常連客、そしてざわつき
四月十三日。土曜日。午前十一時。
去年の九月に望月先生に師事してからというもの、毎週の土曜日、日曜日は先生のご自宅(螢さんのご自宅でもある)へ赴いて剣の稽古に励むというのが僕の習慣になっている。
けれど時々、家の都合でその予定が狂うこともある。
僕の実家は、明治時代から続く老舗古書店を千代田区神田で営んでいる。『
お母さんとかが都合で家にいない間、店番を引き受けるのは僕だ。
今日は、そんな店番の日だった。
古い紙の匂いの漂う店内。出入り口である透明のガラス戸と向かい合う形で設置されたカウンターの奥で、僕は椅子に座っていた。
目の前には、幼い頃から見慣れた店内の光景が広がっていた。
清潔感を売りにしている店内。通路端に本を積み上げるという雑多な品揃えのし方はしていないが、店内を迷路のように変えている背の高い本棚には上から下までぎっちりデッドスペース無く古本を詰めている。基本的に人の手の届く高さまではお手頃な価格の本が揃っており、届かない高さにはかなり高価な本がある。
今のところ、店内には一人もお客さんがいない。
漫画やら大衆受けする本を売り出している書店ならばいざ知らず、この秋津書肆は文化系の書籍を中心に扱っている。そのため、入ってくるお客さんの種類も自ずと限られてくる。
大体が、年配だったり、富裕層だったり、大学の先生だったり。
絶対数の少ない客層だが、それでも、そんな少ないお客さんの心をがっちり掴んで常連にしてしまうよう、色々と工夫をしている。雑多に本を積み上げたりしないで清潔感を出しているのもその工夫の一つだ。なので、この店には常連さんが多かったりする。
流しっぱなしにしたラジオから、ニュースが聞こえてくる。
そんな殺伐とした報道ばっかり流れてくるので、嫌になってラジオの電源をオフ。
お客さんが来るまで、先日に模写させていただいた螢さんの可愛いセーラー服姿でも鑑賞して心を潤そうとスケッチブックに手を伸ばしかけたその時——店のガラスドアの向こうから誰か近づいて来るのが見えたので、手を引っ込めた。
ドアが開いた瞬間「いらっしゃいませ」と、やかましくない程度の声量で迎える。
店の中へ入ってきたのは、秋津書肆の常連さんの中でも、最年少の人物であった。
「——
彼は僕の姿を見た瞬間、その端正な色白の顔に晴れやかな笑みを浮かべて、カウンターまで歩み寄ってきた。
西洋のどこかの王国で王子様をやっていそうな感じの、すらっとした美少年だった。
ゆるやかな巻き毛を描いたブロンド。
身長は170センチほど。その細身の体には青い縦縞の入ったワイシャツと、灰色のスラックスが綺麗に通されており、非常に育ちが良さそうだ。
一見すると僕より年上に見えるが、僕は彼が同い年であることを知っている。
なぜなら、常連さんであると同時に、友達だからだ。
「いらっしゃい、ミーチャ! よく来たね」
僕はそんな気安い口調と笑みで彼に応じた。
ミトロファン・ダニーロヴィチ・ボルショフ——それが彼の名前だ。
見た目とその名前から分かるとおり、彼は日本人ではない。ロシア人だ。ただし生まれも育ちも日本であるため、日本語能力は僕らと差はない。
去年の十二月からのウチの常連である。
僕より背が高く、顔つきもやや大人びて見えるが、彼は僕と同じ中学二年生だ。
港区の乃木坂に住んでおり、通っている中学も港区。
ミーチャはカウンターの向こうからその白い手を伸ばしてくる。
「久しぶりだね、光一郎。元気だった?」
「元気だよ。……久しぶりって、ミーチャってば大げさだなぁ。ほんの一週間ちょっとぶりくらいでしょ」
僕はそれを掴み返して握手をすることで応じた。少し冷たく、そして硬い掌だった。
……ちなみに「ミーチャ」というのは彼の愛称だ。そう呼んで欲しいといわれたから。
手を離すと、ミーチャは握り合った方の自身の手をどこか名残惜しそうにしばし見つめてから、迷いの無い歩き方で本棚の一つへ歩み寄った。……古文や漢文に関する本が並んだ場所だ。
彼が主に買っていく本の種類は、草書体や
本を取って開いては閉じて戻し、それを何度か繰り返してからようやく納得のいく本を見つけたミーチャは僕の方へ戻り、これが欲しいと言ってきた。変体仮名に関する本だった。
巻末に挟まっている値段表を確かめてから、そのお金を要求。ミーチャは財布から値段ピッタリの額をこちらへ寄越した。これで本の所有権はミーチャに移った。僕は本を差し出した。
「毎度ありがとう。またよろしくね」
ミーチャは買った本を受け取ると、笑顔で頷き返してくれた。
……さて、せっかくまた会えたのだ。買い物してはいさよならでは勿体無い。少し話でもしようか。
「どうミーチャ? 勉強は進んでる?」
僕がそう話を振ると、ミーチャは嬉しそうに微笑み、首肯した。
「うん。なかなか順調だよ。今、剣術の伝書を解読しているんだけど、前回ここで買った本のおかげで、その伝書が戦国時代じゃなくて江戸時代に書かれたものであると分かったんだ」
「読めなかった部分が読めたってこと?」
「それもあるけど、一番助かったのは、この伝書を書いた人の文字の癖が分かったことだよ。一口に古文と言っても、使われてる文字の書き方は時代ごとに異なるんだ。それによって、その文が書かれた時代が分かったりするんだよ。だけど一方で、その時代を表すものであると思われた文字の書き方が、実は単なる筆者の癖字だったという困ったこともたまに起きるんだよ。他にもいろいろと解読上の落とし穴がある。だから専門家でもよく読み間違いをしてしまうんだ。……まあ、それも含めて楽しいんだけど」
本当に楽しそうに、ミーチャは話していた。
そう。彼は古文書の類の解読が、何よりの趣味なのだ。
なんでも、小学校五年生の頃からやっているらしい。すごいよね。
僕も
そんな彼が特に好きなのが、剣術に関する古文書。
「剣術の伝書っていうのは、本当に面白いよ。たとえその剣術が途絶えてしまったとしても、その伝書を読んで学べば、また復元することができるんだ。まさに昔から識字率が高水準だった日本でしか見られない驚くべき文化保存能力だよ。それとね——」
喋るたびに、どんどん口調が弾んでいくミーチャの語り口。
放置すると軽く三十分はかかるので、歯止めをきかせる意味も込めて、僕は苦笑混じりに言った。
「ミーチャはもう、日本人より日本人らしいかもね」
それを聞くや、ミーチャは輝かんばかりの笑顔を見せた。
「本当かいっ? ボクは、本当に日本人らしいかいっ?」
「え、あ、うん…………そう思うよ」
カウンターからずいっと身を乗り出してそう確認をとってくる金髪碧眼の少年の顔に気押されながら、僕は肯定する。
ミーチャは乗り出した上半身を引っ込めると、感動を噛み締めるように胸に手を当て、微笑を浮かべた。
「そうか……嬉しいな。日本人に、それも光一郎にそう言ってもらえるなんて」
「そんなに嬉しいの?」
「うん。……だってボクは、ロシア人だから、さ」
そう言って少し寂しそうに笑うミーチャ。
ロシア人だから——その一言に、あらゆる意味が凝縮されていることは、嫌でも察せてしまった。
「……仕方の無いことだって分かってるんだ。十一年前にソ連がこの国に侵攻してしまったから。侵略を仕掛けてきた国の人種が嫌いになるのは、普通なことだと思う」
「ミーチャ……」
「それでも…………ボクは、この国で生まれて、この国で育って、この国の言葉を話すんだ。たとえ人種は違っても、ボクはこの帝国の国民だ。だから日本人とは、できるなら仲良く過ごしたいんだ。……小学五年生の時に病気で死んだ母さんにも、そうして欲しいと言われたから。だからボクは、こんな見た目でも、少しでも日本人らしくなろうって、色々頑張った。古文書に手を出したのも、もともとはそれが理由だったんだ」
さっきまで花咲かんばかりだった彼の美しいかんばせに、
「……だけど、ときどき、挫けそうになるときがあるんだ。何をやっても、みんながボクを輪の中に入れてくれないから。もうみんなと仲良くしようなんて無駄な努力はやめて、何もかも投げ出して一人で生きていきたいって思う時があるんだ。……光一郎、君と出会ったのは、ちょうど「その時」だったんだよ」
しかし、すぐにまた晴れやかな感情が顔に戻った。その浅葱色の瞳は真っ直ぐ僕を見つめている。
「この店で本を探してた時、光一郎、「何かお探しですか?」って自分から話しかけてきてくれたよね? ……すごく、嬉しかったんだ。君は、ボクの事を少しも変な目で見てないって、すぐに分かったから」
その発言と似た発言を、僕は以前聞いたことがあった。
エカっぺだ。
彼女は物心ついた時から「侵略者の民族」という色眼鏡を周りの老若男女から使われてきた。偏見や差別意識をずっと向けられ続けてきた。
だからこそ、そういった視線や感情に敏感だった。
だからこそ、そういった視線や感情を持っていない人間が、すぐに分かる。
エカっぺは以前、そう言っていた。
「だから、ボクが今でも古文書の解読をやっていられるのは、光一郎のお陰なんだよ。……ありがとう、光一郎。ボクと出会ってくれて。ボクと仲良くしてくれて」
その後で、エカっぺは言ったのだ。「あたしがこの国の社会で胸張って生きていけてるのは、あんたがいてくれるからなのよ。コウ」と。笑顔で。
その時の彼女と同じように、今、ミーチャに言われた。
「……そ、そっか」
彼の嘘偽りの無い、晴々とした笑みを向けられた僕は、顔が熱くなった。
ここまで真っ直ぐに感謝されて、しかもその相手がこんな美少年であるため、さすがの僕も照れを禁じ得なかった。
……いやいや待て僕。感謝されたのは嬉しいけど、ドキドキはするな。ミーチャは確かに美形だが、僕にソッチの気は無い。僕は螢さん一筋だ。
「と、ところで、剣術の伝書を解読してるって言ってたよねっ? なんか復元できた剣術ってあったりするのかな?」
照れ隠しと話題の矛先を変える意図を込めて、僕はそう早口気味に質問する。
ミーチャは「よく聞いてくれました」とばかりに両手を叩き合わせた。
「そう! そうなんだよ! 聞いてよ光一郎! 実はね……少しだけだけど、復元ができたんだよ!」
「まじでっ?」
「本当だよ! それも、凄い剣技なんだ。今まで見たことがないような」
「どんなやつっ? よかったら、ちょっとやって見せてくれないかな? 木刀なら貸すから」
ミーチャは悪戯小僧みたいな笑みを浮かべ、弾んだ口調で、
「ふふふ……まだ内緒だよ」
「えー? なんでよー。僕とミーチャの仲だろー?」
「見せたいけど、今は駄目なんだ。……今年の夏の
——天覧比剣。
出し抜けに飛び出してきたその単語に、僕は思わず目を見開いた。
そんな僕の反応の意味を察したのか、ミーチャは胸を張って、改めて言った。
「——ボク、今年の天覧比剣に出ようと思うんだ」
「……そうなの?」
「うん。その復元した剣技を、実戦で試したいんだ。どこまで行けるか分からないけど…………もし、ボクが大会で勝ち進んで、天覧比剣で優勝……ううん、一回戦だけでも出場できたなら。そうすれば、ボクはほんの少しだけでも、周りから同胞だと認めてもらえるかもしれない。だって天覧比剣は、日本剣術を学ぶ人にとって「参加することに意義がある」大会なんだから」
その言葉には、確固たる意思が込められていた。
僕はそれに対して——そこはかとなく、「ざわつき」のようなものを胸に覚えていた。
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