第1話

この世界には戦争が溢れていた。

遥か過去には平和な時代もあったようだが、今ではどこに目を向けても争いばかり。各国の正義は自らの都合を押し付け他者を殺す免罪符へと成り下がり、善悪が意味を成さない世界。

とある学者曰く、戦争は経済活動の一環である、と言われるほどに、それは当たり前になっていた。

しかし、そんな上澄の人間どものギャンブルに付き合わされ疲弊した民たちは誰しもが、この時代に終わりが来るという一縷の望みに縋り生きていた。

人材と資源は有限、その避けようのない事実が全てを終わらせてくれると。

そう、ゴーレムが登場するまでは。


突如として戦地に現れた巨大な鎧。

従来の兵器が通用しないその化け物は欧州で生まれ勢力を東へ拡大していき、人間を次々と蹂躙していった。

唐突に現れたゴーレムの存在は同時に黴臭い魔術の復活を意味しており、抗う術を失い奇跡を忘れた人々は非現実的な事態に諦観するのみ。

しかし、模倣は人間が得意とするところ、数年も経たないうちに各国でゴーレムは産まれ始め、戦争は終わるどころか更に激しさを増した。


争いは終わらない。

人の命は二束三文、勝者か敗者かを計るものは戦果のみ。

それは常識として人々の望みや希望を覆い隠し、枷を外された戦争はチャリオットのごとく全てを踏みつぶして歴史を刻んで行く。

この世の全ての欺瞞を嘲笑いながら。


*


身体を這う熱気、地面からの照り返し。

規則性もなく乱雑に建てられたビル群や巨大な工場らのおかげで微かな風すらも通らない。

相変わらず、この国の夏は蒸し暑く居心地が悪い。

そして、俺は今日も居心地の悪い職場へと向かう。

街の大通りから外れ薄暗い小道に列をなして進む項垂れた日本人らに俺も加わり、あちらこちらに点在する工業地帯のうち一つの建物へ。

職場へ近づくほどに体は機械となり心は無となり、誰もが一言も発さず何食わぬ顔で進んでいく。


ここ、日本国は戦争から免れた唯一の例外。

平和を謳うこの国は人材と土地を他国に差し出すことにより戦争から逃れた。

いや、厳密にいえば、この国でも戦争はとうの昔に始まっており、武力とは別の形で侵略されていたんだ。

それに気づかず金と侵略者によって国民は牙を抜かれ思考力を奪われ物言わぬ家畜へとなり、いざ戦争が始まる段階に至れば自らを敵に差し出すほどの腑抜けと成り下がった。

最初から仕組まれ、気づいた時にはもう手遅れだった。

男は戦争に用いる兵器や機材などを生産する奴隷となり、女は他国の兵士の性欲処理の道具かつ人材を産み出す家畜として扱われるようになった。

誰も抵抗しない。

牙を抜かれ洗脳され閉じた世界で偽りの平和を与えられ幸福という名の腐った果実に依存させられた者共に、もはや抗う力など残っていなかった。


そんな国で日本人として産まれた俺は、物心ついた頃から働くことを義務付けられていた。

親の顔すらも覚えてない時期に親元から引き離され、奴隷として生きるための教育を受けた後に働き続け、気が付けば十年の時が経っていた。

ただひたすらに働くために生きる。

その事実に疑問を持ったところで何が変わるわけでもなく、とにかく深く考えないように職場へ到着すると早速自分の持ち場へと向かう。

とにかくここは、いや、ここだけじゃなく日本人が働く場所では人権なんて考えずに済むため、就業時間に決まりはなく、先が見えない中で日ごとに設定されたノルマを満たすまで働き続けなければならない。

特に環境面も最悪で数百人は優に収容できる工場内では機械と人が忙しなく動き、そこは空調が正常に動いているかすら怪しいほど蒸し暑く、気を抜けばふらふらと倒れてしまいそうだ。

そのような劣悪な環境の中で行う業務は、ただラインに流れる細々した部品を組み立て次のラインに流す、これだけのものだ。

狂ってしまわなければ苦痛を伴う単調な作業に加え、何を作っているのかさえ知る権利がない状態でよくもまあ、長年続けられたと自ら感心するほどだ。

ただ、推測する必要もなく、これは銃器の製造だろう。

平和を謳う国が人殺しの武器を作るなんて、全く滑稽な話だ。


しかし、この時代に手作業で大量生産品を作るなんてナンセンスだとつくづく思う。機械を買い保守し続けるよりも日本人を使った方が圧倒的に安いという事実があるため仕方のないことだが。

安くていくらでも買い替えがきく、安心安全の日本製として海外に輸出されるほど、それは揺るぎない。

いや、それよりも日本人が思い上がらないように、身分をわきまえるようにするための枷、その意味合いが強いのかもしれない。

奴らの目論見通り、こうやって無為な長時間労働を続けていると喜怒哀楽といった感情が薄れていき、日本人は何も考えずに生き僅かな金で酒や女を買い欲を満たすだけの生き物になっている。

周りを煽り革命でも起こせば何かが変わるかもしれないが、彼らはとうに諦め一種のヒエラルキーの下、どこか安寧すら感じさせる様相で生活を送っている。


俺もあのような人間になれば楽なのだろうが、なぜか引っかかるものがあり、そうはなれなかった。

何か違う行動を起こしていない時点で結局はあいつらと差はない、それでも、素直に欲を解放せずにどこか燻りを感じていた。

早朝から夜まで働き、長屋住宅の居間と寝室だけの家に帰宅し、日の当たらない黴臭い畳の上で泥のように眠る。

ただ、これを繰り返すだけの人生。

抱えた不満が膨らんでいく一方で、俺は変わらずにいた。



仕事終わり。

いつものように日が沈み始める頃に帰り道を歩くと、ネオンが眩しい繁華街に辿り着く。

立ち並ぶ店はこの国に最も多く存在する秦国の人々が営む場所で騒がしく雑然としている。

八角や大麻の匂いに加えて下水の臭いまで、鼻を強く刺激するこの日常の香りにも慣れ、なんの感慨もなく進んでいく。

しかし、唐突にいつもとは違う光景が視線の端に現れる。

オープンテラス、いや、店の外に机と椅子を用意しただけのみすぼらしい飲食店に人だかりができている。

そして、その中心にいる人物は何かを持った右手を掲げ大声をあげている。


「やった!!俺は!黒の切符を手に入れたぞ!!」


黒の切符。

そういえば、聞いたことがある。

黒の切符を手にしたものは白い列車に乗ってゆけ、なんて妙な歌に乗せられた話を。

その切符は前触れもなく、何者であろうとも手に入るという。

望む望まぬに関わらず、それを手にした者は皆、例外なく白の列車に乗って旅立つことになる。

それは決定された運命であり、誰も拒否することはできない。

そして、その列車が終着点へと辿り着いた時、その者の全ての望みが叶うという噂だ。


全く、馬鹿げた話だ。

どうせ、何も行動を起こさずに願いを叶えたいという、新興宗教にはまりそうな奴らが作った与太話だろう。

それでも、ここに住む奴らの羨望を集めるには十分すぎる話のようだ。

だからこそ、ここでそんなことをしては。


突然、群衆の中の一人が切符を持つ男に殴りかかった。

それを機に周囲の人間も一斉に切符目当てに襲い掛かる。

たちまち怒声と土煙が巻き起こり、辺りは騒然となる。


俺はそれを横目に、さっさとその場を離れる。

くだらない。

それでも、幻想だとわかっていても、皆、ここから逃げ出したいのだろう。

俺だって、それが本当なら。

そんなことを考えながら歩みを進めると、ようやく繁華街を抜けこれまた見窄らしい住宅街へと差し掛かる。

先ほどの貧しくも賑やかな雰囲気とは打って変わって、より一層乱雑に密に立ち並ぶみすぼらしい住宅に囲まれ陰湿な空気に包まれている。

嫌な臭い、嫌な視線、長居するだけで狂ってしまいそうな薄い狂気の膜が身体に張り付いていく。


「あ、ちょうどよかった~」


その時、背後から空気をさらに重くさせる、恐怖の声が聞こえる。

振り返ると、感情の読めない笑顔を張り付けたスーツ姿の長身の女性と、その傍に二人の女性が佇んでいた。

彼女の名はシン・イー、日本人を支配する秦国の組織、幇会に所属している、この区域の管理者だ。

言い換えれば、日本人の飼い主のようなものか。

もう片方はフェイ・ウーという名で彼女の用心棒をしている。身長は百四十程度と小柄だが、侮るなかれ大の大人を片手で簡単に捻り潰せるほどの力をもっている。

シン・イーに逆らった日本人が無残に転がっている様子はこの辺りではよく見られる光景だ。


「ユウキくん、ちょうどキミの家に行こうとしてたんだよ~」


ユウキ。それは俺の名でもあり、彼女から与えられた名でもある。

本来、家畜に名前を付けないように日本人にも名前などないため、非常に特別なことである。

しかし、これは彼女の優しさでも憐れみでもなく、この世界に適応できずに生きる俺に贈られた皮肉たっぷりの嫌味である。

さらに恥いるべきは、それを自分の名前と認識してしまっている点だ。

そんな自分にも腹が立つ。


「いつものことだけど、そんな親の仇を見るような目で僕を見ないでよぉ~。それに、今回はキミにとっても素敵な話を持ってきたんだから~」


嫌悪感を催す間延びした声に今すぐにでも彼女を無視してこの場から去りたくなったが、あの用心棒、いや、猟犬ともいうべきか、あれが目を光らせている時点で逃げるという選択肢は潰されている。


「用があるなら、さっさと済ませてくれ」


「まったくもう、せっかちなんなだから~。まぁ、僕がわざわざ出向いた時点で察しはついているだろうけど、いい加減キミにも身を固めてもらおうと思ってね~」


そう、彼女がわざわざ俺を訪ねてくる理由は一つしかない。

それは、結婚だ。

日本人は人材を増やすため、ある程度身体が成熟した時点で強制的に誰かと結婚し子を作らなければならない決まりがここにはある。

拒否権はなく、相手を選ぶ権利もなく、くじを引くような感覚で適当な伴侶が割り当てられるのだ。

さらに結婚とは名ばかりで、定期的に性行為をし子を成すだけの関係を結ぶだけで他国のように婚姻し式を挙げることも許されていない。

しかし、他の区域ではありえない話だが、俺は彼女に下げたくもない頭を何度も下げて婚約を避けることができていた。

その度に痛めつけられ血尿が出るほどの厳しい労働を課せられたが、それでも意地を張っていた。

ここまで流され生きてきた俺に守るものなんてないはずなのに、なぜかそれだけは嫌だった。


「ねぇ、前も言ったと思うけど、僕は他の地区の管理者と比べて随分と優しくしているんだよ。他では従わない者には暴力なんて当たり前だし、日本人なんて道具として扱われ壊れたら買い替えだって常識、知らないわけないよね。まぁ、僕は人間を上手く扱うには生かさず殺さずが一番だって思っているからキミの意思も鑑みていたけど、限度ってものはあるんだよねぇ」


口調はいつもと変りないが、今回ばかりはいつものように駄々をこねた後に罰を与えられて終わり、なんて話にはならなさそうだ。

どうすべきか悩んでいると、彼女は傍にいたフェイとは別のもう一人の女性の身体をグイと前に押し、こちらへ見せつけてきた。

ぼさぼさの黒いロングヘア―に青白く細い手足。

顔立ちは端整で一瞬美しく見えるが、その割に表情は暗く酷く窶れて見える。

さらに、その薄汚れた白い長袖のワンピースも彼女が奴隷、いや、日本人であることをありありと見せつけるようだった。


「この娘は小さい頃から娼婦をやっていてね~。結婚はしてないけど出産も既に何回か経験しているんだよ~。まだ二十歳ぐらいなのに、すごいよね~」


淡々と話す彼女と、何も言わずに佇んでいる彼女。

その姿を見ていると、俺の心は言い様もなく震え始める。


「精神的に不安定で反応が悪いからお払い箱になっちゃったけど、まだまだ美人だし、きっとキミのことも気持ちよくしてくれると思うよ~。それに、キミみたいな優柔不断で情けない男には経験豊富なこの娘がお似合いだと思うよ~」


「いつも言っているだろ、そんな気はないと。それが気に食わないなら、重労働を課すなり暴力をふるうなり好きにすればいい」


つい、いつもの癖で意地が顔を出してしまう。

そのおかげで、シンの笑顔が少しだけ引き攣る。


「ね、そろそろ従ってもらわないと、どうなるかわかるよね?いい加減、キミの代わりはいくらでもいるってことを自覚したほうがいいよ」


フェイが一歩前へ踏み出す。

おそらくこれが最終通告だろう。

従わなければ、いや、それでも。

ここでそれを受け入れてしまえば、俺はもう自分を許せなくなってしまう。


「殺したいなら殺せばいい。すっぱりとこの世から別れさせてくれるんなら俺も楽だ」


「やれやれ、キミは本当に、何もわかっちゃいない。飼い主がペットに一番腹が立つ瞬間はねぇ、自分の言うことを聞かないことなんだ。キミらは私にとっていつも都合がいい存在でいなければならない」


「だから、都合が悪いのなら殺せばいい。お前たちの常套手段だろ?」


その言葉で彼女の笑顔は完全に消える。


「フェイ、丁寧に教えてあげて。クズが思い上がらないように、恐怖をね」


「はい」


その瞬間、フェイの姿が視界から消え、気づけば背後から両腕を固められ、あっという間に地面に抑え込まれる。

うつ伏せになり上からのしかかられ肺が潰れそうな苦しみを感じながら、彼女は俺の右手の人差し指の爪と肉の間に冷たい何かをを沿わせた。

そちらを覗き何をするつもりかと考える暇もなく、その指に強烈な痛みが走る。

どうやら爪を剥がされたようで、腹の底から飛び出す悲鳴を堪え代わりに醜い呻き声をあげる。


「足も合わせて、あと十九回。それでダメならその必要のない性器も切り落とそうか」


「さっさと殺せ!」


「だめ〜」


気構える暇もなく、今度は中指の爪が吹き飛ぶ。

今度は耐えられずに人生で初めて大きな悲鳴をあげる。


「どう?気は変わったかな〜」


その問いに答える余裕はなく、涙を流しながら嗚咽を漏らすのみ。


「そっか~。じゃあもっとやっちゃって」


少しも衰えはしない強烈な痛みが続き、何処の指の爪が剥がれたか分からないほど意識が朦朧とする。

遂に、痛みから逃れるために無意識に何か救いはないかと顔を上げると、シンが連れている娼婦と目が合う。

彼女は今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見つめている。

それに気づいたのか、フェイは彼女の顔を覗き込む。


「ん?そんな顔をして、どうしたのかな?彼を救いたい?それなら、好きにするといい。僕はキミらが結婚さえしてくれたらそれでいいんだから」


そして、少しだけ迷ったそぶりを見せ、こちらへ向かってきた娼婦は地面に伏す俺の前にしゃがみ、おそるおそる手を差し伸べた。


「フェイ、右手だけ解放してやって」


「はい」


フェイに抑えられ一切の自由がなかった身体から右手だけ解放される。

それは救いの手か、地獄への誘いか。

この手を掴めば、結婚を受け入れたとみなされ、今まで俺が張ってきた意地と矜持は失われてしまうだろう。

しかし、手を差し出す彼女の憐みに満ちた目を見つめていると、またもや無意識に俺の右手は動いた。


「おめでと〜。それじゃあ、末永くお幸せに~。あ、結婚生活から逃げようとするなら、今度はもっと酷い目に遭うからね」


たったそれだけを言い残し、抑えられた体は解放され、そのまま二人は闇に消えていった。

それを見て俺は情けなくも安堵し、とにかく痛みが緩和し精神が落ち着くまで深い呼吸を行う。

殺せばいい、なんで大口を叩いておきながら痛みに屈し娼婦に助けられるなんて、今ここで自害したほうがよっぽど上等だろう。

そして、ある程度、頭が回るようになったところで、はっと、彼女と手を繋いだままだったということに気づいた俺は、ぱっと手を放し忸怩たる思いで立ち上がる。

そのまま、指の脈打つ痛みを抱えながら帰路につくと、娼婦は側にあったキャリーバッグを手に取り何も言わずに俺の後をついてくる。


なぜ俺は、あんな行動をしてしまったのだろう。

それは痛みから逃れるための防衛本能だったのだろうか。

いや、あの時に確かに沸き上がった感情は、嬉しさだった。

憐みだとしても、生まれて初めて向けられたその表情に感動すら覚えていた。

だが、それは何よりも自分自身の弱さを証明していた。

この場から逃げもせずに世の中に対して斜に構えるだけの毎日、そして力で抑圧されると自分の意思すら貫けない。

挙句の果てには、命の危機となれば見知らぬ誰かに救いを求める。

そんな、自分の不甲斐なさをずるずると引き摺りながら歩き続けた。


*

長屋へ到着すると自室の扉の前で一度だけ頭を巡らせ、後ろからついてきた娼婦を家の中に入れる。

家具は必要最低限のものしかなく日当たりも悪く、見栄を張れるものは何一つとない部屋へ。

こんな薄汚い場所に招き入れてもいいのか、いや、相手は日本人の娼婦、これよりもさらに劣悪な環境で過ごしていてもおかしくはない。

どちらにしろ、気を使うような相手でもないだろう。


立ち尽くす彼女へ、こちらから話しかける。


「とりあえず、中に入って適当に寛いでくれ」


どうやら俺の言うことを聞くようで、彼女は鈍い動きで玄関に面した和室のちゃぶ台前に控えめに座った。

俺はそれを横目に確認し右手の洗面台へ向かい、顔を歪め呻きを漏らしながら爪が剥げた指を水で洗いタオルでふき取る。


俺の頭の中は今、ぐちゃぐちゃになっていた。

いとも簡単に折られた意地、自分の弱さ、初めて向けられた憐れみ。

それらが混ざり合い、自分の本当の感情が見えなくなっている。

俺はこれからの彼女との生活に希望を抱いているのか、絶望を背負っているのか。


頭の整理も終わらぬまま、簡易的な処置が済んだところで洗面台を離れ彼女の対面に座る。

何を話すか、どう切り出すか、そもそも、会話の必要性はあるのだろうか。

二人の間に沈黙は流れ、天井から吊り下がる電灯のジリジリとした音だけが響いている。

このまま、ただ同じ空間にいるだけの時間に耐えられるだろうか。

別に、これから絵に描いたような幸福が待ち受けているとは思っていないが、それでも、会話ぐらいはすべきか。

そう思いついた俺は不意に口を開く。


「お前、名前はあるか?」


日本人に質問する内容としては意味をなさないもの。

それでも、話の切り出し方なんてわからない俺は不躾にそう告げた。

当然返事はなく、彼女は死んだように身動き一つせず一点を見つめ、ようやく口を開いたかと思えば一言。


「あり、ません」


かろうじて聞き取れる声帯が潰れたような掠れた声で答える彼女。

それはそうだ、彼女も俺と同じ日本人、名前なんてあるわけがない。

しかし、結婚した日本人らが名前をつけあい家庭内でのみ、そう呼び合うのはよく耳にする話だ。

いや、何を考えているんだ。

一時の痛みと恐怖から逃れ呑気にしている場合じゃないだろう。

今までの俺なら、この状況に苛立ちを感じているはずだ。


「それじゃあ、俺が名前を与えてやる」


助けてもらった恩があるというのに、このままぬるま湯に浸かったような関係になっていはいけないと、つい、あいつと同じ方法で嫌がらせをしようとする。

彼女に対する罪を覚えてしまえば、俺自身もそう簡単に好意的な感情を抱いたりしないだろう。


「お前の名前はアイだ。愛情の愛、それが今からお前の名前だ」


少しだけ、彼女の表情が変わったような変わっていないような。

まともな神経をしていれば、こんな名前を与えられたところで怒りを覚えるだけだろう。

いっそ、ここから出て行ってくれるのなら、それでいい。

シンに咎められたとしても、今度こそ殺されてこの世からおさらばできるだろう。

自ら死に向かえない情けない俺は受動的な死を願っている。

しかし、彼女は動かない。

このままでは時間の無駄だと見切りをつけた俺は立ち上がり、台所へ向かう。

とりあえず夕飯の準備をしよう。


俺たちに与えられる食糧は基本的に米と味噌、塩のみで管理者の機嫌がいい日はたまに野菜クズや腐りかけた肉などをもらえる程度だ。

消耗品である日本人の健康など気遣う必要はなく、俺もあと十年もすればガタが来て捨てられるだろう。


ベコベコのシンクに置いてある、これまた小汚く歪んだ片手鍋に水を入れ、一口のコンロにかけ沸騰させる。

そこに冷凍しておいた米を入れ味噌を溶かすだけのもの。

あいつに飢え死になんてされても困るため、いつもより多めに二人分を作る。

どうせ、彼女も俺と同じ、大したものなんて食べていないだろう舌にはまともな味覚など残っちゃいないだろう。

とにかく腹が膨れるのならそれでいいはずだ。


いちいち痛む指に苛立ちながら作業を進め、最後に十分程度煮込み出来上がったそれを二つの大きめの椀にそれぞれよそう。

そして卓に向かい彼女の前に椀を置くと一言。


「食え」


認識はしていそうだが、反応はない。

彼女の意思に関わらず食事を残される方が面倒なため、今度はもう少し強めの語気で言い放つ。


「食え」


二回目の命令で彼女はようやくスプーンを手に取り、飯を口に運び始める。

プライベートな空間で誰かと面と向かって食事をするなど初めての経験だが、そこに感慨はなく俺は自分の分を勢いよくかきこみ、さっさと食事を終わらせる。


「後は好きにしろ」


立ち上がり食器をシンクへ置き、そのまま隣の寝室へ。

既に畳の上にある自分の布団とは別に、ここに入居した時から押し入れにあった一つの布団を取りだし乱雑に放る。

そして、自分の畳められた布団だけを広げ、床についた。



朝、目が覚める。

昨日の出来事のためか、いつもより重い頭を抱え布団を抜け、もう片方の布団に使用された形跡がないことに気づきながらも居間に向かうと、そこにはいつもと違う光景が広がっていた。


先に目を覚ましただけか、昨日と同じ姿勢のままそこにいたのか、アイは変わらぬ様子で座っている。

いや、それよりも驚きなのは、ちゃぶ台の上に久しく見ていないまともな食事、おにぎりとみそ汁が用意されていることだ。


「これは、お前が作ったのか」


それを見た瞬間、彼女を責め立てるような声色で不意に言葉が口から出る。

彼女以外これを作るものなどいないが、どうにも信じられない。

こいつは、何を考えている?


「質問に答えろ」


そう詰め寄ると、彼女は微かに頷いた。


「これは、なんのつもりだ」


話せないことはないだろうに、彼女から返事はない。

それがさらに俺の苛立ちを募らせ、頭の表面上に浮かんだ想いをぶちまける。


「お前の汚れた手で作られたものなんか食えるか。くそ、食糧を無駄にしやがって」


汚れているのは俺も同じだというのに、このままでは悪態しかつけなさそうだ。

二の句を告げてしまう前に、用意された朝食を食べることなく仕事の準備を始め、そのまま家を飛び出す。


その時俺は同時に恐怖を感じていた。

シンが彼女にそう命令したのか、それとも彼女自身の意思なのか。

前者ならまだいい。

そうでなければ、人形ではない、人間がすぐ傍にいる状態で生活していくこととなる。

今すぐ全てを放り出して逃げたくなるが、奴隷としての生き方が染みついたこの体は迷いなく職場へと向かい進み続ける。

この身体に染みついた奴隷根性がこれほど憎いことはない。



仕事も終わり普段より重い足取りで帰宅すると、やはり彼女はここにいた。

夢のように綺麗さっぱりいなくなっていればよかったのに、そう思いながらちゃぶ台の上に注目する。

そこには今朝と同じようにおにぎりと味噌汁が用意されていた。

朝から放置していたのかと勘繰ったが、湯気が上がっているため再び用意されているのは間違いなかった。

また、部屋の様子に違和感を覚え見回すと溜まっていた洗濯物もなく室内の掃除もしてあるようだ。


こんなものを見せられては、声に出さずにはいられない。


「お前は、何がしたいんだ。媚びているのか?あいつらにそうするよう命令でもされたのか?それとも、未だにおとぎ話のような生活を夢見ているのか?」


「あなたは、他の人とは違う」


ようやく、口を開く彼女。

昨日、手を差し出された時のようにこちらの目を見つめ、途切れ途切れながら懸命に話し出す。

しかし、俺はその言葉の意味を理解できない。


「は?」


「あなたは、生きている。他の人とは違う、何も考えず、環境に従い、楽になろうと、していない。苦しんでいる。だから、わたしは、あなたと、言葉を、交わしたい」


舌足らずで話し慣れていないように言葉を綴る彼女。

それをいくら噛み砕いても理解が出来ない。

彼女に手を出していないから、管理者にあらがう姿勢を見せたから、他の人間とは違うとでも言いたいのか。

だから、勝手に理想を押し付けて希望でも見出しているのか。


「馬鹿馬鹿しい。他の人間と違うのなら、既にこんな場所からおさらばしてるさ。勝手な理想を押し付けるな」


沈黙が訪れ彼女にも諦めがついたかと思えば、今度は卓上の食事をこちらへ差し出した。


「あ、あの、食べて、ください」


「今朝も言っただろ、お前が作ったものなんか食えるかって」


そうだ、俺は何を勘違いしていたんだ。

彼女に救われた、結局はそれも彼女自身が理想を求めるエゴに過ぎず、俺はそれにあてがわれただけだ。

それなら、むしろ気が楽だ。


「娼婦の手で作った食い物なんて、考えただけでも吐き気がする。なぁ、今まで何人の男を相手にしてきたんだ?そんな身体で恥ずかしげもなくよくもまぁ、こんなことができたもんだ」


今までとは違い、明らかに悲痛な表情をする彼女の腕をわざとらしく掴みあげる。

その薄明りに照らされた白い手を見て、俺はたじろいだ。

乾燥しひび割れ、いくつもの赤い筋が通ったその手はとても若女の手とは思えない。

この軽々しい行為がすぐに後悔に変わるほど、痛々しい様子だった。


「ごめんなさい、汚れが、落ちないの」


その姿に俺はさらに苛立ちを覚え、後悔を上書きするように不機嫌さを隠そうともせず強く言葉を放つ。


「同情でもしてほしいのか?辛い思いをした私が、それでも頑張って家事をして飯を作ったって、慰めが欲しいんだろ?ああ、苦しんだもの同士、傷のなめ合いでもしたいんだろうさ」


「ち、ちがう、ただ、あなたと、話したいだけ」


「話だと?今更そんなものが何になる!」


「あ、あなたは、他の人と、違うから」


「わかったような口をきくな。それなら、なぜ俺はこんな所にいる?なぜここで他の人間と同じように濁っている!わかるか、お前に都合のいい現実なんて、ここにありはしないんだ!」


そのまま、目の前の震える女に怒声を浴びせる。


「勝手な理想を押し付けて、お前は現実から逃げ出したいんだろう?だったら、死ねば楽になれるだろ。それなのになぜ、お前はさっさと首を吊らない?ゴミどもの○○○を咥えてでも生き永らえようとする理由はなんだ!」


「う、ううぅ」


遂に、苦しそうに胸を抑え泣きだす彼女。


「くそっ!!」


どうしてこいつは涙を流している。

壊れた人形が相手なら、何も考えずに済んだのに。

俺はそのまますすり泣く彼女を放置したまま、寝室の布団に横になる。

そのまま、寝室の外の泣き声を聞きながら、いつまでも眠れぬ夜を過ごした。



昨日の夜の出来事が何もなかったかのように用意された朝食。

それに手を付けずに家を飛び出し、今日も今日とて晴れ渡る憎たらしい空の下、職場へと向かう。

そろそろ体力も限界でふらふらと歩き、虚ろな目で周りの喧騒と奴隷の列を眺める。

なぜ俺は、あいつらみたいに成れない。

なぜ、あいつらのように成りたくない。


そう、思索に耽ると、カツンと金属がコンクリートを叩くような音が響く。


顔を上げると少し離れた場所に、川面から顔を出す岩のように人の群れを分け立つ、目を見張るほど頓狂な格好をした人間がいた。

突然のこと、日常を非日常へと変えるような、そんなやつが。

赤い鎧を身に纏い、三メートルはあろうかという旗を掲げている女性。

異国人が当たり前に存在するこの国でも珍しい金色の長髪に青緑色の瞳。

いつもは項垂れ地面を見つめて歩く民衆も、この時ばかりはその女に視線を向けている。

驚きも束の間、ああいう手合いには関わらない方がいいと他の者らに紛れ素通りしようとすると、彼女はあろうことか俺の前に立ちはだかった。

そして、彼女は何も言わずに俺に何かを差し出す。


「……なんだ、これは」


「希望号のことは知っているでしょう。あなたは、選ばれたのです」


「希望号?」


「白の列車、と言えばわかりますか?」


白の列車、それに乗車し終着点へと辿り着けば望みが叶うという、あの噂のことか。


「馬鹿馬鹿しい。宗教の勧誘なら他をあたってくれ」


「望む望まぬにかかわらず、あなたは必ず白の列車に乗ることになる。これは、運命です。さあ、受け取りなさい」


こちらの話に耳を傾けようともせず、黒に金色の装飾が施された掌ほどの、おそらく黒の切符と呼ばれているものであろうそれを強引にこちらの懐に差し出される。

素直に受け取らなければテコでも動きそうにないその強い意志を向けられ、俺は切符を手に取った。

そう、受け取った後、捨てればいいだけの話だ。


「これで、俺の願いは何でも叶うってわけだ。はは、馬鹿みたいな話だ」


「そうです。きっと、あなたは幸せになれる」


さっさと去ればいいのに、俺は今までに溜まった鬱憤を晴らすように彼女の妄言に応えてしまう。


「俺は、幸せって言葉が大嫌いなんだ。幸せでない奴は不幸せになる。幸せがあるから不幸が存在するんだ。そんなものを有り難がっている奴らの気が知れないね」


「よくわかりません。それが、幸せを追い求めない理由になるのですか?」


切り上げようと理性は告げるが、俺は余計な口をついてしまう。


「なるほど、いいビジネスだな。そんな曖昧で形のないものを掲げれば、奴隷は永遠にお前たちの駒になってくれるわけだ」


「あなたは何か勘違いをしているようですね。私はただ、神の名の下に人々へ希望を与えているのです。幸福の形は千差万別ですが、それは人類共通の希望でもある。希望がなければ、この世界で生きていけないでしょう?」


「希望がないと生きていけない?俺らを見ても、そんなことが言えるのか?」


「はい。あなたたちは、生きていませんから」


馬鹿馬鹿しい。

こんなもの、意味のない言葉遊びだ。


「他をあたってくれ。金を払ってでもこれを欲しがる馬鹿なんていくらでもいるだろう」


「お金なんて求めていません。平々凡々、いえ、この現状に不満を抱えながら周りの人間を見下しペシミストを気取っているくせに、その実、奴隷としてただ働く人間よりも生産性が低く価値の無い救いようのないクズ。そんな最底辺の人間が試練を乗り越える意義は、生まれついての英雄が世界を救うより価値があり、私たちはそれを求める。あなたは、然るべくして選ばれたのです」


わけがわからない。

初対面の俺に対して、何故そんなことが言える?

日本人は皆そうだと決めつけているのか?

それならなおさら、俺以外の誰でもいいはずだろう。

理解が追いつかない。

こいつは、イかれている。


「皆、今を懸命に生きているというのに、目の前の悲嘆に暮れるだけなんて空虚な生き方に何の意味がありますか。あなたも今の現状に不満を抱いているはず、これはまたとないチャンスなのです」


違う。

彼女と俺は、根っこの部分から違う生き物だ。

理性と冷めきった感情が一致した俺は切符をズボンのポケットにしまい、そそくさと退散する。


「白の列車の到着駅と時刻は切符に記載してあります。それまでに準備は済ませておいてください。もう一度言います、あなたは必ず白の列車に乗ることになる、これは運命なのです」



仕事終わり。

アイツがいる家に帰りたくない俺は、なけなしの金を持ってネオン街の適当な居酒屋へ入店する。

赤を基調とした店内は油と強い八角の匂いで満たされている。

空いた席に座ると油ぎった秦国の男が嫌そうな顔をしながら注文を取りに来る。

金が無い日本人に来店して欲しくないのだろう、無言で早く選べとこちらに圧をかけてくる。

俺は適当にメニュー表を指差すと、不機嫌なまま厨房へ去っていく男。

まともな食事が届くかわからないが、それまで店内を無心で眺める。

客は秦民ばかりで、誰も彼も上気な笑顔で飲み食いしている。

普通なら日本人として怒りを覚える場面だが、そんな気力さえも削がれてしまっている。

冴えない頭で考えを巡らせていると、店員が俺の目の前に乱暴に注文の品を並べていく。

その早く喰って帰れと言わんばかりの視線に促され、注文した油ギトギトの清炒豆苗を紹興酒で流し込む。

空きっ腹に油と塩気、酒が入り一気に酔いが回る。

とにかく酔えればそれでいいと箸と酒をすすめるも、今朝の黒の切符の件が頭によぎり、口から出掛かった、これでいいのか、という言葉に必死に抗う。


「おい、兄ちゃん、そんな辛気臭そうな顔をしてどうした。ああ、どうせ一人ならジジイの話にでも付き合ってくれや」


唐突にヘラヘラとした顔で見窄らしいジジイに話しかけられ、彼は有無を言わさず俺の対面に座った。

顔を赤くし酒の匂いを漂わせ、既に出来上がっている状態だ。


「若いのに、つまんねぇ顔をしてるな。ほら、あいつらみたいに女でも侍らせて楽しめばいいじゃねぇか。日本人と言えど、そこらへんの娼婦なら買えるだろ?」


顎で示された方を見やると秦民が娼婦を数人侍らせ、人目も憚らずに卑猥な行為を繰り広げている。


「ふざけるな、あんな人間と一緒にするな。あと、さっさと俺の眼の前から消えてくれ」


「兄ちゃん、そんな干からびた矜持を齧ってどうするんだい。日本は負けた。だったら、その中で幸せを見つけるべきじゃないのか」


ジジイの戯言を無視して酒をあおるも、彼の歪んだ口が止まることはない。


「なぁ周りを見てみろよ、欲に身を任せ感情を元に動く奴らを。頭の中は金と性欲と見栄で一杯、それでも幸せそうだろう。絶対的な善悪の判断基準は失われ、その人間にとって都合がいいか悪いかだけが基準となった時代だ、兄ちゃん、幸せになりたいのならな、馬鹿にならなきゃならねぇ」


痺れを切らした俺はつい口を開いてしまう。


「黙ってくれ。俺はお前らみたいな生き物とは違う」


「一皮剥げば皆、ああさ。人間だ、それが人間なんだ。兄ちゃん、あんたは誰のためにそんな良い子でいるんだ?ずっとそのままならな、時間と他者が、あんたの周りのもの全てを奪っていくんだぜ」


そんなことはわかっている。

何も考えずに生きていければ楽になれると。

それでも、俺はまだ信じてる。

例えこの先何もなくても、からからのジジイになっても、こうして生きればきっと、人間にならずに済むと。


「おいおい、こんな世界で兄ちゃんは何を守って生きているんだい?自分か?それとも、神の教えでも抱えているのか?何も考えず欲望を解放すれば、楽になれるぜ」


そう言いながらジジイはグラスをこちらへ向けて掲げる。


「乾杯だ。もしも兄ちゃんがその気なら、俺がこの世の生き方ってやつを教えてやるよ」


俺は、酒を一気に飲み干し空のグラスを勢いよく机に叩きつけ立ち上がり、ジジイを見据える。


「醜い世界から抜け出せなかった奴が、偉そうに講釈を垂れるな。あんたは自分が生きてきた世界が正しいと思わなければ耐えられないんだろ?人の数だけ人生があって、それが自分より高尚なものだと嫉妬で頭が狂いそうになってんだ。他者を巻き込んでそれが真実だと思い込みたいんだろうが、俺はそんな情けない話に付き合うつもりはない」


そうまくしたてると、ジジイの顔が見る見るうちに真っ赤になる。


「なんだと?お前だって俺と同じ穴の狢だろうが!お前もそのまま年を取り俺みたいな汚いジジイになるんだ!このバカが、おい、待ちやがれ!」


本性を現した喚くジジイを放って机に金を置き店を後にする。

何も気にすることはない。

誰だって、自分に都合のいいことだけが真実なのだから。

俺だって、そうなんだ。


予想外の出来事に酔っぱらうことすらできなかった俺は気持ち悪さだけを抱え薄暗くなった街中を歩く。

夜も深まり、より一層煌びやかになった街の中、店々の前には何人もの娼婦に溢れ、甘く生理的嫌悪を催す臭いが漂い始める。


「ねぇ、ちょっと待ってよ」


すぐそばで誰かの声が聞こえたかと思えば、何かに左腕を掴まれる。

振り向くと、そこには娼婦がいた。

痩せ細り目は落ち窪み、歯は殆ど抜け落ち、みすぼらしい見た目をしているが嫌に瞳だけがギラギラしている。


「あなた、日本人でしょ。ねぇ、寄っていかない?同じ生まれなんだし、サービスしてあげるから」


この貧しい街で娼婦をしているのは殆どが日本人だ。

いや、ここだけでなくこの国全体での話か。

男は死ぬまで働き女は体を売る、年老いて使い物にならなくなればそのまま野垂れ死ぬ、今更何かを言うこともない。


俺は掴まれた腕を振り払い、素早く立ち去る。


そのまま、誰もが自らを正当化する言葉を吐く雑音に満ちた路地から逃げるように、ポケットに手を入れてふらふらと歩いていく。

俺は、ただ人間が嫌いだった。

何処の生まれかなんて関係なく、勝者か敗者も関係なく、ただ人間というものに嫌悪感を抱き、ああなりたくはないといつまでも意地を張っていた。

それでも、そこから逃げる方法なんてどこにもなかった。

さっきのジジイには偉そうなことを言っていたが、結局、俺は何物にもなりきれない半端者だ。



アイが家に来てから数日の時が流れた。

彼女は相変わらず、媚びるように家事を行い続けた。

そのまま何も変わらない生活が続くと思いきや、俺は意地でも食事を毎食用意する彼女の姿勢に少しだけ胸を打たれたのかもしれず、ついに、俺は彼女が用意した料理に手を付けるようになっていた。

いつまでも食糧を無駄にするわけにはいかないと、クソみたいな生き物の自分にとってはちょうどいいものだと、娼婦が作ったみすぼらしい食事なんてまさにお似合いじゃないかと、何かと理由をつけながら自分を説得するように、食べ始めたのだ。

いや、ただ空腹に耐えられなくなったというだけだが、ひねくれた俺には素直にそれを受け入れることができなかったのだ。

そして、不覚にも他人の手間がかかった料理を美味いとすら感じていた。


そして、今日も俺が卓につき夕食をとり始めると、彼女も対面に座り何か言いたげにこちらを見つめている。

会話をしたいのだろうが、これ以上慣れ合うことはしたくはなかった。

ただの家事をする便利な人間だと思わなければ、彼女を受け入れてしまいそうで怖かった。


急いで食事を胃に流し込み、ふぅと一息つくと目の前のアイと目が合う。

彼女は確かに、俺を見て微笑んだ。


慌てた俺は急いで立ち上がり、そのまま寝室に向かい軋む体を横たえる。


一時して、向こうから水が流れる音が聞こえ始める。

どうやら、使い終わった食器を洗っているようだ。

その音で、この家にいるのは俺だけじゃないという事実がストンと胸に落ちる。

そして、それを聞いていると自然と瞼は蕩け、意識は深い闇の中へ。


―――衣擦れの音。

まどろみの中、背中には薄く柔らかい肉の奥に骨の感触と体温。

細い腕が俺の身体をまさぐり始める。


「お前も、所詮はあいつらと一緒か」


ほとんど無意識の状態でそう告げると、腕の動きが止まる。

彼女はきっと、確かなものが欲しいのだろう。

だが、今の俺には一線を越える勇気がない。

だから俺は、寝惚けているんだと自分に言い訳をしながら、彼女に与えられる唯一のものを与える。


「いつも、ありがとう。感謝している」


そう呟くと、少しの沈黙の後に彼女は努めて抑えたような泣き声を上げ始めた。

そして俺は、自身の身体に触れている彼女の手をそっと握ったまま、眠りについた。



「は?休業?」


いつものように職場に訪れると、入り口は封鎖され、そこには従業員らの人だかりができていた。

背伸びをして先を確認すると入り口のガラス戸に張り紙がしてあり、そこには休業と記されている。

何かしらの大きな問題がない限り、仕事が休みになることなど滅多にない。

皆のどよめきの中、唐突に怒声が響く。


「おい、お前ら、何をしている!今日の仕事は無しだ。さっさと帰れ!」


そこに現れたのは、数人のスーツ姿の男らだった。

この辺りでそのような格好をしているのは幇会の連中で間違いなく、どうやらこれも誰かのいたずらという訳ではなさそうだ。

しかし。

その言葉を真に受けて素直に帰宅してもいいのか?

奴らは俺たちの忠誠心でも推し量っているんじゃないのか?

周りの奴らも俺と同じように右往左往している。


「はぁ。お前らが心配しているようなことは一つもない。ここでウロチョロされる方が迷惑だ!」


男らが不安げな従業員を次々と押し退け、ここから去るように促す。

ここまで来たら疑いようもない。

どうやら、本当に休業らしい。


腑抜けた俺はそのまま踵を返しトボトボと帰路につく。

珍しいこともあるものだ。



家に着き何も考えずに玄関の扉を開けると、部屋からガシャンという大きな音が響く。

どうやら、左手の台所で皿洗いをしてアイが驚いたようだ。


「俺だよ」


その言葉で落ち着きを取り戻す彼女。

しかし、俺がなぜ帰ってきたのかを不思議に思っているようだ。


「仕事が急に休みになっただけだ。そう気にするな」


そう伝えるも、安堵するどころか後ろめたいことをした子供のように、目を泳がせながら後ろ手に立ち尽くす彼女。


「どうした?」


「か、勝手なことをして、ご、ごめんなさい」


「は?」


唐突な謝罪に俺は目を丸くしてしまう。


「なぜ謝る」


「あなたは、私のことが、嫌いだから。私は、汚いから」


はっとする。

それは、俺が彼女に投げかけた言葉だ。

そのせいで彼女はいつまでも申し訳なさそうにし自責の念を抱え、俺の目に触れないところで家事をしていたのだ。

だから、彼女は今、謝罪しているのだ。


何気なく言った俺の嫌味を、俺の中では既に消え去った言葉を、馬鹿正直に受け止めていた彼女。

今更、何を言えばいい。

いや、簡単なことだ。


「き、汚くなんか、ない」


産まれて初めて、不格好な裸の言葉を投げかける。

馴れ合うつもりはない。

それでも、悲嘆を抱えて生きる存在が自分の近くで過ごすことに耐えられそうになかった。

ましてや、その原因が自分とあらば尚更。


どもり拙い俺の言葉を受け止めた彼女は理解できないという顔をしたのち。

涙を流し始めた。


「なぜ、泣くんだ」


「う、嬉しいの」


くそ。

こんなもの、今までの人生には無かった。

こんな残酷な世界に、あるべきではない感情だ。

打ち砕かれるか奪われ踏みにじられる喜びや期待など、持つべきではない。


それでも、せめて、この閉じた狭い家の中だけでも。


「ごめん、俺があの時言ったことは気にしなくていい。もう、何かを隠れてしようとしなくてもいい。好きに生きていいんだ」


その言葉でついに座り込み泣きじゃくるアイ。

ここで彼女を抱きしめでもすれば格好がつくのだが、今の俺にはできそうにない。

だから、ただ、俺は彼女の前に座り様子を見守る。


そして、ひとしきり涙を流し切った後。


「あ、ありがとう」


「そんなことで、礼を言うな」


胸が痛い。

彼女には少しの自由すらも許されていなかったのだろう。

そんな彼女に、俺はさらに痛みを重ねようとしていたのだ。

だから、せめてもの報いに、何かを言いたげにこちらを見つめるアイへ。


「これからは、言いたいことがあるなら遠慮せずに言えばいい。これからやりたいことだって、言っていいんだ」


言葉の意味を処理できないのか、溢れる感情を受け止めきれないのか、おかしな顔になってしまうアイ。

そして、一時の沈黙が訪れた後、彼女は口を開く。


「あ、あの、一つだけ」


「なんだ?」


「あなたと、で、出かけたい。い、一緒に、歩いて、買い物もして、そんな、生活を」


そこまで言いかけて、出過ぎた真似をしたかのように押し黙るアイ。

改まって言うようなことでも、申し訳なく思う必要もないこと。

丁度仕事も休みになり、今すぐにでもできる簡単なこと。

たったそれだけで彼女の願いが叶うのなら、そうしてやればいい。

しかし、今の俺には勇気がなかった。

汚らしい二人の奴隷が街に繰り出すなど、好奇の的になるに違いない。


「だ、大丈夫です。ごめんなさい」


少しだけ。


「いや、少しだけ、待ってくれ。いつか必ず、そうするから」


再び仕事が休みになるかも怪しい状況で俺は卑怯な言葉を吐く。

それでも、たったそれだけで、反論もせず彼女は今までにない笑顔を見せた。


その後、俺たちは部屋の中で何気ない時間を過ごした。

得体の知れない生まれたての感情を抱えながら。



仕事終わりの帰宅途中。

何故かいつもより軽い気持ちを抱えながら歩いていると、それに水を差すように聞きたくもない声をかけられる。


「ユウキくん、久しぶり~」


俺の進路を塞ぐようにシンとフェイが立っている。

シンの言うとおりにアイと暮らしているため、彼女がこれ以上関わってくることはないと思っていたが、それは甘い考えだったようだ。


「もう、僕に会うたびにそんな嫌そうな顔をするなんて、悲しくなっちゃうな~」


「何も、用はないはずだろ」


「う~ん、君が素直な子なら心配はしないんだけどね~。ちょっとだけ、あの娘と仲良くしているのか気になってね~」


彼女の真意は読めない。

本当に心配しているのか、他の狙いがあるのか、どちらにしろ、答えない訳にはいかないとアイについて考える。

心を全て開いてはいないが、それでも、今の俺は彼女へ向ける嫌悪感は少しづつ溶かされ、お互いに普通に生活できるようになっている。

しかし、素直に今の気持ちを吐露するとシンの思惑通りに事が進んだと思われてしまう。

それだけは避けたいので、あえて嘘をつく。


「残念だが、アンタの思い通りにはならないさ。娼婦との生活なんてうんざりしていたところだ」


その瞬間、彼女が纏う空気の温度が少しだけ下がるような感覚を覚えた。


「それはそれは、よかった」


どういうことだ。


「キミ、まだ子作りしてないでしょ」


その一言に嫌な予感が背筋を走る。

ここは嘘でも否定したほうがいいのか、と思いきや、パッと雰囲気が変わりいつもの飄々とした様子に戻る彼女。


「ま、キミはそんなことをする人じゃないってわかっているけどね。うん、やっぱり、まだやってないみたいだ。まだあの娘との仲も深くはなっていないようだし、これで、僕の心も痛まずに済むよ~」


わざわざ向こうから話しかけてきたんだ、こんな要領を得ない話だけで終わるはずがない。


「用件はなんだ。さっさと話してくれ」


「実はね過去にあの娘とヤッた人がねぇ、具合がよかったからまたやりたいって言っててねぇ。きっとキミは娼婦になんて手を出さないだろうと思って、その人に子供を仕込んでもらうことにしたんだ~」


「は?」


「で、本当はさ、ユウキくんにも確認したほうがいいかなって思ったんだけど、めんどくさいから、今朝、彼女を連れて行ってヤッてもらっちゃった」


一気に冷や汗が溢れ、めまいがし始める。

さらに追い打ちをかけるように、彼女の話は止まらない。


「いや~、それが終わった後、彼女を迎えに行ったんだけどさ、泣きながら自分の膣内から精液を掻き出そうとしている姿が健気でね~。今までそんなことはなかったんだけどさ、君との新婚生活に希望を持っていたのかもしれないね~。でもいいよね。さっきキミは、あの娘との生活がうんざりって言っていたし、余計なことをする手間が減ったもんね。だから、今度からその人にあの娘とセックスしてもらうからさ、その後の子育てだけ頑張ってよ。それでいいからさぁ」


彼女の話を遮り、俺は衝動的にシンの胸倉を掴んでいた。


「あれれ~、どうしたのかな~」


「ふざけるなよ!そんな、そんな馬鹿な話があってたまるか!」


「バカな話だって?何を言ってるんだい?日本人の女は娼婦として働き子供を産む存在だ、当たり前の話じゃないか」


心底嬉しそうに話す彼女。


「お前は!なんとも思わないのか!」


ついに、吹き出し大声をあげて笑うシン。


「何を今さら!教えてあげようか。人間はねえ、クズなんだよ。どんな聖人君子でも薄皮一枚剥いでしまえばクソの塊なんだ。わかる?クズみたいな人間もいる、なんて話じゃなく、人間は元々クズなんだよ。ま、人間なんて他者の痛みなんてわからない上に強力なエゴまで備え付けているんだから、当然なんだけどねぇ」


彼女は堰が切れたように、嬉しそうに言葉を紡いでいく。


「いいかい?善い人間ってのはねぇ、言い換えれば弱い人間なんだよ。この社会で勝つのはいつだって、他者を食い物にする自分勝手でわがままなクソ人間なんだ。その地位を得たからそうなるんじゃない、そういう人間が人の上に立つ、この世界はね、最初からそういう風にできているんだよ。それなのに君たちときたら。反吐が出そうな甘い言葉を吐き合い、慰めの理想に溺れて無益な人生を送っているくせに文句だけは一丁前なんて、滑稽だとは思わないかい?そんなに怒るくらいなら、最初から僕の言うことを素直に聞いておけばよかったんだ。君たちが大好きな平和って言葉を貪りながら、家畜として生きておけば、ね。ホントに、笑っちゃうよ」


「殺してやる!」


「ちょっと待ってよ。僕だって今回の件は不本意だったんだよ。いやはや、キミが怒るくらいにあの娘を想っているって知っていたら、こんなことはしなかったし。だから、お詫びに、キミらを特別に助けてあげる。うん、素直に僕の言うことを聞いてくれるなら、奴隷から解放してやってもいい」


その、たった一言で俺の怒りは薄れ、余計なことを考えてしまう。

こいつは、どういうつもりだ。

嘘に決まっている、でも、もしこれが本当なら。

彼女が汚されていようと、もう一度やり直せるはずだ。


「あはっ、本気にしちゃった?あはは、面白いなぁ。口では綺麗ごとを並べながら、ちょっとでもおいしい条件を伝えるとこれだ。結局キミも僕らと同じ人間なんだね」


勢いよく再び湧き上がった怒りに身を任せ拳を振り上げるも、突然右から飛んできた固い何かに顔面を殴られ吹き飛ばされる


「フェイ、痛めつけてやって」


上下左右から飛んでくる衝撃と痛みに耐えられず地面に伏し身体を丸めるも、攻撃の手が止むことはない。

そして、どれくらいの時間が経っただろうか、痛みだけがはっきりと残る暗闇の中、耳元で声が聞こえる。


「力もないくせにくだらないプライドだけ持って生きて、それを踏みにじられるのはどんな気持ち?この世は力、金が全て、そう分かり切った答えがあるのに、大人になっても何もせずに賢人気取りで嘆いて、みっともないよねぇ。他の日本人は運命を受け入れたうえで幸せになろうとしているというのに、君の命は凍っているよ」


「ちがう、おれ、は」


懸命に口を動かし反論しようとするも、痛みが走りまともに話すこともできない。


「ああ、いいよいいよ。負け犬の遠吠えなんてみじめなだけだからねぇ。そうやって死ぬまで言い訳していればいいよ。……それとも、まだチャンスが欲しい?」


全てが終わった、そう思った矢先の彼女の言葉。

つい俺は、反応して顔を上げ彼女と視線を合わせてしまう。


「毎日、子作りしてる動画を僕に送ってよ。この端末をあげるからさ、毎日忘れずにね。そしたら、あの娘をこれ以上他の男にあてがったりはしないからさ。どうしてもってお願いするなら、これで手を打ってあげる」


これに頷いてしまえば、俺の意思は完全に折れてしまう。

それでも、俺が従わなければ、アイは凌辱の限りを尽くされる。

そう思うと、俺の口は動き出していた。


「お、お願いします」


「聞こえないなぁ」


「お願いします!」


その時の彼女の心底嬉しそうな歪んだ笑顔は、一生忘れないだろう。


「しかたないなぁ、そこまで言うなら、許してやろうじゃないか。じゃ、さっき僕が言ったことは必ず守るんだよ~。今日から一日でも確認できない日があったら、すぐにあの娘を連れて行くからね~」


彼女は俺の目の前に携帯端末を置き、そのまま去っていく。

俺は、そこから動けずにいた。



痛む身体を抱えながらなんとか帰宅する。

何も変わらないでいてくれと、シンが言ったことは嘘であってくれと願いながら、扉を開け家に入る。

居間へ向かうと、そこにはいつもと変わらず彼女が座っていた。

しかし、いつものように夕食の準備はない。


「アイ」


声をかけるも返事はなく、彼女の光を灯さない瞳は一点から動くことはない。

近づくと、彼女から鼻を突くヤクの匂い、甘ったるい匂い、獣臭さが入り混じった酷い臭いが漂い、シンが言ったことは嘘ではないという事実を俺に突き付けた。

これが、この世界だ。

最初から分かっていたことじゃないか。


「お前は変わりたいと、この状況から抜け出したいと、思わないのか」


血の味で満たされた口で、自分自身へ問うべきものを彼女に投げかける。

情けない、今、これに答えが返ってきたとして何になるんだ。


―――ああ、そうか。

彼女が言っていた、話したい、言葉を交わしたいとは、こういうことだったんだ。

何もかもが、遅すぎたんだ。


いや、このままじっとしていて何になる。

まずは、アイを風呂場へと連れていこう。

そう思い立ち彼女の腕を持ち上げるも全く身動きすら取らないため、仕方なく横抱きして持ち上げる。

中身がないと錯覚するほど軽い体重、だが、腕に感じる微かな体温が、これは人間だと証明している。

そのまま、風呂場の脱衣所で彼女の服を脱がせると、白く貧相な細い身体が露になる。

曲がりなりにもここにいるのは一組の男と女、淫靡な空気が訪れてもおかしくはないが、その兆候は全くない。

原因は、裸になった彼女の身体にある。

古い傷から新しい傷、火傷のような跡まで、数えればキリがないほどの痛みがそこには刻まれていた。

この状態でも人は生きていけるのかと感心するほどだ。

彼女は性的なものだけでなく拷問に近い暴力も受けてきたのだろう。

なるべく、それらの傷を直視しないように彼女を浴室に座らせ、シャワーを出しゆっくりとその身体を流していく。

そして、ボサボサで汚れた髪を洗うため、十分に濡らした頭へ大量の洗髪剤を使っていく。

とにかく手を動かしながら、俺は物思いに耽る。

そうだ、これが人間の本質だ。

理性というタガが外れた人間は、すぐに動物的な欲求を顕わにし底の見えない腹を満たすために他者を餌として貪りつくす。

弱者に甘く思考力を奪い依存性がある平和という食料を与えブクブクと太らせ、強者はそれを喰らうのだ。


気づくのが遅すぎた。

いや、見ないふりをしていただけだったのかもしれない。

弱者の性欲とエゴによって産み落とされた時点で、その事実に向き合うべきだったのだ。

平和を捨て戦う道を選べなかった人間の結末が、これだ。

だが、俺たちは生まれながらにして牙を抜かれていた。

どうすればよかったんだ?

命を懸けて無謀な戦いを挑み、何も変わらずともやりきったと自己満足の中で死んでいけばよかったのか?

世の中が悪いと他者のせいにして酒をあおり、目を逸らしながら一生を終えればよかったのか?


頭に後悔をこびりつけたまま彼女の身体を割れ物のように扱いながら洗い続け、時折触れる肉の柔らかさと浮き上がった骨の固さ、体温と脈を感じ取る度に後悔を塗り重ねていく。

そして、身体を洗い終えた俺は再び彼女を抱え上げ、寝室へと向かう。

踏ん切りがつかない、それでも、俺が何とかしなければ彼女は獣どもに身体を貪られ続ける。

力があれば、ここから逃げ出す力があればよかったのに、無力な俺は彼女を布団に横たえ、撮影用の端末を傍に設置する。

そして、覆いかぶさるように彼女の上に四つん這いになった。

彼女の瞳は俺を見ているようで、何も映してはいない。

俺は、今からこの娘を犯す。


「嫌だったら、言ってくれ」


彼女を救うために彼女を犯す。

それは、俺自身の偽善を満たす行為に過ぎない。

今までいいように男に弄ばれ、ここまで傷ついた彼女に、さらに苦痛を与えるのだ。


「頼む、何か、言ってくれ。否定でもいい、俺が、こんな」


その行為を前にして回らなくなった頭を、誰かに思い切り殴ってほしかった。

叱ってほしかった。

それでも、彼女は虚空を見つめたまま全く反応を示さない。


どうしていいかわからない。

それでも、時間は進んでいく。


ようやく俺は意思を固め、せめてこれを獣らしさで終わらせないために口づけをかわそうとする。

そうして、顔を少しずつ近づけたところで。


「ごめん、ごめん」


俺は、嗚咽を上げながら涙を流していた

俺に力があれば、こんなことにはならなかったのに。

いいように流され大人になっても空っぽの人間、それが俺だ。

情けない、情けない。

そして、この期に及んでもまだ、俺は誰かに赦しを求めている。


「なあ、他人は自分の欲望を満たすものじゃないって考えは間違っているのか?自分のために誰かを犠牲にするのは間違っているんじゃないのか?こんな世界に生まれて、せめて楽になろうと何も考えずに感情任せに生きることが、賢い生き方なのか?

教えてくれよ。俺は、お前に苦痛を重ねたくないんだ。お前が、一言否定してくれるのなら、俺は」


―――俺は何を言おうとした?

彼女が否定して俺が何もしなければ、より一層の痛みを味わうのは彼女自身だ。

結局は自分が汚れたくないだけの綺麗ごとを並べているだけじゃないか。


「違う、違うんだ。俺は、お前に苦痛を与えたくないし、犯したくもないんだ。

俺は、俺は、どうしたらいい」


声を震わせたまま子供のように泣きじゃくる。

こうなる前にもっと言葉を交わせばよかったのに、自分でない誰かが壊れることがこんなにもつらいと教えてくれたら、こんな思いをすることはなかったのに。

数えきれないもしもを並べ、後悔はとどまることなく溢れてくる。


そんな俺を表情を変えぬまま黒い瞳でこちらの姿を映す彼女。

その視線に耐えきれずに目を閉ざすと温いものが顔に触れる。

目を開けると、そっと白く穢れた両手が俺の頬を包んでいた。

そして、それは頬を撫でるようにして首の後ろへと移動し、俺を彼女の身体へと、ゆっくりと引き寄せる。


彼女の表情は未だに読めず、これが無意識に刻まれた彼女の生きる術なのか俺への慰めなのかは知る由もなかった。


ただ、沈んでいく。

泥濘のように温く心地のいいその柔らかさに、もはや抗う力など残っていなかった。


ついに、俺は、あの忌々しい人間たちと同じものに成り下がった。 



あれから、言葉を交わすこともできず物言わぬ彼女と肌を重ねる毎日が続いていた。

もう、全てを諦め、考えることを放棄できればいいと、そう思っていた。

しかし、あの日以降、夕食だけは律儀に用意されていた。

洗濯や掃除は以前と比べ粗が目立ち、全く手が付けられていない時の方が多くなっているというのに、仕事から帰ると決まって不格好なおにぎりとみそ汁だけはそこにあった。

こんなこと、して欲しくはなかった。

いっそのこと、壊れて捨てることができれば、俺は何も考えず悩むこともないあいつらのようになれたかもしれないのに。

それなのに、食卓のこの貧相な食事の温かさが、彼女の生を俺の身体へ知らしめるのだ。


「なぁ、俺と話がしたいんだろう。何とか言ったらどうなんだ」


今まで散々、彼女を避けて過ごしていたのに今更こんなことを言うのは都合が良すぎるだろう。

それでも、今の俺は感情を失った人形に救いを求めずにはいられない。


「もう、話せなくなったのか?冗談だろ?あんなこと、お前にとっては慣れたことじゃないか」


何がしたいんだ、俺は。

悪態をつくくらい後悔をしているのなら、彼女と出会った時からもっと胸がすくような行動をしていればよかったのに。

今になって、失ってしまってから醜く愚図るなんて。

それでも、過去を清算したいがために、一番最初に言うべきだった言葉を今更言い放つ。


「なぁ、二人で逃げ出さないか。誰もいないところに」


一時して、ただの錯覚か、その言葉を受けて彼女の無表情が少しだけ動いたような気もするが、薄暗い電球色の下ではよくわからない。


「ここから抜け出して、人間のいないところでただ生きるんだ。何もなくても、こんな場所よりかは遥かにマシだろ」


これは俺の願望だ。何の力も持たない子供が描く夢のようなものだ。

ああ、そうだ、もう、何の意味もないんだ。


もう、たくさんだ。

立ち上がり、物言わぬ彼女の首に手をかけ、力を籠める。

真っ白な肌は次第に赤みを帯び、無表情だった顔には苦悶が現れる。

そして、久しぶりに開かれた彼女の口から蚊の鳴くような声が聞こえ始め、俺は我に返る。

すぐに手を離し、咳き込む彼女を俺は茫然と見下ろす。


恐ろしくなった俺は家を飛び出し、行く当てもなく夜の街へ逃げ出した。



どれくらい時間が経っただろうか。

空は青藍に染まり夜明けが近づいてきた頃、冷静さを取り戻した俺は家に戻っていた。

彼女に合わせる顔なんてないが、仕事に行くために一度帰る必要があった。


扉を開け玄関へ入ると室内は静まり返っていた。

ここから居間を眺めてもアイの姿はなく、寝室へ向かう。

薄暗くてはっきりとは見えないが、そこに彼女はいた。

なぜか彼女は壁にもたれかかるように座っている。


「アイ、さっきは、悪かった。俺は、どうかしてたんだ」


いつものように反応はない。

しかし、嫌な予感がする。

急いで部屋の明かりを点けると、そこには、目を閉じ黒いケーブルを首に巻き口から泡を吹いたアイがいた。

考えるより先に、窓の鍵に掛けられたケーブルを外し、彼女を横たえ心臓マッサージを始める。

冷たくなった体に、それでも蘇れと無駄なあがきをいつまでも。

めまい、動悸、呼吸の乱れは収まらず、それでも腕は止めずに。


「一緒に出かけようって、約束したじゃないか!!」


どうして、今になって。

今まで平坦に生きていたじゃないか。

俺があんなことをしたせいか?


俺はどうしてこんなに動揺している?

彼女が死んだから?

いや、俺はその光景を見て、一種の安堵すら感じるべきなんだ。

永遠の眠りにつき、彼女はようやく楽になれたのだ。

俺自身の後悔だって、今の彼女にはどうだっていい。


「もう、いい」


どれだけやっても彼女の身体に変化が現れることはない。

アイは、死んだのだ。

感情も涙も鼻水も出せるものは全て吐き出した俺は腕を止め、落ち着きを取り戻した後、二度と目覚めない彼女の遺体を抱え布団の上に運ぶ。

そう、こんなに軽かったんだ。

こんなに軽いのに、こんな身体で、人間の業を全身に受けながら生きてきていたんだ。

いや、何も考えるな。

もう、終わったんだ。


居間に戻ると、ちゃぶ台の上には冷めたみそ汁と、存在すら忘れていた黒の切符が置いてあった。

そして、虫が這うような文字でごめんなさいと書かれた紙が一枚。

ただ、俺は呆然と立ち尽くす。

しかし、視界に飛び込んできた黒の切符に記載された出発日を見て、俺の意識は徐々に鮮明になる。

出発日は、今日だ。

時刻も、今から駅に向かえば間に合う。


『望む望まぬにかかわらず、あなたは必ず白の列車に乗ることになる』


あの女の言葉が思い出される。

これが、運命か?

アイが死に、この場面で黒の切符が現れる、これが。

ああ、それなら。

何処へでも連れて行けばいい。

希望が待っていようと、絶望が待っていようと、このクソみたいな現実をぶっこわしてくれるのなら。

意を決した俺はお椀を手に取り、胃の中へみそ汁を一気に流し込む。

この冷めた塩辛いだけのものが、もう味わえないと思うと妙に悲しくなる。

そして、寝室の押し入れから取り出したすえた匂いがする唯一の私服に着替え、ジャケットの内ポケットに彼女の書置きを折りたたんでしまう。


その後、キッチンから取り出した古い油を寝室の彼女が眠る周りに撒き散らす。

人は死んでしまえば熱さや痛みを感じないのか、それに決着をつけないまま死者に生者のエゴを押し付けるのは気が引けるが、このまま彼女を腐らせるのはしのびない。

なにより、彼女がここに形を保って存在する限り、俺はもう何処にも行けそうになかった。

これは、決別なんだ。


「ふぅ」


呼吸を一つ吐き、台所から持ち出したマッチに火をつけ、それを地面に落とす。

瞬間、床や壁を炎が走り出す。

そして、寝室に一瞥、俺は自宅を飛び出した。

この辺りはボロの木造住宅が密集しているため、小さな火はあっという間に全てを飲み込む炎になるだろう。

これでいい。

多くの命が失われるかもしれない、それでも構わない。

ここにある悲しみも痛みも全て消し去ってくれるはずだ。



明け始めた空の下、騒ぎが大きくなる前に小走りで目的の場所へ向かう。

放火なのか、犯人は誰なのか、幇会の奴らにかかればすぐに判明するだろう。

それに、他の奴隷と違って真っ先に疑いが向くのは俺のはずだ。

急がなければ。


薄気味悪い住宅街から、夜の喧騒と明かりが消えたネオン街へ。

波紋のように広がる騒めきを遠ざけるように、なるべく体力を温存しながら、ちらほらと道を行く人々の影に隠れるように駅へと向かい、ようやくネオン街を抜けようとした時。


「そいつを捕まえろ!!捕らえた奴にはいくらでも褒賞を出す!!」


背後から聴こえた怒声に振り向くと、殺気を孕んだフェイがこちらへ走ってきていた。


「くそっ!」


ここは奴らの庭と言えども、対応が早すぎる。

慌てて前を向き全力で足を動かし始めたところで、目の前に幇会の連中や一般人らが、俺を捕らえようと束になって現れる。

考えろ、こんなところで終わっては笑い話にもならない。


―――その瞬間、道の脇から現れた赤い閃光が、目の前の障害物を吹き飛ばした。

その物体は、黒の切符を渡してきたあの、旗を掲げていたイかれた女だった。


「進みなさい!!あなたはここで死ぬ運命ではない!!」


彼女はその長い旗で人々を次々に薙ぎ払っていく。

アイツが俺を助けた理由はどうだっていい、彼女の脇を走り抜け蹴散らされた人間どもを踏み台にし、さらに前へと進む。

駅までの距離はそう遠くなく街の大通りへ出ればあとは道なりに進んで到着する、このまま行けば問題ない。


ただひたすらに走れ。

足が折れようとも、肺が潰れようとも、心臓が破裂しようとも、走り続けろ。

あの女一人でできる足止めなどたかが知れている。

狗に捕まれば今度こそ終わりだ。

死にたくなければ足を止めるな。



駅前のビルに囲まれた大広場にたどり着き、俺は絶望する。

目の前には隙間がないほどの人間で埋め尽くされた駅舎が堂々と佇んでいた。

希望号を見に来たのか、それとも乗車でもするつもりなのか、皆が我先にと怒声を上げながら前へ進もうとしている。


こんなところで足踏みしていられない。

このままではフェイたちに追いつかれてしまう。


「どいてくれ!急いでいるんだ!」


「おい!割り込むなよ!」


駅舎の入り口前まで近づき強引に人の波を掻き分けようとするも半歩すら進めない。

それでも力を込め前に進もうとすると、群衆に押し出され尻餅をついてしまう。

くそ、こんなところで終わるのか?


「青年よ!地べたを張っている場合じゃないぞ!!」


唐突に耳をつんざく地面を揺るがすような低く芯のある大声に顔を上げると、そこには巨人がいた。

その姿は異質、燕尾服にシルクハットを身に着けた、白い肌に白いひげを蓄えた二メートルはあろうかという白人の大男。


「あ、あんた、誰だよ」


「そんなことはどうでもいい。青年よ、お前も黒の切符を持ってここにきたのだろう」


「あ、ああ。いや、なんで知って」


「然らば!こんなところで立ち止まっていてはいけないだろう!希望号の発車まで余裕はないぞ!」


そんなことを言われたって。


「この状況を、どうしろってんだ」


「そんな顔をするな、ジャパニーズ!君らはもう十分に地べたを這い苦しみもがいた!そして、今ここに現れた希望号はまさに一筋の光!そう、今こそ!群衆を尻目にあの大空へと羽ばたく時なのだ!」


五月蠅い声で訳の分からないことを言いながら、彼は何故か俺の首根っこを片手で掴み、もう片方の手で俺の尻を押し上げ、いとも簡単に俺の身体を持ち上げる。

なんて馬鹿げた力、いや、それよりも。


「おい、なにを!」


「さあ、目指すはこの世の果ての終着点!愛の翼に勇気を込めて、はばたけ雲を切り裂いて!」


ジジイは右足を後ろに大きく下げ、俺を抱えたまま投球フォームをとる。

まさか。


「続け!この世のあらゆる絶望に、風穴開ける希望号へ!!」


あろうことか、俺はそのまま大男にぶん投げられた。

思考を巡らす暇もなく訳も分からず宙を舞い、視界がある程度定まった時には、目の前に駅舎の窓ガラスが迫っていた。

生存本能が働いたのか、俺はとっさに身体を丸め、腕で頭部を覆う。


その瞬間、ガラスが割れる甲高い音と衝撃が全身に響く。


遅れてきた思考が真っ先に全身の痛みを確かめるも、特に問題はない。

放心状態から正気を取り戻し立ち上がり後ろを見ると、窓の外、眼下には民衆がうごめいていた。

どうやら、駅舎の二階まで投げ飛ばされたようだ。

色々と気になることはあるが、これはチャンスだと再び駆け出す。

とにかく、前へと。



汽笛が聞こえる。

外より比較的空いている構内の隙間を縫いながら走り続け、人の波に潰され機能しなくなった改札を抜け、ようやくプラットフォームに下りる階段までたどり着く。

そこから視線を前へ向けると、広がる空の下、朝日を一身に浴び光り輝く白の列車が停まっていた。

微かに見える先頭車両には見慣れぬ純白の外装を纏い、その姿は遠くから見ても荘厳であると思わせる、まさしく希望という名にふさわしい姿をしていた。

何故か二両目の中ほどから煙突が突き出ており、蒸気機関車だとしても特徴的な見た目だ。


あとは乗車するだけ。

しかし、希望号前のホームには広いスペースができており、ホームに降りる階段辺りで人々は立ち止まり戸惑いの声を上げている。

それもそのはず、希望号の前に複数の黒スーツを身に着けた人らが拳銃を持ち立ち並んでおり、その足元には血にまみれた人々が倒れていた。


あの姿から察するに、おそらく幇会の連中で間違いはないが、なぜあんなことをしているのか見当もつかない。

いや、それよりも急がなければ。


「おい、アンタ日本人だろ」


立ち止まる人々を押しのけ前に進もうとしたところ、見知らぬ男に肩を掴まれ制止される。


「邪魔しないでくれ」


「親切心で言っているんだぜ。あいつら、日本人とみるや無差別に殺しているんだ」


まさか、俺を狙っているのか?

そうでないにしろ、このまま出ていけば殺されるのか。

どうすればいい。


「青年よ、なにをしている!」


聞き覚えのある大声に振り向くと、そこには先ほど俺を投げ飛ばしたジジイが立っていた。

まずい、こんなデカい奴がいたら、あいつらに気付かれてしまう。


「こんなところで立ち止まっている暇はないだろう!」


「黙ってくれ。アイツらが見えないのか」


「ならば、青年よ、また逃げるのか!」


「俺だって、逃げたいわけじゃ」


ああ、くそ。

これじゃあ、今までと何も変わらないじゃないか。

環境のせいにして何回諦めれば気が済むんだ。


「キミの目の前にあるのは絶望か?否!一心に日の光を浴び、今にも広い世界へ飛び立たんとする希望である!然らば、青年よ、どうする!」


「……押し通る!」


「そうだ!それでこそだ!」


逃げる選択肢なんて、とうに捨ててきたんだ。

例えここで死んだとしても、みっともなく逃亡してあいつらに殺されるよりは幾分かマシだ。

意思を固め群衆を抜けると、幇会の連中が機械的な動きでこちらへ銃口を向ける。


「勇気ある青年よ、露払いは私に任せたまえ!」


そう言うと彼は一直線に走り、響く発砲音を気にも留めず、その巨大な拳で敵を吹き飛ばしていく。

その混乱に乗じ俺も再び走り出す。

仮に、奴らの狙いが俺なら、このまま乗車したとしても危機は去らない。

アイツらを一人残らずぶっ倒さない限り。


「勇者の旅立ちを邪魔するでない!」


俺は暴れるジジイの取りこぼしにきっちり片をつけていく。

倒れているが意識がありそうな奴には蹴りを、ジジイに気を取られ注意散漫になっている奴にはタックルから馬乗りになり拳を頭部へ叩きつける。

痛みと恐怖を押し殺し、ただ拳を固めて今までの欝憤を晴らすように。

そして、気づいた時には、辺りは静まり返っていた。


「さあさあ、早くしないと出発するよー!」


突如、静寂を裂くように希望号の側構の扉から身を乗り出す白いスーツを身に纏った人物がハンドべルを大きく鳴らしながら、目の前の悲惨な光景が見えていないかのような飄々とした様子で大声を出している。


「さぁ、行こうではないか、青年!」


まさか、こいつも列車に乗るのか?

なんて考えている暇はない、俺とジジイは急いで一番近くの扉へと向かい列車に転がり込む。

そして、今までたたらを踏んでいたホームの人々も続くように慌てながら乗車し、再び、けたたましい汽笛を鳴らした白の列車は乗り遅れている人々も気にせず走り出す。


ああ、まったく、滅茶苦茶だった。


「安心するでない、青年。ここから、ようやくスタートしたのだ」


「ああ、そうかい。いや、とにかく助かった」


「気にするな。私は前に進む若者は応援してしまう性質でね」


肩で息を切る俺とは対照的に一つも呼吸も乱さず姿勢よく立つ姿に、不覚にも尊敬の念を覚えてしまいそうになる。


「あんた、名前は?」


「エイブと、そう呼んでくれたまえ」


「ああ、わかった」


一段落ついたところで、彼は後方の車両に向かおうとする。


「念のため、私は警戒にあたる。キミも、くれぐれも気を抜かぬように。では、またな」


彼を見送った後、行き場をなくした俺は立ち尽くすと、ふと、扉の小窓から流れていく景色が視界に入る。

そうだ、もう、走り出したのだ。

俺の迷いも後悔も関係なく、この列車はただ進んでいく。

このまま呆けていてはいけない。

ただ、窓の外を眺め何もしないままなら、また何も行動を起こさず涙を流すだけなら、彼女の死に全くの意味がなくなってしまう。

アイの生きた証を、存在を、少しでもこの世界に残したいのなら、進まなければ。

俺の柄ではない、それでも、胸に溢れるこの感情は確かに、彼女のために行動することを望んでいた。

そして、これは俺の人生を変えるために彼女が生み出した最後のチャンスだと。


それなら、歩かなければ。

俺は、この旅に意義を見出すため、前方の車両へ向かい始めた。

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