『特研』

 西暦二〇〇二年四月二十一日、午後一時——




 樺山歩かばやまあゆむは現在、神奈川県川崎市にある軍用地の中にいた。


 本来ならば内務省の役人でも無許可では入れないが、その辺りの事情はすでにパスしている。


 陸軍の大佐をしている、次兄の協力によって許可が降りたのだ。

 

 偉大な父の背中を追いかけて海軍へ入った長兄とは違い、次兄は陸軍に入った。理由は「親父殿のことは尊敬しているが、全く同じ道を進むのは嫌だ。それでは親父殿と全く同じ世界しか見れない」という、ややへそ曲がりなものであった。


 しかしそのおかげで、歩は陸軍との繋がりを持つことができ、こうして今日この場所へ訪れることが容易に出来たのである。




 帝国陸軍ていこくりくぐん特異科学技能とくいかがくぎのう研究所けんきゅうじょ——通称『特研とっけん』へ。




 冷戦時代、ソ連という超大国の急速な軍拡と足並みを揃える形で、日本を含む先進国では軍拡が盛んに行われた。


 ありとあらゆる研究が、軍事利用の目的で行われた。


 その研究の焦点は……「超能力」という、不確かな力にも当てられた。米国の「スターゲイト・プロジェクト」がその代表例だ。


 日本もまた、その「超能力」の研究を軍事目的で行なっていた。


 そう——『特研』とは、超能力や超常現象に関する研究を専門とした機関なのだ。


 とはいえ、実際に行われていた研究の多くは、超能力ではなく、日本武芸の逸話の登場する数多くの摩訶不思議な技法の科学的分析だった。


 一九九一年にソ連が崩壊し、冷戦が終わりを告げると、世界各国の超能力研究機関は全て「成果なし」とみなされ、閉鎖された。


 しかし、日本の『特研』だけは、今なお生きながらえている。


 それは何故か。


 ——元帝国陸軍大将、望月もちづき源悟郎げんごろうが日ソ戦時に作った「武勇伝」のせいだ。


 至剣流剣術の免許皆伝者でもある源悟郎は、当然ながら『至剣』も体得していた。


 その至剣の名は『泰山府君剣たいざんふくんけん』。触れる事なく相手の精神に「死のイメージ」を刻み込み、激甚なショックを引き起こさせる技。食らえば良くて失神、最悪はショック死するという。


 源悟郎はこの『泰山府君剣』で、襲いかかってきたソ連兵を即死させたのだという。


 聞くに荒唐無稽な話である。

 実際、いくら源悟郎が英雄であるといっても、この武勇伝を信じる者は少なかった。

 しかし陸軍の中には目撃者が多数存在したため、軍部では「事実」として扱われている。


 そしてその荒唐無稽な事実こそが、『特研』という冷戦期の遺物を今なお小規模ながら存続させ続けている理由である。


 現代科学では解明できない「摩訶不思議な技」はある——源悟郎は救国の武勇だけでなく、それも示してしまったのだ。


 そして歩は現在、そんな『特研』の研究所に訪れていた……のだが。

 

「…………本当にここが、陸軍の施設なのか?」


 狭くは無いが、かといって広大というわけでもないその軍用地は、一面雑草がまばらに伸びたアスファルトで覆い尽くされていた。さらに、その敷地にも、車が一台停まっているだけで、何も無いまっさらな状態だ。


 そして、その敷地の最奥に鎮座する、古い三階建て。


 研究施設というより、長年続いている零細企業の社屋に見えるその建物。

 入り口らしき小さなアルミドアの横には、「帝国陸軍特異科学技能研究所」と墨で書かれた木札が貼られていた。


 ——まぁ、確かに、超が付く窓際部署だとは聞いていたが……


 そう無理やり自分を納得させると、歩は入り口へ近づいた。


 インターホンを押し、対応を待つ。


 しばらく待っていると、急にバタン! とドアが開いたので、歩はびくっと身を震わせた。


「——ん? 誰だね君はっ? 見た感じ軍人ではないね? ここは軍用地だぞ。勝手に入っちゃいかん。私は寛大だから見逃す。早く引き返しなさい。さ、早く帰った帰った!」


 開口一番そのようにまくしたてられ、歩は唖然とする。


 初老ほどの男だ。

 面長の顔つきはかすかに切り傷みたいなシワが見られ、好奇心の強さを感じさせる輝きを持つ瞳には丸い眼鏡がかぶさっている。額が上に広く、やや後退した長めの白髪はひと結びに束ねられている。

 上半身には、まるで研究者でございと言わんばかりの裾長の白衣。しかし下に穿いている国防色のスラックスは明らかに陸軍の制服のソレだ。

 そして左腰には、研究者然とした白衣には不釣り合いな刀……いや、官給品の軍刀。ステンレス刀身の大量生産品であり、美術的価値は無いに等しいが、斬れ味が鋭く、かつ防錆性ぼうせいせいの高い優れものだ。


 その風貌から、歩は尋ね人だと断定した。ずれた自身の眼鏡を整え、態度と口調も整えた。


「——貴方は酒井篤彦さかいあつひこ中佐ですね。お初にお目にかかります。僕は樺山歩。内務省の者です」


 酒井は丸眼鏡の向こうにある目をしばたたかせると、部外者に向けるその態度を改めた。


「おお、そうだそうだ! 今日、内務省から客人をお出迎えする予定だったなぁ! それも樺山大佐殿の令弟れいていであるという! これは失礼した! さ、入った入った!」


 またも怒涛の勢いでまくしたててから、白衣の陸軍中佐は歩を研究所内へ招き入れた。


 歩は玄関の三和土たたきで靴から来客用のスリッパに履き替え、酒井の後をついて歩く。……なんだか一般民家みたいな入り方だな、と思った。


 今のところ、彼の勢いに押されっぱなしな歩だが、早速一つだけ、彼について分かったことがある。

 ……が、研究者のソレではない。

 偉大な将であると同時に剣術達者でもあった父にも通じる——達人の歩き方だ。不気味なほど音がしない。 


「……何か、やってらっしゃるのですか」


「一応、北辰ほくしん一刀流いっとうりゅうを皆伝しているよ。江戸時代で最も先進的だった剣術だ」


 そうしてたどり着いたのは、細長い卓をソファチェアが挟む応接間だった。


 「かけてくれたまえ」という酒井の言葉に従い、ソファチェアの一つにふっかりと着席。


 酒井は応接間を出て行き、しばらくすると漆器の盆に湯呑みを二つ乗せて戻ってきた。


 自分と歩の前に湯呑みを置き、左腰に帯びた軍刀を外してソファチェアの端に立て掛け、席へ座った。歩と向かい合う席だ。


「どうも」


 前に置かれた湯呑みを一礼してから手に取り、軽く一口煽る。


「……良い茶ですね」


「だろう? せっかく久々の客人、それも内務省という畑違いの官庁からなんだからなぁ」


「……やはり、ここへ足を運ぶ人は少ないみたいですね」


 歩は、雑草伸び放題な外のアスファルトを思い出しながらそう言った。


 酒井は少し面白くなさそうに鼻息を吐いた。


「認めるのは癪だが、実際我々『特研』は閑職の中の閑職だ。私のような変わり者を除いて、自ら異動したいと言う者はいない。みんなこんな窓際部署より、上へ上へと出世したがるからな」


「だけど、この場所は今でも残っています。それは、残すだけの価値や実績が、ここにはあるという事なのでは? そしてそれは、『泰山府君剣』の存在だけでは理由として不十分なはずです」


 酒井は丸眼鏡のズレを整えてから、口を開いた。


「——ここを名指しで尋ねるからにはご存じだとは思うが、我々『特研』は、超能力と呼ばれるような不思議な力の研究を目的とした研究所だ。そのために我々がまず目をつけたのが、武芸の世界に存在する魔訶不思議な技法の数々だ。残念ながら、その中に超能力と呼べるものはほとんど見つからなかったし、超能力じみた技でも現代科学では解明ができないものだったりしたよ。…………しかし、いくら超能力研究が進んでいないとはいえ、我々の働きが全くの無意味だったわけではない」


「と、おっしゃいますと?」


「ある柔術流派には「とおて」と呼ばれる技法が存在していた。触れる事なく相手を殺傷できるという夢のような技だよ。我々『特研』は、この「遠当て」の正体の解明にも力を注いだが……」


「……分かったんですか?」


「もちろん! しかし幽霊の正体見たり枯れ尾花! その「遠当て」なる技の正体は、だったのだ! おまけに、その成分は今でいう「サリン」と同一のものであった! …………もしも十一年前の戦争で、我が軍の将兵にこいつを使う間抜けがいたらどうなっていたと思う? 帝国は化学兵器と生物兵器の戦争利用を禁止するジュネーブ議定書を批准ひじゅんしている。そんな帝国が「遠当て」など使ってみろ。侵略行為という最たる国際法違反を犯したソ連と同じ穴のむじなではないか! 最悪だ!」


「それは……確かにまずいですね」


 大日本帝国は確かに世界有数の軍事大国だ。

 けれど、地政学的リスクなどの理由で、戦争時には外国の手を借りなければならない点が多い。

 日露戦争において日本が大国ロシアに勝利できたのは、フランス参戦阻止を始めとするあらゆる恩恵をもたらした日英同盟と、終戦協定の仲介役であったアメリカの存在ゆえだ。決して日本の独力にあらず。

 十一年前の日ソ戦争も、米国の対日レンドリースをはじめとする各国からの支援を受けられたからこそソ連に勝利できたのだ。……そしてそれは、日本が国際法という土俵の上で正しく相撲を取れたからこそ得られた恩恵である。


 もしも日本までソ連同様に国際法の違反者となっていたら……その先は想像したくもない。


「なるほど……超能力は見つからずとも、そのような形で軍に貢献していたというわけですね」


「そうだ。……まぁ、我々の研究趣旨はあくまで「超能力」なので、その通りの成果が出せないことを誇るのはいささか恥ずかしくはあるのだがね」


 言って、酒井は茶をひとすすりし、湯呑みを置いた。


「——さて、樺山君だったか。本題に入ろうか。軍の片隅にぽつねんと存在する窓際機関に、内務省の官僚である君がわざわざ尋ねてくるということは、何やら奇妙な事件でも起こっているのかな? 誰かがうし刻参こくまいりで人を殺したとか?」


 からかい半分、真剣さ半分といった口調で、本題を問うてくる酒井。


 歩はそれを聞いても一切しゃくに触らなかった。歩自身も、これから荒唐無稽な話をするという自覚があるからだ。


「酒井大尉——貴方は「呪い」というものを信じますか?」


「信じない。信じてしまえば、。『特研』とは、呪いを呪いではないと証明するための場所なのだからね」


 それを聞いて、歩は少し安心した。……この人は超常現象を調べてはいるが、やはり科学者だ。


「僕もです。……では、お話しします。内務省官僚である僕が、『特研』に泣きついた理由を」 


 歩がまず要件の前提として話したのは——『呪剣じゅけん』のことだ。


 先日、至剣流を破門となった人物、鴨井村正かもいむらまさが二十四年の苦練の末に体得した、己だけの最強剣技である至剣。


 少しでも斬られたら、その人物は「呪い」にかかってしまう。


 その「呪い」によって負の感情が天井知らずに増幅されていき、やがて精神を病み、自害的または加害的な行為を衝動的に行なってしまうというもの。


 ……それを説明している歩自身も、今なおその話に懐疑的なものを感じていた。


 しかし、目の前の白衣の軍人は、疑いの表情を浮かべたりも、一笑に付したりもせず、黙って傾聴した。


「……なるほどな。つまり、斬りつけた相手を「きつねき」のような状態にしてしまうというわけだな。その『呪剣』とやらは」


「狐憑き?」


「狐の霊に憑かれた状態という意味だ。狐に取り憑かれると精神の均衡を著しく崩し、狂乱し、自分または他者を害する行動に走ると言われている。現在では精神病や脳障害だと一蹴されているが、一部の民間ではいまだにこの「狐憑き」への信仰が強い。それだけならば非科学的な田舎者の妄言だと一蹴できるが、民間信仰的な「はらい」でこの「狐憑き精神障害」を治してしまったという事例も多く存在するから断言ができん」


「祓、ですか……?」


 興味を抱いて問い返してしまった自分に歩は驚いた。自分に迷信を信じる心がまだ残っていたとは。


 それを見抜いて愉快と思ったのか、酒井は口角を吊り上げた。


「代表的なやり方は祝詞のりとだな。それによって狐の眷属を呼び出し、人間に取り憑いている狐を引っ張り出してもらうというものだそうだ。……あとは、剣を用いた祓だ。日本刀は古来より魔を祓う力を秘めているという。その刃を、長年の修行によって鍛え上げた剣技で振るう。そうすることで人中の狐を強引に引き剥がし、なおかつもう一度入って来れないように魔除けの太刀を振る。——するとどうだろう? トランキライザーも効かなかった精神不調者が、嘘のように回復を果たしたのだ。面白いだろう?」


 歩は問うた事をすぐに後悔した。


 聞けば聞くほど、自分がとんでもない世界に引きずり込まれている気分になり、無性に帰りたくなってきた。


 しかしそれでは、ただでさえ忙しい中で暇な時間を作った苦労が水の泡になるし、今回の機会を設けてくれた次兄の面子めんつにも関わる。


 何より、あの寂尊じゃくそんが、わざわざ自分を呼び出して協力を請うてきたのだ。彼は冗談や酔狂でそんな真似はしない男だ。


 歩は渾身の意志力で、己の心身をこの場に繋ぎ止め、傾聴し続けた。


「我々はこの「狐落とし」の術ももちろん研究した。事例のある村落まで足を運び、観測機器まで持ち込んでな。しかし、何も分からなかったよ。「狐憑き」と「狐落とし」、この二つが存在するという事実以外、何もな。……悔しかったが、それ以上に嬉しかったよ。科学という学問は、地球という鉱脈を掘り尽くしてなどいなかったのだからね」


「そういうもの、でしょうか?」


「うむ。好奇心こそが研究の原動力だ。叶うならば、帝室の秘宝である「三種の神器」にもお目にかかってみたいものだ。アレを視ると目が潰れるといわれているが、はたして本当か否か」


「……その発言、不敬罪にあたる可能性があるから、他ではしないように願います」


 んんっ、と咳払いして、酒井は話を切り替えた。


「——話を戻そうか。『呪剣』といったか、その至剣は。まるで先ほど話した「狐憑き」を、人に引き起こさせるような技だな。魔を祓う力を持つとされる刀を、人を呪うために振るうとは……なんという皮肉か」


 酒井は湯呑みを一口飲んで、一息吐いてから続けた。


「して、内務省の役人が、「呪い」などという迷信臭い代物にそこまで執心するのか。その理由をそろそろ問いたいのだが」


 歩は話した。

 ここ最近、帝都東京で起こっている、物騒な事件の数々を。

 丸の内駅前のカフェでの乱闘騒ぎ、宮城きゅうじょう前での焼身自殺未遂、明治神宮前での通り魔事件、赤羽の兵器廠へいきしょうでの銃乱射事件……そして今週、

 気違いのような凶行を行なった犯人の証言が、決まって「胸の内のに衝き動かされた」という意味不明なものであること。

 そして——それらの犯人の体には、きまって浅い切り傷が刻まれていたこと。


「……なるほど。つまり君はこう考えているわけだ。それらの事件を引き起こしたのは、鴨井村正の持つ『呪剣』であると」


「僕ではなく、友人がそう見ています。——至剣流宗家次期家元、嘉戸かど寂尊じゃくそんです」


「嘉戸……なるほどな。彼らはそういう不思議な技と近しい者達だ。冷戦期、嘉戸唯明ただあき氏に、研究に協力していただいたことがあったからね。至剣という神技の研究に。……まあ、あれも結局原理が分からなかったが。しかし人間の持つ可能性に希望を持てた良い経験だったよ。ふふっ、我ながらおかしなものだよ。解明できた事より、解明できなかった事の方が喜びが大きいのだから。私もまだまだ科学的な人間になりきれていないのかもしれないね」


 酒井は足を組み替え、軍刀の柄頭を撫でた。 


「失礼。また話が逸れたな。……さて、君の列挙した凶行の原因が『呪剣』だったと過程しよう。しかしその技の原理を、嘉戸宗家の長男殿は理解しているのかい?」


「……いいえ」


「それでは扱いが難しいな。まさしく「呪い」だ。そして「呪い」というのはだ。丑の刻参りをかけた相手が不慮の突然死を遂げたとしても、藁人形に五寸釘を打った者が法で裁かれることはない。なぜなら「呪い」は、現代科学でその存在の根拠を証明できないのだから。科学的根拠の無い罪は裁けない。裁いてしまうことは文明の後退を意味する」


「はい。それは承知しています」


「まあ、しょっぴく方法が無いわけでもないがね。鴨井村正を、その『呪剣』の使用ではなく、他の罪でしょっぴけばいい。万引きをしたとか、公共物を破壊したとか、酔って刀を振り回して数人怪我させたとか……だがその場合、なるべく重い罪に問う必要があるがね。窃盗とかだと捕まってもすぐに出てきてしまう」


「もちろんです。……あくまでも僕の希望的観測ですが、鴨井村正がこの帝国内に存在する反体制的な過激派組織に与することがあれば、それなりに重い罪で裁くことが可能です。ですがそれは同時に、我々が最も憂慮すべき展開でもあります。そのような組織の手に、鴨井の『呪剣』が渡ってしまったら……」


 すっかり『呪剣』の話を真実として前提に置いている自分に気付き、歩は内心で苦笑した。


「ぞっとしないね。……だがね樺山くん、どういう罪に問うとしても、まずそのための前提が必要だ」


「分かっています。、ですね」


 その通りだ、と頷く酒井。


 そう。『呪剣』では村正を逮捕するための根拠になり得ない。


 であれば、別件で引っ張る必要がある。


 しかしながら、それをするためには、村正の動向に監視の目を光らせる必要がある。村正が罪を犯したところを現行犯で、または他者の証言を元にして逮捕するのだ。


 そして、その「監視の手段」を、今の歩は持っていない。

 今の立場では振るえる権限に限りがある。

 何より、。法と国是こくぜに照らし合わせて瑕疵かしの無い人間に対しては、特高すら動けない。


 そう。



 歩は畳みかけるように訴えた。


「僕が貴方達特研に依頼したいのは、『呪剣』の科学的根拠の証明ではありません。——「


 酒井は丸眼鏡の奥の眼を瞬かせ、悪だくみに参加する子供のように微笑んだ。


「……なるほど。特高が使えないから特研を使う、というわけか。我々はもともと超能力や超常現象を研究し、それを軍事転用するために創設された機関だ。『呪剣』という怪しげなシロモノは、そんな我らの調査対象としてはおあつらえ向きというわけだ。……なるほど、一応筋は通っているな」


「どうでしょうか。お願い出来ませんか」


 歩がそう協力を請う。


 酒井は大きくため息を吐くと、眼鏡を中指で整えた。部屋の電灯の光がレンズに反射して、その奥にある眼差しが見えなくなる。


「悪くない方法だが、そのやり方には一つ問題が残っている。——内務省の官僚である君の言葉に、軍である我々が頷くとでも?」


「頷くはずです。やり方は違えど、我々はこの帝国を護るという同じ使命を持っている。使命を同じくしているならば、行政の縦割りなど些事さじであるという事を、我々は十一年前の戦争で経験しているはずだ」


 その発言から、沈黙が訪れる。


 重苦しくも、和やかでもない、奇妙な沈黙。


 その最中、歩は白く輝く酒井の眼鏡レンズと、ずっと視線を合わせ続けていた。


 しばらくしてから、酒井はふぅっと軽くため息を吐き、ニヤリと笑った。


「——いいだろう! 君の調、我々『特研』が引き受けよう」

 

「ありがとうございます」


 歩は平静を装ってそう感謝を告げたが、内心では非常に安堵していた。もしも『特研』に断られれば、もう他に頼れそうな場所は無いに等しかったからだ。


「とはいえ、やはりこの『特研』は軍においては閑職だ。在籍者数が極めて少ない。ゆえに人手不足が否めぬ。よって、我々の研究に多大な貢献をしてくれている「協力者」にも働いてもらうこととしよう。……しばし待ちたまえ」


 言うと、酒井はソファから立ち上がり、応接間から出て行った。


 しばらくすると、酒井は戻ってきた。——後方に見知らぬ七人を引き連れて。


 酒井は再び元の席へ座り、見知らぬ七人はそのソファの後方で並んで立った。


 彼らは身長も体格もそれぞれ異なるが、みな同じ服を着ていた。……上下ともに黒い、詰襟の中華服だ。


「紹介しよう。彼らは中華武術『鴻家拳こうかけん』の一門だ。我々の研究に協力してもらっている」


「……この研究所では、中国の武芸も研究していたのですか?」


「そうだ。あちらの武術にも我が国に負けず劣らず、魔訶不思議な技法が数多く存在するようなのでね。気功法などがその最たる例だ。あれはいまだに科学では解明しきれない点があって面白いのだよ。……あ、こう先生。あの背広の青年は内務省からお越しになった樺山歩君だ」


 酒井が「鴻先生」と呼んだのに合わせて、七人の真ん中の男が一歩前へ出て存在を示した。


 髪をオールバックにして、岩のように厳めしい顔つきを広くあらわにしている。黒い詰襟の中華服で装う体格は膨らんでいてやけに恰幅が良いが、太っている感じではない。歩き方が鈍くなく、軽い。それでいて濃厚な密度を感じるたたずまい。


 何より、歩を品定めするように見つめる細い瞳には、控えめだが針のごとく鋭い眼光。目を合わせただけで、微かな震えが体の芯に生じるのを歩は実感した。……多くの犯罪者を見てきた自分だから分かる。この男は只者ではない。


 酒井はその厳めしい男を手で示し、紹介した。


「彼はこう翠剣すいけん。鴻家拳一門の師範をしている。清末しんまつの中国で活動していた革命志士の子孫だそうだよ」


「内務省の樺山歩です。よろしくお願いします」


 歩が先にそう挨拶を告げると、鴻翠剣は「おねがいします」と、外国人特有のなまった挨拶を返してきた。しかしその目はなおも鋭いままだった。


 酒井が鴻翠剣に言う。


「鴻先生、報酬は全員にいつもの倍は出す。前払いでだ。その代わり、少し面倒な任務を引き受けてはくれないかね?」


「どんな任務かきかせてください」


「ある人物の観察だ。それもバレないようにな。出来ますかな?」


「かまいません。われわれの得意分野です」


 鴻翠剣は訛った了解を告げた。


 酒井は歩へ向き直り、詳しく説明した。


「やはり『特研』の研究員は軍人なのでね。どうしても自由に行動しにくいところがある。しかし彼らは民間人だ。我々よりも余程自由が効く。鴨井村正の監視は、彼ら鴻家拳一門に任せよう」


「……民間人に任せて大丈夫でしょうか?」


「実力、という面に関しては全く心配いらんよ。——何せ彼らは、を先祖代々積んできた一族なのだからね」


 酒井はそう言ってニヤリと笑う。


 歩はもう一度、彼の後部に立つ『鴻家拳』の七人へ目を向ける。


 全員、感情を露わにしていない真顔。


 しかし、彼らの瞳には、一様に針のように鋭い眼光が宿っていた。





>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>



『特研』があるのは神奈川県川崎市ですが、同じく川崎市にあったという「登戸研究所」とはいっさい関係ありません。

歴史IFですので。



また書き溜めてから連投します。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る