嘉戸宗家の憂鬱
二〇〇一年 十月五日 金曜日 東京都新宿区市ヶ谷————
立派な漆喰塗りの塀に囲まれた、広大な敷地だった。
その敷地の中心に建つ、武家屋敷を思わせる大きな建物。そこからまるで根を伸ばすように周囲へ屋根付きの渡り廊下が続き、いくつも存在する別館につながっている。建物の無い場所は、玉砂利が敷かれていたり、松や桜や梅などの木々で彩られている。さらに、鯉がたくさん泳ぎ、いくつもの
その池を横にしているのは、敷地中心に立つ巨大な屋敷。
池と面している窓。そこから見える一階のダイニングルーム。
屋敷の和風な外面とは真逆に、そのダイニングルームは洋風の内装を見せていた。
床は畳ではなく、全面フローリング張り。
一方で、部屋の隅には立派な武士甲冑と、その隣にスタンドで立て掛けられた日本刀が飾られている。どちらも売れば数百万円は下らない逸品だ。
文明開花の道へ進み始めて間もない頃、背伸びして部屋の一部を無理やり西洋化したような、チグハグとした空間だった。
そんな空間の黒檀テーブルに、二人の偉丈夫が向かい合って座っていた。
一人は、見るからに武張った感じの男だった。
やや長めの髪の全体を持ち上げて後方に流しており、細い輪郭でありつつも鷹の鋭さと
もう一人は、濃い静けさを感じさせる男。
武張った男に比べるとやや背丈は低め。しかし、静かな存在感とでも言おうか、小さくても、そこに確かに「有る」ということが濃厚に感じられる。奇妙な存在感を持つ男だった。
鋭さの無い顔のパーツを無表情にして、さらに感情を読めなくしている。その瞳からは、感情の揺らぎというものが一切感じられない。目の前にあるモノを目の前にある通りに映している、そんな瞳だ。
その二人の偉丈夫は、まさしくその部屋において、剛と柔をそれぞれ担っていた。
武張った感じの偉丈夫——
「——こうして実家で落ち着いて話すのも久しいな、兄者! アメリカでの講習、ご苦労だった! どうだった、リッチモンドは? あそこはタバコが美味いそうじゃないか」
静かそうな偉丈夫——嘉戸
「……熱心な生徒が多かった。なんでも「日本剣術には思想があり、殺人を尊ばないから」だそうだ。ファーストフードがよく食べられている国だが、アメリカ人の物事への取り組み方はファーストではない。思っていた以上に気長だ。日本語がわからないのがネックだが、それさえ克服できれば、もしかすると日本の門人よりも早く大成するかもしれない」
「ほう。それは意外だな。白人とは短慮な人種だと思っていたぞ」
「あの国は白人だけではないから。……ただ、リッチモンドは治安が悪くて、滞在期間中一回だけ、拳銃で武装した野盗に襲われた。まぁ、なんとかあしらうことは出来たが」
雷蔵は愉快そうに笑声を発した。
「はっはっ。なんとか、とは謙遜だな! 兄者の「読み」の鋭さを持ってすれば、拳銃弾の軌道を先読みして、先んじて回避することなど造作もないだろうよ」
「造作も無い、かは知らないが、撃った弾を避けたのは確かだ。その弾丸は味方の脳天に当たった。相手方が
「それは素晴らしい武勇伝だな! 宣伝の材料にすれば、門人はさらに増えるかもな。どうやらアメリカでも上手くやれているようで安心したぞ」
「……油断できない点はまだある。新しく入ってきた門人の中に、中央情報局の人間が何人かいる」
「中央情報局? …………あぁ、CIAか」
「ああ。それも同じ期間に、まとめて数人だ」
寂尊が言わんとしている事をすぐに勘づいたようで、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「……なるほど、俺達の情報網か」
「そうだ。彼らが我々嘉戸一族の「情報網」のことを、知っている可能性は高い。——至剣流の門人数はすでに日本国内で百万人を上回り、海外においては十万人。その中には政財界の重鎮や、軍部の上級将校、果てには宮内省の人間までいる。そして、そんな巨大流派を統括しているのが我々嘉戸宗家。つまり嘉戸宗家は、日本全国は言うに及ばず、世界のあらゆる地域にネットワークが存在する。そのネットワークを介して、一般人が知り得ないような情報が、おのずと嘉戸宗家に集まってくるというわけだ。
「……CIAであることも、「情報網」を活かして得た情報か?」
「いや、彼らが自ら明かした。その上で稽古に参加している。……これはおそらく「余計な真似はせず、武道団体としてだけ活動しろ」と暗に釘を刺しているのだ。リッチモンド支部道場があるのは、
雷蔵はため息を吐くような口調で言った。
「日米が同盟を結んでも、完全に信用されたわけではない、ということか」
「国交などそんなものだ。表向き手を繋ぎ合っていても、やはり思想文化の異なる国同士。過度な盲信も拒絶も危険だ。敵か否かだけで測れるほど、国交は単純ではない」
寂尊は話題の矛先を変えるため、雷蔵に問うた。
「ところで、父上はいずこへ?」
「大臣らと会食へ行ったぞ。……父上もすっかり家元だ。去年には
誇らしげに微笑する雷蔵。
だが、ふと姿の見えない「あと一人」に意識が行き、笑みを引っ込めた。
「ところで、あの愚弟はどこへ行った?」
苦虫を嚙みつぶしたような表情であった。
「ああ、奴なら——」
寂尊が心中に呆れを抱きながら、答えようとしたその時だった。
このダイニングルームの窓から見える、嘉戸宗家の屋敷の庭。その中をせわしなく走り、屋敷の出入り口へ向かう若い女を見咎めた。
寂尊の視力は両目とも、幼い頃から今に至るまで2.0だ。もしくはそれ以上視えるかもしれない。さらに持ち前の観察眼も相まって、その女の服装が着崩れを起こしている様が遠くから見ても分かった。……あれは、誰かに脱がされた、いや、脱がされかけたのか。
どたっ、どたっ、という、存在感と不機嫌さを隠しもしない足音がこのダイニングルームへと近づいてくる。……このような下品な歩き方を恥ずかしげも無くする人間は、この屋敷においてたった一人しかいない。
廊下とこの部屋を結ぶ
「——ったく、あそこまで進んでおいて今更やっぱ無しってのはないっつーの。あーちくしょう最悪だ。不完全燃焼、蛇の生殺しだわ」
寂尊、雷蔵の思った通りの人物が入ってきた。
厳粛に引き締まった気をまとう二人とは正反対に、浮ついた感じのある若い男だ。
前髪が眉を覆うくらい、後ろ髪が耳下へ少し伸びた程度の長さの髪は、くまなく金色に染められている。その下にあるのは、女好きする甘く整った顔つき。しかし今は不機嫌そうに表情が歪んでいる。
長身痩躯——しかし決して貧弱ではない——を包むワイシャツとスラックスは、ところどころにシワがついており、おまけにワイシャツは第四ボタンまで外れてだらしなくはだけている。
寂尊の鼻腔に漂ってくるのは、明らかに男物ではない香水の匂い。
察した寂尊は、静かにたしなめた。
「……何度も言っているだろう、
「あーはいはいわかってるよ。それとおかえり寂尊兄ぃ」
気のない受け答えを交えて、申し訳程度に帰りを
輝秀は席の一つにどっかりと座る。
「あぁもうくっそほんと最悪だ。初対面の男の部屋にホイホイ上がり込む
誰に聞かせるでもない愚痴をつらねる末弟に、次兄の雷蔵が霹靂のごとく怒気を発した。
「貴様なんだその態度はぁ!! 異国から帰ってきた兄者を労いもせず、また女遊びかぁ!!」
門下生ならばすくみ上がって動けなくなってしまうほどの怒気に、しかし輝秀は少しも臆することなく飄々と言い返した。
「相変わらず声デカいねぇ、雷蔵兄ぃ。労ってるっての。それに俺がどこで女と遊ぼうと俺の自由でしょ。それとも雷蔵兄ぃってば、自分の元嫁さんと俺が仲良くなっちゃったことをまだ根に持ってる?」
輝秀の指摘に、怒りの浮かんだ雷蔵の強面に羞恥の色が割り込んだ。うろたえ気味な口調で、
「なっ…………そ、それは関係ないっ。確かにあの時は貴様のことを殺してやりたいと思ったが……そもそもあの女が不貞に走ったのが始まりなのだ。そのようなふしだらな女など、この由緒ある嘉戸家にはふさわしくないっ」
「自分にも原因の一端があると一ミリも思わない時点で、あんたと
「き、き、貴様はぁっ…………!!」
羞恥と怒りの熱で真っ赤になった雷蔵。首は屈強な広背筋に埋まり、両手はわなわな震えている。今にも爆発し、飛びかかって来んばかりである。
輝秀もニヤニヤしつつも、即座に立ち上がって対応できるよう椅子の半分にしか座っていない。
「控えろ」
そんな一触即発の弟二人に、寂尊が静かにそう一言を投じた。
途端、二人の間の緊迫した空気が、緩みを取り戻した。
「このままいけば血が流れる。我々は全国百万人の至剣流門人の
雷蔵は激情を押し殺すように、輝秀は興醒めとばかりに、各々の戦意を納めた。
とりあえず沈静化したその場へ最初に発言を投じたのは、輝秀であった。
「そういや、こんな話を知ってるかい、兄貴ども」
「ん?」「なんだっ?」
寂尊は無感情な声で、雷蔵は先刻の苛立ちを引きずったような不機嫌な声で応じる。
輝秀は兄二人を見据えて告げる。
「——「望月派」が、新しい弟子を取ったそうだぜ」
兄二人はぴくりと反応した。
二人とも、出稽古のために全国あるいは海外へ移動して回っていただろうから、やはり知らなかったようだ——輝秀はそう確信する。
「……それは本当か」
「ああ。間違いないぜ寂尊兄ぃ。そのニュー弟子は千代田区に住んでる男子中学生だ。——
輝秀がすらすらと情報を開示していく。……最後の部分だけ、そこはかとなく皮肉で尖っていた。
兄二人は黙考するようにしばし押し黙っていたが、やがて寂尊が一言。
「そうか」
「そうか、って……それだけかよ?」
「どんな答えを期待していた」
「そりゃ寂尊兄ぃ……放置するとやべーんじゃないかって話だよ。「望月派」に新たな弟子だぜ? 潰そうとか考えないわけ?」
雷蔵が何を言わんやとばかりに鼻を鳴らした。
「そんなことをしても意味が無いだろう。「望月派」など、もはや風前の灯だ。いかに奴らが「本物」を謳おうとも、流祖至剣斎の正当な系譜は我ら嘉戸家だ。それを示す文書の類も出そうと思えばいくらでも出せる。名実ともに、我ら嘉戸家こそが「真の宗家」なり。「望月派」など、いずれ待てば絶える」
寂尊がその言葉に付け足すように発言を継いだ。
「まして、今はなおのこと手が出せん。「望月派」の顔役である望月源悟郎閣下は、今やこの国の英雄だ。
「はっ、甘いねぇ寂尊兄ぃ。甘々。んなこと言って温情を与え続けると、いつか足元を掬われちまうよ。弱者を放置した強者が、のちにその弱者に潰された事例なんて歴史上たくさんあるんだぜ?
不安を煽るような言い方に、寂尊は表情を変えぬまま、輝秀を見た。
まるで、その心中を見透かすように。
「お前はそこまで「望月派」を潰したがるのは——望月螢に敗れた腹いせか?」
「——斬り殺されてぇのか、クソ兄貴」
輝秀は余裕のある口調をやめ、鋭く刺すように言った。
不機嫌さを隠そうともせず勢いよく立ち上がると、この部屋から出ようと襖へ向かう。
「余計な真似はするな」
雷蔵がその背中に言い放つ。
「わかってるよ。俺だって嘉戸宗家として甘い汁を吸わせてもらってる身なんでね、それを損なう馬鹿はしないよ」
そう言い残し、輝秀はダイニングルームを後にした。
ここへ来た先ほどと違って、足音が全くしない。しかし輝秀の存在は間違いなく離れている。
雷蔵は舌打ちし、苛立ちと懸念を秘めた声で呟く。
「あの愚弟、何かしなければいいが」
寂尊は、何も言わなかった。
その沈黙は、同意か、否定か、寂尊自身にしか分からない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます