嘉戸と望月《上》
十月十日、午前十時四十五分。
ほどなくして、「その時」は訪れた。
僕達『望月派』三人とその他二人を乗せた車(運転手の後藤さんはカウントせず)は、新宿区市ヶ谷へと訪れた。
市ヶ谷はかつて武家屋敷が集まっていた場所だ。尾張徳川家の上屋敷だった場所には現在は陸軍士官学校が建っており、その近くにあった下級武士の屋敷の集まりは高級住宅街になっている。
市ヶ谷へ入ると段々と車の進み方が緩やかになっていき、やがてそれはある場所に達した途端に輪をかけた。
視界の両端の遥か先まで続いた、背の高い塀。
それよりさらに高い
僕らを乗せた車は、その開かれた大門へと入っていく。
門の威容のせいか、「入る」のではなく「飲み込まれていく」ような錯覚を覚える。
——いや、ある意味間違っていないのかも。
僕らは今、巨大な魔物の腹の中へ潜り込もうとしているようなものだからだ。
……『至剣流宗家
車を待ち受けていたのは、見渡す限り広大な敷地と、数台横並びで走れるほどの広さを誇る大道であった。大道の両端から先には、芝生や玉砂利が広がっていた。その中に、松や桜や梅の樹がまばらに根を張り梢を広げていた。
その大道を真っ直ぐ行った先には、巨大な屋敷が
その屋敷の前に車を停めると、使用人らしき身なり振る舞いの整った人達が僕らを出迎え、案内をしてくれた。……嘉戸宗家には、あらかじめ来訪を伝えてあるからだ。
彼らの引率に従うまま、僕らは大きな正面玄関から屋敷の中へ入り、その中を歩く。
とてつもなく豪勢な内装に、僕は常に圧倒されっぱなしだった。
そうしているうちに目的地はどんどん近づいていき、やがてその部屋へと到着した。
使用人曰く、客間である。
十二畳ほどの広さ。部屋奥の床の間に置かれた無骨な甲冑。入り口の引き戸には
「しばしお待ちください」という使用人の言いつけに従い、僕らは客間の壁際に並んで座して待つ。
しばらくすると、やがて閉じられていた引き戸が突然開いた。
僕はビクッと驚いた。……足音が全くしなかったため、いきなり開いたように感じた。
踏み入ってきたのは、四人。
その四人中三人は比較的若い男で、先頭で入ってきた一人は年代の離れた老人だった。だからまずその老人が目についた。
僕と同じくらいか、少し低いくらいの背丈の小柄な老夫。長い
しかしちょっとよく見てみれば、その羽織姿に内包された整然とした姿勢や、密度のある歩き方、その糸のように細い瞳の奥底でひっそり輝く鋭い眼光が分かり、只の老人ではないことを嫌でも思い知らされる。
老夫はその眼光をちろりと望月先生へ向けると、口元の長い山羊髭を微動させた。
「——久しいですな、望月閣下。このたびは我が嘉戸家への御足労、痛み入ります」
「痛み入る」という言葉には二つのニュアンスがある。相手の親切に恐縮するニュアンスか、相手の厚かましさに呆れているニュアンスか。……これはどちらであろうか。あるいは両方か。
「こちらこそ。手前の都合で現家元である貴方の手間をとらせてしまい、誠に恐縮です。しかしながら、今回は我が流派のこれからに関わる事柄でありますゆえ、
望月先生の淡々とした返しを聞きながら、僕は納得する。……そうか。この人が、今の嘉戸宗家の家元をやっている嘉戸唯明氏か。
四人は僕らと反対側の壁際に座した。客間の入口から見て右側に。
一番奥の上座で、望月先生と唯明氏が対面している。
僕は横並びになった『嘉戸派』の面々へずらりと視線を走らせ、最初に一番右端に座る男へ目がついた。……一番態度が悪かったからだ。他三人はお手本とも言える正座ぶりだったけど、その男だけは傍若無人に座り方を崩していた。
くまなく金色に染めた髪に、甘く整った顔立ち。ワイシャツにスラックスという装いが表す細く整った肢体は、気だるそうに姿勢を崩している様子すら絵になる。さぞ女性にモテることだろう。
「
そんな傍若無人な男の態度を、僕から見て彼の左隣に座る男の人が鋭くたしなめた。全体的に武張った感じの男だった。大柄な体格に、鷹の鋭さと巨岩のいかめしさが同居した激しい顔付き。仁王様みたいだ。怒るとめちゃくちゃ怖そう。
いや、それよりも——
(今、「輝秀」って…………じゃあ、こいつが嘉戸輝秀?)
僕は再び金髪の優男——輝秀へ視線を戻す。
輝秀はかったるさを隠しもせず、隣の仁王様に言った。
「だってさぁ
……やっぱり、天狗男と声質が酷似している。
間違いなく、天狗男の正体はこいつだ。
僕の中に静かな怒りが生まれる。だが、今はまだそれを発露するタイミングでないことは分かるので、秘めたままにしておく。
「望月閣下と、その門下二人の来訪は大いに歓迎しようかな。けど……」
輝秀はじろりと、エカっぺともう一人——香坂さんへと目を向けた。
「どこの馬の骨とも知れぬ異人の小娘と、小汚い
そのあからさまな揶揄に、エカっぺは眉をひそめ、香坂さんは一笑する。
「おや? なんで俺が破落戸なんて分かるんすかぁ? 輝秀の旦那?」
「その怪我で分かるよ。誰がどう見たってソレは喧嘩で大負けした後のだろう? 素行不良な上に弱いなんて可哀想に。この嘉戸の敷居を跨ぐに相応しくない。早々に出て行ってもらいたいものだね」
「へっ、やなこった。俺も、この嬢ちゃんも、等しく当事者なんでなぁ輝秀坊ちゃん。いや、『嘉戸派』の皆様よぉ」
輝秀だけでなく、嘉戸側の全員がぴくりと眉根を動かした。……『嘉戸派』という単語を聴いたからだろう。これは、至剣流の裏事情を知っていなければ出てこない単語だ。
香坂さんはその単語をわざわざ言うことで、自分にもこれから始まる「話し合い」に参加する権利があることを示したのだ。
「——控えろ、輝秀」
そこで静かに口を出してきた人がいた。
唯明氏と、仁王みたいな人——雷蔵氏との間に座っている男だ。
今の口調と同様に、物静かな雰囲気のある男の人だ。
周りに照りつけるような強烈な存在感は無いが、今いる位置に岩のごとく強く乗っかっているような、慎ましくも密度の高い気配を覚える。
パーツに鋭さや強さが無く、表情にも乏しい能面じみた顔であるため、何を考えているのかイマイチ読めない。どことなく螢さんに似た感じのする人である。
輝秀が黙るのを見ると、こちら側へ向き、小さく一礼した。
「……失礼した。愚弟の放言、何卒ご容赦願いたい」
僕らは何も言わなかった。謝罪の承認も、
この人も、嘉戸家の人……なんだよな。
「嘉戸
螢さんが背伸びして僕の耳元まで口を近づけ、そうささやいて教えてくれた。……螢さんの吐息で耳がくすぐったくて幸せ。あとミルクっぽい良い匂い。
心中に生まれかけていた煩悩を慌てて振り払う僕。
唯明氏が咳払いをし、改めて言った。
「では——「本題」に入るとしましょう」
途端、望月・嘉戸の両サイドとも、緊迫した空気を発した。
僕は早速、息が詰まりそうだった。だけど気後れしてはいけない。今回の一件において、僕らは完全に被害者だ。日和ったり弱みを見せてはならない。
「望月の皆様と、その他お二方……貴方がたがこの嘉戸家に御足労いただいた理由は、ひとえに——うちの輝秀が、そちらの門弟である
唯明氏が淡々と、こちらの用件内容を述べていく。
まるで他人事のように——僕は早速反感を抱くが、堪える。その反感を発露したところで意味が無いからだ。少しも僕らの利にはならない。
この話し合いは、僕なんかよりよっぽど冷静で頭の良い、望月先生や螢さんがうまく進めてくれるだろう。
それと……香坂さん。彼も口が上手いし、何より今回の話し合いにおけるキーマンである。彼がいるからこそ今回の話し合いにこじつけられたと言っても過言では無い。
エカっぺも、僕なんかよりずっと賢い子だ。
一番お馬鹿で交渉能力も皆無な僕に出来る貢献は、話をややこしくしないよう、何を言われても黙っていることだ。
「左様。ここにいる我が弟子の秋津光一郎は、そちらの御子息である嘉戸輝秀氏によって不当な暴力を受けた。そのことを報告し、なおかつ断固抗議しに参った次第」
望月先生はそう言って、僕を手で示した。
輝秀が何をいわんやとばかりに肩を竦めた。
「おいおい、覚えがないんだけどなぁ。そこにいる坊や……えっと、秋津くんか。秋津くんとは今日初めてあったばかりだよ? 何で知らない相手に襲い掛からないといけないのかな。それだとただの気違いじゃないか。救国の英雄であっても言っていいことと悪いことがありますよ? 望月閣下」
この男、いけしゃあしゃあと——僕の手が自然と強く拳を作る。
唯明氏は一息つくと、低まった声で言った。
「……今回の用件は、昨日の夕方、電話で聞いたのと同じですな、閣下。なるほど、話は分かりましたが……こちら側が納得の出来る証拠がおありなのでしょうな? 証拠の品も用意していただけると前もって連絡は受けているが…………それが証拠に足る代物でなかった場合、これは大変なことだ。相応の覚悟がおありか?」
言葉遣いこそ落ち着いているが、そこに含蓄された威圧感はひしひしと伝わってきた。
僕は心胆の震えを実感した。鳥肌が立つ感じがする。
だがそれは僕だけなのか、香坂さんは鼻で一笑し、言い返す。
「おぉおぉ、脅す脅す。イモ引かせて証拠の出し渋りをさせようってハラかい? 家元殿」
「無駄口を叩かないで、香坂さん。……「証拠の品」を」
「へいへい、お姫様」
螢さんにたしなめられ、香坂さんは着ているブレザーの左ポケットから、「ソレ」を取り出した。
——ビデオカメラ。
民生用の小型ポータブルビデオカメラである。
瞬間、嘉戸側の四人がぴくりと反応する。……これから「どんな証拠」を突きつけられるのか、察したからだろう。輝秀なんかは目をはっきり剥いていた。
ビデオカメラに手を置きながら、香坂さんはニヤリと笑う。まるで勝ちが確定した賭けに挑む博徒のように。
「帝国の映像技術は世界の最先端を独走し続けている。こいつは国内大手の某映像機器メーカーからつい最近発売された最新モデルでな、民生用だが今までのモデルよりキレーに録画できるわけよ。よく撮れてるぜぇ? 最高に良い
香坂さんはカメラを操作。開閉式小型モニターの軸を捻って画面を外側にして、ボタンを色々いじると、立ち上がって上座へと歩き、床の間にカメラを置く。全員に見えるように。
映った。
録画特有の音割れこそ少しあるものの、画質に関しては僕の家にある古いポータブルビデオカメラよりずっと良かった。おかげで何が映っているのかはっきり分かる。
——モノが無くガラリとした、廃工場の中。
そこは、エカっぺが捕まっていたあの工場だった。どこからか、このカメラで中を撮影していたようだ。そういえばあの工場は結構ボロボロだったので、見つけようと思えば穴が見つかるだろう。そのうちのどこからか撮影したのかも。
映像には、手持ち撮影特有の揺れがいっさい見られない。録画モードで設置して撮影しているようだ。
廃工場の中にいるのは、やはり僕とエカっぺ、そして天狗男とその仲間達。
エカっぺは手足を縛られ拘束されており、僕はそれを取り返さんと一人立ち向かう。しかし数の優位には勝てず、僕も地面に押さえつけられてしまった。それを見世物のように見物している天狗男。
為す術もなくリンチにかけられそうになった、その時。
『オラァ!! 邪魔すっぞコラァ!!』
乱入者。香坂さん率いる『雑草連合』である。
『雑草連合』は天狗男の仲間を鎧袖一触で蹴散らしていき、あっという間に天狗男一人となった。
しかし天狗男は微塵も怯む様子を見せず、前へ出る。
そして——あの煙のような剣技を放った。
いかなる攻撃や防御も煙のごとくすり抜け、敵を容易く殴り据える奇剣。
それが映った瞬間、嘉戸側の驚きは決定的なものになった。
中でもはっきりしているのが輝秀だ。
もうこれでもかっていうくらいの驚きぶりだ。
その表情を見ただけで、僕の中で鬱憤が晴れた気がした。
——僕らがこのビデオの存在を知ったのは、昨日の夕方だ。
突然尋ねてきた香坂さん。彼は言った。
『嘉戸派を追い詰められるかもしれない証拠を手に入れられた。だが俺の力だけじゃ不十分だ。——望月螢、あんたの協力が要る。嘉戸輝秀と実際に剣を交え、その技を見ているであろう、あんたの』
香坂さんの言う「技」というのは、『至剣』のことだ。天狗男が『雑草連合』を蹴散らす映像を見せ、その剣技が嘉戸輝秀の『龍煙剣』と同一のモノであるのか判別する役目を、螢さんに頼みに来たであった。
螢さんは了承し、香坂さんを家へ招き、映像を見た。——そして「間違いなく『龍煙剣』である」という結論を出した。
香坂さんが天狗男へしかけた急襲は、決して無策な突撃ではなかった。
むしろ本命は、襲撃を仕掛ける前に廃工場内へ向けて回しておいたカメラの映像だったのだ。
たとえ剣で勝てなくとも、その後に勝てるようにする算段。
『雑草連合』の全員が返り討ちに遭い、ぞろぞろと撤退していく様子を見せ、しばらくして録画は停止した。
輝秀はその甘く整った優男の容貌を歪め、香坂さんを睨みつけた。
「お前っ……!」
香坂さんは溜飲を下げたように一笑した。
「驚いたか、輝秀坊ちゃん。兵法家の武器は剣だけじゃねぇんだぜ? 自流にばっか引きこもってねぇで、もっと五輪書読めや」
何にせよ、これで「決定的証拠」を突きつけることは出来た。
——本題はこれからだ。
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