闇夜に光る二刀流

 この日、九月二十九日——船橋ふなばし慎吾しんご嘉戸かど宗家より、至剣流切紙きりがみを授与された。




 東京都千代田区某所。夜六時。


 道場の帰り道である細い路地を、慎吾は軽い足取りで歩んでいた。


 履いている袴がよく弾む。街灯が照らす自分の影は、今にもスキップしそうな動きだった。


 それほどまでに、嬉しかった。


 今日の稽古の終わりに、師範から切紙を渡された瞬間——九歳から十八歳までの積み重ねが報われた気分になった。


 もともとは、かの陸軍の英雄、望月もちづき源悟郎げんごろうに憧れて学び始めた至剣流。


 慎吾は八歳の頃、ソ連軍による日本侵攻を目の当たりにした。


 戦争に負けた国がどういう目に遭うのか分かる程度には、慎吾は物心がついていた。ゆえに戦争が始まってからは、夜も眠れないくらい怖い気持ちがしばらく続いた。


 ソ連軍を追い払い、そんな慎吾の恐怖を打ち砕いてくれたのが、当時の陸軍大将であった望月源悟郎だ。


 世間が救国の英雄だなんだと誉めそやすまでもなく、慎吾にとって源悟郎はヒーローだった。


 あんな男になりたいと思い、源悟郎と同じ至剣流の門戸を叩いたのは、次の年であった。自分と同じような子供が、他にもたくさんいた。


 懸命に稽古に取り組んだが、免許皆伝までの道のりは、思った以上にきつい道のりだった。


 慎吾自体もともと素質に恵まれた方ではなかったが、免許皆伝という称号はそもそも日本全国規模でも数が少ないのだ。


 しかしだからこそ、源悟郎と、至剣流宗家である嘉戸一族のすごさがいっそう分かった。源悟郎は言うに及ばず、嘉戸宗家の人間はほとんどが免許皆伝者だというのだから。


 慎吾は彼らのようになりたいと思い、がぜん気合いを入れて稽古した。


 剣術の稽古は思いのほか難しいが、それでもどうにか練習を粘り強く続け、そしてようやく今日、切紙免状めんじょうを得ることができた。


 鍛錬は裏切らない。


 鞄に手を突っ込み、今日受け取った切紙免状を取り出す。


 パルプを主原料とした洋紙が普及して久しい日本だが、武芸の免状には今なお和紙が使われている。その手触りと匂い、そして嘉戸宗家の印が押された紙面とその文字を目に焼き付ける。


 紛れもなく本物の切紙免状。自分の名が書かれた。


 またも喜びで胸が踊り、「くぅ〜〜〜〜っ」と歓喜の声を漏らす。


 ここから初伝目録、中伝目録と腕を上げていき……あわよくば、望月源悟郎と同じ奥伝目録を得て皆伝するのだ。


 『至剣』を得て、源悟郎と並ぶ剣客に育った未来の自分を思い浮かべ、慎吾の頬が自然と緩む。


(それにしても、あれだけ多い至剣流の型を全て高水準に練り上げてしまうとは……望月閣下も宗家もすごい人達だな。尊敬する)


 至剣流の型の数は全部で五十。

 それら全ての練度を高い水準にまで引き上げた先に、『至剣』という自分だけの必殺剣技が待っている。

 一つ二つ練り上げるのにも苦労するのに、それが五十もあるのだ。この先の修行の果てしなさが言われずとも分かる。

 それを達成できるのは、あと何年、いや何十年先になるやら。

 けれど、自分は足を止めるつもりは無い。

 すでに自分は至剣流を、生涯歩み続ける修行の道として考えているからだ。


「……よし!」


 家に帰ったら寝る前に稽古だ。もっと先へ進むために。


 決意を改めて固めた慎吾は、免状を鞄へしまい直し、再び歩き出そうとした。


 だが、その足は進むことはなかった。


「……っ?」


 を一目見た瞬間、慎吾の足が自ずと歩くのをやめた。体の内側が緊張し、張り詰めるのを感じた。


 尖った感じの男だった。


 針のような硬さを感じさせる髪質。それらをささくれ立たせた栗じみた髪型。針の群れのような前髪の下にある、鋭い眼差し。

 服装は黒いTシャツに黒い袴という、色は統一されていつつも服の種類的にチグハグな印象。

 そして両腰には木刀を佩いていた。右に小太刀サイズの、左に普通サイズの木刀。


 歳のほどは自分と同じくらい。


 その鋭くも闘志を秘めた眼差しは、明らかに慎吾を見据えていた。


「あの……なんですか」


 不審がりながらそう呼びかける慎吾。


「……お前よぉ、さっきのは至剣流の切紙か?」


 男はそう発した。


 不良特有の、脅すように低まった声。しかしイントネーションに崩れが無く、スッと一本筋が通ったような発声の響きから、知性と理性の色を感じられた。


 それでも、友好的な雰囲気ではない。


 慎吾は警戒心を強めながら、強張った声で言葉を返した。


「そうですけど……それが何か?」


 言うと、男はわらった。


「いや、あれだよ。、って思っただけさ。クソ宗家がハナクソほじりながら書き殴った駄文を、何も知らずに金銀財宝のごとくありがたがってるお前の姿がさぁ、ひどく滑稽に見えたんだよ」


 まるで、渡された指輪のダイヤモンドがキュービックジルコニアだと気付かず「本物」と浮かれ果てる馬鹿な女をせせら笑うような、そんな嘲弄ちょうろうの響きで言った。


 それを聞いた途端、慎吾はかぁっと競り上がってくる怒りの熱を実感した。


 気味の悪い男だが、どんな強面の男が相手とて、今の発言は聞き捨てならなかった。


「なんだとっ!? もう一度言ってみろ!!」


「おう何回でも言ってやるよ。——バッカじゃねぇの? 嘉戸宗家大先生サマ方にからかわれてるとも知らずに、そいつらが書いた文章をヘラヘラヘラヘラ喜びやがってよ。宗家サマの食ってるカップヨーグルトの蓋を渡されて、そいつをベロベロ舐めながらうめぇうめぇって感動してる間抜けを見てる気分だぜ」


 慎吾の左手が、左腰に差してある木刀にかかった。


「どういう意味だ!?」


「そのままの意味だよ。テメェら大衆はどいつもこいつも至剣流至剣流至剣流。その歴史を大して調べようともせず「みんながやってるからぼくもやるー!」的な理由で手を伸ばし、間抜けに免許皆伝を目指しやがる。クソ宗家にほくそ笑まれてるとも知らずにな。……はっ。そんな流派の切紙もらったとしても、そいつの実力なんざたかが知れてるぜ」


 なおもなぶるような言い草。


 慎吾はとうとう我慢ならなくなり、左腰の木刀を抜いた。


「さっきから聞いていれば、息をするように宗家を侮辱しやがって!! 至剣流門下生の前で良い度胸だ!!」


「ふぅん。で? その木刀構えてどうすんのお前?」


 興味無さげな男の問いかけに、慎吾は好戦的に笑った。


「——。その腰にぶら下がっているものは飾りじゃないんだろう? 至剣流切紙の実力、思い知らせてやる」


 そうだ。自分はもう切紙になったのだ。


 九年間、地道に鍛錬を積み続け、ようやくそれを宗家に認められた。


 こんな、わけの分からない格好で夜の街をうろつき、いきなり他人に因縁をつけてくるような頭のイカれた奴には、到達できない境地だ。


 こんなやつに、負けるわけがない。


 すでに始まる前から勝負はついている。


 そう確信している慎吾に対して、男は——獰猛に破顔した。


「——


 愉快さを噛み殺したような声で言い、両腰の木刀に手を置いた。


 右手で左腰の柄を、左手で右腰の柄を掴み、虚空へ十字を描くようにゆっくりと抜いた。


 ——二刀流。


 至剣流を散々侮辱していたところからも分かる通り、この男が学んでいるのは少なくとも至剣流ではない。


 右手に太刀。左手に小太刀。


 男はそれらの木刀を中段で水平にし、眼前で両の切っ尖を交差させて構えた。


「————っ」


 瞬間、目の前の男の全身が、


 自分と同じ175センチくらいの背丈だったはずなのに、一気に2メートルくらいにまで巨大化した。


 いや、違う。そんなはずはない。


 だけだ。


 この男の構えから来る気勢。それが自分の心を圧迫しているのだ。


 恐れるな。こんなものはこけおどしだ。


 しかし、目の前の巨大化した男は、一向に小さくならない。


「じゃあ——行くぞ」


 山のごとく静かで広大な気をまとった巨人が、歩き出した。

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