ある日の殺人
@derara12124
1
こつ
と、足に当たった石がアスファルトを跳ねた。
6月の下旬と言っても、だんだん暑くなってきた道を歩く。夏の暑さとは違って湿気の混ざったジメジメ日だ。梅雨の時期だが空は青く、もう少しで来る夏の暑さも感じさせる。
今日はいつも一緒に帰っているやつが「先生に呼ばれてるから」と取られてしまったから、通学路を1人で帰っている。1人の帰り道は話す相手がいないから、自然と普段より頭の中での独り言が多くなる。
(英語のテスト、平均より悪かったなぁ)
石を蹴りながら、さっき返されたテストの結果を思い出す。
小学校までは勉強しなくてもいつも満点だったのに中学に入ってから家でも勉強しないと着いていけなくなった。
別に勉強が特別できるようになりたいわけでもなけど、周りと比較してダメだと思われたくはない。誰だって平均点以上は取りたいと思う。逆に、平均点を超えた科目については、何も思わないようにしてる。
(まあいいや、他のテストはまあまあだったし)
悪かったといっても追試じゃないし、と石を蹴飛ばして考えを着地させる。
人に比べて英語が苦手だという自覚はあったけど、緩い親からも何も言われないだろうし、高校受験も2年後でだいぶ先だから、慌てるタイミングじゃないと怠け者の自分が先延ばしにする。
蹴飛ばした石はアスファルトに弾かれて角度を変え、草むらに吸い込まれていった。
おれは興が冷め、アスファルトに向けていた目を道の先に向ける。
太陽の光が照らす世界で、奥に影が見える。
この辺りは田舎なこともあり周りに高いビルがなくて遮蔽物がないけど、草木に囲まれて整備された長い階段を降りた先にトンネルがある。日の光の分コントラストが強く、トンネルが作った黒い影が誘うように佇んでいる。階段をトントンと降りる足音も、一人分だと静かだ。
太陽から逃げるように下につづいていく階段の道、その先に暗く佇むトンネルの光景に、一緒に帰っていた友達が「こわいな」とこぼしたことがあったっけ。
一番下まで降りて、トンネルの影の中に入る。
地域からあまり評判が良くないらしいトンネルだけど、個人的には壁に描かれた下手な落書きを見るのは好きだった。
だから、気づいたのはきっとおれくらいだったと思う。
他の人がここを通ったとしても、昨日と今日の落書きの違いが分かる人なんかそうそういないんじゃないか。
(あ、落書き増えてる)
たくさん書かれた、何語かわからない文字達でカラフルに彩られた壁。大きな文字の下の、小さな文字が目に止まって、新しく増えたものだとおれには分かった。
おれは、2人だとしなかっただろうけど今日は1人だし、壁に近づいてみた。なんの文字が書いてあるかちょっと見てやろうと思ったのだ。
反響する靴音を鳴らしながら、壁に近づく。だんだんと輪郭をしっかり結ぶ文字を凝視した。
「ready、?」
目の前の落書きの文字を口に出してみる。
中学に入ってから英語を本格的に勉強するようになって、得意じゃない科目だけど教科書によく出る語彙だ、それで間違いないだろうと思う。たしか、準備とか、そういう意味だ。トンネルの壁に書く言葉としては、どうなんだろう、もっとRockとか、 funkyとか書くんじゃないだろうか。
別にいいけど。
意味のない言葉に興味を失って、また歩き出そうとした。
「?」
目線を元に戻す時、目の端に何かが映った気がして立ち止まる。
再び目線を戻して捉えたそれを、初めは黒い何かだと思った。
壁際にある排水路の溝。
狭い窪みに収まるように落ちている黒い塊。
中を覗き込んでよく見ると、黒いのは表面だけで、肌色の何かが溝の中に溜まった土で汚れているだけだと分かった。
「え?」
それは切り取られた人間の手首だった。
ボールが宙を舞う。
弾む音に合わせて、人の声が盛り上がる。
体育なんて何が楽しいのか分からない、と動きながら歓声を上げる人たちを見て思う。
自分が人より運動神経が悪い、ってことに昔は劣等感を感じていたが、最近は大して抵抗も感じなくなってきた。人には得意不得意があるんだよ、なんて笑いながら言う大人の誤魔化しは聞き飽きたし、本気で悩んでもどうしようもないことだからだ。それでも、体育って教科に必要だろうかと思うのは変わらない。世の中の極少数の何%だけが将来スポーツ選手になってその運動神経を活かす職業につくのかしれないのに、才能のない人間が無理して頑張る必要なんかないのではないかと思う。
なんて、考えても仕方ない。
全くやる気のない授業だけど、サッカーがチーム競技な以上、試合中は動いてるフリだけでもしなくちゃいけない。
ボールの動きに合わせてコートの外周をなぞるだけの動きを、もう何分しているのか。
ピピー!と許しのホイッスルが鳴り、おれはくたくたな足で木陰に移動して座った。大して動いてないとはいえ運動に見合った量の汗は出て、肌に体操服の表面が張り付くのが不快だ。
きつい上に暑い、体育っていう科目は本当にいいことがない。風も吹いてないから涼しくもならないし。
「残念だったな、河野」
「ん?」
せめて顔に風を送ろうと手で仰いでいると、横から声がした。
太陽にかぶさるようにちょうど逆光、おれを見下ろす位置まで来た男子生徒を見上げる。
日部だ。
短髪より少し長め黒髪をした涼しげな様子の日部が、端正な顔を、に、と大袈裟に笑わせている。体育の授業では日部はいつも校舎側のベンチに座っているが、おれに話しかけるためにここまで歩いて来たようだ。
「なにが?」
おれは日部をちらと見て、前に戻した。ずっと上を見てると首が痛くなると思ったからだ。
顔を見ずに会話するなんて失礼なのかもしれないが、おれと日部は小さい頃からの幼馴染だからそんな気遣いも今更いらない。
「さっきの試合、あと一点だっただろ?」
日部は大きすぎるわけではないのに、やけに通る声でそう言う。
おれはああー、と曖昧につぶやいた。
自分のチームの点数をよく見てなかったから、なんとも言えなかった。
さっきおれが立っていたコートの点数表を見ても、もう次の試合の点数にリセットされてしまっている。グラウンドまで持ってこられたホワイトボードのトーナメント表の棒線を見ても負けたことしか分からない。
日部の話を信じるならおれは一点差で負けてしまったらしい。
「一点かぁ、惜しいなぁ」
「河野、点数見てなかったのか?さっき戦ってた当事者なのに相変わらずボーとしてんなあ」
横に座って、同じ高さになった端正な顔は呆れているように見える。
おれが何かを言うと、日部はたまにこんな顔をしてくることがあった。日部が言うにはおれは人に比べて適当なところがあるらしい、まぁO型だからそんなものだろう、と自分では思うのだけど。
二人並んでコート上であっちこっち飛び跳ねるボールを眺めていると、日部は少し声を固くして喋り出した。
「昨日はごめんな、一人で帰らして」
「え?ああ、いやいいけど」
「親が種田先生に成績のことでなんか言ったらしいんだよ。それで先生と面談してたんだ」
「面談?そうだったんだ」
身をほてらせていた熱は徐々に引いて来た。木に背を預けて横を向くと、日部は綺麗な顔を曇らせていた。
日部の顔は目鼻立ちがくっきりしていて女子から評判がいいが、男のおれから見ても色気があると思う。その御立派な顔が憂を帯びると、まるで映画の引きのワンシーンのようだと思う。
昨日一緒に帰れなかった理由について、おれは気にしてなかったが日部はよっぽどその面談がこたえているように見えた。ダメ押しのようにため息をついている。その面談で何を話したのかは気になったが、ひとまず聞くことにした。
「今日は一緒に帰れるの?」
「あ、今日は大丈夫!」
「そっか」
ピー、と試合終了のホイッスルがグラウンドに響き、会話が途切れた。
ボールの蹴る音、クラスメイトの掛け声、風が吹いて、人の移動で地面の土が掠れる音が聞こえてくる。チームが入れ替わりまた試合が始まって、ボールのいく先を目線で追いながら、この試合が終わったらまた入らないといけないな、とだけ考える。
「河野はどっちが勝つと思う?」
涼しい声で、日部が話題を切り替えて聞いて来た。
「え、んー」
何と答えよう。
おれは運動も好きじゃないけど、観戦も面白いとは思わない。多分、サッカーっていう競技自体に興味がないんだと思う。
日部は体育を見学していることが常だから観戦を楽しむようにしてるのだろうが、おれとしては勝ち負けはどうでもいい。
「どっちでも」と答えようとしたおれの声に、女子の高い声がかぶさってきた。
「日部くん、先生が今日は風が強いからコーン片付けて欲しいって」
声をかけてきた女生徒、安堂さんはいつのまにか日部の横に立っていた。
風に吹かれるサラサラの黒髪が可愛らしい顔によく似合う。後ろに女子二人を連れて、代表の人って感じで日部に話しかけている。おれも3人を見ているが、日部にのみ向けられた目と一切目が合わないのは若干悲しい気もする。今に始まったことじゃないから、まあいいけど。
激しい運動が体の問題でできない日部は体育の時は雑用係のような立ち位置になっている。
サッカーコートの外周を決めていたコーンが風に倒されたため、直すように安堂さん達は先生からことづかったようだ。
「そっか、分かった、すぐやるよ」
「あっ待って、私たちも手伝うよ」
伝えるだけなら一人で来てもいい用事だったと思うが、三人は1人しかいない日部を分け与えるようにあっという間に取り囲んだ。完全に部外者のような立ち位置のおれには、3人はそういう不可侵条約を結んでいるように見える。四方から投げかけられる高い声の言葉たちに日部は明るく「でもみんなは試合あるんじゃない?」と愛想よく答えている。
「私たちまだ試合ないから!」
「1人でやるの大変だもんね」
「役割分担して早く終わらせよっ」
なんて言われながら小さくなっていくモテ男と3人の後ろ姿を見送る。
日部は人気者だ。女子に囲まれていても当たり前だと思えるくらいかっこいい顔をしていて性格に棘がないので当然なのだが、おれみたいに平凡を絵に描いたような人間からすればいっそ羨ましさも湧いてこない。
日部が人気があるのは日常の風景だ。
といっても、日部は勿体無いことに俺くらいとしか普段行動を共にしないため一歩引いたところからファンのような持ち上げられ方をされることが多い。別におれが望んで縛っているわけじゃないが、日部のファン的な女子の数人に存在を疎まれていることは肌で感じている。
(おれの隣にいるよりも、ああしてる方が似合うのかもな)
おれが考えることでもないか。
どっちが勝ったってよかったが、体育座りの膝に頭を乗せて試合を見つめる。
日部は、今日は一緒に帰れるらしい。
一人で帰るのも気楽で好きなのだが、二人で帰るのも嫌いなわけではない。
子供の頃から日部とはよく一緒にいるから、一緒に登下校するのが当たり前だった。ずっと一緒にいると離れたくなる心理が働いて一人がいいと思う時もあるが、やっぱり二人の方が安心する。
登下校は二人の方がいい、そう思うには昨日の出来事は十分だった。
人間の体から切り離された手首を見るのは、当然初めてだった
それは明らかに日常から浮いていた
それが自分の手首と似たような形状をしていること
それが人体から切り離されてそこに置いてあること
甲にあるホクロが生々しく個人の生を連想させ、何秒かたってそれが何なのか理解したおれは、弾かれたように2、3歩後退した
ドクドクと心臓の音が鳴っているのが、胸に手を当てていないのにわかった
少し経って、とにかく家に帰りたいという強い気持ちだけを抱いて、帰り道を進んだ
後ろを振り向かずに進むことがこんなに難しいことなんだと、おれは初めて体感した
「なあ、今日俺の家来ないか?」
荷物をまとめて帰りの準備をしていると、日部が肩を触ってそう言ってきた。
「え、日部の家?」
「うん」
「いいけど、…いいの?塾は?」
「いいに決まってんじゃん、塾は今日休み」
日部はおれの返答に満足そうに笑った。
中学一年になっても、日部は子供のように振る舞うな、と思うことがある。そのピュアな感じがいいのだと、いつかクラスの女子が言っていたっけ。
「ならいいけど…」
「日部!」
教科書を入れ終わり、鞄を持ち上げたタイミングでクラス中に声が響き渡った。
ビリビリと空気を割くような太い鋭い声。
声がした方を向くと、担任の種田先生が教室の入り口に立っている。バスケ部の顧問もしている種田先生は、大柄で体格が良く声が大きい。スタンダードの調子が荒っぽいから、怒っているかどうか分かりづらくて接しにくいところがある、苦手な先生だ。
呼ばれた日部は慌てて入り口に走っていく。何を話しているか分からないが、日部は困ったように手で頭をかいている。
昨日面談があったと言うし、その関係だろうか。
成績のことで先生に何かを言った、と日部は言っていたが、日部の親は教育に厳しいので大変そうだ。長い髪を少し巻いて、堂々とランウェイみたいに歩く日部の母さんは、男の人が道を塞いでても押しのけてしまえそうな迫力がある。声がでかい種田先生に対しても、息子はクラスでどんな感じですか?とか成績はどうですか?とか、気圧されずしつこく聞く姿は想像しやすい。ゲージに囲まれてこっちの姿が見えないなら、二人の面談風景は見てみたい気もする。
二人の会話はすぐ終わると思ったが、なかなか途切れなかった。
手持ち無沙汰で立っていると、同じクラスの中山くんがおれに向かって近づいてくる。
教室の入り口で話している先生と日部を一回見て、おれに向き直る。
「あれ、何やってるの?賞とったから、そのことか?」
「いや、知らないけど」
中山くんメガネの奥で教室の後ろの方をチラリと見た、その目に、僅かな嫉妬を感じる。教室の後ろの壁には以前、日部が賞を取った絵が中心に飾っている。
「長くかかりそうだな。なあ、河野、ちょっと頼み事していいか?」
「なに?」
中山くんはクラスの委員長だ。真面目な見た目に即した性格をしていて、おれみたいな適当なやつとは気が合わないが、こうやってたまに話をすることはあった。
基本的に中山くんの委員長の仕事関係で話しかけられるだけだが、もしかしたら中山くんは気が合わないとは思ってないかもしれない。話しかける動作に迷いがないので、陰キャなおれは毎度驚いてしまう。
今回も委員長として話しかけてきたらしい。
「日部にさ、これを渡してくれないか?」
渡された紙を受け取ると、来年のクラス分けの選択科目の記入用紙だった。
「いいけど。日部、この紙持ってないの?」
記入用紙を配られたのは先週の終わり、今日は火曜日で、渡された日からまだ日も経っていないはずだ。全員分に配られたはずの紙を見て、疑問を口にする。
委員長はメガネを指で押し上げた。おれの単純な質問を受け、聞かれるのは分かっていたと言わんばかりの態度だ。
「昨日、本人が無くしたって言ってきたんだ。なんでも間違えて捨ててしまったんだと。もう提出近いのにさあ」
そう言う中山くんの言葉のニュアンスには愚痴が含まれている気がする。
「ふーん」
おれたちの学校は、中学二年から希望の選択科目でクラス分けが行われる。
全員が希望通りのクラスに行けるわけではなく、偏ったら均等になるよう、個人の能力を考え教師が振り分けをするらしい。
まだ6月だけど、来年のクラス分けのために、月を分けて何度かアンケートを実施していくつもりのようだ。これはその紙だった。
「これ、いつまでに提出だっけ」
「明日だけど、もしかして忘れてたのか?」
「え、あ、…そうなの」
もらったことは覚えていたが、期限を忘れていた。
聞いておいてよかった、と思う。プリントを捨てた日部のおかげだ。
「とにかく、よろしくな」
忘れていたことを咎められるかと思ったが(冗談じゃなく、中山は公衆で正義を振りかざすところがあるから割と本気でやってしまったと思った)呆れた顔を見せたものの中山くんはすんなり去っていった。後ろ姿と入れ替わるように、日部がこちらに駆け寄ってきた。ほとんどタッチ差だ。
これならおれに預けなくてもよかったんじゃないだろうか。
「わりい、待たせた」
「いや、帰ろっか」
日部は、さっきより見るからに元気をなくしていた。
おれは机の上の鞄を、再び背負い直す。
「なんか今日の種田先生、やけに怖かったね」
「部活で突き指したらしいぜ、それで俺、多分だけど当たられてるんだ」
日部の言葉に、教卓に移動した先生を見る。たしかに、先生の人差し指には包帯が巻かれている。種田先生は感情的なところがあるから、日部の憶測にそうだろうな、と納得できた。あまり目はつけられたくないな。
「日部、これ」
とりあえず日部に紙を見せると、ああ!と言っていつもの笑顔になった。今度こそ大事にしようとばかりにきっちり畳んで鞄にしまっている。
「さすが中山くんは対応が早いよなあ、明日までだから中山くんに言わせれば当たり前なんだろうけど、助かった」
「うん、おれも思い出せてよかった」
「ん?」
選択科目の紙なんか、おれもすっかり忘れていたから助かった。おれも選択科目について考えなきゃいけないな。
将来なりたい職業もないから、選択科目なんか適当でいいだろう。おそらくおれは成績的に、偏りが出た時の移動要員だろうし、成績のいいやつがなりたいクラスになるシステムに、特に期待もない。
なにかあっただろうか、なりたいもの、なりたいクラスなんか。
「帰って考えりゃいいか」
「なに?」
「ううん、今日なにしよっか」
わざわざもう一度言い直して説明することでもなかったので帰るそぶりでごまかした。
「日部の家ってなんかあったっけ」
「んー、あ、ファミコンあるぜおれん家!」
加藤が指を立てて、目の前に突き出してくる。その手を見て、昨日の記憶が唐突に、鮮明に思い出せた。
ああそうだ、手首だ。
最近、の話だと思う。
おれの記憶力、暗記とかは問題ないんだけど、日常の細々した記憶が抜け落ちることがあった。一般的には嫌な記憶ほど覚えてるらしいけど、おれは逆に、嫌な記憶ほどするりと記憶から切り落とすように抜け落ちる。
えらい権威のある先生に見てもらえる機会があったらぜひ見て欲しいんだけどそんな機会は一生ないだろうし、思い出そうと努力すれば思い出せるので支障は無い。おれの適当な性格が脳にも影響してるんじゃないかと想像することもあったが、まあ、頻繁ってわけでもないから困ってもない。
(手首なぁ…)
一日経って日常に馴染んだ頭が、嫌なものを思い出してしまったと沈む。
ぴこぴこと、整理整頓された部屋にファミコンの音が鳴る。日部の操作するキャラクターがドットで動く様を、ベットに座ってボーと見る。
一軒家の日部の家は、学校から割と近い。
学校からおれの家に帰る時は、日部の家の前を通るような形になる。日部の家にお邪魔するのは初めてではないが、日部の親、特に母親は厳しいから、家に入れてもらったことは実のところ一、二回しかない。普段遊ぶのは俺の家がほとんどだった。
おれに「先に部屋上がってて」と言って一階からクッキーとお茶を持ってきてくれた日部は、人生ではじめて見るファミコンを操作している。テレビもファミコンも、前来た時は日部の部屋になかったと思うが、前回遊びに来た時から一年は経ってるから色々変わったんだろうか。
おれは冷えた麦茶を飲んで、手首のことを考えていた。
「なんでファミコンがあるんだよ、令和だよ、今」
「父さんが昔持ってたやつなんだよ、押し入れから引っ張り出してきた」
「楽しいの?」
「楽しいよ?」
「ふーん」
適当に日部と会話をしながら昨日の光景を思い出す。
トンネルに捨てられていた手首、一瞬でも忘れてたことは正直驚きだが(普通、忘れるかな。おれの脳だから、嫌な記憶だったから忘れたんだろうけど)思い出してみれば、1日経っても、手首の形は克明にイメージできる。
今日の帰り道でもトンネルの中を通ったが、近づかないと用水路の中は見えないのでただ通るだけになった。いつもはキョロキョロ周りを見ているおれも、側溝を視界に入れないように、前を見て歩いた。
切断された手首なんて、明らかな事件性を感じさせる。
この町に手首が切断された死体が見つかったと言う話は聞いたことがないけど、まだ見つかっていないだけかもしれない。
目の前で呑気にファミコンを操作してる日部は、自機が死んでぎゃー!と叫んだ。
日部は普段ゲームをしないから、操作が下手だ。日部をいいという女子たちはこういうところもいいと言うんだろうか、それとも知れば幻滅するんだろうか。何度も死ぬビット音を聴くのにも飽き始めていたおれは、日部に「トイレ借りるな」と言ってベットから立ち上がった。
麦茶を飲んでいたから、トイレに行きたくなったのだ。
日部は「うんいいよ」と画面を見たまま言う。
そんなに面白いだろうか、ファミコン。おれの家にはswitchもps4もあるから、綺麗なグラフィックに慣れたおれには魅力的には思えない。
「2階のトイレ、トイレットペーパー切れてるから、1階のほうがいいよ」と日部は後ろ姿を見せたまま言った。
「一階?」
「うん、道分かる?」
「…うん」
言うとおり階段を降りて、薄暗がりの中を歩く。
一階から薫ってくる甘ったるい香水の匂いが家を充満している。
玄関口に置き型の芳香剤によって家中に蔓延するローズの匂い、日部の母親の趣味だろう。人によれば頭痛がしそうなきつい匂いは、おれの思考を刺激する。
切り落とされた手首を見つけてしまった時はどうするべきなんて、教わってない。普通に考えれば警察に連絡するべきなんだろうが、発見者として事情聴取とか受けないといけないんだろうか。
おれの中で手首のイメージが増大していくのがわかる。
何をしたと言うわけでもないのに、おれに責任がのしかかってくるような。
こんな気持ちになるなら忘れてる方が都合が良かったな、って無責任な考えも浮かんでくる。おかげで遊びに来てるのに遊ぼうって気持ちになれない。いっそ見なかったことにして、このまま普通に生きていったとしてもいいんじゃないか、と言う気分にもなってきた。
「えーと」
一階に降りて、辺りを見渡す。
日部の家は迷いやすい構造をしている。
玄関から廊下を進むと2階に上がる階段につくのだが、階段を分岐に廊下が十字路になって、トイレは奥に隠されるように、十字路に面した台所がある正方形の形をしたリビングを過ぎて、角を曲がった先にあるのでパッとは見えない。一瞬、トイレがどの方向に進めばあるのか分からなくなるのだ。
えーと、前来た時は階段を降りてまっすぐ進んだか、と思い出して、道を進む。角を曲がり、目当てのトイレに向かう道に出て、消し忘れたのかドアの隙間から漏れ出る光を頼りに進む。
電気をつけたほうがよかったと後悔する。夕方でも暗い廊下を進み、トイレの前についてドアノブに触れて。
まず、違和感があった。
「?」
僅かなカサつきをドアノブから、手のひらに感じた。
ドアノブから手を離して、違和感を感じた手のひらを開く。
廊下の暗がりでも、掌が何かでかすかに汚れてるのが分かった。何かがドアノブに張り付いていて手が拭った結果だろうが、なんなのかすぐには分からない。
ドアノブを意識して見ると、持ち手の銀色部分に覆うように暗い色が付着している。
意識すると、強烈な違和感がおれを襲った。瞬時に下を見る。廊下にも、同じ色が付いている。いや、ついていたと言うよりも、大量の暗い色が、リビングに続く廊下を汚している。
普通の家の間取りなのに異世界に来たような感覚になり、恐ろしい真実がその扉の中に眠っていると言う確信が、おれにはあった。
明らかに、それは乾燥した血だった。
血が、廊下から、このトイレの前に続いている。
まるでトイレの中に逃げ込むように、まるでトイレの中に入って、何かから身を守るために、扉は閉められてる。
開けるのに躊躇はなかった。
ぎい、と外開きの扉を開ける。
途端に咽せこむような異臭と、トイレの蛍光灯の光。
鼻をつまむより先に、目の前に広がる凄惨な光景に体が固まった。
中にあるのは女の死体だった。
大量の血の鮮烈な赤が、トイレの中を支配している。
蛍光灯の白色に照らされた女は、トイレに座って、膝にのしかかるようにうつ伏せになっている。歪に盛り上がるように背骨が浮いて、長い黒髪が前に垂れて、床までついている。だらんと下に落とされた手に、生きている人間の生気は微塵もない。
降ろされた腕をなぞるように目線を下げる。
その先に、切り取られたように手首だけがなかった。
「河野」
「っ!」
後ろから聞こえた声に弾かれるように振り向くと、日部が、後ろに立っていた。
いつもの明るい笑顔の、同じ持ち主とは思えない生気のない濁った目。
おれはこの目を見たことがあった。
「河野、母さん、死んじゃった」
さっきまで普通にいた家が、異様な空間に感じる。日常にあってはいけないものが、日部の家に現在進行形で存在しているからだ。
おれと日部は二階の部屋に戻った。
部屋のテレビには、全機が死んで、ゲームオーバーのガビついた文字が画面が映っている。繰り返し流れるゲーム音を切り開くように、日部が口を開いた。
「河野、どうしたらいいかな」
「…どうしたらって」
雑な振られ方だ。
ニコと無邪気に微笑む日部は、今の状況だと異様に見える。
「…どうするんだよ」
おれは頭が痛くなりそうだった。
赤色が目に焼き付いて、しばらく夢に出てきそうだ。血で汚れた手は洗面台で洗ったが、嫌悪感から無意識に指を擦ってしまう。目を閉じただけで瞼の裏の赤色が、あの死体を連想させて吐き気がしそうだ。
死体になった日部の母親の顔をよく思い出せない。
たしか日部に似て、綺麗な顔をしていた気がする。
トイレに座った死体には、手首がなかった。
頭の中で次第に妄想が、形作られていく感覚がする。
「そもそも、おれがトイレに行くって言った時に、日部は知ってたってことだろ?」
わざわざ1階のトイレを指定してきて、と日部を見る。日部は「うん」と悪びれもせずにうなづいた。
「実際見てもらった方がわかりやすいから。河野には見せなきゃいけない気もしたし」
「…あっ、そう」
うるさいゲームオーバーのBGMが、いまは気にならない。
横目で画面を見ていると、日部はテレビの電気を消した。音が消えて、おれは日部に向き合わなければいけなくなった。
はぁ、と口から息が漏れ出る。
「…日部はどうしたいの」
今までの話を聞いてると、日部はおれに相談したくてあれを見せたということになる。こんな状況で、おれにできることなんかないのに、何でおれに。
「どうしたらいいかな」
もう一度同じ言葉を返される。
曖昧で主語のない言葉には色々な物事を含んでいるのだろうと想像するのは簡単だが、理解したくないと思ってしまう。
「…」
本当は、おれが日部に聞くべきことはそんなことじゃない。聞かなきゃいけないことは他にある。
机の上に置いていた麦茶のグラスを握る。
緩くなったその温度は体温みたいで不快だっだが、少しでも現実を紛らわせたくて表面を指でさする。
「日部が、殺したのか?」
出した声が、やけに掠れてる。喉がひりつくような感覚がして麦茶をあおった。
日部はおれの質問に、意外にも微動だにしなかった。
ただ少し目を動かした後、ボソボソと話し始める。
「気づいたら死んでたんだ」
「うそだ」
間髪入れない否定に「ほんとだよ」と日部はまっすぐ訂正してくる。
日部の目が無罪を主張するみたいに、じっと見つめてくる。
おれは大きなため息をつきたくなるのを我慢した。
「…気づくだろ普通。あんなの、普通じゃない、死ぬ時に、…きっと暴れてる」
言いながら、思い出したくもないのに一階の光景が蘇る。
トイレまで続く廊下にはペンキを撒いたみたいに一線の血が続いていて、ドアノブについた血は、トイレの中の被害者のものだと誰にだって推測できる。
つまり、まだ生きてた被害者が血に濡れた手でドアを開け、扉を閉めた。誰かに追われていて逃げるためにトイレに入って、追って来た誰かに開けられたくないから内側からドアノブを握った。想像するのも苦痛だが、そう考えるのが自然だ。
その道筋を、静かに移動ということはないだろう。
気づかないなんてあるか?
…いや、とおれは考え直す。事件が日部のいない時に起きたのなら分からなくもない、おれは玄関から入って廊下を渡り、階段について登って二階に上がるまで血はなかったから気づかなかった。
でも1階のリビングのほうを向けば、リビングから曲がり角に続く血に染まった廊下があるのだ。いくら迷路みたいになってるって言ってもご飯を食べる時に台所のあるリビングには行くだろうし、住んでて気づかない訳がない。
事件発生の時に家にいなかったとしても、日部は初日には気づいていたはずだ。
「本当に気づかなかった。河野も知ってるだろ、母さんはたまに、なんていうか、ヒステリックになることがあるから、その日もそれだと思ったんだ。下からドタドタって音がして、降りてみたらああなってた。犯人は見てないよ」
世間話のような口調で話している日部は、事件発生のその時に家にいたと言っている。
おれをボーとしていると日部は言うが、その話が本当ならおれよりよっぽどだろう。
信じられない気持ちだったが、信じるも信じないも横に置いて、何かに急かされるように話を進めることにした。
「死んだのはいつ」
「3日前、土曜日」
扉を開けた時に臭った異臭。死臭を人生で初めて嗅いだけど、3日目であの匂いがするなら、4日、5日たてばトイレの隙間から漏れ出た匂いが、玄関先まで漂うんじゃないだろうか。いくら芳香剤で誤魔化しても限度がある。
よく死体がある場所は匂いでわかると言うけど、臭いだけじゃなく、死臭に誘われてうじ虫やハエが群がり始める。と刑事ドラマで聞いたことがある。
トイレの中に入ってると言ったって、処理しなければいずれバレるんじゃないか。
死体が家に存在している以上、バレた時が問題なんだ。
だって、そうだろ。バレた時に、今のおれたちの行動は不自然だ。死体が一階のトイレにあるのに、呑気に二階の部屋でお茶を飲んでるなんておかしい。
特に日部は、自身が犯人じゃないと言うのなら、三日も通報をしなかったこの状態を何と言い逃れをするつもりなのか。
「とにかく、警察に電話しよう」
スマホをカバンから取り出そうとするおれの手を、日部の手が遮った。
信じられない思いで日部を見る。
「……おまえ、状況ちゃんとわかってる?」
言葉に出したことのない不快さがにじむ、おれは流石にイラついてきた。勝手に巻き込んだくせに、重要なことを明かさないその姿勢に加えて、こんな状況で三日経ってもまだ通報しないなんて常軌を逸しているとしか思えない。
いや、おれはおれの中で、疑惑が頭を離れない、だから、全てが疑わしく、嘘っぽく聞こえてくるのだ。
おれは、否定された今も日部が殺したのだと思っている。
「まだ一緒にいたい」
日部は手を引っ込め、子供みたいに膝を丸めて、そう言った。
その言葉を理解した瞬間、自分の中の苛立ちがから回るのを感じた。
ゲーム音が消えて静かになった部屋で、日部の声はやけに耳に残った。
「…父さんの出張、まだ帰ってこない?」
「いつ帰ってくるか、わからない」
「…そっか」
おれは日部が、途端に哀れに思えてきた。
膝に顎を乗せて下を向いてるその横顔は、同い年とは思えないほど幼く見えた。
『河野さんのところは、お勉強をあまりさせないのねぇ』
日部の母親は教育熱心な人だった。
日部が言う話の中では、「医者になるためには、〇〇大学に行ってほしい」「まずは〇〇高校に受からないといけない」と言ったふうに、学歴に対しての熱意がすごかったようだ。
日部の家は医師家庭で、おじいさんがこの町で一番大きな病院を営んでいるという話は、おれだけじゃなくクラスメイトに聞いても知ってることだ。
その生まれのエリート意識が息子にも向くのはきっと、彼女の中では当たり前だったんだろう。
「母さんが面談に来ないのは何でなんだって、先生がうるさいんだ」
そう、日部はぽつり、とこぼした。
帰り際に種田先生が日部を呼んだのは、母親が面談に来ないことを注意していたらしい。
日部は「母さんの仕事が忙しくてって言ってるけどな」と、軽く笑う。
座ってお茶を飲みながら話をしていると、ひとまずの疑問は一つ一つ解消されていった。
日部の母親が死んでから父親がくれたファミコンを取り出してテレビを一階から持ってきて遊びだしたこと(一階は芳香剤と死臭で臭いから、と日部は言った)日部の家には二つトイレがあるので一つが埋まっていてもトイレができること、ガス水道家賃などの生活費は親の引き落とし口座から落とされているのでしばらくは何ら問題はないこと、両親の仲は良くないので母親が父親に連絡しなくても不自然とは思われないこと、出張先の宮崎にいる父親からの連絡はまだないこと。
後半になると、しばらく家庭の話が進み、おれが思っていた以上に日部の家庭は冷え切っていたことが分かった。
「塾休んでも、夜更かししても、お菓子買って食べても何も言われなくなったけど、ゲームするのはなんか、緊張するな。まぁ、もう最近は期待もされてなかったんだけどさ」
何度か、一緒に遊んでいる時に日部の母さんの怒鳴り声を聞いたことがある。おれと二階で遊んでいたその音がうるさいと、一階に日部を呼びつけて、大声で叱責し始めたのだ。
二階まで聞こえてくる怒鳴り声は、びりびりと体を緊張させた。
おれのせいで怒られているのだと、いたまれない気持ちになったおれに、戻ってきた日部は笑ってくれた。
種田先生が常に家にいるみたいな感じだ、俺なら絶対に、数分できつくなるし、父親がいても、あの母親と一緒に家で過ごすのはきつかっただろう。
(…黙るだけなら)
静かな母親と少しでも一緒にいたいと思う日部の気持ちに、揺れないわけではなかった。おれには完全に気持ちが理解できなくても、日部が苦しい環境で生きていたことは知っていた。
「言い訳でも、一緒に考えようか」
「うん?」
おれの言葉に、しばらく話してひと段落ついたような日部が、机に置かれていたクッキーの袋を開けながら声を出す。
一旦今の状態を飲み込んだが、よくわからないのが、自分の母親が死んでここまで平常でいられるんだろうか。
おれは続けて言った。
「警察にバレた時の言い訳。さすがに気づきませんでしたじゃ通らないだろ」
「どうかな?俺たち中1だし、大丈夫じゃね?ほら、俺運いいし、難しい手術を成功した男だぜ?」
「それ、よく言うけどさ」
今はそんな様子を感じないが、過去に日部は大きな手術をした。詳しい病名は知らないが、生まれつき心臓に疾患を抱えていたらしく、手術を終えた今も過度な運動は避けて体育は見学している。
「日部は不安にならないのか?」
「んー、もし河野がつくとしたらどんな言い訳?」
「…おれなら、、”母親が死んだことを信じたくなくて、怖くて黙ってました”だな」
「パッとしないなあ」
おれの言い訳を日部は一笑した。
情けが芽生え、親身に考えている友達にこの家の家主はあっけらかんとしている。
言い訳にパッとするも何もないだろ。
「なんだよ、おれにそれ以外にできることなんかないよ」
クッキーを齧る日部に続き、おれもクッキーを手に取る。
相手が今の非日常を日常然と過ごすなら、おれも合わせようと思ったのだ。
「そうだなぁ」と日部はベットに背をもたれ、立てた膝に腕を乗っけてこちらを見た。
「俺、この三日間で考えてたことがあるんだ。見つかるまでの時間をどうするべきなのかって、何をするべきなのかって」
ぱき、とクッキーを齧る。バターの風味が、死臭でやられた鼻口を心地よくくすぐる。
「実を言うと、それを言いたくって、河野をここに呼んだようなものでさあ」
小さめのクッキーのそれは2、3口食べると無くなってしまった。咀嚼をしながら、話をしている日部を見る。
どんな状況であっても、日部の綺麗な顔は、綺麗なままそこにある。
「なに?」
くるんとした目と目があった。
「俺、河野が好きなんだよね」
「…え?」
形のいい唇が弧を描く。
「俺と付き合ってくれない?」
帰り道は夕暮れに染まって、遠くの方でカラスが鳴く声がする。
トントンと階段を登り、玄関に着く。
古い小豆色の扉、ポストに郵便物が入っていないことを確認して、鍵を開けた。
「ただいま」
父さんはいつも遅いから、誰もいないことはわかってるんだけど、母さんがいた頃の癖でつい言ってしまう。
靴を脱ぎながら、服を掴んで、鼻元にあて匂いを嗅ぐ。
トイレの扉を開いたと同時に浴びた強烈な死臭は…ついてない、鼻が慣れてしまってるのかもしれないが、外の空気に溶けたと思いたい。
制服のままベットに寝転がる。目を閉じると、瞼の裏の赤色に、頭が痛くなる。
脳みそが、おれの意志とは関係なくぐるぐると回転するのが分かる。
『おれ、河野が好きなんだよね』
整った綺麗な顔が、窓から入ってきた光に逆光になって、暗く見えた。
日部との付き合いは長い。
日部の母親とおれの母親が、俺たちが生まれた頃から付き合いがあったらしい。近所というわけでもないのに仲良くなり家に遊びに行くことができたのは、親の付き合いがあるおれだけだった。
日部の母さんは子供が家に入ることで家が散らかるのを嫌い、他の子供は入れないというオキテみたいなものがあった。
日部は明るく性格もよく、かっこいいのに、周りにはおれしかいなくなったのは、そんな母親の潔癖な束縛のせいでもあるだろうし、運動ができないから遊び方が限られたせいでもあると思っていた。
日部は校庭や公園で遊ぶことが多い小学校時代には、自分から周りと距離を置いていた。
周りもそんな日部を遠目で見て、そういうものだと理解して積極的に踏み込むことはなかった。
親戚から内向的だと言われるおれも交友関係は日部だけでよかったから、自然とおれと日部は二人で行動していた。
多分、日部は心臓が悪くなかったら、おれの横にいることはなかったんじゃないか。
おれは運動神経が悪くて、日部の家と一緒に行くキャンプでも絵を描くくらいしなかったので、大人しいと思われて日部の母さんにも横にいることを認められたんだと思う。
あの言葉の真意は正確にはわからないけど、日部がああいうことを言うのは、きっと俺くらいだろう。
だから、びっくりはしたけど、異常だとは思わない。
いや、それだけじゃない。
さっき、日部の家で起こったことに関しては、ショックを受けたが驚いてはいなかった。
母親が死んでいたことも、死体の手首の先がなかったことも、おれにとっては驚くことじゃなかった。
(思った通りだった…)
トンネルで切断された手首を見た時にふと、日部の顔が浮かんだ。おれはあの手首の持ち主が、日部の母親だと想像できていた。
汚れた手の甲に、少し大きめの黒子があったんだ。
溝にあった手首のほくろは、記憶の中の彼女の手首と同じ箇所にあった。
日部の左手の甲にもあるのだと、自身の左手にある黒子をぐ、と近づけてニコニコとする日部の顔が、何だかいつもより幸せそうだったことを覚えていた。
日部は、彼女の手首に執着があったはずだ。
(…だから、手首を切り取ったんじゃないのか)
事件の起きたとされる3日前には、中間テストが返却されるというイベントがあった。俺にとっては大したことがない日常の中の一つでも、あの母親がいる日部家では別だ。それに関して日部が追い詰め、母親を殺す光景が、想像したくないのに頭に浮かんでしまう。
ガチャ
「っ!」
玄関の扉の開く音がした。
父さんが帰ってきたのだ、あわててベットから起き上がり、玄関先に向かう。
「おかえり」
「ただいま、あれ、圭、まだ制服?」
間の抜けた声を上げる父さんが、くたびれた顔をこっちに向けた。
「さっき帰ってきたんだ」
「あ、そうなの、圭もおかえり」
よれたスーツの上着を脱いで、中に上がってくる。
最近一本増えた目尻の皺を歪ませ、優しげな目を細める父さんに「ご飯食べてきた?」と聞くと「ううん」と緩やかに頭を振られる。
足を台所に運んで、普段通りを装って冷蔵庫をあける。
離婚して母さんが出て行ってから、おれも父さんと協力して、俺が作れる時は作るようになった。中にある肉を取り出すと、クロゼット前でスーツを脱いでいる父さんに声をかけられた。
「制服着たままで、どうしたの?」
「やっあ、いや、なんでも?」
「圭も着替えな、ご飯は一緒に作ろう」
「あ、うん」
気にしてない様子の父さんに息を吐き、制服から部屋着に着替えて、父さんと一緒にご飯を作った。
おれらが作れるものなんか、母さんみたいに凝ったものじゃない。一ヶ月に2回は作るカレーをまた作って「これでカレー3日は食べれるな」と、父さんはカレーを作るたびに言う言葉を満足げに言った。
カチャカチャと、カレーを掬うたびにさらに当たるスプーンの音が響く。
低いローテーブルに、あぐらをかいて座ってテレビを見る父さんが、カレーをすくったスプーンを持ち上げこっちを向いた。
「圭はそろそろ好きな子とかできたか?」
テレビでは恋愛ドラマが始まっていた。
父さんはこういう話をするのが好きだ、何度か聞かれたことがあるが、今日まで本当に色恋に縁がなかったから、適当に否定していたと思う。
「好きな子かぁ」
ぼんやりと、日部の顔が浮かぶ。
あの告白に対して、なんと答えたんだったか。
色々あったから、疲れた脳がイエスともノーとも取れないような返事をした気がする。タイミングも謎だったし、混乱しているおれになら言えると思ったんだろうか。
テレビに映る女の子が、だらしない彼氏のことについて怒っている場面を見て、かわいいと素直に思う。
日部に対して、楽しいとか面白いとかは思ったことがあるが、可愛いだとかは思ったことはない。恋人としては想像できない、家族なら想像できるかも。
「いないかな」
「そう、まだ若いからかなあ」
少し残念そうに父さんが眉を下げた。
もともと覇気のない顔が、もっと情けなく見える。
「今日はどこか行ってたの?さっき帰ってきたって言ってたけど」
「日部の家に行ってたんだ」
水を飲もうとした父さんは、少し驚いた顔をした。
「そうなんだ、日部くん元気?」
「うん、まあまあ」
元気というか、平気なのが空恐ろしいんだけど。
「最近、元気なかったんだろ?」
「元気になってきたよ」
「そうか、よかった。日部君は好きな子とかいるのかな」
父さんはそういうのがすきだな、と思う。
「さあ」
「日部君が女の子に告白されたって、圭が教えてくれた時あったけど、あれは何にもならなかったの?」
「うん、断ったって言ってたよ」
父さんが言ってるのは、小学校高学年の時、日部が女子に告白された事件だ、その時のクラスで一番可愛い女の子だった。安堂さんは中学に入っても同じクラスにいる。
帰ろうと思ったら日部が図書室に呼ばれて、何人かの女子が騒ぐので、おれも一部始終を見に行った。
おれは安堂さんのことを少しいいなと思っていたから、本棚の前で告白する彼女を見て軽く失恋を味わったけど、当の日部はずっと困ったような顔をしていて、責めることもできなくて恋心を胸にしまったっけ。
あのとき、おれはすこし、変なやつだと思った。
普通付き合う、俺だったら付き合うのに。
「そんなに彼女がいるかどうかって気になる?」
「ああいや、俺が圭くらいの歳には好きな子がいたなあと思ってね。もし圭に本当に彼女ができたら、詳しくは聞かないよ」
「気になるんじゃないの?」
「気になるけど…、大人が子供の色恋に首を突っ込むのは、恥ずかしいって感覚はあるよ」
「よく分かんないな」
正直に言うと父さんは、はは、と笑った。
「もし圭にそんな子ができたら、深掘りはしないつもりだから安心してくれ。日部くんにはまた遊びに来なよって言っておいて。こっちの方が遊びやすいだろう」
慈しむような声でそう言う父さんは、日部のことを気に入ってるみたいだ。
日部の性格が、温厚な父さんに合ってるんだろう。
日部の家庭事情を知っているから、同情も含んでいるのかもしれない。
離婚して、日部の家と繋がりのある母親はいなくなったが、父さんは日部のことをよく思ってくれている。
「父さん、選択科目の件なんだけどさ」
おれはスプーンを皿に置いて、後ろの壁に立てかけていたカバンからファイルを取り出した。紙を挟んでいたそれを受け取って目を通した父さんは「好きな教科に行ったらいいよ、圭なら大丈夫だ」と軽く言って紙を返してきた。
「そうかな」
受け取りながら、これからのことに対する不安が胸を掠めた。
手首、死体、血、それら日常から離れた凄惨で、鉄臭い嫌なものに、囲まれているような不安。
(どうなるかなんか、考えたくない)
コップを持って、水を飲むと冷たい液体で喉が冷える。
スーと頭も冷えていくような感覚がして、カレーによって痺れた舌も癒されていく。
ブブ、とテーブルに置いていた、おれのスマホが鳴った。
画面に表示されたラインの通知には、日部の文字があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます