003 靖国の亡霊

 永遠にも感じられる時間が流れた。

 男は遺体の位置を直し終えたようだ。

 やがて男は再びきしむ音をたてて扉を開き、部屋の外へと去っていった。

 麻沙美まさみ安堵あんどのため息をついた。

 そのまましばらく耳をすましていると男の足音は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 彼女は慎重にベッドの下からはい出し、呼吸をととのえた。

 一連の出来事が、まるで夢か幻のように感じられる。

 麻沙美は思案した。

――このまま元の自分の病室にもどろうか。朝まで待てばきっと医師か看護師がやってきて、この不可解な事態に納得できる説明をつけてくれるだろう

 一瞬思案しあんをめぐらせた後、彼女はかぶりを振った。

 彼女は今の自分が不自然なまでに楽観的であることに気づいた。

 恐怖と混乱のせいで、あまりにも安易な考えに自分をゆだねようとしている。

――危ない、危ない――

 最初の病室にはナースコールのボタンすら見あたらなかった。

 大部屋のある階にもかかわらず、近くに明かりのともるナースステーションの気配も感じられない。

 この病院には、おそらく医師も看護師も存在しないのではないか。

――ここを出よう

 そう麻沙美は決意した。

 どうにかしてこの場所をはなれ、近隣きんりんの住人か警察に助けをもとめるしかない。

 思い立つと行動は早かった。麻沙美は病室の外の様子をうかがって、音がしないことを確かめると、ゆっくりと扉を開いた。

 扉のきしむ音が、まるで病院全体に響きわたるかのようで、身が凍りついた。

 わずかに開いたドアのすき間から、廊下の暗がりがのぞく。

――一刻も早く、一階につながる階段か、外への扉を探さなくては――

 明滅する非常灯の光をたよりに周囲を見まわす。

 そこには誰の姿もなかった。安堵あんどの思いが胸を満たす。

 彼女は廊下へと足を踏みだし、奥のほうへと歩を進めた。

 と、その瞬間、突然の悪寒が背中を通りぬけた。

 後ろに誰かの気配が色濃く立ちこめているのを感じた。

 恐怖と逡巡に固まる身体を無理やりひねり、後ろを振りかえる。 

 そこには、白衣に身を包んだやせた男が立っていた。

 それは暗闇に浮かび上がる幽鬼のようであった。

「ひぃっ」

 思わず短い悲鳴が出た。

 白衣を見た瞬間は医者ではないかと思ったが、その考えは男の雰囲気を見てあとかたもなく消し飛んだ。

 男の周囲には確実に、常軌を逸した何かがただよっている。

「いけませんねぇ。が勝手に動いては――」

 男が口を開いた。

 その声は彼の風体と調和し、不気味な暗い調べをかなでていた。

 男の顔立ちには、何の特徴もないように見えた。

 だがその両目の部分は暗く落ちくぼみ、そこだけ深い闇の色を宿している。

 よく見ると、その中にはかすかな白い点がただよっていた。

 目の中でいくつもの小さな銀河がまたたいているかのような錯覚が、麻沙美の脳裏をよぎった。

「ああ。いかんいかん、うっかり気を抜くとすぐこれだ――」

 男は指先をひたいに伸ばして、両の目の部分をぬぐうように触った。

 手が離れると、彼の目は普通の人間のそれへと変わっていた。

「ひっ」

 再び麻沙美の口から小さな悲鳴がもれた。

 自分の心臓が激しく打ち鳴る音が、耳の中で大きく響く。

 男はゆっくりと、漆黒の闇から溶け出すようにこちらに迫ってきた。

 逃げようとしたが、身体にまったく力が入らない。

 自分の両足が地面に根を張って、くっついてしまっているかのようだった。

「予想よりずいぶん早く目覚めたみたいですが、それはそれで良い。あなたがうつわになりうるかどうか、ひとつといきますか――」

 男のねっとりした声が麻沙美の耳に届く。

 その言葉に秘められた不穏な響きに、麻沙美の背筋に寒気が走った。

 近づいてきた男が麻沙美の両肩をつかんだ。

 冷え切った息がほほに当たる感触があった。

 その温度はまるで死者の息吹のようで、彼女は身の毛がよだつのを感じた。

――いや、いや――

 麻沙美は身をよじって男から離れようとした。

 しかし男の手はがっしりと彼女の肩を押さえつけており、のがれることなど到底かなわなかった。

 そこで麻沙美はふと気づいた。

 両肩をつかんでいる手の指先一本一本がが、いつの間にかぬめぬめとした五匹の蛇に変わっている。

「ひぃっ」

 麻沙美の口から悲鳴がこぼれる。

 男の顔に目を戻すと、その髪は逆立ち不気味にゆらめいていた。

 その髪の毛のたば一つ一つが、ちろちろと赤い舌を出す蛇に変じている。

 男の目は漆黒に戻り、その中には、再び星のような輝きが無数に点在しているのが見えた。

 それは極小ごくしょうの蛇たちの目だった。

 死肉にたかるウジ虫のように、男の目の中で無数の小さな蛇の群れがうごめいている。

 その瞬間、麻沙美は恐怖に意識が飲み込まれていくのを感じた。

 視界がぼんやりとゆがみ、彼女は暗闇の中へと沈んでいった。


 夜の道を、異形の集団が一列になって静かに進んでいた。

 遠目には和服を着た子供たちのようにも見えたが、奇妙なことに人間の子供にしては身長が小さすぎた。たかだか三、四十センチほどの背たけである。

 異形の人数は六人ばかり。

 彼らの髪型はさまざまで、頭頂部に筆の穂先のような髪が少し残されている者、おかっぱになっている者などがいた。

 しかし不思議なことに、どの顔も同じような造作ぞうさを持っている。

 まるで同じ型で作られた人形のようだ。

 彼らの肌はなめらかで白く、陶磁器のような質感を持っていた。

 そしてその顔には、いかなる人間的な表情も浮かんではいなかった。

 一列になった彼らは、みな猫背になって進んでいる。

 両手は胸の前に突き出され、まるで何かを抱えこんでいるかのようだった。

 ほとんど足を動かさぬまま、彼らは地面をすべるように進んでいく。

 その足音は、実体なき幽霊のように全く聞こえない。

 やがて彼らは道をそれ、小高い山の方へと進んでいった。

 山道を登っていくと、そこに石積みの小さな墓碑ぼひが姿をあらわした。

 墓碑に着くと、その奥を一人が持っていたヘラで掘り始めた。

 他の者たちも、それに習って穴を掘り始める。

 穴は次第に深くなっていった。

 どれぐらいの時間がたっただろうか。

 やがて一人が、その手に黄ばんだ陶器の破片のようなものをつかみ上げた。

 瞬間その者の顔が一変し、と人間くさいほほえみが口のはしに浮かびあがる。

 一団は掘った穴をきれいに埋めもどすと、再び列をなして静かにその場を去っていった。


 今年もまた、終戦記念日の時期がやってきた。

 政治家たちが、亡くなった英霊への哀悼の意をささげに靖国へ参拝する季節だ。

 折からの小雨こさめが神社を覆い、参拝者たちの服を少しずつ濡らしていく。

 SPに見守られた議員たちが鳥居をくぐり、拝殿の前で順々に手をあわせる。参拝を終えた議員らに、集まったマスコミが我先にと近づいてきた。

 議員たちの顔には、かすかに嫌悪感が浮かんでいる。彼らは辟易へきえきしている内面をどうにか包み隠していつものコメントを返す。「これは公式参拝ではなく個人としての参拝です」と。

 政治家たちの参拝が一通り終わったあたりで、空模様が変わった。

 空には黒い雲が急速に広がり、不気味な雷鳴が轟きわたった。

 激しい天気の変化に、参拝者の心に不安が広がる。

 雨は氷のように冷たく変じ、まるで天が怒りにまかせて大地をなぐりつけているかのような激しさで降りそそいだ。

 一面、雨の弾幕となった空に、雷光がゆがんだ影を浮かび上がらせた。

 影は徐々に形を変え、やがて戦国時代の鎧兜よろいかぶとをまとった武将の姿を取った。

 その影は、黒雲と溶けあうようにして悪しき空気をまとっていた。

 武将の影は、周囲が震えるほどの声で語りだした。

「我が名は平将門たいらのまさかどなり。我の魂が地上に呼ばれ、我が復讐の時が来たりしことを、この世界に告げるものなり!」

 その声はまるで地獄の底から響く鬼神の咆哮ほうこうのように思え、聞く者の魂を震えあがらせた。

 総理をはじめとする閣僚たち、TVレポーターや新聞記者らは、眼の前で起こった不吉な現象にあわてふためいていた。

 彼らは自然の摂理を超えた出来事に茫然ぼうぜんとし、ただ悪霊の姿を見つめながら、恐怖の戦慄が背筋を伝わっていくのを感じることしかできなかった。

 カメラマンたちは、武将の影をとらえるために必死で空にレンズを向け、その悪夢のような光景を記録におさめようとしていた。

 参拝者たちも、先を争うようにしてスマートフォンを空へとかざす。

われは七年後の本日、八月十五日によみがえるべし。これにおいて我に同意せし七人の鬼が共にせいん。我らは都・東京を滅ぼすこころざしいだく者なり。もしやこのくわだてをはばみたくば、なんじらも七人の勇士をそなえ、我らと対峙たいじせよ。決着の場所は秩父ちちぶ勝浦山かつうらやま龍骸寺りゅうがいじなり」

 雨空に浮かびあがる武将からの宣言は、雷雨にかき消されることなく周囲に響きわたった。

 武将の影は、ただ一方的に宣言を終えると静かに姿を消した。

 空に上った花火の残像が消えるように、武将の姿は次第にかき消えていった。

 あれだけ激しかった雷雨が、いつの間にかやんでいた。

 その場に立ち尽くす聴衆たちのほとんどが、放心状態のまま影の消えた虚空を見つめていた。


 後日の確認によると、いあわせた者たちが撮影した映像や音声には全てひどいノイズが乗っており、まともな記録は残ってはいなかった。

 政府からの厳しい箝口令かんこうれいによって、報道関係者や一般の参拝者たちには当日起きた事実を公にすることが禁じられた。

 関係者の多くは、その日自分たちが集団的な幻覚を見たのだと思いこむことで釈然としない気持ちをなだめるしかなかった。

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