魚鱗
赤羽かなえ
第1話 いっそ、人魚だったらいいのに。
いっそ、人魚だったらいいのに。
昔、読んだ人魚姫の本に憧れた。私の肌は、はげかけたウロコのようだった。
きっと、私は、間違えて海から人間の世界に来てしまって、元に戻れなくなっちゃったんだ。地上に合わない身体だからこんなに痒いの。そう思ったら、辛いのも仕方がない、って思える。
海の中で生きることができたら、この熱が収まるんじゃないかな。海だったら、人目のないところに泳いで逃げて、岩場の陰でひっそりと生きることができるのに。
私の体にはいつも逃げない熱がある。その熱は、一日に必ず二回は反乱する。反乱のジカンになると私の血管には無数の蛇が放たれて、体中を暴れ回るのだ。
血管をうねる熱を私の爪が必死になって追い回す。足のすね、手の甲、ひじ、背骨の脇、膝の裏……。
一時間か二時間か、もだえながら掻き回す。
熱の蛇たちが過ぎ去った後、私は快感に身を委ねながら泣く。
痛みを感じる前の私の体は高揚感でぼうっとなる。でも間もなく、また掻くことにあらがえなかった罪悪感が目から涙としてあふれ出した。
こすられて満たされた気持ちが落ち着いて、少しずつ傷口が疼き出す頃にようやく我に返る。
気がつけば、そこら中に散らばるウロコのような皮とシーツに染みこんだ血や膿の跡。涙がでないときはあるけれど、皮や血や膿がでないことはなかった。
シーツは、翌朝、新しいものに換えられるまで、私と熱との戦いの歴史を克明に記録していく。毎日取り換えても、血のシミは消えることなくシーツに沈んでいる。
母は、私の物心がつく前にその痕跡を完璧に消し去ることを放棄した。
だって、毎日血だらけになるのだから。完璧で気高い母だったから、絶対に努力はしたはずだ。
でも、シーツから血の染みが完全になくなることは私の病気の克服をもってしかできないのだと屈辱と、こんな私のことを生んでしまった自責の念を込めながら、毎日シーツを洗い続けていただろう。
私の敵は熱だけではなかった。
外に出れば、人の目という新たな敵が現れる。みんな私とは目を合わせてくれなかった。目は合わせてくれないくせに、沢山の視線が私の体を刺す。今日も後ろから赤く腫れ上がった体を誰かがねめ回す。そのくせ、私のことは見なかったふりをして視線を上手にかわしながら去って行く。
私はあわれみの対象だ。人間は優劣をつける。私を可哀そうに思うことで自分がマシである、ということを確認するのだ。かゆくていつも皮膚を傷めつけている私を気の毒そうな目で眺めた。見ず知らずの人が私のことをかわいそう、と言った。
小さい子供は私のことを指さして「あの人、変」と言う。一緒にいた子供の親は、慌ててその子の口をふさいで足早に立ち去った。でも、私にとってそれは、ごく日常の風景だから、ことさら何も思わない。かわいそうなのは母と一緒に出掛けた時だ。私が何か言われる度、見ないフリをしながらじろじろと見る目線を送られる度に、まるで罪人になったかのように身を縮めるのだった。
母は血だらけになるシーツを洗ってくれただけではない、いい医者を探しては色々なところに連れて行ってくれた……色んな人の好奇の目線に耐えながら。夜、体温が上がってかゆさが増して唸ると、寝ていてもすぐに飛び起きて、やさしくマッサージをしてくれた。私の苦しみに寄り添ってくれない時はなかった。母の気が休まったのは、私が保育園や学校に通っていた間だけだったはずだ。
そのくらい母は献身的に私に寄り添い、常に私の状態に気を配り、私のケアをしてくれた。でも、私の症状はどこに行ってもいっこうに良くならなかった。色々な薬を塗っても、楽になるのはいっときだけ。そのあとは、ますますひどくなる気がした。時には、身体がだるくなることもあって、動けなくなることもあった。
高校二年の夏、母は倒れてあっけなくこの世を去った。異変が起きて二日も経っていなかった。
病室の窓はピタリと締まっていたけど、外には遠くセミの音が聞こえていた。ミーン、ミーンというセミの声と心音の機械の音が混ざり合った音が私の頭の中に響き続けていた。母は、私の手を取って握りしめながら、最期まで聞こえない声でつぶやき続けた。
その口の形は、ごめん、を繰り返していた……ずっと、ずっと。口から最後のごめんが出た後で、母の手は少しずつ力を失った。
母の骨が小さい姿で出てきたときに、母がこの世から消えてしまったことをようやく実感した。骨をつかめずにうずくまって泣きじゃくる私は、孤独だった。
なんで私じゃなかったんだろう。私が死んだ方が、みんなが楽になれたはずなのに。私はこんなままだし、私が母の寿命を縮めたんだ。しかも、最後まで母に謝らせてしまった。母は私に振り回されて、いつもつらかっただろうに、私をなじることはなかった。でも、死んでせいせいしたのかもしれない。置いていかれてしまった、母に。世の中の唯一の味方に逃げられたようで泣き続けることしかできなかった。
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