恋愛における引力と加速の法則
ちえり
Prologue
第1話 彼女の第一印象は
僕と彼女が知り合った場所は、言うまでもなく学校だった――
4月から、1学年の3分の2である進学コースのA組~F組を受け持つこととなった僕は、昨年度までの6年間は一貫コース1~3組の連携授業と、進学組で理系選択をした2・3年生の担当をしていた。
中高一貫校ゆえのゆとり教育――実際には先取り教育の6年間で組まれる特殊なカリキュラムの対応と管理、それから最新の受験対策に四苦八苦していたので、久々に安定の必修科目担当になったことに安堵した。
だいぶ慣れてきてはいたものの、多少のプレッシャーを覚えてしまうのは致し方ないことで、時には胃腸をも蝕むストレスから今年は解放されるのかと若干喜んでしまっていた。
高校の物理学教師で独身。男盛りの31歳。
……と言いたいところだが、早くも朽ちかけている感が否めない。
こうして毎日毎日 若い子たちを相手にしているせいか、自分の老いを強く感じるのである。
昔は28歳くらいで結婚して30歳頃には父親になっているだろうと、自分の将来を考えていたが……すでに予定を3年もオーバーしている。そして今現在、結婚を考えている相手どころか恋人の「こ」の字もない。
完全に諦めてしまうにはまだ早いとは思うが、僕は適齢期を逃しつつあった。認めたくはないけども――
*
「一年生は最初が肝心だからなぁ……」
物理準備室内の自分の席で、プリントの原稿を作成しながら考え事に集中していると、
「笠井先生~、また心の声がこぼれてますよー」
「あ、すみません。つい……」
同僚の月島先生に笑われた。
時々こうして周囲に笑われてしまうのだが、ぶつぶつと一人言を漏らす癖はまだ治ってくれそうにない。
堅苦しくなりすぎないよう配慮したいけど、緊張感の欠ける授業になってもマズいし、どこまで崩すべきか――
(基本的には説明に集中して、時には笑いも交えれば……って無理だな)
自分の性格的にできることは限られていて、面白い用例や愉快な例え話を例題や余談に交えて陽気に楽しく解説するのは理想的だが、まず不可能だ。
けれど、生徒に嫌われがちな教科というレッテルを少しでも剥がすべく努力したい。身近な例題を通して、内容に親しみを感じてもらえば、数ある公式の関連性も飲み込みやすく、扱いやすさも増すと思うので、そうなるような工夫を――
「うん、そうだな」
とにかく気を引き締めて、時には視点を変えながら、やれるだけのことをやってみるかと好ましいスタートについて考えを巡らせていた数日後――
1年D組の最初の授業が始まる10分前に、物理準備室を訪ねてきたのが彼女だった。
*
コンコンコンッ――
「…………?」
ノックのあとに扉が開かないので、どうぞ と声をかけてみる。
あ、これ、なんだか久々な感じだ……面接指導の時以来?
「失礼します」
カラカラカラカラ……と控えめな音を立てながら、ゆっくりと扉が開く。
顔立ちは大人びているがあまり見覚えのない生徒――真新しい赤い上履きを履いていることからも新一年生だと判る――が入室して一礼した。
「1年D組の秋山です。次の授業の持ち物を受け取りに伺いました」
(D組? ってことは、僕の担当クラスだよな……)
「えーっと……」
戸惑いながらきょろきょろと周囲の反応を窺うと、隣りの席にいる同僚と目が合った。
「笠井先生、忘れたんですかー? 今年度から教科係ができたじゃないですか。それですよ」
「あっ、そうでした。失念してました。すみません……」
「ふふっ……」
再び入口の方を見ると、無表情な一年生が大人しく佇んでいる。
(ん? 気のせいかな? 今この子に笑われたような……)
改めて彼女の顔を観察する。
表情が無いとどことなく冷たい印象が際立つ――けれど、随分と綺麗な子だった。
身長も女の子にしては高めだし、スラッとしていて手足が長い……これで先月までは中学生だったというのだから、最近の子供たちの成熟具合には目を見張るものがある。
時には20代後半の間違いでは!?と疑いたくなるような風貌――別の言い方をすれば野性的で逞しい顔や、化粧映えのする顔――の生徒もいるし、最近の子は全体的に背が高くて、いわゆるモデル体型の子が多い。
(僕らの時代には考えられない発育っぷりだ――実に羨ましい)
「えーと、D組のアキヤマさん、でしたっけ?」
「はい、
ハキハキとした受け応えで、再びきちんとした深い礼をする、清々しい態度の一年生だった。
(さすがは一年生。この教師を敬う態度って新鮮だなぁ……)
こんな初々しい態度も数カ月後には見られなくなってしまうのだから、慣れというのは恐ろしい。
近頃の学生は、教師に対して、良く言えば〝フレンドリー〟悪く言うと〝馴れ馴れしい〟傾向にあると思う。もちろん生徒に好かれるのは嬉しいし、仲が良いこと事態は悪いことでは無いのだが……僕としてはきちんとケジメをつけることを学ばせるのも、教師として重要な役目の一つだと思うのだ。
だからと言って厳しければ良いかというとそうでもなくて、イジメや進路やその他の事情が複雑に絡まった問題がよく起こる中で親身にならざるを得ない状況にあり、生徒に侮られないような程よい距離感で教師としての立場を保つというのは、案外難しいことだ。
そういう意味では今年は担任を持っていないので、何十人もの生徒の事情に深く関わる――ということも無く、いくらか気は楽である。
「それでは秋山さん、これとこれをお願いします。あとこっちのプリントを先に行って、配っておいてもらえますか?」
「はい、わかりました」
一応補足で説明を加えると、短いやりとりの最中だけでも要領の良さが窺えた。
明るい笑顔で淀みなく受け応えををする秋山怜子は、いかにも聡明で模範生な感じだ――おそらく推薦で入学した優秀な生徒の一人なのだろう。
そもそも僕が彼女の訪れに戸惑ったのも、係の存在を忘れていたのも、新年度が始まって数日経っても教科係の生徒が実際に準備室まで来て係の仕事を遂行しようとするところを見たことがなかったからだ。
(真面目な子なんだな……)
教師側から係の生徒を呼び出したり頼んだりしなければ、生徒の方から自主的に手伝いを求めてくることなんてそうそう無い。せいぜい教室に着いてから準備の手伝いやノートの回収を頼んだりするくらいで、始業前にわざわざ準備室まで指示を受けに来た生徒は初めてだ。
普通に考えて、好き好んで雑用を引き受けたいと思うほど暇な生徒はいないと思うのだが……秋山さんは仕事熱心な性格なのか、慣れない最初の内だけの行動なのか――とにかく珍しい存在であることが確定した。
*
結局。後にも先にも、僕のもとに手伝いを乞いに来た生徒は彼女だけだったので、1年D組の初授業と秋山怜子の存在はひどく心に残ることとなる。
そのせいか、今でもこうして初対面の時のことを正確に思い返して語ることができるわけだが……それがただの偶然とは、今や到底思えない。
しかも、その時すでに彼女の方は僕に好印象を覚えていて、数日後には恋に落ちていたと言うのだから……人生なにが起こるか分からない。
当時の僕といえば、生徒の一人と個人的な付き合いを持つようになるなんて、天地がひっくり返っても起こらないことと認識していて、僅かな可能性すらも考えたことが無かったわけで――
でもそう考えると、僕ら世代の固定観念と、染み付いていた常識を物ともせずに――時には撥ね除けて、更には180度の方向転換までさせられたのだから、彼女の手腕というか、魅力というか……行動力なるエネルギーは、流石の一言に尽きる。
若いってすごい。
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