東ドイツより愛を込めて《中》


 ギーゼラは一九八九年、東ドイツの首都の東ベルリンで生まれた。


 東ドイツとは、独ソ戦敗戦後のドイツに生まれた東西二つの分断国家のうちの一つであり……巨大な牢獄の名前だった。


 ソ連を盟主とし、社会主義を信奉する東側諸国に属していた東ドイツは、国家保安省シュタージという秘密警察による厳格な監視社会だった。


 シュタージはドイツ人の家族単位にまで溶け込み、ドイツ人の生活を厳しく監視した。その中に亡命志願者や資本主義礼賛者、反体制思想の持ち主がいたら「政治犯」として逮捕される。


 知人、友人、恋人、配偶者、両親、そして子や孫……その中のいずれかに、シュタージの密告者は紛れ込んでいた。


 誰が敵か味方か分からない状況に置かれた東ドイツ人民は、取り繕うような生き方を強いられ、抑圧と諦念に支配されていた。まさしく囚人のように。


 ——ギーゼラとその両親も、当然ながら、そんな社会とは無関係ではいられなかった。


 話した事もないギーゼラの父は、将来を嘱望しょくぼうされたバイオリンのソリストだった。

 しかし、党の高官の不興を買ったことで、芸術の世界から爪弾きにされた。

 東ドイツの芸術家にとって、支配政党に忌まれることは芸術家としての死を意味した。

 それを苦にした父は自殺。

 遺された妻がギーゼラを身籠ったことが判明したのは、それからすぐの事だった。


 そして一九九一年。ギーゼラが一歳半を超えた頃の、ある日のことだ。

 母が突如「政治犯」の疑いをかけられ、シュタージによってホーエンシェーンハウゼン刑務所へと連れて行かれた。 

 子育てをよく手伝ってくれていた母の親友が「壁超え」をしたから——たったそれだけの理由で。

 ギーゼラは母から引き離され、孤児院に半ば無理やり収容されることが決定。


 当時の母は、二度とギーゼラに会えなくなることも覚悟したという。


 だが……そうはならなかったことは、今のギーゼラの日本での生活を見れば明白だ。


 きっかけは、その年、極東にて勃発した日ソ戦争。

 東側の盟主であるソ連と、小さな立憲君主国である日本との戦争。

 まさしく象と蟻の戦いだった。

 誰もが、日本が圧倒的武力の前に踏み潰される展開を予想した。

 しかし極東の侍の国は、強大な共産主義国の侵略に対して勇猛に抗い、奪われた土地を残らず奪還した。


 そんな盟主の無様に、自由を密かに望んでいた東側諸国の国民は「きざし」を見た。東ドイツもまた。

 今こそ自由をという声はあっという間に高まり、ソ連の衛星国は次々と独立を宣言。

 東ドイツ人も行動を起こし、東西を阻む巨壁に果敢に挑んだ。

 やがてソ連は内部崩壊。

 東ドイツという巨大な牢獄も終焉を迎え、ドイツ人は自由と統一を取り戻した。


 ドイツでは「再統一は、自由を渇望するドイツ人の意思の力がもたらした勝利だ」という物言いが主流であり、日本軍の存在は無視して語られがちである。


 けれども、ギーゼラの母は、今でも口癖のように言っている。


『あなたとママが今一緒にいられるのは、日本がソビエトと戦ってくれたお陰なのよ』







 †






 「Hollow空洞 nickel5セント case事件」という言葉がある。


 冷戦期、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区にて起きた事件の名だ。


 新聞配達の少年が、受け取った新聞代の5セント硬貨を地面に落とした時、その硬貨がに割れた。

 空洞となっていたその中には、マイクロフィルムが入っていた。

 調べると、そのフィルムには暗号メッセージが書かれていた。

 その「空洞5セント硬貨」は、ソ連の諜報員が用いる秘密情報伝達ツールの一つだったのだ。


 ソ連だけではない。シュタージの対外情報部門も、この「空洞コイン」を好んで用いていた。


 この「空洞戦勝記念コイン」が、諜報機関の使う秘密道具であるかはまだ分からない。


 遊びで使われていたモノの可能性もある。


 だが、もしそうでないならば……


(警察に届けた方が良さそうね。正直、アタシじゃ判断しかねるわ)


 すぐにそう決めたギーゼラは、日陰にある「空洞戦勝記念コイン」を拾い、日の光を浴びないよう慎重に重ね合わせて元に戻す。東側諸国が諜報活動で用いていたマイクロフィルムは、日光を直接浴びると焼けて中身が読み取れなくなり、証拠隠滅されてしまうと聞いた事がある。


(それにしても、戦勝記念コインを選ぶなんて、皮肉が過ぎてないかしら)

 

 隘路あいろから出てなお、コインをまじまじ見つめるギーゼラ。


 その外見は間近から見ても、本物の戦勝記念コインと遜色無い。おそらく、本物を削って作ったのだろう。


 コインをスカートのポケットに納めようとしたその時——ギーゼラに大きな影が差した。


 横を振り向くと、そこにはアロハシャツを着た巨漢がいた。


 年齢はよく分からないが、ギーゼラよりひと回り以上歳上であることは確か。

 髪と口髭は黒いが、その彫りの深いごつごつした顔つきは明らかに異人のソレである。

 アロハシャツとハーフパンツという夏らしい衣装から、太く引き締まった四肢が露出している。

 その右手には、一本の黒い傘。……今日の天気予報によると、降水確率は十パーセント以下とのこと。


 おそらく一九〇センチは超えるであろうアロハの巨漢は、明らかにギーゼラを見つめている。彫りの深い顔つきに穿たれた眼は、くらく、鋭い眼光をこちらへ向けていた。


 そのただならぬ気迫にギーゼラは一瞬震えるが、それをすぐに反発心に転化させる。


「……なぁに、おじさん? アタシに何かご用? ナンパ?」


 毅然と問うと、アロハの巨漢はギーゼラの右手に持っているモノを見つめた。……「空洞戦勝記念コイン」。


「それ、、です。かえしてください」


 片言の日本語で、巨漢は言った。


「…………ふぅぅん。そうなんだぁ」


 ギーゼラは猫じみた意味深な微笑を浮かべると、スカートの右ポケットにコインを入れる。


 その昏く鋭い眼光を真っ向から見据え、





「ソ連はもう無いってのに、お仕事熱心ねぇ? チェキストの旦那」





 薄闇のような巨漢の瞳に、かすかな感情の火が宿る。


 それと時を同じくして、右手の傘が瞬時に持ち上がった。傘の先端がギーゼラへ向く。


 だがすでにギーゼラは左手の愛刀を抜き放ち、刃でその傘を左から右へ叩いていた。

 

 そうして傘の先端が右へズレたのとほぼ同じタイミングで、ギーゼラの右頬のすぐ隣をが高速で通過。後方の道路標識の鉄パイプから甲高い音。

 後方を一瞥いちべつし……一本の細い針が刺さっているのを視認。十中八九、毒針だろう。冷戦期にブルガリアの秘密警察が似たような毒傘を使い、とあるジャーナリストを暗殺したという話を聞いたことがある。


「——блядь糞が!」


「きゃはは! 本性見せんの早過ぎなんですけどぉ!?」


 ギーゼラは煽るように言いながら、自覚する。——真剣を使った斬り合いをするのは、これが初めてだと。

 

 当然、恐れは抱いた。


 だがそれもほんの一瞬。


 次の一瞬には、その恐れは剣気に転化していた。


「————きゃはっ!!」


 ギーゼラの一笑に呼応し、剣も跳ねた。


 必殺の光芒と化した切っ尖を、しかし巨漢は後退して紙一重で躱す。同時に、傘の先端発射口がギーゼラへ向く。


 ギーゼラは右へ移動しながら、傘へしのぎを滑らせて向きをズラす。一瞬後に発射された毒針は明後日の方向へ飛ぶ。


 再びギーゼラは間合いに踏み入り、今度は右手を狙って太刀を発した。まずは腕を斬って武器を持てなくしてやる。


 だが巨漢は身をひねって右手を逃し、その斬撃を避ける。そこからほとんど間を作ることなく発せられる、左足によるブラジリアンキック。


 鉄槌のような蹴りをギーゼラは後退して避け、左脛を剣で狙う。しかし左膝を折りたたむ拍子に持ち上がったスニーカーの靴底が盾となり、その斬撃を受け止められる。刀越しに伝わる硬い感触。おそらくあのスニーカーには鋼が仕込んである。


 背中を見せている巨漢。しかし左脇下からは傘の発射口が伸び出していた。


「っ」


 ギーゼラは舌打ちしつつ、迅速に巨漢の背後へ身を滑らせて毒針を回避。すかさず頸部を狙った一太刀。


 巨漢は身を鋭く切り、振り向きざまに傘で太刀を防ぐ。刃が走ったというのに、その傘の布に付いた傷は浅い。おそらく強化繊維。斬撃だけでなく、弾丸も防げるに違いない。


 そこからさらに攻防は続いた。

 退くことで、毒傘という遠距離武器の有利を得ようとする巨漢。

 近づいて、剣が主導権を握る間合いを保ち続けるギーゼラ。

 絶え間ない攻防と進退が、夏空の下で繰り返される。


 溝口派みぞぐちは一刀流いっとうりゅうの特徴ともいえる高速の進撃を繰り返しながら、ギーゼラは強張った微笑を浮かべる。


(へぇっ……こいつの動き、だわ。至剣流をカルト呼ばわりしてるロシア人のくせに)


 より正確には、日本剣術の攻撃法と狙い所を熟知し、それをよく警戒している動き、と言うべきか。


 それを刻む巨漢の全身からは、剣術に対する強い警戒心……いや、それを通り越して、恐怖のようなものが感じられた。


 まるで、かつて剣術を使う人物に手痛い負傷を負わされ、それを教訓にしてきたような——


(それにこいつ、左手をいっさい使ってこない。その気になれば、いつだって空いた左手で別の武器を取り出せるのに、それをしてこない)


 KGBや東側諸国の諜報員は、珍妙な小道具を数多く使用していた。今スカートのポケットに入っている「空洞コイン」や、この巨漢が使っている毒傘のような。


 武器ではない別の何かを武器に変えた秘密道具を、この男は他にも持っているに違いない。


 だけど、左手で、それを一向にやってこない。


 ——その理由に気がついたのは、ようやく巨漢の体に太刀が届いた時だった。


 毒傘を剣で強く横へ弾き、風のように踏み込んだギーゼラ。


 目の前には、左腕で顔を覆い隠して防御姿勢を見せた巨漢。


「っ!!」


 無音の気合とともに、その左上腕めがけて雷光のごとき一太刀を発した。


 だが——ギーゼラの刃は、その左上腕を断つことなく、とともに受け止められた。


 骨で受けられた? あり得る話だが、この感触は違う。先ほどのスニーカーを斬り損ねた時と同じ感触。


 右上腕の皮膚に刻まれた刀疵かたなきずからは、が覗いた。


(義手——!)


 それに気づいた時には、巨漢の左手指が全て、ギーゼラに向いていた。


 中指の先端が、オレンジ色に光った。


「ぐぅっ——!?」


 に合わせて、ギーゼラの体が大きく仰け反った。


 鼻につく硝煙臭を他人事のように感じ取りながら、地面に倒れる。


 胎児のように体を丸めた状態で寝転がり、






 ギーゼラは、そのまま微動だにしなくなった。

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