帰り道、そして傾奇者

 望月もちづき先生の課す稽古はひたすら地味でしんどい。

 が、「しんどい」と「辛い」は意味が異なる。

 

 確かに稽古は「しんどい」。心身共にクるものがあるが、それは強いられたものではなく、自分で選んだ道だ。


 自分から選んだ道であれば、よほど理不尽な道程でない限り、耐えることができるものだ。


 技術を磨くコツは、磨かれた果ての結果に執着はせず、その過程を楽しむことだ。これは模写にハマっていた頃の経験則でそう言える。立体感が無くて二次元臭丸出しだった絵が、角度付けや色の濃淡などで遠近感を表す方法を覚えるたびに三次元化していく……そんなふうに自分の画力が成長し、現実の風景に近づいていくさまを見る過程が好きだった。


 最悪なのは、周りからこうしろああしろと言われるままにやらされたり、あるいは無言の圧力でやるように促されたりして渋々やるものだ。そこに長い苦行まで加わればまさしく二重苦。それこそが「辛い」だ。


 無論、この日本に限らず、人間社会にはそういう強制的なしがらみが少なからず存在する。けれど、名前は忘れたがフランスの某印象派画家も「人生には嫌な事が多いから、自分から嫌な事を増やしたくはない」と言っていた。自分の望む未来のためになるものでない限り、苦行に自ら身を投じる必要は無い。


 まぁ詰まるところ、僕は望月先生の「しんどい」稽古を、楽しくやっていたわけである。


 楽しい時間は過ぎるのが早い。


 あっという間に夕方となり、稽古の時間も終わりを迎えた。


 望月家の太っ腹な点は、稽古代無しで教えてくださるところだけではない。稽古後にシャワーも貸してくれるのだ。 


 正直、僕はそのまま帰ってしまっても構わなかったのだが、いくら男だからといって自分の不潔を許容するような男は、ほたるさんに嫌われてしまうかもしれない。なのでお言葉に甘えて浴室を使わせていただいた。

 

 他人の家の浴室というのはやや緊張するものだが、熱いシャワーはその緊張を吹き飛ばし、リラックスさせてくれた。


 リラックスすれば、血流が良くなり、さらにはぼんやりと余計な思考も生み出すものだ。


 ——螢さんは、毎日ここで生まれたままの姿になり、あの色白な体を洗っているのか。


 そう考えた瞬間、良好になった血流が下半身の一点に集中するのを実感したので、慌てて不埒な妄想を振り払った。


 シャワーから出たら、持参した着替えを鞄から出してそれに着替える。汗を吸って重たくなった稽古着は、洗濯機の中に放り込んだ。


 望月家の太っ腹な点がさらにもう一つ。僕の稽古着を洗濯してくれるという点だ。


 さすがにそこまでしてもらうのは悪いと言ったが、「そもそもこの家はわたしとお義父さんしか居ないから必然的に洗濯物が少ない。稽古着一着増えるくらい問題にはならない」という淡々とした螢さんの弁により、僕はまたもお言葉に甘えようと思った。


 僕の稽古着を、螢さんが洗濯する…………ってちょい待て何考えようとしてる僕。不埒な考えを抱くのは螢さんに失礼だぞ。


 なんだか日を追うごとにいやらしさを増している己の思考をいとう僕だが、湯上がりの爽やかさと、帰宅する僕を門で見送ってくれる望月親子を目にして、邪気が一気に吹っ飛んだ。……特に、無表情でそのもみじみたいな手をひらひら振ってくれる螢さんは最高に可愛かった。


 そして現在夜六時をちょっと過ぎた時間帯。

 僕は望月邸の最寄駅へ向かっている途中だった。

 飲み物やらタオルやらが詰まった古い背嚢——かつて帝国陸軍で使われていた死蔵品デッドストックである。結構頑丈だ——を肩にかけ、歩道を歩んでいる。


「さっぶ……」


 吹いてきた微風が、露出した前腕を刺すように冷やしてくる。


 もう秋に入ろうとしているのだろう。夏の頃には六時でもまだサンサンと健在だった太陽はすでに西の彼方へ浸かっており、風も冷たさが増している。湯冷めしている状態ならばなおのこと。


 おしゃれな半袖ワイシャツにジーンズという格好の僕は後悔を覚えた。今度からはあったかい服装にしよう。


 その肌寒さに急かされるまま、僕は足を急がせた。


 望月家から最寄駅までの道のりは遠くはないが、かといって間近というわけでもない。そんな中途半端な距離感が今はもどかしく感じた。


 信号を渡り、大通りの歩道を沿ってから脇道へ。そこから歩道の無い狭い路地がしばらく続いている。普段は大通りを沿って、そこに軒を連ねる店にちょくちょく寄ったりしながら帰るのだが、今日は近道をしたい気分だった。


 その狭い路地の両端はほとんど私有地と道路とを隔てる塀に面しており、建物の玄関口がほとんど見られない。そのためか必然的に通る人が少なく、ひっそりとしていた。路肩にしか白線の引かれていない細いアスファルトの道を、電柱に設置された防犯灯がぼんやり照らしている。


 奥へ奥へと進んでいき、もうそろそろ駅が見える大通りに出られると思い、歩調を早めようとしたその時だった。


 ——人の叫ぶ声が、どこかから響き渡ってきた。


 僕はピタリと足を止める。

 

 ただの声なら、気にする様子も無く歩きを続けていただろう。


 しかし、今の声。


 を持った叫び方だった。


 そう、苦痛に耐えかねて懸命に許しを乞うているような、我が身をかなぐり捨てて必死に助けを懇願しているような……聞く者に同情心を芽生えさせる声。


 そんな同情心からか。それとも下世話な好奇心からか。あるいは両方か。


 僕は進む方向を変えた。


 曲がり角を一回曲がるにつれて、その叫び声はハッキリした言葉の体をなしてくる。


 やめてくれ——それだけは——それをもらうために俺がどれだけがんばったのか——


 聞くたびに、僕の足が速まってくる。


 やがて、もう何度目かの角を曲がった先に、ようやく「それらしきもの」を見つけた。

 

 ——防犯灯の光の下に、二人の男。


 踏まれている男と、踏んでいる男。どちらも歳は十七、八くらいか。


 一番最初に目が行ったのは、踏んでいる男の方だ。いかにも普通っぽい感じの踏まれている方より、尖った容貌をしていたからだ。


 そう。尖った容貌。


 端々がささくれ立ったボリューミーな髪。その前髪の下に覗く、鋭く密度の高い気迫を秘めた眼差し。黒いTシャツに黒袴というチグハグな装い。両腰に佩いた木刀。


 傾奇者かぶきもの——そんな単語が自然と頭に浮かぶ。


 外見の特徴を確認できたら、今度は彼らの詳細な情報を確認しようと自然に意識が働いた。絵描き時代の癖である。


 傾奇者は土埃一つ付いていない綺麗な身なり——格好のセンスの話ではない——だが、踏まれている人は殴打されたようなアザが頬に見られ、身にまとう濃紺の稽古着も着崩れており、シワも多い。見るからに、暴力的にやられた後。


 そんな男の人の背中に体重をこめて踏んでいる傾奇者。木刀を腰に納めたことで空いているその両手には、一枚の長方形の紙。


 防犯灯の光で透かされ、その長方形の紙に記された黒い毛筆文と、大きな朱肉印字が浮かんでいた。


 あの印字——確か、嘉戸かど家の。至剣流宗家の印だ。


 嘉戸宗家の印が押される文書は限られている。

 至剣流関連の出版物。

 至剣流各道場への通達書類。

 それと、切紙きりがみや巻物などといった目録免状だ。


 それをもらうために、俺がどれだけがんばったのか——叫び声のうちの一つだ。


 あの長方形の紙が切紙免状であることは、踏まれている男の人の哀切そうな訴えによって分かった。


「頼むっ!! やめてくれ!! 九年間頑張って、今日、やっともらえた切紙なんだ!! 返してくれっ!!」


 これほど近くで聞けば、さらに心を鷲掴みにし、同情心を誘発させてくる。


 しかし、傾奇者はそれを鼻で笑い、傲岸不遜に言い放った。


「九年間、踊らされてたの間違いだろ。欺瞞ぎまんを欺瞞とも気付かず、お前は貴重な九年間という時間を必要以上に奪われたんだよ。自分たちだけ良い思いをして、下々の門人を騙し続けるクソ宗家様によ」


「何言ってんだよ!? さっきから言ってる意味が分かんないんだよっ!!」


「疑問を持たねぇ時点で論外だ。聞く耳を持つに値しねぇよ」


 唾を吐くように言い捨てると、傾奇者はその切紙免状の上の縁を両手の指で摘んだ。


 ……破ろうとしている。


「このままいけば、お前は老い果てるまでクソ宗家に搾取され続けるだろうよ。『至剣』っていう極上の飯が目の前にあるのに、摘んだモノを口に運べねぇくらい長ぇ箸で食うしかない……そんな仏教の地獄みてぇな修行の日々を永遠と送り続けるだろうよ。だから——。次は至剣流以外の流派で頑張れや。お前のさっきの戦い方見るに、鹿島新当流かしましんとうりゅうとか合ってると思うぜ」

 

 微かに筋張った傾奇者の手指から、破ろうという嘘偽りの無い意志が感じられる。


「や——」


 切紙の持ち主である男の人が叫ぶよりも早く。






「やめろぉぉ————————っ!!」






 僕が近所迷惑になりそうな大声で叫び、曲がり角から飛び出した。


 そんな僕の声に驚いたのか、切紙を破ろうとしていた傾奇者の手が止まる。


 二人の目が、そろって僕へ向いた。


「……誰、お前?」


 尋ねてきたのは、傾奇者の方。


(————っ)


 その眼光で見つめられた瞬間、僕の総身が一気に真冬のごとく冷えた。


 前髪の下から切れ長の瞳。そこに底光りする静かなる闘気と殺気。チラリとそれを見せられただけで、動けなくなった。


 あれはいつだったか、小さい頃の話。家族で温泉旅館へ旅行に行った時だ。風光明媚な山奥にあった旅館。近くの山奥では狩猟をしているらしく、猟犬を連れた狩人のおじさんを目にした。


 連れてた猟犬の犬種は甲斐かいいぬ。その全身真っ黒い犬と目が合い……すくみ上がったのを覚えている。


 今ではご近所の甲斐犬を見ても怖くは無いが(甲斐犬は基本飼い主以外に懐かないから触れはしないけど)、あの頃の感覚は忘れていない。


 ——生き物としての「格上」を見た時の感覚、とでも言えばいいのか。


 それと同じモノを、この傾奇者からは感じられた。


「今、やめろって言ったの、お前? 何をやめろって言ったんだ? ん? 言ってみろや」


 傾奇者がそう問うてくる。ジリジリと刃物を持ってにじり寄って壁際に追い込むような、そんな響きを秘めた声で。


 ——怖い。


 そう思ってしまった。


 僕の心境を見透かしたのか、傾奇者はフンと鼻で笑った。


「余計な正義感出さねぇ方が良いぜ、お坊ちゃん。ケンカってのは相手を見て売らなくちゃ。見てねぇでとっとと家に帰れ。でねぇと……お前もだ」


 踏んでいる青年をグッと足で押し込んで、その有様をアピールしてきた。


 よく見ると、彼の手元近くには木刀が転がっていた。


 傾奇者も、木刀を二本持っている。


 僕は状況を理解する。これは……剣でやり合った結果なのだ。


 破られそうなあの切紙は、あの青年のモノだ。であるなら、彼は切紙剣士だ。


 この傾奇者は、そんな切紙剣士を倒した。おまけに全身には汚れ一つ見られない。


 それらを見ただけで、あの男の実力のほどが十分にうかがえた。


 僕じゃ勝てない、かもしれない。


 ——おまえは、前に切紙持ちの至剣流剣士を倒したじゃないか。なら、戦えるんじゃないか。


 心の中にいる、もう一人の僕がささやいてくる。


 違う。あんなのはマグレだ。運が良かっただけだ。


 剛元とかいう人とはまた、別種の気迫がある。この男は。


 ——なら、見捨てて逃げるか?


 僕は見る。あの傾奇者に踏まれている青年の顔を。


 こっちを見つめている。助けて欲しそうに。溺れながら近くに浮くわらに手を伸ばそうとしているように。無言で懇願している。


 自分の身をかわいがっての懇願ではない。


 切紙を取り返して欲しい、と願っての懇願だ。


 ……九年間と言っていた。


 されど紙切れ一枚。あの一枚を宗家から授与されるまでの間、いったいどれだけの努力を積み重ねてきたのか、同じ至剣流剣士として察するに余りある。


 叩きのめされた挙句、その一枚を目の前で破られるのが、どれだけ剣士としての矜持を傷つけられる行いであるのかも。


 それを知りながら、僕はほおかむりをして立ち去れるのか?


 何より——そんなことで螢さんに勝てるのか?


 この男がどれくらいの強さなのか、まだ分からない。


 強いのだとは思う。


 でも……螢さんよりは絶対に弱い。


 免許皆伝者である望月先生をして、螢さんは「異常」だと言わしめている。


 彼女より強い剣士は、おそらく、今の日本にはいない。僕はそう信じている。


 であれば、この男は、螢さんより弱い。


 それくらいの相手にも勝てず、それどころか立ち向かおうとすらしない。


 そんなことでは、螢さんを超えるなど一生不可能だ。


 後ろへ退がりかけていた片足が前へ戻り、両足がしっかりと地を噛んだ。


「——その切紙、返してあげてください。破ったって、意味なんかないでしょう?」


 僕のそんなハッキリとした声が、夜闇に濃く響いた。


「……へぇ?」


 対し、傾奇者は面白いオモチャを見つけたように笑った。


「その腰の木刀……お前も剣士だろ。流派はどこよ?」


「……至剣流、ですけど」


「だと思ったぜ。オーケィ。なら——きっちりだ」


 言うや、傾奇者は切紙を手早く折りたたみ、袴の帯に差し入れた。


「——俺は香坂伊織こうさかいおり。『雑草連合ざっそうれんごう』のアタマをやってる者だ」


 ——『雑草連合』!


 聞き覚えのある単語に、僕は思わず目を見張る。


 確か、最近帝都で暴れ回っているという不良集団だ。


 全員が至剣流ではない武芸流派を学んだ者達で、生意気そうな至剣流剣士を見つけては叩きのめして回ってるっていう……


「名乗ったぞ。お前の名前はよ?」


「……秋津あきつ光一郎こういちろう


 僕が内心の驚愕を悟られぬように抑えた口調で自己紹介を返すと、傾奇者——香坂はそれを頭の中で噛みしめるように目を閉じ、そして開いた。


「覚えたぞ。んじゃ光一郎クン、取引といこうじゃねぇの」


 ぱん、と、袴の腰帯に挟まった切紙免状を叩く香坂。


「——俺と一対一サシで勝負してみねぇか。もしもお前が勝ったら、この切紙を返してやる」


「そ、そんな勝手なっ」


「剣士だったら剣で取り返せってこった。嫌なら別にいいぜ。破るだけだ」


 自分で奪い取っておいて。


 理不尽な要求に憤りを覚えつつも、僕はすぐに諦め、背嚢を地面に置いた。


 ベルトの左腰に差してある木刀を抜き、それを正眼に構える。


「————ほぅ」


 香坂はそんな僕を見て、少し驚いた顔をした……ような気がする。


 だがすぐにその顔はなりをひそめ、好戦的に口角を釣り上げた。


 両腰の木刀の柄を両手で握った。右手で左腰の長めの木刀を、左手で右腰の小太刀木刀を。


 空中でクロスを描くように、それら二刀を抜き放った。


 二刀を肩の高さで水平にし、目と鼻の先で一対の切っ尖同士を交差させた構え。


「————っ!!」


 途端、驚くべきことが起きた。


 およそ170センチ代半ばくらいだった香坂の背丈が、二メートル以上に膨れ上がったのだ。


 唐突に目の前に湧き出した謎の威容に、木刀を構える僕の全身が震えた。


「じゃあ——行くぜ、至剣流」


 闘争心を押し殺して唸ったようなその一言とともに、目の前の巨躯は動き出した。

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