惨めさから逃げられない

「…………土曜日」


 自室に掛けられたカレンダーを見て、卜部峰子うらべみねこは一人ごちた。


 曜日の感覚が曖昧になってきた。


 火曜日のあの事件以降、このアパートの六畳間の一室だけが頼子の世界だった。


 しんと静まり返った六畳間は、誰が来ても恥ずかしくないくらい綺麗に片付いていた。看護師の仕事で忙しい母に代わり、峰子がいつも部屋の掃除を自ら買って出ているからだ。あと夕食の準備も、洗濯も。


 そういった体に染みついた習慣と、最低限の食事を取るという生理的なことに対しては、峰子も動けた。半ば機械的に。


 だけど、それ以外のことをする気が起きない。


 押入れの横の壁には、防具一式と竹刀袋、そして木刀がもたれかかっている。……ずっと付き合い続けてきたそれらの武道具を見ても、それを振るう気力が湧かない。


 そのことが、悔しくて情けない。


 峰子は、六畳間の真ん中で、殻にこもるように体育座りした。


 峰子は壁に掛けられた時計を見て時刻を確認した。現在朝の九時五十分。


 せっかくの休日である今日も、峰子はこの部屋の中のみで終えるのだろう。


 でも、仕方ない。


 何もすることがないから。


 何もしたくないから。


 何をしてもきっとうまくいかないから。


 ずっと自信を持っていた剣でさえ、火曜日のようなていたらくだったのだから。


 そして——そんな風に腐っている自分自身への腑甲斐無さで、自分自身を殺したいくらい憎く思う。


 負の連鎖だった。


 峰子は、六畳間の隅にある小さな仏壇に視線を向けた。


 香炉の隣に置いてある、髪留めの残骸。 

 飾りである大きなラメ入りビーズが真っ二つに割れて断面を晒しており、紐もちぎれていた。


 ——幼い頃、父から買ってもらったものだ。


 そして、そのまま形見になってしまったモノ。


 ずっと大事に使い続けて、とうとう昨日、凶刃によって割られてしまったモノ。


「……おとうさん、わたし、どうしたらいいの?」


 泣きそうな子供みたいな顔と声で、仏壇に問いかける。


 しかし、返ってくる声は無い。


 ——陸軍の大尉であった父は、峰子が三才の頃に日ソ戦争で戦死した。


 父も、そうなることを覚悟で戦地に赴いたのだろう。


 家を去る際、三才であった峰子に、父は最期にこう言い残した。


『峰子、お前の体には、あの塚原卜伝つかはらぼくでんと同じ血が流れているんだよ。だから、お父さんがいなくなったとしても、お前は卜伝みたいに強くなれる。お母さんも助けて、守れるくらい』


 峰子の父方の家は、系譜をたどっていけば、戦国時代に鹿島神宮の社家しゃけであった「卜部氏」に行き着く。


 そこは、宮本武蔵と並ぶ剣豪、塚原卜伝の生家である。


 つまり峰子は、塚原卜伝と血の繋がりがある。


 しかし、血筋は血筋以上の意味を持たない。「名君の子も名君である」という論理が正しいなら、中華大陸で何度も王朝の代替わりなど起こってはいない。


 それでも父は、峰子が少しでも強く生きていけるよう、剣豪の血筋であるという「誇り」を峰子に残したのだ。


 峰子も、それを正しく受け取った。


 父がいなくても、自分の力と意志で強くなろうと努力できた。


 塚原卜伝のように、強くなろうと。


 剣術流派は、卜伝を流祖としている鹿島新当流かしましんとうりゅうを選んで学んだ。


 峰子はさほど素質がある方ではなかったが、懸命な稽古によって、着実に腕前を磨いていった。


 小学五年生になる頃には、学校の誰よりも強くなっていた。


 中学一年生の時から入った撃剣部にて、当時副部長であったきょうに負けてしまったが、京のことは勝ち負け以前に同じ剣士として尊敬している。そして、いつか彼女のことも追い抜くつもりだ。


 自分は着実に、塚原卜伝のような強い剣士に近付いている。


 靖国にいる父が安心して眠っていられるような、強い人間になれている。


 峰子はその思いが、自惚れ抜きのものだと思っていた。


 ——自惚れであったことを思い知ったのは、秋津あきつ光一郎こういちろうに出会ってからだった。


 虫も殺せなそうで、逐一こちらの言動にビクビクしていて肝が弱く、そのくせ馴れ馴れしくて、おまけに十一年前の侵略者の民族とヘラヘラ仲良くしている……峰子が嫌いな要素を凝縮させたような男子。


 実際嫌いだった。上述の要素に加え、初めて会話をした時の印象まで最悪だったのだ。


 しかし、そんな嫌いな光一郎は、峰子よりもはるかに強く、そして勇敢だった。


 散々自分を邪険に扱った峰子のことを見捨てず、恐怖で四肢を震わせながらも、真剣を持った敵に木刀で挑んだ。そして勝った。


 あの時の光一郎の太刀筋……そう、斬られた木刀の先端で真剣の振り下ろしを受け止めるという離れ技を思い出す。


 峰子には分かる。あれは偶然なんかじゃない。だって、あの時の光一郎の木刀の動きには、全く迷いが無かった。あの位置に木刀を動かせば、真剣の一太刀を受け止められるという「確信」を感じた。


 ……思い出すのは、入部を賭けて行った、自分との撃剣試合。


 二本目を取られる寸前、峰子は感じたのだ。

 秋津光一郎という剣士の、底知れなさを。

 剣を交えれば交えるほど、あり地獄じごくのように不可逆な敗北へ引きずり込まれていくような、奇妙な感覚。

 そんな光一郎の「底知れなさ」の一端を、あの通り魔事件で目にしたような気がする。


 光一郎は強い。下手をすると、京すらも超えるかもしれない。


 彼ならば、撃剣部を天覧比剣てんらんひけんへ導くことも不可能ではない。

 

 ——対比して、自分はどうであろうか。


 散々偉そうに言っておいて、いざという時になったら何もできず、ただ腰を抜かしたまま、勇敢に立ち向かう光一郎の姿を眺めていることしかできなかった。


 そのくせ、家に引きこもって不貞腐れ続けている。

 

 自分を気遣った相手をも醜く拒絶した。


 峰子は涙をこぼし、ぎゅっと体育座りをしながら嗚咽を漏らす。


(馬鹿じゃないの。なにが、卜伝みたいな強い剣士に近付いている、よ……)


 自分の強さとは、所詮、竹刀の世界での強さでしかなかったのだ…………!


 こんなことなら、いっそ、あの通り魔に斬られて死ねば良かったのだ。


 そうすれば、こんな惨めな姿を晒さなくても済むし、父と同じ場所にいける。


「……ううん、だめ」


 父は、国と民を守るために戦って、戦い抜いて死んだのだ。高潔な死に方だ。


 惨めを晒すのが嫌だから、楽になりたいから死ぬなんて、卑怯な死に方だ。


 そんな人間は、父と同じ場所にはいけない。


 生きていても死んでも、自分は惨めなままだ。


 ——


「たすけて…………たすけてよぉ、おとうさぁん……」


 現実に押し潰されそうになり、子供のように泣きじゃくる峰子。


「私…………もう、強くない」


 いや、違う。


 最初から自分は、強くなんかなかった。

 

 強いフリをしていただけだ。


 表情も目つきもことさらに引き締めて、声もことさらに低めにし、口調もことさらに強くした。……可愛い顔が台無しよ、と母に言われるのも無視して。


 幼い頃から、そのように「強い女」を作っていた。演じていた。


 自分は、英雄の陶俑とうようのような人間だ。


 姿形は勇ましくとも、所詮は中身が空洞な焼き物だ。少し硬いモノにぶつかれば容易く割れてしまう。見せかけばかりで、中身が無い、脆弱な人間。


 それが生み出したのが、あの真っ二つになった髪留め形見だ。


 自分は、弱い。


「もう……強くなんかなれないよぉ……っ!」


 これから強くなれる、自信も無い。


 もう、自分の剣は、死んだ。


 塚原卜伝には、なれない。


 何もできない。


 こんな自分なんて、いっそ——


 その先の思考を、きん、こーん、という甲高い電子音が中断させた。


「……え」


 呼び鈴の音に、峰子はむくりと顔を上げた。


 涙をジャージの袖でゴシゴシと拭い、亡者じみた歩き方で玄関へ向かう。


 玄関ドアの覗き穴から、来客の姿を確かめる。


「……何の用よ。もうここには来ないでって言ったでしょ」


 秋津光一郎だった。


 こいつを最後に見たのは水曜日だ。今日は学校が休みである土曜日であるためか、学ラン姿ではなく長袖シャツと運動用ズボンという軽い格好だった。

 右手にはお菓子が入った紙袋、左手には木刀。


 相変わらず人畜無害そうで腹立たしい顔つきの少年は、威勢よく言った。


「——卜部さん、僕と勝負をしよう。剣の勝負を」 


「……はぁ?」


 藪から棒に何言ってるんだこいつ。


「何でそんなことしないといけないの。絶対に嫌。とっとと帰って」


 付き合ってられないと思った峰子は玄関から離れ、六畳間に戻った。


「——勝負してくれるまで、ここを動かないからね!」


 ドア越しにそんな声が聞こえてくる。


「好きにすれば」


 どうせそのうち面倒になって帰っていくだろう。


 峰子はそう思い、捨て置いた。


 テレビをつけた。ちょうどニュースで、議員の内海うつみつとむとロシア系犯罪組織との間で不正な金のやり取りがあったとか報道されていた。


 







 あれから何時間経っただろうか。


 すでに外は夕陽の茜色でいっぱいだ。


 時刻を見ると、五時半にちょうど達するところだった。

 

 そろそろ母が帰ってくるのに備えて、夕食を作っておかなければ。


 峰子の足が自然と台所へ向かう。


 台所の近くにある玄関口に、視線が向いた。


 ——流石にもう諦めて帰っているだろう。


 峰子はそう確信しつつ、玄関ドアの覗き穴から外を確認した。


「え……」


 いた。


 光一郎は、玄関の外で正座していた。右にお菓子の紙袋を、左に木刀を置いて。


 よく見ると、紙袋の中には、開けたお菓子の袋の残骸が見えた。午前中には無かった。おそらく食べたのだろう。


 最初から自分で食べるつもりだったら、わざわざここまで持ってきたりはしない。


 考えられる目的は二つ。


 一つ、懲りずに峰子へ差し入れとして渡すため。


 一つ、


「あなた、まさか…………ずっとそこで待っていたの?」


 峰子が思わず問いかけると、光一郎はハッと顔を上げて答えた。


「うん、そうだよ。ごめんね、お腹空いたからお菓子いくつか食べちゃった」


「あなた、馬鹿じゃないの。何でそんなことを」


「……言ったでしょ。勝負してくれるまで、動かないって」


 本気だ。


 こいつ、自分が頷くまで、ここにいるつもりだ。


「何でよ……何で剣の勝負なんかにそんなにこだわるのよ?」


「……僕と卜部さんとの間には、「剣の繋がり」しか無いからだ」


 ここまでくると、憤りや鬱陶しさより、困惑が勝った。


 どうしよう。もうすぐお母さんが帰ってくる。


 もしも母がこいつと鉢合わせたら、母は夕飯にとこいつを家に招きかねない。母はそういう人だ。こいつに家の中にまで入ってきて欲しくない。


 それに、撃剣部への影響もある。


 癪だけど、こいつは撃剣部における主戦力となり得る剣士だ。風邪でも引かれたら部の戦力に差し障る。すでに四月だが、夜の気温はまだ肌寒い。


 勝負を受けなければ、自分はいろんな意味で不利益をこうむることになる。……光一郎がそれを自覚してやっているかと言われれば怪しいが。


 舌打ちしそうになって、やめた。


 自分が昼間、心の中で言ったばかりではないか。


 ——惨めさからは、逃げられない。


 逃げられないのなら、立ち向かうより他無いではないか。


 むしろ、光一郎がこうやって勝負を求めてきたのは、渡りに船ではないか。


 こいつに勝つことが出来れば、もしかすれば、この惨めさから解放されるかもしれない。


 何より、自分は——こいつが気に入らない。


「…………いいわ。勝負してあげる。ただし、私がもしも勝ったら、もう二度とここへは来ないで。私に金輪際関わらないで」

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