あなたに宛てた毎日の日記

水神鈴衣菜

本文

『好き』

 放課後。柔く午後の光がカーテンの裏から差し込む、保健室。

「今日も疲れたね」

「そうだね」

 茉莉まつりは今日も、日記を書く。たった二文字の、誰かに宛てた日記を。

「茉莉、なに書いてるの」

「んー、内緒」

「いつも教えてくれないね」

なおくんに見えないことをいいことに色々と書いてるの」

「尚更気になるな」

「内緒なの!」

 そう──目の前の相手に宛てた、日記を。


 二人の出会いは高校だった。入学式の朝、茉莉が家を出た時。たまたま見かけた同じ学校の制服の人。それが直だった。学校に着いてクラスに入った時、目に入ったのは見覚えのある顔。

 彼女たちはクラスメイトになった。家も近く、また同じ部活だったため、帰りも一緒に帰ることが多くなった。そんな中で、互いが互いを好きになっていくことなど、自明のことだった。

 そんな中、事件が起きた。直の目が見えなくなったのだ。茉莉は理由を聞かされなかったが、何か病気とか怪我とか、そういうもののせいなのだろうと思っていた。直も茉莉に理由を伝える気は無かったし、その理由すら忘れてしまいたいと彼は願っていた。そんな都合のいい事、できるはずがないのに。

 突然失明した直に、始めはクラスの皆、困惑と興味の目を向けた。なんで目見えなくなっちゃったの。転んだりするの増えた。視界ってどうなってるの。何を聞かれても、彼は曖昧に微笑むだけで、なにも答えなかった。

 目は開いているし瞬きだってするし眼球だって動くのだが、瞳の中は空虚だった。きっとそれが皆には奇怪に映ったのだろう、次第に直の周りからは人が減っていき、最後には二人きりとなった。皆が離れても、茉莉だけは、直の隣に居続けた。茉莉は毎朝直を家に迎えに行き、自分の肩に手を置かせて、徒歩十分の学校までの道をゆっくりゆっくり一緒に歩いた。保健室に送り届けるまで、茉莉は直の傍を離れなかった。帰りも、茉莉は同じことを逆からたどっていった。こんな風にいられるのも、一重に茉莉が直のことを好いているからであった。


 かつて一度、直は茉莉に問うたことがあった。

「なんで、ここまでしてくれるの」

 放課後、保健医がいないタイミングを狙って。真っ白なページを直は指でなぞりながら、ぽつりと茉莉に問うたのだ。

「んー? なんでだろうね、私もわかんない」

「僕と一緒にいたって、今までみたいに一緒の本だって読めないし、勉強だってできない」

「一緒のことを勉強しなくたって、こうやって一緒にいられるでしょ。それでいいの」

「……そうなんだ」

「うん」

 茉莉がどんな顔をしているのか直には分からなかったが、その声の響きは本当に優しいものだった。


 茉莉が『二文字の手紙』を書き始めたのは、その頃だった。声に出して伝えることは難しいし、気恥ずかしい。けれど手紙ならば、たったこんなにも短い二文字も、直には見られず、伝えることができる。こんな短い二文字すら声にできない自分が悔しくもあったけれど、ただ、今ではないのだと彼女は思い込んで。そうして、毎日放課後、直の目の前で、ノートの端っこに。使ったルーズリーフの罫線の上の余白に。溢れる思いをセーブするように、彼女は二文字を書いた。そして彼への気持ちを、彼女は確認し続けた。

 片や直はというと、彼女がいつも何かを書いていることを、目が見えない代わりに少しばかり良くなった耳が捉えていた。茉莉は筆圧が強めであるので、人よりも書く時の音が大きいのだ。毎日どこかのタイミングで聞こえる、九回のシャーペンが紙に当たる音。何度も聞いているうちに、直はなんとなく、それが指す単語を思いついてしまっていた。けれど確証は持てず、確認しようにも間違えていたら、自分の勝手な想像だったら、と何度も躊躇っていた。


 そうして、しばらく時が過ぎた。

「僕、転校するんだ」

「え」

「突然でごめん」

 直は盲学校に転校することになっていた。目が見えない彼にとって、普通の学校は生活がしづらい場所だったから。点字を保健室で覚えながら、受け入れてくれる学校が見つかるのを待っていたのだと直は説明した。

「そう、だったんだ」

「うん」

「引っ越すの?」

「ううん、家はそのままだよ。でも僕は寮生活になる。家にいるよりも、その方が危なくないから」

「……じゃあ、朝に顔を合わせることも、できなくなっちゃうんだ」

「うん」

 突然のことに、茉莉は唖然としてしばらく何も言うことができなかった。目の前の直は、ぼんやりと茉莉の顔を見つめている。茉莉と話す時、彼はいつも彼女の方へ顔を向けて話すのだった。それが普通であるように。

「……でも、まだ、でしょ?」

「転校?」

 すんなりと言葉が出てくる直が、今日ばかりは少々羨ましかった。

「うん、そう」

「あと一週間くらいはいるよ」

「……そっか」

 一週間。逆に言えば、あと一週間しか一緒にいられないのだ。茉莉は、衝撃にその日は立ち直れなかった。

 けれど一つだけ、彼女はその日の夜覚悟した。一週間の間に、直に思いを伝えること。それをしなければ、彼を見送ることはできないと彼女は思い込んだ。


 * * *


 それから時が過ぎた。直の転校まで残り一日──だが、茉莉は踏み出せずにいた。もう明日には、直は自分の前から姿を消してしまうというのに。今日こそは、と最近で五回も思ったことをもう一度思って、放課後の保健室へ足を運んだ。

 がらりと扉が開く音で、机に向かっていた直は茉莉の方を見た。

「あ……茉莉?」

「うん、そうだよ」

「今日もお疲れ様」

「そっちもね、お疲れ様です」

 最後だというのに、いつも通りだ。

「……最後の日は、どうだった?」

「いつも通りだったよ。保健室に登校して、持ってきた白い本をなぞって」

「そっか」

 茉莉は直の隣に腰掛ける。

「あれ、珍しいね。隣なんて」

「うん……、最後だからね」

「そっか」

 直は、いつもの調子で優しく言う。茉莉はその声に、なんとなく泣きそうになってしまう。涙は見られてはいけないと──否、どうやったって直には見えないのだけれど──ぐっと茉莉は堪えた。

「今日はもう帰らなきゃ。明日の準備があるから」

「うん、分かった。帰ろ」

 いつもするように、茉莉は直の手を掴む。最初の頃はこうする度にびっくりされていたな、と茉莉はふと思った。すっと引いて、直をソファから立たせる。

「荷物ってどこ?」

「えっと、机の下」

「分かった」

 直の手を机に置かせて、茉莉は机の下の直の荷物を引っ張り出す。普通ならば教科書がたくさん入って重いはずの鞄。今は重いものはほとんど入っていない。

「私持つ?」

「いや、今日は本も軽いから、自分で持つよ」

「ありがとう」

 はい、と茉莉は机に置かれた方でない手を掬いあげて、鞄を手渡す。

「うん、ありがとう」

「忘れ物なさそう?」

「大丈夫だと思う」

 それを聞きながら、茉莉は机の上、下を入念にチェックする。もう彼はここには来ることができないのだから。

「大丈夫でしょ、よーし帰ろ」

「うん」

 机に置かれた手を取って、肩に載せる。もうこの日々も途切れてしまうのだと、茉莉は思った。


 帰り道の途中、直がふと茉莉に話しかけた。

「茉莉」

「ん?」

「今日、この後暇かな」

「うん、暇だけど」

「良かったら、家来ない?」

「……うぇっ」

 茉莉は予想だにもしなかったその発言に、変な声をあげてしまう。

「はは、変な反応」

「や……そりゃ、ね……」

 好きな相手に家に来ないかと言われたら、そりゃあこんな反応にもなる。

「明日の出発の準備を手伝って欲しくて」

「あ、あぁ……」

 茉莉は思わずなんだ、と言いかける。最後まで頼ってくれているのに、そんな反応は全くなっていない。

「もちろん、いいよ」

「ありがとう」

 少し後ろを歩く直の表情は、茉莉には見えなかった。


 * * *


「おじゃましまーす……」

「どうぞ」

 直は手馴れた様子で靴を脱ぎ、廊下を進んでいく。

「あ、待って」

 茉莉もそれにいそいそと続く。しっかり脱いだ靴は揃えて。

「ごめん、速かったね」

「ううん大丈夫だよ」

 家での直は初めて見る。自分がいなくても、案外しっかり生活できているのだ、と茉莉は少し寂しく思った。

 直についていくと、廊下の突き当たりの部屋の前に着いた。直は扉を開く。

「どうぞ」

「あ……うん、失礼します……」

「僕の部屋。最近見られてないから部屋がどんな様子かあんまり分かってないけど」

 家族が掃除しているのか、綺麗に整った部屋に思われた。だが寝具と勉強机、クローゼットくらいしかめぼしい家具はなく、簡素な部屋にも思われた。部屋の真ん中には、開いたままのスーツケースがある。

「うん、綺麗だよ。整頓されてるって感じ」

「そっか。なら良かった」

「で……何を手伝えばいいの?」

「必要なものがあるかどうか、ちゃんと確認して欲しくて」

「分かった。なにか必要なもののメモとかある?」

「あるよ、盲学校からもらったやつ」

「そっか。じゃあ照らし合わせながら、無いものは場所聞いて持ってくるね」

「ありがとう」


 そうして準備は着実に進んで行った。作業をしながら、茉莉は本当に直は行ってしまうのだと痛感した。

「よし……大丈夫かな」

「ありがとう。最悪物がなかったら親に届けてもらうよ」

「うん」

 そう返事して、二人の間にしばらく沈黙が流れた。茉莉は話題を掴みあぐねていた。──気持ちを伝えるには、今しかないんじゃないか。ふと、そんなことが頭を過ぎる。

「ねぇ、直くん」

 意を決して出した声は、案外すんなりと出た。

「どうしたの」

「……えっと」

 だがその次の言葉が、全く見つからない。どうこの気持ちを形容すれば良いのだろう。あんなにも毎日、文字では形にすることができたのに。彼にはそれでは、伝わらないのに。

 茉莉はゆっくりと息を吸った。息の末端が震える。

「えっと、その、ね」

「うん」

「直くんは、家が近くて、同じクラスで、同じ部活で……結構、ずっと一緒にいたよね」

「そうだね。僕がも一緒にいてくれた」

「うん……直くんは優しくて、笑顔が素敵で、一緒にいて楽しくて、一緒にいる時間が大好きで……」

「僕も大好きだったよ、茉莉と一緒にいた時間」

「そ、そうじゃなくて」

「……じゃあ、どうなの?」

 心臓が高鳴って茉莉の邪魔をしていた。頭の回転は完全に止まっていて、伝えたい言葉は全くまとまらない。

「好き、なの」

 あぁ、言ってしまった。

「直くんが好きなの」

 もう一度、はっきりと言う。なるべく真剣な声で言ったつもりだが、伝わっただろうか。この赤くなった顔を見れば確実に伝わるというのに。冗談に捉えられていたら、ひとたまりもない──。

「僕も茉莉が好きだよ」

「……ふぇ」

「はは、間抜けな声」

「今のは、本気のやつ?」

「そうだよ。当たり前でしょう」

「……ほんとに?」

「ほんとに」

 やっと、顔を見る。直はいつも通り優しい微笑みをたたえている。よく見ると、ほんの少しだけ頬が赤くなっている気がした。

「……ぎゅってしてもいい?」

「もちろん」

 茉莉は恐る恐る直の近くに這い寄る。茉莉が近寄った気配を感じたのか、直は腕を開いた。茉莉は半ば倒れ込むように彼の腕の中に入って、直を抱きしめた。

「……直くんもドキドキしてる?」

「はは、もちろんだよ。好きな女の子を家に呼んだんだから、そりゃね」

「……そっか」

 茉莉はそれを聞いて恥ずかしくなって、顔を伏せた。直はゆっくり腕を動かして、茉莉の後頭部をさらりと撫でる。

「前より髪短い?」

「あぁ、うん。最近切ったよ。今は顎と同じくらい」

「そっか。気づかなかった」

 こんな風に気づけていないことが、彼女が変わったところが他にもたくさんあるのだろうか。ふと直は不安になった。自分が知らないところで彼女が自分の記憶と乖離したものとなるなんて、耐えられそうもなかった。

「……他にも見えなくなる前と変わったところとか、あるの?」

「え、うーん……どうだろう、自分じゃわかんないかも」

「ねぇ、触ってもいい?」

「……うん、いいよ」

 茉莉は背筋を伸ばして、いつものように直の手を取った。いつもよりほんの少し、体温が高く感じられた。

「んー……でも、どこに触るの?」

「顔とか?」

「……分かった」

 茉莉は取った手を自分の頬へと導く。触れる。少し硬い指先が、茉莉の頬をくすぐった。

「怖くなったんだ。自分の中の茉莉と、今の茉莉が違くなっていくのが」

「……そっか。一年も経ってないし、そんなに変わってないと思うけどな」

 頬をなぞる指先がくすぐったくて、茉莉はふふと笑う。直の指先は優しいものだった。壊れやすいもの、割れやすいものに触れるような、優しく愛おしさに溢れたものだった。

「下手したら目に指当たっちゃうかもだから、目瞑ってた方がいいかも」

「あー、確かにね」

 茉莉は返事して目を瞑る。消え去った視界に、直はいつもこんな風なんだなと彼女は思った。不安で不安で仕方ないだろうな、とも。

 直の指が再び茉莉の顔をなぞる。頬、顎、鼻、唇、睫毛。目と、眉。それから直の大きな手が、茉莉の顔をふわりと包んだ。頬をすりすりとさすられる。柔らかく温かな直の体温が、茉莉の体温と混ざり合う。

「ここがほっぺで、ここが鼻か……」

 小さくそう呟く声が聞こえた。触れば分かるものなのだと茉莉は少し感心した。

「そろそろ終わり?」

「うーん」

 肯定とも否定とも取れないような、曖昧な反応が返ってくる。何をしようとしているのだろう。不思議に思いながら、そろそろ直の顔が見たいと茉莉は少し唇を尖らせた。

 その時ふと、顔に何かが近づく気配を感じた。次に唇に触れる感触。柔らかなそれに、茉莉は唇を塞がれる。ほんの少しだけ触れて気配は遠ざかった。それと同時に頬に触れていた手も離れた。

「……もう、目、開けていい?」

「……うん、いいよ」

 ぱち、と目を開ける。柔らかな陽光が茉莉の瞳を刺した。少し痛む瞳の中で、直は少しだけ上気した顔に、口元が緩んでいる、照れたような笑顔を浮かべていた。初めて見る表情だった。そしてその表情を見たことで、先程の感触の正体が自分の思っているものと同じだったのだと彼女は勘づいた。

「……直くん」

「うん、なあに」

「ありがとう」

「ん……なんで?」

「私を好きになってくれて」

「そりゃなるよ、いつも傍にいてくれたから」

 優しい笑顔で、直はこくんと頷く。茉莉は彼をぎゅっと抱き締めた。

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