

「我劉君と理美さんは、それぞれある主張をしていました。さて、何でしたでしょうか」


若菜

「えっ?だから、暑いのと授業時間と……」


天真

「いえいえ、その先があったはずです。我劉君は、暑いから何とかと、理美さんは、授業時間だから何とか、と主張していませんでしたか?」


 若菜はノートに視線を落とす。


若菜

「あ、暑いから帰ると、授業時間だから駄目、ですか?」


天真

「そうそう、そこが重要なのです。他のお二人、ついでに三年生諸君も大丈夫ですか」


小哲

「ついでにって何ですか教授」


 小哲は肩を竦めた。


直央

「暑いから帰る、授業時間だから駄目……あれっ?」


 直央は、何かが気になった。


天真

「おや直央君、何か思う処がありますか」


直央

「えっと……ちょっと待ってください」


 口許に手を当て、直央は考える。視線を向けずとも、我劉が真直ぐに睨んできている事が判った。


直央

「えっと、そうか。昨日のは、若菜が云っていたのが正しいんだ」


若菜

「ん、どう云う事?」


 若菜が小首を傾げる。


直央

「僕は昨日、理美先輩も我劉先輩もどっちも正しい、って云い方をしたけど、それは、暑いとか授業時間とかって話についてはそうだけど、元元の二人の云い分としては、やっぱり理美先輩の方が正しい、って事だよ」


若菜

「……え、えっと」


 見るからに、若菜は戸惑っていた。


直央

「ええと……。我劉先輩の云い分は、暑いから帰る、だよね。理美先輩のは、授業時間だから駄目だ、と云うものだった」


直央

「正しいのはどちらか、と訊かれて、若菜は理美先輩だと云ったよね。で、悠弥は、我劉先輩の云う通りで暑いし怠いと云っていた」


悠弥

「うん、そうだな」


 悠弥はやたら頷いていた。


直央

「でもさ、悠弥の云い分は、暑い、と云う主観について同意していただけで、暑いから帰る、と云う主張に対してのものではないんじゃないか?」


悠弥

「……ん?」


直央

「悠弥、今授業時間だけどさ、暑いから帰るって云い分が通用すると思うか?」


悠弥

「……帰りたいけど……帰っちゃ駄目そうだな」


直央

「どうしてだ?」


悠弥

「……授業時間だから?」


 うんうんと頷きながら、天真が口を挟む。


天真

「ちなみに、授業時間中に勝手に帰っては駄目だ、と云うルールがあるとしましょう。これ、ルールですから勿論客観の範疇にあるものですけど」


直央

「つまり、帰りたいと云う主観が成立するからって、帰っちゃ駄目だという客観とは無関係だって事なんだよ」


 解ったのか解ってないのか、悠弥は曖昧に頷いた。


悠弥

「んー、まあそうだな」


直央

「お前、解ってないだろ」


悠弥

「いや……何を云ってるのかは解るけど、何が云いたいのかは解らないと云うか……」


 悠弥がぼやぼやと云い訳を口にする。しかし、天真は何か嬉しそうだった。


天真

「うん、良い表現ですね。そう云えば、ちょっと違いますが、である論とべきだ論は異なっているなんて云い分もあります。その昔、ヒュームと云う哲学者がおりましたね」


小哲

「ヒュームギロチンですね!」


 妙に嬉しそうに小哲が身を乗り出した。


小哲

「ヒュームは人間本性論で、である事からべきだを導出する事はできないと述べてましたね。そして、それに対する批判として……」


我劉

「黙ってろ頭でっかち」


 ばっさりと、我劉が斬り捨てた。天真はやたらに笑顔を浮かべている。


天真

「さすが小哲君、生き地獄、いえ生き字引ですねえ」


理美

「お二人共、お静かになさい。悠弥君が泣きそうな顔してるわよ」


 肩を竦めながら、理美が云った。確かに悠弥は頼りない顔をしながら戸惑っていた。


直央

「ええと……。悠弥、話を戻すけどさ。たとえ帰りたいって思ったからって、帰っちゃいけない訳だよ。帰りたいと云う主観があったって、勝手に帰っちゃいけない」


悠弥

「ん、んー、まあそうだな。それは解る」


 悠弥は何とか頷いていた。


天真

「宜しい。つまり、主観がどうであろうと、客観には逆らえないと云う事が解ってもらえましたか?」


 必死にメモを取りながら、若菜も頷いていた。


天真

「ではもう一つ。我劉君、帰りたいですか?」


我劉

「帰らせろ」


 いかにも気怠そうに、我劉は云い放った。


天真

「それじゃ君、願望じゃなくて命令じゃないですか。それはさておき、今彼は、授業時間だと理解しているにも関わらず、帰りたいと云う主観的な感情を抱いているようです。悠弥君、これについてはどう思いますか?」


悠弥

「えっと……別に変な事はないような。俺だって帰りたいですし」


 すると、若菜が声を上げた。


若菜

「ああ、そうか。たとえ授業時間であろうと、帰りたいと感じる事はできるんだ」


天真

「うん、そうですそうです。若菜さん、まだ判ってない悠弥君に説明してあげてください」


 天真の言葉を受けて、若菜は真直ぐに悠弥を見据えた。


若菜

「二十二度と云う客観事実があろうと、暑いと感じたり寒いと感じたりする。同様に、授業時間だから帰ってはいけないと云う客観事実があっても、帰りたいと思う事も、帰りたくないと思う事もできる。これは解る?」


悠弥

「えっと、まあそうだな。どう感じるかは人それぞれな訳だ」


直央

「人それぞれどころか、同じ個人であってもだよ」


 直央も付け加えた。


悠弥

「ん?ああそうか。さっきの俺は二十二度でも暑いと思ったけど、今の俺は涼しいと感じてる……」


若菜

「とにかくそんな訳で、客観事実は、あんたがどう思うか感じるかに、何も影響を与えていない訳なのよ」


悠弥

「うん……それは解ったけど……」


 悠弥はまだ首を捻っている。


直央

「何が解らない?」


悠弥

「えっと、それが何だってのが解らない」


 直央は、思わず肩を落とした。話が長長と続いたせいで、今何の話をしているかを忘れてしまったらしい。


直央

「だからさ、つまり主観と客観は無関係だって事。独立しているんだって話を今していたんだよ」


悠弥

「ん、んー」


天真

「はいはい、じゃあ私が引き取りましょう。まあ悠弥君も、もう解りましたね。以上のように、主観と客観は独立しています。だからどうしたは、今から話すところですから」


悠弥

「何だ、そうだったのか」


 悠弥はあっけらかんとそう云った。直央と若菜は、共に溜息を吐いた。


天真

「皆さんも大丈夫ですね?主観と客観は互いに独立しており、互いに無関係に成立します。さて、もうちょっと踏み込んだ表現をしましょう」


 天真の言葉に応じて理美が立ち上がり、黒板に何やら文章を書いた。


直央

「主観は客観に逆らい得ず、客観は主観に干渉し得ない」


 直央は小さく読み上げた。


天真

「そう。この表現、何ならフレーズとして憶えてもらっても良いです。何度でも口に出して唱えてください」


天真

「主観は客観に逆らい得ず、客観は主観に干渉し得ない。宜しいですか?」


 主観客観は独立しているとの事なのだから、まあこのフレーズも成立しているのだろう。


 しかし、どうしてわざわざこんなフレーズを持ち出すのだろう。互いに独立しているの一言で良いのではないだろうか。


天真

「直央君、そんなに睨み付けたら黒板が不安になりますよ」


 相変わらず、天真が惚けた事を口にする。一気に全身の力が抜けた。


天真

「ま、黒板が主観を持っていればの話ですけれどね。さて、この表現の意味するところを解説しておきましょう。重要なところなので、よく聞いてください」


 そう云いながら、天真は辺りをキョロキョロと見回した。


天真

「じゃあ、折角なので生地獄の小哲君にお願いしましょうか。これはどんな意味なのでしょう」


小哲

「はい、任せてください」


 小哲は自信満満にそう云った。


小哲

「主観は客観に逆らい得ない。これは勿論、主観よりも客観の方が優先される、と云う意味ですね。つまり、帰りたいと云う気持ちがあろうと、帰っちゃいけないと云う客観事実には逆らえないと云う事です」


天真

「はい、その通り。まあ解りますよね。大丈夫ですか、二年生諸君」


 天真は三人を見回す。直央と若菜は勿論、悠弥もこのくらいだったら理解できるようだった。


天真

「ではその続きをどうぞ」


小哲

「はい。そして、客観は主観には干渉し得ない。例えば、授業時間だと云う事実があるからって、帰りたいと云う気持ちさえも生じてはいけない事にはならない」


小哲

「事実がどうであろうと、そう感じてしまうものは感じてしまう。事実は感情に、干渉できないと云う事です」


天真

「その通り。我我、さっきから、何なら先週からずっと、同じ事を繰り返しているだけです。それは、それだけこの事実が重要だからなのです。二年生諸君、しっかり理解できました?」


若菜

「はい、一応……」


 若菜は頷きながらも、何か心許なげだった。恐らく悠弥と同じで、この事実が何か役に立つのかと云うところがまだ解っていないのだろう。直央も直央で、彼らが何を云おうとしているのか、まだ巧く掴めていなかった。


天真

「ふっふっふ、二年生諸君が、だからどうしたと云うような顔をしていますね。ではここからが本題です」


 すると、突然我劉が立ち上がり、つかつかと直央の許へと歩いてきた。


直央

「な、何ですか?」


我劉

「さあな」


 何やら、妙に愉しそうな顔をしている。人は、ここまで邪悪な笑顔を浮かべる事ができるのか……そんな事を考えている内に、我劉は直央を羽交い絞めにした。


直央

「痛い痛い! 何ですか、我劉先輩!」


我劉

「何、お前を痛めつけたくなっただけだ」


直央

「急に何でですか。とにかく止めてください」


我劉

「何故止めなければならないんだ?」


直央

「何故って……」


理美

「こら、我劉君。厭がってるんだから止めなさい」


 理美が云うが、我劉は止めようとしない。


我劉

「おやガキ、お前厭がっているのか?」


直央

「い、厭がってます……」


 実際、手加減はされているのだろう、そんなに痛みがある訳ではない。しかし妙な体勢になってしまっているし、自由に身動きができないのはもどかしい。


我劉

「だが、お前が厭だという主観は、俺の主観には影響を及ぼさん。と云うか寧ろ、お前が厭がるほど、俺は愉しくなるぞ」


天真

「あ、皆さん云い忘れてましたが、主観は人それぞれ固有のものなので、主観同士も独立していますからね」


 暢気な口調で天真が云う。


 暢気な口調で……。


 そこで、直央は何かに気が付いた。


 授業中、突然暴力を振るい出す我劉。そして、暢気な口調で説明する天真。何より、口では嗜めるものの、実際に止めに掛からない理美……。


直央

「……………………」


 直央は、どんどん自分が冷静になっていくのが判った。ふと見れば、同学年の若菜や悠弥は慌てたようにしているが、先輩である創吾に小哲、そして紗綾は、伺うように直央の方を見詰めている。それは、天真も、理美も同様だった。


直央

(考え時、なのか?)


 では、何を考えるべきなのか。


我劉

「おいガキ。お前、止めて欲しいのか」


直央

「……止めて欲しいです」


我劉

「だが、お前のその主観は、俺の止めたくないと云う主観には、何の影響も及ぼさない」


直央

「……………………」


 先程の、理美の言葉が思い出された。試しにそれを、口にしてみる。


直央

「……僕は、厭がっています。厭がっているんだから、止めてください」


我劉

「何故お前が厭がったら止めなければならないんだ?お前の止めて欲しいと云う主観は、俺の主観に影響しないと云ったはずだ」


 そうなのだ。被害者が厭がろうとどう思おうと、それが加害者の行動を抑制する理由にはならないはずなのだ。何故なら、主観同士は独立しているから。


直央

「ううん……我劉先輩、世間ではよく、人の厭がる事はするなって云われますよね」


我劉

「云われている。しかし、だからどうした?」


 そう。今のままでは、だからどうしたとしか云えない。主観同士は独立している。


我劉

「そんなに厭なら、自分でどうにかしたらどうだ?例えば俺は、こんな事を誰かにされたって、厭だとも思わない。さっさと抜け出して、返り討ちにしてやる」


直央

「こんな事をされても、俺は厭じゃない……」


我劉

「そうだ。寧ろ、厭だから止めろだの、人の厭がる事はするななんてお説教じみた言葉の方が、俺は厭だね。厭がる事をしていけないなら、その言葉を俺に向けないでもらおうか」


直央

「……えっ?」


 今、我劉は何と云ったのだろう。


直央

「厭がる事をするな、と云う云い分が厭だから云うな?」


我劉

「そうだ」


 それでは、主張内容が矛盾してしまう。


直央

「……訝しい」


我劉

「そう、訝しい。では、何が訝しいんだ」


 体勢こそ羽交い絞めにしているが、我劉は冷静に、直央の言葉に反応を返す。


直央

「厭だから止めろ、と云う主張は訝しい……」


我劉

「ほう。では俺は、こうしてお前を羽交い絞めにしていて良いと云う事だ」


 我劉が、少し力を強めた。背中がズキンと痛む。


直央

「痛……」


我劉

「痛いか?しかし俺は止めなくて良いらしいぞ」


 そんな事はないはずだ。だとしたら、暴力を振るった者勝ちになってしまう。


直央

「先輩は、そんな行動を……人の厭がる行動を、止めなくてはならない理由があるはずです」


我劉

「ほう、どこに?」


 我劉の言葉に、直央は不意を突かれた。その理由は何だ、と訊かれると思っていたのだ。しかし我劉は、どこに、と訊ねた。


直央

「どこに……」


 どこに、と云う表現は、場所ばかりとは限らない。領域や範疇などを示すときにも使える表現だ。


直央

「そう……客観の範疇に、その理由があるはずです」


 直央は頭がズキンと痛んだ気がした。我劉のせいではない。自分の思考に依ってだ。


直央

「先輩、人の厭がる事はしてはいけません。これは客観の範疇にある、ルールです。だから、先輩の攻撃したいと云う主観は、この客観事実には逆らえないはずです」


我劉

「だから、離せと?」


直央

「そうです……」


 しかし我劉は、却って力を強めた。


我劉

「そんな程度では、まだ離せん」


直央

「痛たた……」


 我劉に締め上げられる直央を視て、若菜は酷く心配そうだった。実際そんなに痛い訳ではないが、外野から見ていれば随分乱暴な光景だろう。これも主観と客観の差異だろうか……。


若菜

「どうして離してくれないんですか。直央君、ちゃんと理由を説明したのに……」


直央

「いや、若菜。まだ駄目だ……。今のじゃ、主張の正当性が示せてない……論理的でないんだ」


 まだ、説明していない事がある。今の云い方では、これはルールだと云い張れば何でも通ってしまう。


直央

「我劉先輩、ある行為の禁止性がルールとして客観的に認められ得る、と云う点についての説明は必要ですか?そこ、まだちょっと良く解っていないです……」


 我劉は、少し考えた。


我劉

「……いや、そこについては一旦良いものとしておく。今日の主題とは離れてしまうからだ。そこについては今後扱うはずだから、今日のところはそのまま採用して良い」


天真

「今回は、飽く迄も、主観と客観の独立性についての話に専念しましょう」


 遠くから、天真の声が飛んでくる。それにしても、乱暴な授業もあったものだ。


直央

「解りました。それじゃあ、一つ思いついた事があります。確証はないですけど……」


我劉

「何だ」


直央

「我劉先輩、人が客観的に厭がる事は、止めてください。我劉先輩の主観が他人から羽交い絞めにされる事を厭がるまいと、例えば暴力は客観的に厭な事です」


直央

「全て客観範疇にあって、主観は無関係です。主観的に厭なのではなく、客観的に厭だから禁止されるはずです」


 途端、我劉は直央を解放した。突然だった為、直央はバランスを崩して床に倒れてしまった。


我劉

「あー、疲れた」


 さも自分が被害者であるように云いながら、我劉は自分の席へと戻っていった。


直央

「うう、酷い目に遭った」


悠弥

「だ、大丈夫かよ直央……」


直央

「ああ、一応ね。……今度は悠弥、お前がやられれば良いよ」


悠弥

「おい、酷い事云うなよ」


 悠弥は直央の肩を小突いた。今酷い目に遭った友人を殴るとは、こいつも酷い奴だと直央は思った。


天真

「さて、今直央君が何を述べたか、若菜さんと悠弥君は解りましたか?」


 相変わらず惚けた声で、天真が云う。他人事だと思って良い気なものだ。


若菜

「えっと……客観的に厭な事、がどうとか……」


 若菜はノートを取っていた。どうやら、ちゃんとやり取りは聞いていたらしい。


天真

「そう。それが今回、とても重要な事なのです」


 そう云って、理美は黒板に、客観的に厭と記した。


天真

「意味が解りますか?客観的に厭な事」


 若菜も悠弥も、腑に落ちないと云うように顔を顰めていた。直央も直央で、自分で口にしておきながら、奇妙な概念だと思った。


天真

「普通、厭だというのは人の感情ですね。感情というのは、勿論主観の範疇にあるものです。しかし、ここに書いてあるのはそうではない。主観的な厭さではなく、客観的な厭さ、と云うものなのです」


 客観的な厭さ。それは一体何なのか。


悠弥

「えっと……例えば殴られるって云うのは、誰でも厭がるから、客観的に厭な事、ですか?」


 腕を組みながら、悠弥が呟く。しかし天真は首を振った。


天真

「んー、惜しいですね。でも、違うと云っておきましょう。悠弥君、先週云った通り、客観と云うのは皆が思った事ではありませんよ」


悠弥

「ん、ああそうか……。客観ってのは自然法則とかルールとか……」


若菜

「ええ?」


 若菜はノートを読み返しながら、声を上げる。


若菜

「客観的な厭さって……そもそも何なんですか?厭だって云うのは、主観じゃないですか」


天真

「うん、それはその通りですよ。だから、ちょっと捻った概念なのです」


 天真は、ちらと時計を見た。


天真

「我劉君が暴れたお陰で、もうこんな時間ですか。今日はこの辺でお開きとしましょう」


我劉

「ふん。そこのガキが、思いつくまでに時間が掛かったせいだ」


 何やら云い掛かりを付けられている。しかし、直央は反論できない気持ちだった。


理美

「と云うか、教授が授業時間に遅れてくるからいつも時間が足りないんですけどね」


 理美が代わりに反論をしてくれた。しかし天真は気にせず、ホウホウとフクロウのように笑っている。


天真

「それでは、来週までにこの客観的な厭さと云うのが、そもそも何を意味しているのかを、少しでも考えてきてください。三年生諸君は退屈でしょうが、もう暫く待っていてくださいね」


天真

「……ああ悠弥君、寝ている紗綾さんを起こしてあげてください」


 妙に静かだと思ったら、いつものように紗綾は居眠りをしているようだった。出番が無いと、途端に眠り出してしまうようだ。

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