恋愛学入門

哲学サークルDreal

第一章 講義:主観と客観

 初夏。既にクーラーも稼動を始める程、太陽は頑張り始めていた。


 そんなある木曜日の午後。穂邑直央は、汗を拭いながら階段を上っていた。


直央

「ゼミ室、階段で上ると結構キツいな……」


悠弥

「や、やっぱりエレベーター待ってた方が良かったんじゃないか」


 隣で、同学年の陽向悠弥が同じように息を切らしている。


直央

「お前が云ったんだろ……エレベータを待つのはめんどくさいって」


 小突く元気も無かった。とにかくもうすぐ、ゼミ室に着くのだ。


 何とか階段を上り終え、廊下を進む。平坦ではあったが、窓からの光が暑かった。悠弥は非難がましく口を尖らせる。


悠弥

「何も太陽もなあ、夏だからって張り切りだす必要も無いだろうに」


直央

「そんな事云われても、太陽も困ると思うよ」


 下らない事を話しながら、漸く辿り着いたゼミ室の扉を開く。途端に涼しい風が躰を包み込んだ。


悠弥

「うはー、やっぱこうでないとな!」


 小躍りしながら、悠弥はクーラーの吹き出し口へと駆けて行った。


若菜

「ちょっとアンタ、口塞がないでよ」


 早速、同学年の春実若菜から苦情が出た。勿論、悠弥は気にも留めていない。


直央

「はは……。やあ若菜、先に来てたんだ」


若菜

「うん、私もこの時間は授業無いからね。……そう云えば、珍しく悠弥と一緒に来たのね。あいついつも昼くらいからここに居るみたいなのに」


悠弥

「ふっふっふ、そんなに俺の事が気になるか。そんなにこの世紀の謎に興味があるか」


若菜

「別に。大方寝過ごして、ついさっき登校したか何か云うんでしょ」


悠弥

「うーん、若菜も名探偵だなあ」


 喋り終えると、悠弥は再びぐったりとクーラーの吹き出し口の上に寝そべった。


直央

「あれ、若菜。何読んでるんだ?」


 視れば、文庫本のようなものを若菜は机に広げていた。


若菜

「ん、これ最近流行りの恋愛小説だよ。直央君も読んでみる?」


直央

「恋愛かあ……。正直そんなに興味は無いんだよなあ」


 すると、若菜は意味ありげに口許を歪めて笑った。


直央

「……何ですか」


若菜

「ぶえっつにー。そう云えば先輩はまだ来てないねー」


 わざとらしくそんな事を云う。直央は肩を落とした。


 この春、二年生になった直央は、哲学ゼミと云うところに所属する事に決めた。同学年の悠弥と若菜とはここで出会い、今ではすっかり仲良しだ。


 ゼミには先輩らも所属しており、男子二人組――オタク気質の夢編創吾、哲学大好き智倉小哲のコンビ――は、黒板の前で何やらお喋りをしているようだった。


 ゼミのリーダーを勤める四年生の氷山我劉は、隅っこの椅子に腰を下ろして、腕を組んで転寝をしているようだった。いつも無愛想だが、悪夢でも見ているのかと思う程、特にぶっきらぼうな表情で眼を閉じていた。


直央

「えっと、紗綾先輩と理美先輩がまだなのか」


 直央はちらと部屋を見回す。三年の綿織紗綾、そして四年生でゼミのサブリーダーである静香理美――どちらも女性だ――の姿は、ゼミ室には見えなかった。


若菜

「おやおや、随分お気になるようで」


 悪戯っぽく若菜が笑う。


直央

「変な誤解はしないでくれよ。僕は別に……理美先輩とはそんなんじゃないってば」


 ふ、と直央は溜息を吐いた。


 ゼミに入り、理美には色色とお世話になっている。先輩だとかサブリーダーだと云う以外に、個人的な交流をたくさんする事ができた。


 趣味が共通している事もあったかもしれないが、何だか随分と直央の事を高く評価してくれているらしい。


直央

「僕、そんな大した人間じゃないけどな。何であんなに褒めてくれるんだろう」


若菜

「理美先輩、皆を褒めてくれるし優しい先輩だけどね。確かに直央君は別格扱いな気がする。……まあそれは、教授もそうだし、我劉先輩もそうな気もするけど」


 そもそも、このゼミの教授である法穣天真は、哲学者である。人間性は扨措き、学術能力は当然に高い。


 そして、ゼミのリーダーである我劉は、口を開けば罵詈雑言ばかりを吐くが、その能力は人並み外れて優れているようである。


直央

(そんな二人、そして理美先輩が、どうして僕を……)


 これまでのゼミの内容で、何度か議論をやらされた。自分で考え、目の前の課題への解決案を構築できるようになれ、と云う趣旨であるらしい。


 直央はその度に必死に色色と考え、幾つかの答を論理的に導出もできた。その事が評価されているようではある。


 しかしそのいずれも考慮不足や論理不備などもあり、我劉には腐される事もあった。


直央

「僕、ちゃんと考えられているのかな」


若菜

「直央君心配性よね。大丈夫よ、少くともあの莫迦よりはよほど頭良いと思うわ」


 そう云って、若菜は悠弥を指差す。悠弥はシャツのボタンをだらしなく外し、素肌に冷気を当て続けていた。


直央

「うーん、あれと比較されても喜び難いな」


若菜

「そうね、ごめんなさい」


 若菜はわざとらしく咳払いをする。


若菜

「威張って云う事ではないけれど、確実に私よりも、直央君は頭良いと思う。今までの議論でも、基本的には先導してもらっちゃってるしね」


 哲学ゼミと云う事で、論証力とでも云うようなものが重要視されていた。つまり、結論や内容の意味合いではなく、どれだけ論理的にそれを導出できたかが、ポイントであった。


 だから時には、人は殺しても良いであるとか、戦争は悪いものではない、などと云うような結論さえも、直央は導出した事があった。勿論その結論自体には納得できなかったが、その導出過程は充分論理的だったとして、教授には褒められたりもした。


直央

「うーん……もっと良く考えれば、納得のいく結論を、論理的に導出できるのかな。幾ら何でも、人を殺して良いなんて結論は……」


若菜

「まあね……でもほら、前提に依って結論は変わるって云ってたじゃない。そういう突拍子も無い結論が出てきてしまうような、変な前提を、敢えて教授は設定していた、って事なんじゃないのかな」


直央

「うん……まあそうかもね。背理法みたいなものだろうし」


 だが、偶に不安になる。


 確かに、自分は別に哲学者になる事を目指して、この大学に、そして哲学科に入学した訳ではない。田舎の農村暮らしに飽き、憧れの都会生活を謳歌してみたくて、都会の大学を選んだだけだ。


 だが、それでも。


 このゼミに入り、天真や我劉、そして理美に色色と教えてもらう内に、物を考えると云う事、論理、そして哲学に、少しずつ興味が向くようになってきたのだ。


 ちらと、直央は黒板の前の小哲に目を向ける。


 知識ばかりで自分で考える事をしない頭でっかちと我劉に罵られている彼だが、確かにその知識量は凄かった。


 哲学者の名前を出せばどんな人かをすぐに教えてくれ、思想を口にすれば解説してくれる。当初は戸惑うばかりだったが、今では小哲の愉しそうに語る哲学者の話に、直央は面白さを感じるようにもなっていた。


直央

「僕、ちゃんとものを考えられているのかな」


 幾度と無く繰り返す自問。まだまだ、自信は持てなかった。


若菜

「まあ、これから更に頑張っていけば良いじゃない。その為のゼミなんだしね」


直央

「……うん、まあそうだね」


 教授である天真や我劉のような存在がすぐ傍にあるからだろうか。直央はたまに、得も云われぬ焦燥感に苛まれる事があった。


若菜

「その調子でどんどん頭良くなっていけば、きっと理美先輩にも惚れ直されるかもしれないよ」


 若菜が軽口を叩く。


直央

「だから、別に理美先輩に対して、そんな気持ち無いって」


 口ではそう云うものの。本当にそうなんだろうか。


 自分の、理美に対する、何某かの強いこの気持ち、思いは――。


理美

「わあ、ゼミ室は涼しいね」


 途端、直央の心臓が跳ねた。


 耳を擽る、優しくて暖かい声。……傍らで、若菜が笑っている気がした。


理美

「あら、もう皆揃ってるのね」


 理美が中にやってきた。その後ろには、紗綾も一緒に居る。


紗綾

「やほー。……でもやっぱり、教授は居ないんだねえ」


 いつものように、綿菓子のようにフワフワとした口調で紗綾が云う。確かに、後は教授を待つばかりだった。


紗綾

「あー、若菜ちゃん! それ読んでるんだ」


 珍しくハイテンションになって、紗綾が若菜の傍に屈み込む。


若菜

「はい、早速読んでますよ。多分明日には返せると思います」


紗綾

「そっかー、でも別に急がなくて大丈夫だからね。読み終わったら感想聞きたいなー。いっぱいお喋りしようね」


 どうやら、例の恋愛小説は、紗綾から借りたものであるらしい。意外とこのフワフワした先輩、恋愛話には目が無いようだ。


理美

「ああ、何か最近話題の小説だったわよね。若菜ちゃんも、こういうの読むんだ」


 理美も、少し前屈みになる。ふと、甘い香りが漂ったような気がして、直央は頭がクラクラとした。


我劉

「……全く騒がしい奴らだ」


 この世の全てを憎んでいるかのように顔を顰めて、眠れる獅子が起きてしまったようだ。嬌声が耳障りだとばかりに、我劉はズンズンとやってきて、その小説を取り上げた。


我劉

「こんな虚構の、愛だの恋だの云ってる話が面白いんかね」


理美

「好みは人それぞれでしょ。女の子からしたら、よく解らない学術書ばかり読んでる我劉君の方が変だわよ」


 我劉に食って掛かれるのは、同学年の理美だけだ。ゼミは二年次から開始であるのに、この二人は訳あって、一年次から在籍しているらしい。きっと、気心もよく知れているのだろう。直央は少し、胸がチリと痛んだ気がした。


我劉

「ふん、お前はどう思うんだ」


 珍しく、我劉が話を振ってくる。想定外の事に、直央は慌てた。


直央

「えっ、恋愛小説ですか。いや、僕も余りよく解らないんですけどね……」


 四の五のと何とか口を動かしていると、我劉は小首を傾げるようにしながら、小さく鼻を鳴らして自席へと戻っていった。そしていつものように腕を組み、周囲を威嚇するように無愛想な表情を浮かべる。


理美

「うーん、あの人に恋愛を解れって方が無理かしらね」


紗綾

「我劉先輩、恰好良いのにねえ」


 随分な事を云って、綿菓子先輩が笑う。


若菜

「ルックスは良いですけどね。中身がちょっと……」


 若菜も苦笑していた。


直央

(ルックスは良くても中身、か……。恋愛、恋愛ね……)


 このゼミに入ってから、やたら考える癖がついたような気はしている。何か気になる事ができると、直央は随分真剣に考え込むようになったのだ。


理美

「あら、直央君がまた難しい顔してる」


 からかうように、理美が云う。理美の言葉が耳に届く度に、全ての思考が雲散霧消してしまうのが情けなかった。


直央

「いや、別に何を考えている訳でもないですけど……」


 またも、直央はしどろもどろに何やら呟く。その様子に、理美はいつものようにクスクスと笑った。


理美

「今度は恋愛について考えているのかしら。直央君、解き明かせる?」


直央

「解き明かせるって、別に恋愛は推理小説じゃないですよ」


 理美も直央も、推理小説が共通の趣味だった。紗綾と若菜が小説を貸し合っているように、たまに二人も推理小説を読み合っていた。


紗綾

「恋愛って不思議だよねえ。理屈では解けないし」


 コロコロと紗綾が笑う。すると突然、鋭い声が飛んできた。


我劉

「おい綿菓子。何故恋愛は理屈では解けないんだ?」


 孔が開きそうな程鋭い眼光で、我劉が睨み付けてきている。


紗綾

「え、だってよくそう聞くじゃないー」


我劉

「よく聞くだ?じゃあ世間の奴らが白だと云ったら、黒は白になるってのか?」


 忌忌しそうに舌打ちをして、我劉が云った。何やら機嫌が悪そうである。あの先輩が気分を害している時はいつも――……。


直央

(……まさか、考え時、なのか?)


 直央は我劉の眼から、視線を逸らせずに居た。それに気付いたのか、我劉はじっと直央の眼を見据える。まるで、お前はどう思うんだ、と訊ねてきているかのように。


 短絡的に結論を出したり、先入観に捉われた事を口にすると、いつも我劉は鋭く睨み付け、何故そう云えるのかと問い質してくる。


 何故、そう云えるのか。何か、論拠があるのか。


 我劉がああいう反応をする時はいつも、何かが短絡的で非論理的なのであり、だからこそ、考えるべき時なのだと、直央は実感していた。


直央

(紗綾先輩は、恋愛は理屈ではない、と云った。確かに、世間でもそう云われているように思う。では、何故そう断言できるのか……)


 もしかして、恋愛は理屈で説明ができるのだろうか。それともやはり、理屈での説明はできないのか。それとも、別に何か含む処が、あの先輩にはあるのか――……。


 そうして、直央の頭が回転を始めかけた時。


天真

「やあ皆さん、お揃いでどうしました」


 この世の無気力を集めたように惚けた声が、扉の方から聞こえてきた。


理美

「どうしたもこうしたも、ゼミに集まったに決まっているでしょう、教授。それに、遅刻ですよ」


 理美が時計を示す。天真はホウホウと笑いながら、気にもせずに黒板の前の自席へと足を進めた。こんなもんだ、この教授は。


 すっかり気を削がれる形となった直央は、再び我劉の方をチラと眺めてみた。


 もはや彼の苛苛とした眼は、教授である天真だけに向けられていた。その忌忌しそうに歪められた口からは、遅刻を咎めるような、叱責と云うより罵詈雑言の嵐が次次と吐き出されている。


 勿論天真は、気にも留めない。自分のペースで歩き、自分のペースで坐り、この世に自分一人しか存在していないかのように振舞っていた。


直央

(変なゼミ)


 改めてそう思い、直央はクスリと笑った。


 すぐ隣で、理美も同じように笑っていた。いい加減な教授に呆れながらも、なんだかんだ云って、理美もこのゼミが好きなのだ。


 そうして、他の皆も自席に着き、漸く本日のゼミが開始された。


天真

「さあ、それではゼミを開始しましょう」


天真

「夏休みまでは基本的には講義形式を繰り返そうと思っています。これまでで、議論と云うもののやり方は、二年生諸君も何となく判ってくれたものと思いますしねえ」


 天真の言葉に、若菜は不安そうにしていた。真剣にノートを取るし、よく話を聞く子ではあるが、論理思考と云うものがまだ巧く習得できていないようである。ちなみに悠弥は、素知らぬ顔をして口笛を吹いていた。


天真

「おやおや、何だか不安になる反応ですね。まあ、夏まではちょっと座学で行きましょう。その内に諸諸、慣れてくるはずです。さて……」


 そこで、天真は理美の方に眼を向けた。


天真

「理美さん、何か良い話題はありますか」


理美

「えっ、何も考えてきていないんですか」


天真

「いやあ、余り面白い話題が無くてね。いえいえ勘違いしないでください、考えるのが億劫だとか面倒だとか、決してそんな意味で云っているのですから」


 意味の解らない言葉に、理美は溜息を吐いた。


理美

「これで教授だって名乗っているんだから……。うーん、話題、何かあるかしら」


我劉

「何も無いなら、もうお開きにしようじゃないか。暑くて適わん」


 気怠そうに、我劉が云う。彼も彼で、ゼミリーダーでありながらこんな体たらくである。


理美

「駄目よ。暑かろうが寒かろうが、今は授業時間なんだから」


我劉

「授業時間だろうがゼミ時間だろうが、暑いもんは暑いし、怠いものは怠い」


 不毛なやり取りに、他の皆も何だか気怠くなってきてしまった。しかし確かに、初夏だというのに、今日はどうも暑い。


天真

「あっ、そうだ。それ行きましょう」


 手を打ち、天真が声を上げた。敵に塩を送ってしまったとばかりに、我劉は舌打ちをする。


天真

「二年生諸君、今の二人のやり取りについて、どちらが正しいと思いましたか?」


若菜

「どちらがって……」


 若菜は、ペンの背を唇に当てながら小首を傾げた。


若菜

「理美先輩の云うのが正しいんじゃないですか?今、実際に授業時間だし」


悠弥

「え、でも我劉先輩の云う通り、暑いし怠いぜ」


 悠弥が当然のような口調で云う。若菜は溜息を吐いた。


若菜

「もう、だらしないわね」


悠弥

「ふふん、俺は我劉先輩と同じような考え方をしてるんだぜ。もっと崇めてもらいたいな」


我劉

「一緒にするな莫迦が」


 面倒臭そうに、我劉は鼻を鳴らした。


直央

「ええと……。微妙な云い回しかもしれませんが、どちらも正しいんじゃないですか」


 直央が口にすると、天真がほうほうとフクロウのような声を出した。


天真

「どちらも正しい、それはどんな事でしょうか。矛盾したりしませんか?」


直央

「どんな事と云うか……。確かに今は授業時間だし、暑いのは暑いですよね。どちらかだけが正しく、他方は間違っている、と云うようなものではないでしょう。だから、別に矛盾もしないと思います」


天真

「うん、そうですね。という訳で、それを、もうちょっと突き詰めてみましょう」


 天真は皆を見回した。


天真

「おや紗綾さん。今日はカーディガンですか」


紗綾

「今だけですよお。クーラーがちょっと肌寒いからー」


天真

「ふむ、今、肌寒いですか」


紗綾

「肌寒いですよお」


 紗綾は、コロコロと笑っている。天真も天真で、ホウホウとフクロウのような声を出しながら微笑んでいる。何だ、この二人?


天真

「では悠弥君、君は肌寒いですか」


悠弥

「いや、俺はメチャ暑いっすよ。紗綾先輩、風邪っすか?」


 惚けた言葉に、若菜が溜息を吐く。


若菜

「女性は躰が冷えやすいのよ」


悠弥

「へえ、こんなに暑いのに」


天真

「若菜さん、君はどうですか。この部屋は寒いですか」


 今度は天真は、若菜の方へ顔を向けた。


若菜

「えっと、私はまだ平気ですけど。でも、教室とかでもたまに寒いなって思う時あります」


天真

「ふむ、成程。では今度は、悠弥君と紗綾さん、彼らのどちらが正しいでしょうか。矛盾していませんかね?」


 突然の問いに、若菜はキョトンとした。


若菜

「どちらって……やっぱり、どっちも正しいんじゃないですか。感じ方は人それぞれだし。矛盾と云われても……」


天真

「ふむ。片や暑いと云い、片や寒いと云う。これはしかし、矛盾ではない、と?」


若菜

「え、ええ……」


 癖なのか、何度も繰り返されると不安になるらしい。若菜は曖昧に頷いた。


天真

「いえいえ、大丈夫、自信を持ってください。では、今度は悠弥君に訊いてみましょう」


悠弥

「俺?俺は暑いっすよ」


天真

「いやいや、質問はこれからです。君、今は授業時間だと思いますか?」


 また突拍子も無い質問に、悠弥もキョトンとした。


悠弥

「今……普通に、授業時間だと思うっすけど」


天真

「ふむ。我劉君はどう思いますか」


我劉

「何がだ」


 我劉は小さく鼻を鳴らす。


天真

「判ってるくせに。君は今、授業時間だと思いますか」


 少し考えてから、我劉は厭味な笑顔を浮かべて口を開く。


我劉

「勿論、授業時間だとも。それはそれとして、俺は帰るがな」


理美

「駄目に決まっているでしょう。授業時間に勝手に帰らない事」


 途端に、理美からツッコミが入る。


天真

「ふむ、相変わらず意地悪ですね。それじゃ話が進まんでしょう」


我劉

「知った事か。この暑いのに、こんなくだくだしいやり取りに真面目に付き合ってられるか」


 莫迦莫迦しそうに、我劉は外方を向いた。


天真

「では、不肖私が。私は、今を授業時間だとは思っていません。だから、私はもう研究室に戻っても良いのです。何故なら、授業時間ではないと私は思っているからです」


理美

「なおの事悪いわよ、仮にも教授なのに」


 理美は、思わず肩を竦めた。


天真

「君だって何の話か判っているくせに、一応ツッコむんですねえ。さて若菜さん、今は授業時間だと云う悠弥君や我劉君と、今は授業時間ではないと云う私、どちらが正しいと思いますか」


若菜

「えっ……それは、二人の方が正しいですよね」


天真

「おや、今度はどちらも正しいとは云ってくれないのですか。私の時ばかり」


若菜

「だって……今、授業時間ですし」


天真

「うむ。でもほら、感じ方は人それぞれでしょう」


 何やら子供のような云い訳を、良い大人が口にし始めた。直央は、いよいよこの教授もヤキが回ったかと不安になってしまった。


若菜

「でも……授業時間がどうのって、感じ方の話じゃないですから……」


 若菜が云うと、天真は笑顔になった。


天真

「ほう、個人の感じ方ではない。それはしかし、一体何故でしょうか」


若菜

「何故って……だって今、授業時間ですよね」


 途端に、我劉の鋭い眼光が若菜の方に向けられる。我劉がそんな眼をする時は、大抵何か短絡的な事を云った時だ。今回で云えば、だってそうだから、では説明になっていない、と云う事なのだろう。


直央

「えっと……これ、ただの意味不明なお喋りじゃないんですよね。一応、ゼミ、もう始まってるんですよね」


 直央が確認すると、今度は天真がキョトンとした。


天真

「勿論です。そうじゃないと、まるで私、頭の訝しくなった人でしょう」


我劉

「まるで、そうじゃないと云わんばかりだな」


 我劉が、欠伸をしながらそう云う。傍に坐っている小哲と創吾はクスクスと笑った。


天真

「暢気に笑っていますねえ。じゃあ、暇そうな君達にも仕事をあげましょう。二年生諸君に、状況を説明してあげてください」


創吾

「ふむ、漸く出番が来たか」


 一つ咳払いをし、創吾が口を開いた。


創吾

「あー、二年生諸君。今、二つの事例が呈示された事は判ったかね。暑い寒いと云う話と、授業時間だのそうでないの」


小哲

「前者は感じ方は人それぞれだからどちらでも正しく、後者はどうやらそうじゃなくて間違いなく授業時間だと断言できる、と云う事だったね」


 小哲も横から補足する。


 今年三年生である、創吾と小哲、そして紗綾の三人は、昨年の時点でこのゼミに参加している。既にある程度の事は学び、後輩の入ってきた今年度は、基本的には後輩の世話をする役割となっているようだ。


小哲

「この二つの事例、どんな差があるか判るかな」


若菜

「二つの事例の、差ですか……」


 ノートを取りながら、若菜が首を傾げる。


若菜

「やっぱり、感じ方の問題か、そうでないか、って事だと思うんですけど」


創吾

「うむ、それはその通りだ。しかし、何故前者は感じ方の問題で、後者はそうでないと云う事になるか。その判断基準は何だ、と云う問題なのだよ」


悠弥

「判断基準、すか」


 腕を組み、珍しく悠弥も考え出す。


悠弥

「寒い暑いは、人の感じ方……。授業時間だってのは……大学のルール?」


天真

「おっ、珍しく良い線ですねえ」


 天真がホウホウと頷いている。


悠弥

「へへ、褒められたぜ」


直央

「喜んでないで、もっと考えようよ。あと一応、しれっとバカにされてるよ」


 溜息を吐きながら、直央も考える。


直央

「大学のルールは、人それぞれの感じ方ではない。人に依って……ああまあ、授業を履修してるかどうかと云う違いはあるにせよ、時間割と云うのかな、授業時間の区切りは皆に共通だよね」


若菜

「うん、そうだよね。だから、教授みたいな人が授業時間じゃないなんて云い張ったって、やっぱり今は授業時間なのよね」


 ペンをクルクル回しながら、若菜は天真の方を視る。


若菜

「えっと……何が問題なんでしたっけ」


天真

「おお、若菜さん。そうして逐一、問題点や前提の確認をするのはとても大事な事ですね。何か一瞬、変人扱いされた気もしますが」


天真

「では、二年生諸君。前者と後者、即ち、暑い寒いと云う話と、授業時間だと云う話は、本質的に異なっているようだ、と云う事は判りましたか?」


悠弥

「……まあそりゃ、云われるまでもなく判ってたっすけど」


 悠弥が云うと、天真は嬉しそうに笑った。


天真

「おや、そうでしたか。では、何故違うかは判りますか」


悠弥

「何故って……感じ方と、ルールだから」


我劉

「お前、それが説明か?」


 呆れ果てたような口調で、我劉の言葉が飛んでくる。


悠弥

「え、えーと……?」


天真

「うん、まあまあ何となくは判っているんでしょうから、ここは私の方から説明をしていきましょう。二年生諸君、その二つの本質的な差を説明する為に、二つの概念を改めて抑えて下さい」


天真

「さて、この二つは、それぞれ別の性質を持っています」


 そう云うと、天真に代わって理美が黒板に向かった。怠惰な教授のせいで、理美はすっかり書記係だ。


 黒板には二つの単語が記された。主観、そして客観。


直央

「主観と客観……」


悠弥

「聞いた事はあるっすけど」


天真

「おや珍しい。では悠弥君、この二つの単語の意味を説明してもらえますか。何となくの説明で大丈夫ですよ」


悠弥

「はあ、まあ……」


 悠弥は、じっと黒板の文字を眺めた。


悠弥

「えっと、主観ってのは、何かこう、人それぞれの感じ方みたいな奴っすよね」


天真

「ふむふむ。では客観は?」


悠弥

「客観はー……えっと、皆がどう思ってるか、みたいな事っすかね。客観的に自分を見られるようになれ、他人からどう見られているかに気をつけろ、みたいな」


天真

「ふっふっふ、さあ掛かりましたね」


 何やら愉しそうに天真が笑い出す。意地の悪い笑顔だ。


悠弥

「俺、何か変な事云ったっすか」


天真

「いえいえ、全く間違っていると云う事はありませんよ。寧ろ、想定通りの答をしてくれて、都合が良いくらいです」


天真

「確かに、皆がどう思うか、と云うような意味で客観と云う語が使われる事はありますね。ただですねえ」


 そこで、天真は若菜の方へ顔を向けた。


天真

「若菜さん、今の悠弥君の説明だと何が拙いか判りますか?」


若菜

「え、えっと……」


 再びペンの背を唇に当てながら、若菜は顔を顰める。


若菜

「ええと……どこか拙いんですか」


天真

「そう、拙いです。とても拙いですねえ」


 若菜も悠弥も、真直ぐに黒板を見詰めながら考えている。直央は、皆の顔を見回していた。表情はそれぞれ違えど、先輩達は皆、二年生の答をじっと待っている。


直央

(考えれば判る事、か……)


 不意に、天真と眼があった。


天真

「直央君、何か云いたそうですね」


直央

「え、いえ別に……」


天真

「もうちょっと二人に考えてもらいましょう。それで駄目だったら、直央君に答えてもらいますから」


悠弥

「えっ、直央お前もう判ったのか?」


直央

「んん……判ったと云うか、まあ何となく気になるところはあるなと」


若菜

「わあ、やっぱり直央君は頭良いね……」


 若菜が云うと、我劉が舌打ちをした。


我劉

「尊敬ばかりしてないで、自分も頭良くなったらどうだ」


若菜

「は、はい……」


 しかし、若菜にはどうもピンと来ないようだった。我劉は一度、大きく溜息を吐き出した。


我劉

「おいチビ娘。さっき、そこの莫迦は何と云っていた」


若菜

「え、えっと……」


我劉

「主観と客観の違いだ。主観ってのは何だとそいつは口にしたんだ?」


若菜

「主観、は……。人それぞれの感じ方、ですか」


我劉

「まず、それを良く意識に留めておくんだ。何なら、お得意のメモでもしておけ」


 云われるがままに、若菜はノートにメモを取った。


我劉

「で、客観と云うのは何だと云っていた」


若菜

「えっと、皆がどう思うか……」


我劉

「その言葉を何度も繰り返しながら、今取ったメモを見返してみろ」


 そう云って、我劉は口を閉ざした。


若菜

「皆がどう思うか……人それぞれの感じ方……」


 素直な若菜は、我劉の命じるがままの行動を取る。


 そうして。


若菜

「あっ……と」


天真

「お、何か気付く事がありましたか?」


 微笑を浮かべながら、天真が訊ねる。


若菜

「えっと……何て云えば良いか……」


 どう説明して良いか判らず、若菜はしどろもどろになる。何か思う処はあるのに、巧く説明ができない。


理美

「若菜ちゃん、巧く説明できない時は、たとえ話で考えてみると良いよ」


 優しい口調で、理美が云う。


若菜

「たとえ話……えっと、じゃあ」


 若菜は、ちらと紗綾の方を視た。


若菜

「えっと、さっきの気温の話ですけど。私も紗綾先輩みたいに、肌寒いって感じるとして……これが、主観ですよね」


天真

「そうですね。では、客観の方はどうでしょう」


若菜

「ええと、皆がどう思ってるか……例えばここには今九人いますけど、私と紗綾先輩以外は、肌寒いと思ってない……だから、皆は、寒いとは思っていない」


悠弥

「何か問題があるのか?」


 腑に落ちないという顔で悠弥が訊ねる。


若菜

「えっと、例えばあんたは、今暑いって感じてる訳でしょ」


悠弥

「うん、そうだな」


若菜

「それって、あんたの主観よね」


悠弥

「……うん、そうだ」


若菜

「えっと、直央君が暑いと感じたり、我劉先輩が暑いと感じたり……それも、それぞれの主観なのよね」


天真

「うんうん、では、皆の感じている事、と云うのは、つまり何なんでしょうか」


 天真が、真直ぐに若菜を見据える。若菜は、何かに気が付いたようだった。


若菜

「えっと……皆がどう思っていようと、それは皆それぞれの、つまり主観だって事ですね」


天真

「はい正解。だから、悠弥君の客観の説明は、ちょっと巧くない、と云う事ですね」


悠弥

「え、どう云う事っすか?」


 当の悠弥は、まだ判っていないようだった。


直央

「だからさ、悠弥」


直央

「教授は、二つの概念を理解しろと云って、主観と客観を掲げただろ。客観が、皆がどう思っているか、つまり皆それぞれの主観だとしたら、結局のところ主観しか概念として扱わないって事だろ。それじゃ、この二つが別の性質を持っていると云う話にそぐわないじゃないか」


悠弥

「……えっと、そうか」


 解っているのか解っていないか判らない顔で、悠弥は曖昧に頷いた。


若菜

「客観って、じゃあ皆がどう思っているかじゃない、って事ですか?」


 若菜の問いに、天真は大きく頷く。


天真

「その通りです。まあ日常ではそうして使う事もありますが、少くとも今ここで話したいのは、主観とは全く別に成立する客観と云う概念なのです」


 天真は、悠弥の方に顔を向けた。


天真

「悠弥君。客観と云うのは、主観とは全く関係ない概念です。つまり、人がどう思うかは関係ないもの。何か具体例が思い浮かびますか?」


悠弥

「ええ?俺、そんなの知らないすよ」


我劉

「この莫迦。ちゃんと考えろ」


 憎憎しげに、我劉が睨み付ける。


悠弥

「え、え、えっと……と云われても……」


 戸惑う悠弥に、理美が優しく声を掛ける。


理美

「えっとね、悠弥君。実はもう、貴方は客観の一例を知っているはずなの。さっき自分で口にしていたわよ」


悠弥

「さっき口に……?」


 腕を組み、悠弥は考える。


悠弥

「えっと……」


理美

「かなり序盤よ。人に依って違わない何かが無かったかしら」


悠弥

「えっと……ええーっと……」


 すると、我劉が欠伸混じりに口を開いた。


我劉

「俺、ホントに帰っちゃ駄目か」


 また憎まれ口を叩いている……しかし、理美はツッコミを入れない。


理美

「……悠弥君、どう思う?」


悠弥

「え、何がすか?」


理美

「我劉君ったらゼミのリーダーのくせに、帰ろうとしてるみたいよ。何か云ってやってよ」


悠弥

「が、我劉先輩に物申す度胸は無いっす」


 悠弥の言葉に、我劉は舌打ちした。


直央

「悠弥、そうじゃなくてさ……」


悠弥

「ん……?」


 不安そうに、悠弥は直央の方へ眼を向ける。


直央

「我劉先輩、帰っちゃ駄目なのかな」


悠弥

「えっと、まあ普通に考えたら駄目だろ」


直央

「それは、何故?」


 友人の直央にも質問され、悠弥は少し戸惑ったようだった。


悠弥

「お、お前も何か先輩達に似てきたな」


直央

「んー、まあ少し判ってきた気はするかな。それは扨措き、何故我劉先輩は、或いは教授や、僕ら皆、帰っちゃいけないんだ?」


悠弥

「それは、授業時間だから……」


 自分で言葉にして、漸く悠弥も気付いた。


悠弥

「ん、授業時間、か?」


直央

「何がだ?」


悠弥

「何がって……えっと……」


 ちらと天真の方を視る。天真はおやおやと惚けたような顔をしていた。


天真

「ふむふむ、判らなくなったら、逐一前提を確認するのは良い事ですね。さて、悠弥君は今、客観と云う概念の具体例を探しているんでした。何か思い当たるものがありましたか?」


悠弥

「えっと……授業時間、すか?」


我劉

「その授業時間とやらは、何故客観範疇のものなんだ」


 我劉が鋭く睨み付ける。まさか、そんな空気だから、とは云えない。


悠弥

「えっと……客観って人に依って違わないもので……授業時間は人に依って違ったりしないから……です」


我劉

「そうだ」


 漸く、我劉は頷いた。


理美

「もう。そんなに睨みつけられたら、落ち着いて考えられないわよね」


 理美は黒板の前に立ち、主観と客観それぞれの語の隣に、暑い寒い、授業時間、と云う語を書き足した。


天真

「さて、おさらいですが、主観と云うのは人それぞれの感じ方です。客観と云うのは、人に依って異なったりしないようなもの。例えば授業時間とか、ルールみたいなものですね。他に例を挙げると……」


 そこで天真は、直央の方を向いた。


天真

「他に何かありますか、直央君」


直央

「え、はい……」


 直央は、取り敢えず思いつくものを口にする。


直央

「ルールって事で云えば、例えば法律なんかもそうですよね。法の下の平等なんて云って、王様だろうが誰だろうが、殺人を犯せば逮捕される」


創吾

「まあ、王様って結構特権とか持ってたりするが」


小哲

「こら創吾。混ぜっ返すんじゃない」


直央

「他には自然法則とかですか。例えば三角形の内角和は一八○度になるとか、一足す一は二になるとか」


我劉

「非ユークリッド幾何学なら三角形の内角和は一八○度じゃないけどな」


理美

「こら我劉君、混ぜっ返さないの」


直央

「……先輩達、何か僕に恨みあります?」


 先輩達は、意味ありげに笑って見せていた。


直央

(別に深い意味もないくせに、面白い先輩達だ……)


 直央は思わず、肩を竦めた。


天真

「さて、直央君があれこれと挙げてくれましたが、つまりそんなものがここで云う客観と云うものですね。一方、主観は人の感じ方。暑いも寒いも、好きも嫌いも、そんなのが主観、と云うものですね」


 そこで、天真は時計をちらと見た。


天真

「おやおや、大分時間を食ってしまいましたね。続きは来週やりましょう。今日絶対に抑えて欲しいのは、とにかくこの二つです」


 天真は黒板をコツコツと叩いた。


天真

「主観と客観と云う語、概念、その違い。これ、ちゃんと意識して、来週お越しください。把握している前提で話を進めますから、ちゃんと復習しておいてくださいね。不安な人は若菜さんのノートをコピーさせてもらうように」


 何か、当たり前な話をされただけのようにしか思えなかった。だがきっと、本番は来週以降なのだろう。


天真

「基本の部分が曖昧だと、どんどん理解がずれていってしまいますからね。例え話も交えて今日じっくりやりましたから、各自ちゃんと理解しておいてください」

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