東ドイツより愛を込めて《上》


 ——七月二十四日。水曜日。




 ギーゼラ・ハルトマン=牧瀬まきせは、池袋の平和通りを一人歩いていた。


 二束の三つ編みに結われた地毛の金髪。猫目を思わせる明るい碧眼。西洋人形のような端正さと愛らしさのある色白なかんばせ。

 群青色のリボンと、それと同色のラインが入ったセーラー襟が特徴の白いワンピース。編み上げの黒ブーツ。それらの服装が、小柄でエキゾチックな見た目にさらに花を添えている。


 しかし、そんなギーゼラの両手には、キュートな風貌とはまったく不釣り合いな、鞘に納まった一振りの刀。


 ——これは、十三歳になったギーゼラへの、父からの誕生日プレゼントだ。


 池袋の刀剣屋の仲介で、山梨県の鍛錬場に作刀依頼をして、打ってもらったものだ。


 それが打ち上がったという報せを聞いて、ギーゼラは一目散に家を飛び出し、刀を受け取りに行った。


 そうして、現在に至る。


「ふふふふ」


 新たな愛刀の艶やかなこしらえを見て、ギーゼラは思わず笑声をこぼす。


 この黒づくめの鞘から抜き放ち、刀身をもう一度拝みたいところだが、流石にこんな街中で抜けば危ないし、警官に声をかけられかねない。


 なので、少しだけ鞘から抜いて、せめてその刀身の片鱗だけでも拝む。


 刃文は広直刃ひろすぐは

 飾り気が無いが、それゆえに美しい、質実剛健な気を帯びた刀身。

 見た目だけでなく、試し斬りにおける斬れ味も一級品だった。軽い振りで巻藁まきわらをバターのように両断できた。刀工曰く「鉄を斬れる刀を目指した。鉄を斬るくらいのモノを目指さねば、人を斬れる刀など作れまい。棒より願いて針ほど叶う、だ」とのこと。「斬れる刀」の探究に心血を注ぎ続ける匠の頑固一徹な意見。

 まさしくギーゼラの期待以上の、純粋な武用刀だった。

 刀身に障らないならば、しのぎにキスをしたいくらいである。


「特別サービスで、親父にキスでもしてやろうかしら」


 言いながら、なおもうっとりと刀身の片鱗に見惚れ続ける。


 やはり、日本刀はいい。


 ギーゼラが日本に移住して一番最初に惚れ込んだモノこそ、刀である。

 生産性の高い現代製鉄技術とは違い、手作業が多く非効率な古典的製鉄技術。

 しかしそこからしか生まれぬ「純粋さ」を持った鋼でのみ作れる、真善美を兼ね備えた刃。

 その刀身は恐るべき斬れ味を秘めているだけでなく、宝物としての優れた価値も持つ。

 ただの鋼を、ここまでの代物に変えてしまうこの国の作刀技術は、まさしく「錬金術」と形容しても不適当ではない。




 ——ギーゼラはかつて、剣に救われた。




 ドイツから日本へ移住して、すでに七年が経つ。


 ギーゼラの父は、ギーゼラが生まれる前に、とある理由で自殺した。


 そのためずっと母子家庭だったが、ギーゼラが六歳の頃に母が再婚。


 その相手は、日本の大手電子機器メーカー「牧瀬電機」の社長であった。


 再婚と同時に、ギーゼラと母は日本へ移住。そこでさらに父の連れ子である当時十四歳の一人息子が、ギーゼラの兄となった。


 だが新しい義兄は、父の再婚を快く思わなかった。

 

 父の再婚は、前妻が亡くなってからわずか一年後のことであった。それが主な原因だった。


 実の母を亡くして早々、すぐに新しい女と、それも外国人とくっついた父親に対し、義兄は反抗心を抱いたのだ。なにゆえそんなに早く乗り換えができるのか、前の母はそんなに軽い存在だったのか、と。


 その不満は新しい母と、そしてその連れ子であるギーゼラにも向けられた。


 自分よりずっと体の大きな義兄に蔑みの目で見られ、無視されることに、幼いギーゼラは恐怖と疎外感を覚えた。今と違って当時は日本語が全く分からなかったため、余計に。


 その日本語能力の無さは、家の外で友達を作ることに関しても足枷となった。


 中には嫌がらせをしてくる子供もいた。金髪碧眼の白人だったからだ。ロシア人と同じ色。


 ギーゼラはいつも一人で泣いていた。


 だがある日、ギーゼラは運命を変える出会いを果たした。


 日本刀の手入れをしている義父を見た。

 その刀身を見て、ギーゼラは言葉も思考も何もかも失った。

 視線から魂そのものを吸い取られてしまいそうになるほどの、神威のようなものを感じさせる美麗な刀身。

 それは、ギーゼラが「武器」というモノに対して抱いていた無骨な印象を、百八十度転換させた。

 

 義父はギーゼラに、刀を持たせてくれた。

 六歳女児の腕には、ひどく重かった。とてもじゃないが持つのがやっとで、振り回すなどできなかった。

 そして——その事が「悔しい」と思った。

 この刀が欲しい。

 そして、振りたい。

 振れるだけの力が欲しい。


 気がつくと、ギーゼラはうろ覚えの日本語で、たどたどしく義父に問うていた。


「おとうさん、これ、どうやって、つかう?」


 義父は会津藩士の末裔だった。

 その系譜と一緒に、会津の上級武士の間で学ばれていた剣術である溝口派一刀流も継承していた。

 ギーゼラは、その溝口派一刀流の手解きを受けた。


 生まれて初めての剣術に、ギーゼラの心身は喜んだ。

 言語と違い、剣術は動作だ。日本語が分からなくても、ある程度は上達できる。

 とはいえ、深い追求には日本語能力が不可欠だった。そのためにギーゼラは自然と日本語の学習にも懸命になれた。

 何より……ギーゼラには、剣の才能があった。

 その才能に、楽しむ気持ちと探究心が加われば、数段飛ばしで上達するのは自明の理だった。


 九歳の頃、いつものように無言でギーゼラを睨め付けて素通りした義兄に向かって、言い放った。まず口調から強くなろうと覚えた、毒の強い日本語で。

 

「いつまでくたばった母親に執着してんのよ。ちちくせーんだよクソ兄貴」


 煽るような物言いで義兄を逆上させ、口八丁で剣の勝負へと持ち込んだ。父がいない時間を見計らって。


 そうして双方木刀を構え、勝負は始まった。


 義兄も父から溝口派一刀流を学んでいて、その腕前は決して悪くなかった。


 しかしギーゼラの剣は、雷光のごとく義兄を攻め立てて圧倒し、幾度も寸止めで勝ってみせた。


 それを何度も繰り返すことで、義兄の戦意を残らず奪い去った。


 膝を屈し、愕然とギーゼラを見上げている人種違いの兄に、言い放った。


「アタシもママも、「今」を見て一生懸命生きてんの。だからここまで強くなれた。……今日アタシに負けて、少しでも悔しい気持ちがあるんなら、アンタも頑張って「今」を生きなさいよ」


 それに対し、義兄は言い返すこともなければ、熱くなって殴りかかってくることもなかった。


 だがその日を境に、ギーゼラを無視することはなくなった。今では普通に二人で話せるくらいの、普通の兄弟らしい仲にまで落ち着いている。


 さらに新しい母に対しても、徐々にだが態度を軟化させ、受け入れていった。


 ……剣は、ギーゼラの家庭を救ったのだ。


 さらに、剣術を通じて、いろんな知り合いや友人も出来た。


 清葦隊せいいたいという居場所も見つけて、剣で張り合える悪友も出来た。




 ——そして、今に至る。




 今の自分があるのは、剣のおかげだ。

 

 剣の世界は平等だ。

 人種も性別も年齢も関係が無い。

 あるのはただ、どこまでも剣のみ。

 剣は嘘をつかない。剣を交えれば、その人間が分かる。

 だからギーゼラは、剣が好きだ。


 ギーゼラは刀身を納め、その鞘に軽くキスをした。


 近くに車を待たせているので、早く行こう。車内に入ったらもう一度刀身を抜いて、刃を堪能するのだ。


 ギーゼラが歩く足を早めようとした、その時だった。


「ん?」


 チカッと、何かの光が左頬に当たるのを感じ、思わず振り向く。


 左にある、濃い影の差した隘路あいろ

 そこに、ビルの窓が反射した太陽光をさらに反射している、小さなまるいモノが落ちていた。


 よく見てみると、それは一枚のコインだった。


 金鵄きんしを中心にしたデザインのソレは——日ソ戦戦勝記念コイン。


 硬貨ではないただのコインであるため、金銭的価値は無い。しかし、日本人にとって忘れられない出来事の存在を刻んだコイン。……ギーゼラにとっても。


 せっかくなので拾おうかと思った途端、上から着陸してきたカラスがくちばしにコインを捕まえ、また上空へ飛んだ。カラスは光り物が好きなのだ。


 だが、コインは途中で嘴からこぼれ落ち、カイーン、と暗い隘路に落下。カラスはそれを取りに戻らず、そのまま飛び去っていった。


 お邪魔虫が去ったので、ギーゼラは再びコインを拾おうと近づき、


「————え?」


 途中で立ち止まった。


 その視線は、なおもコインの落ちている場所へ集中している。


 だが、目当てのそのコインは——になっていた。


 コインの縁を垂直に斬り、二枚に両断したかのように、真っ二つに。


 そして、二つに割れたコインの片方。

 その断面にあたる部分には、盆のように薄い空洞が存在し、中には小さなシートのようなモノが何枚かあった。


 それを目にしたギーゼラは、


「……嘘、でしょ。まさか、このコインって」


 震えた声でひとりごちる。


 そして連想する。


 ギーゼラはまだ物心がついていなかったが、母から聞かされた——己の過去を。

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