恋する障害者
増田朋美
前篇
その日は、台風がやってくるということで、製鉄所を利用する人も少ないかなと思いきや、何故かわからないけれど、新規で利用したいという女性がやってきた。名前を、水田祥子といった。
「えーと、水田祥子さんですね。どうしてこちらに来ようと思ったのですか?ご家族になにか言われてこさせてもらったとか?」
と、製鉄所を管理しているジョチさんこと、曾我正輝さんは、とりあえず彼女に利用者名簿を差し出した。彼女はそれに水田祥子と自分の名前を書く。名簿には、診断名を書く欄もあったが、そこに彼女は、統合失調症と書いた。まあ確かに、その病気を患っている利用者は少なくないが、ジョチさんは特に器物破損などをしなければ、そういう利用者も受け入れることにしていた。
「それで、利用される前に、いくつかお話をお伺いしたいのですが、質問に答えることはできますか?」
ジョチさんは、そう言ってメモ用紙を出した。
「それでは、まずですね、具合が悪くなったきっかけのようなものはありますか?学校で不適な扱いを受けたとか?」
「いえ、全然覚えていません。」
水田さんはそう答えた。
「覚えていないというのは、どうしてなのでしょうか?」
ジョチさんが困った顔でそう言うと、水穂さんがお茶をどうぞと言って、彼女の前にお茶を渡した。彼女は頂きますと言ってお茶を受け取り、
「覚えていません。10年前からずっと具合が悪くて、私も、家族ももうそのままになってしまっています。」
と、ジョチさんに言った。
「なにか大きな災害でもあったのでしょうか?」
水穂さんが、彼女に聞いた。水田祥子さんは水穂さんをずっと見た。
「いえ、大丈夫ですよ。こちらでは、災害があっておかしくなられた方も何人か来ていますし、そうなってしまっても仕方ないことを、ちゃんと僕たちは知っていますのでね。気にしないで、思いっきりご自分の中で溜まっている事を吐き出してしまって構いません。」
水穂さんは、静かに言ったあとで、二三度咳をした。ジョチさんは、布団に寝ていたほうが良いのではないかというが、水穂さんは、新しい利用者が心配なのでここに居るといった。
「それでは、こちらを利用されるに当たって、いくつか注意点を申し上げますが、まず利用時間は、午前10時から午後5時まで。部屋は居室で過ごしてもいいですし、食堂で過ごしてくれてもいいです。ご飯は、利用する際持ち込んだものを食べてくれてもいいですし、杉ちゃんにカレーを作ってもらってもいいです。それから、」
ジョチさんがそこまでいうと、
「ただいまあ、帰ってきたよ。そこで由紀子さんに会ったから、一緒にこさせてもらったよ。」
と、車椅子の音がして、でかい声が聞こえてきた。杉ちゃんがスーパーマーケットから戻ってきたのである。杉ちゃんは、由紀子に車椅子を押してもらいながら製鉄所の建物に入り、応接室へ入ってきた。
ちょうどそのときに、水穂さんが咳き込んでいるのが見えた。それを、一人の女性が、大丈夫ですかと介抱しているのが見えたので、由紀子は、ちょっと、複雑な感情が入ってきた。
「ああ、そういえば今日新しい利用者が入ってくるとか言ってたね。こんな大雨のときにここへ来るなんてよほどもの好きな人なんだろうけど、まあ、ゆっくりやれや。」
と、杉ちゃんはでかい声で言った。水穂さんは咳き込み続けている。由紀子は急いで水穂さんのそばに駆け寄って、
「少し休みましょう。」
と声をかけたのであるが、
「由紀子さんもその前に、そのビショビショの洋服をなんとかされたらいかがですか?」
ジョチさんに言われて、がっかりしてしまった。由紀子はそれを無視して、水穂さん行きましょうと言って、水穂さんに肩を貸してやって、急いで応接室を出ていった。水穂さんは、相変わらず咳き込むのが止まらなかった。由紀子が布団に寝かしてあげて、薬を飲ませてあげるとやっと咳き込むのはとまってくれた。
「大丈夫ですか。なんか昔の映画の世界に来てしまったみたい。昔の恋愛映画とか、小説にそういう場面があったわ。でも、ほんとにきれい。なんか、歌舞伎役者にしたい。」
祥子さんはそんな事を言っている。水穂さんは、薬に眠気を催す成分があったためだろうか、静かに眠り始めてしまった。由紀子は、祥子さんを睨むように見てしまった。でも、祥子さんは、水穂さんの眠っている顔をずっと見ているのだった。
「貴女新しい、利用者さん?それでは、ちゃんと利用させてもらって、しっかり勉強したり、仕事したりしてくださいね。」
由紀子は思わずそう言ってしまう。
「水穂さんの事は私が今日は引き受けるわ。だから貴女は、一生懸命仕事をしてね。」
「ちょっと待て、由紀子さん。彼女を差別してはだめだろう。」
杉ちゃんがそう言うが、由紀子は、そのような気持ちにはなれなかった。
「さあ、もうすぐお昼でしょう。それでは、杉ちゃんすぐにお昼を作ってよ。あたしたち、何も食べてないんだし。それに、水穂さんにだって食べさせなければだめでしょう?」
由紀子は、急いでそういったのであるが、
「そうだね。そうするか。」
杉ちゃんはすぐに台所に行った。由紀子は、水穂さんの下を離れたくないと思っていたのであるが、祥子さんも水穂さんのそばを離れたくない様子だ。
「一体なぜ、そこに居るんです?」
由紀子が聞くと、
「ただ、水穂さんのことが気になるだけで。だってまるで今の時代じゃないみたいなんだもん。それは、きっと、なにか重たい事情があるんだと思うんです。あたしもそうだったけど、人には言えない事情というか、そういうものがあるんじゃないかって。」
と、祥子さんは答えた。
「それでは貴女も、なにか事情があるんですか?」
由紀子は思わず祥子さんに言ってしまった。
「簡単に水穂さんに近づくようならお断りです。水穂さんは、単純な事情じゃありません。きっと貴女は何もご存知ないだろうし、興味本位で水穂さんに近づこうとするのなら、それは返って水穂さんの事はより悪化させてしまうかもしれないのです。」
「そうですよね。それは私もわかります。そういう人にはちゃんと言えない事情があるんだってことは、私だってわからないほど馬鹿じゃないです私もいじめられたことありますから。私の父が、アメリカから帰ってきて、日本に馴染めなくて、よく酒に走ってましたので、それで学校でいじめられたりしましたから。」
祥子さんは、小さな声でそういったのだった。
「でも、水穂さんはきっとあたしよりも重たい事情を抱えているのでしょう?それなら私が出る幕じゃない。それはわかりますから、由紀子さん、安心してくださいね。」
祥子さんはそういうのであるが、何故か、それが無理して言っているのだろうなということがわかる言い方だったので、由紀子はそれが癪に障ってしまうのであった。
「大丈夫です。あたしは、絶対に彼に手を出すことはしません。」
祥子さんはそう言っているけれど、由紀子はなぜか不安な気持ちになってしまう。
「まあ、祥子さんがそう言っているのだったら、そうなることを信じましょう。由紀子さん、早く着替えてこないと風邪を引きますよ。今日はこんな土砂降りだし、由紀子さんも着替えてきたらいかがですか?」
ジョチさんに言われて、由紀子は、ごめんなさいと言って、すぐに部屋を出ていった。
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