第三幕 月下の再会と襲撃

 夜闇の中を百の頭をもつ獣が進む。

 悲鳴をあげて、人間の娘が逃げる。

 そしてカッと、聖なる光が闇を切り裂き──。


「なんで昨日の今日で、アンタは同じことくりかえしてるの!? 馬鹿なの!?」

「だって、お腹が空いたんです。ぺこぺこなんですっ。見逃してくださいー」


 天使のエルの罵声に、悪魔のイヴが応える。

 とっくの昔に、人間の娘は逃げだしていた。エルはといえば、本部に帰ったあと署長への報告を終え、偵察もかねてスラム街に来たのである。そうしたら、かんたんにイヴが見つかったのだった。普通の低級悪魔ならばともかく、イヴのように間抜けなところのある娘はささいなことで死にかねない。無事な姿を見て、エルは思わず安堵を覚えた。だが、そんな気分になる義理などない。なんだか猛烈に腹がたったので、彼女は拳銃を抜いた。

 かくして、今に至る。

「今夜こそ覚悟しろ!」

「助けてくださいー!」

 わあわあと、ふたりは追いかけっこを続けた。定期的にエルは発砲する。イヴは馬鹿だがまだ逃走用の魔獣──足の速い、『デケム』を残しているのだ。油断はできないし、隙も見せられない。イヴに余裕を与えないように気をつけながら、エルは距離を詰めていく。

「見逃してくれたら、感謝しますからぁ!」

「嬉しくない!」

「すっごく感謝しますからぁ!」

「だから、嬉しくない! あとちょっと……」

 エルの白い手が、イヴのうす紫の髪に届きかける。

 だが、そのときだった。

「…………………ううっ」

 声が、聞こえた。

 哀れなうめきが。

「なに、今の?」

「わ、私じゃないですよ!」

 エルとイヴは緊急停止した。ふたりは顔を見あわせる。

 それから、そろった動きで、バッと広場から延びる道へと視線を向けた。

 闇の奥からぺたぺたと音がひびいてくる。裸足で煉瓦を叩いて、ボロ布に体を包んだ人間が姿を見せた。なんだとエルは詰めていた息を吐いた。おそらく物乞いのたぐいだろう。

 光を見て、なにかをもらえないかとやってきたのだ。

 大きく、エルは肩をすくめた。

「残念だけど、食べ物は持ってな……ッ!」

 瞬間、彼女は本能的に銃口をあげた。

 人間からは鉄錆の匂いがしたのだ。

 まちがいない。血の、香りだった。

「…………なに?」

「ぐっ……ああっ」

 ガクンッと異様な角度で、相手は顔を撥ねあげた。

 痩せた男だ。その額にはいくつもの傷が刻まれている。深く複雑に裂かれて、皮膚はびらびらと揺れながら肉と脂肪を覗かせていた。そこから血があふれ、だらだらと顔の表面を濡らしている。眼球を撫でたあと、ぬめる紅色は口元の皺へと流れこんで溜まっていた。

 残酷な事実に、エルは気がついた。これはただの傷ではない。

 変異の呪いが、ナイフで刻みつけられているのだ。

「エルさん、危ないです! さがって!」

「馬鹿、射線上にでるな!」

 両腕を広げて、イヴが前にでた。意外性に、エルはまばたきをする。

 この機会に逃げればいいだろうに。弱虫なくせに変な悪魔だ。しかも、イヴはなにをやろうとした? わかってはいるもののエルは混乱した。イヴは彼女をかばおうとしたのだ。

 天使ですら、エルのことを助けはしないのに。

(なんで、悪魔が?)

 そう思いながらも、エルは動いた。戦闘能力のないイヴのことを、彼女は逆に背中へと隠す。そのあいだにも、呪われた人間の体は歪みはじめていた。

 額からはさらに血が流れていく。呪いは、紅く発光をはじめた。魔力による輝きが内臓や骨をも蝕んでいく。網目のような模様に、彼は覆われた。痛みにだろう。人間は吼える。

「うっ、あああああああああああ、ぎっ、ギッ、GRYYYYYYYYYYYYYYYY」

「くっ」

「わっ」

 ぶつんっと、人間の表皮は破れた。一気に、それは弾けるような勢いで剥ける。露わになった筋繊維が、膨張のうえ、変質──表面に鱗が張りはじめた。一部の骨が伸び、尾の形をとる。指先を突き破って、凶悪な爪が生えた。生々しい音とともに、舌が縦に割れる。


 エルはイヴを前に出さないようにした。

 ひどく弱々しく、イヴは身を震わせる。


 やがて、残酷な変貌は終わった。


 ふたりの前には──蜥蜴に似た──醜い怪物が立っていた。


   ***


『ギッ、ギィッ、GRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!』

 ドスドスドスと、重い足音をたてながら異形は走り寄ってくる。

 ソレは、元人間だ。だが、エルはいっさいの躊躇をしなかった。

 蜥蜴の紅い瞳に理性の色はない。慈悲をかけても、こちらが喰われて終わるだけだ。

『ギッ!』

「許せ!」

 突きだされた爬虫類の顎の下に、エルは銃口を押し当てた。引き金を弾く。どしゅっと鈍い音がした。弾丸は、蜥蜴の後頭部から抜けた。後ろ向きに、脳漿が噴きだす。闇夜の中へ、血の紅が派手に振り撒かれた。それでも、蜥蜴は動いた。巨大な左手が振るわれる。

 銃把で、エルは爪を横から叩いて、一撃を流した。だが、硬さで腕に痺れが走る。

 その間にも、蜥蜴は右手を振りおろした。処刑鎌にも似た鋭いかがやきが、エルへ迫る。

「くっ!」

「えいっ!」

 びったーんと、横から伸びたナニカが、蜥蜴の体を叩いた。

 見れば、イヴの羽だ。そこそこ硬質な打撃を喰らい、蜥蜴はぐらりと倒れる。すでに限界は超えていたらしい。横たわったまま数回痙攣すると、ソレは静かに動かなくなった。

 広場の煉瓦の上に、粘つく血がどろりと広がる。

 ふうと、エルは息を吐いた。彼女はイヴのことを振り向く。うんとうなずき、エルは素直に賛辞を口にすることにした。称賛に値する働きをした者は褒めるのが、彼女の主義だ。

「やるじゃない、アンタ」

「ど、どうも、です」

「に、しても……怪物への不可逆な変異の術だなんて、この人間が望んで自らに刻んだとは思えない。いったい、誰……が」

 そこで、エルはしゃべるのを止めた。

 耳が、複数の異音をとらえたためだ。

 ひたひた、ぺたぺた、カツカツと人間たちが近づいてくる。気がつけばスラム街の貧民に、エルたちのいる広場はとり囲まれていた。男が女が老人が子供が、虚ろに顔をあげる。

 その額から下は生々しい紅で染められていた。ぽたり、血が垂れる。全員に惨くもおぞましき、変異の呪いが刻まれていた。ぱぁんっと風船が割れるように、その皮膚が弾ける。

 醜悪な変化がはじまった。

 あまりの光景に、イヴは震えながら声をあげる。

「こ、これって」

「今は考えるな! 逃げるしかない!」

「この人たちは、元にはもどせないんですか?」

「解呪の術があるのなら、ひとり目からやってる!」

 前のめりに、エルは走りだした。標的は決めてある。

 迷うことなく、彼女は子供を狙った。

 食欲に染まった蜥蜴の眼球を、二丁拳銃で撃ち抜く。視界を潰されてもなお、小柄な蜥蜴はもがいた。その顔面にエルは蹴りを埋めた。そのまま押し倒すと体の上を駆け抜ける。

 ごめんなさいごめんなさいと涙声でくりかえしながら、イヴもついてきた。だが、広場を抜けても新たな蜥蜴が曲がり角から姿を見せた。顎が振られる。細い舌が空気を舐めた。

 短く、エルは舌打ちした。まるで、悪夢のようだ。キリがない。

 適当なゴミ山を、ふたりは選んだ。エルは汚さに歯噛みし、イヴはずり落ちそうになりながらも昨日と同様に高みへよじ登る。鱗屋根の上に立ち、エルはパンパンと手を払った。

 だが、目の前を見て、息を呑んだ。

「……嘘」

「まさか、いるんですか?」

 そこにも、ふらりと影が揺れている。痩せた男が振り返った。額は紅く染まっている。

 呪いの犠牲者の数に対して、エルは思わずつぶやいた。

「ハッ……どれだけ」

「『ウーヌス』、『ドゥオ』、『トリア』……」

「召喚!? 確かに、対抗方法としてはありだけれども……でも、ちょっと待って。どれだけ数を出すつもり……」

「『デケム』!」

 あっという間に九体の召喚を終えたあと、イヴは十体目の名を叫んだ。

 屋根に乗りきれなかった獣たちが落下する中、黒い霧が渦を巻く。その晴れた後には、痩せた老犬がいた。無害そうな顔で、獣はまぬけに舌をだしている。

 ハッと、エルは気がついた。どうやら、イヴの獣は召喚できる順番が決まっているのだ。そして、ようやく出せた逃走用の十体目に乗れば、イヴだけならばここから脱出することができた。また捕縛失敗になるが、しかたない。今宵は緊急事態なのだ。見逃すとしよう。

 そこまで、エルが考えたときだった。迷いなく、イヴは声を張りあげた。

「後ろに乗ってください!」

「アンタ……馬鹿?」

 思わず、エルはつぶやいた。悪魔が天使を──犯罪者が警察を助けようとするなど愚かにもほどがある。それにイヴにとって優秀で厄介なエルはここで死んだほうが都合がいい。

 同僚でさえ、秀でた存在は疎むものだ。一番ひどいときなど、エルは茶に毒を盛られたこともある。高い笑い声のひびく中、彼女は自力で這いずって医務室まで移動した。

 目障りな者はいなくなったほうがいい。誰もがそう考える。

 敵であれば、なおさらだろう。

 そのはずが、イヴはまっすぐに白い手をさし伸べた。急げと、彼女はエルを呼ぶ。その紫水晶の目の中には、助けたいのだという真摯な望みだけが、星のようにかがやいていた。

 必死に、イヴは続ける。

「エルさん、早く!」

 天使ですら、ありえないような純粋さで。

 ぐっと、エルは思わず唇を噛んだ。だが、首を縦に振って応える。

「わかった。助かる」

 揉めても不利になるだけだ。ここはイヴの力を借りると決断し、エルは即座に動いた。イヴの手をとって、彼女の後ろへ回る。老犬の背中に乗ると、剥きだしの腰に抱きついた。

 くすぐったかったのか、イヴはひゃあっと小さく叫んだ。だが、すぐに前を見つめる。

「『デケム』、走って! 他は追手を止めて!」

 凛と、彼女は指示を飛ばした。屋根に残っていた獣たちは散開する。

 ぴゅるるっと、老犬は走りだした。だが、その速度は昨日よりも明らかに遅い。重量オーバーだ。ううっとイヴは泣きそうな声をだした。後方の追手は、残った獣が止めている。だが、進行方向から蜥蜴が迫った。前方の一匹が腕を振るう。

 イヴは目を閉じた。だが、蜥蜴の額には穴が開く。遅れて、血が噴きだした。

 エルが撃ったのだ。左右を警戒しながら、彼女は鋭く告げる。

「『デケム』を走らせ続けて。昨日よりは遅いけれども、アタシたちが駆けるよりはずっと速い。これなら包囲を抜けられる」

「はっ、はい、了解です!」

「邪魔するやつは、アタシが撃つ!」

 イヴの操縦で、『デケム』は駆ける。前に立つ影の間を、ふたりは縫うように走った。

 近づいてくる者に、エルは次々と銃口を向けた。殺害することよりも妨害を意識して、引き金を弾く。すばやく狙いを移しては頭部を射抜き、視界を潰して、怪物の足を止めた。

 どれだけの時間が、経っただろうか。

 気がつけば、迫りくる影は途絶えていた。街並みも整ったものへと変わっている。規則正しく建てられた家々は、スラム街とは造りが明確に異なった。辺りを見回して、エルは考える。ずいぶんと距離が開いた。ここまでは、敵も来ないだろう。

 ふうっとエルは細く息を吐いた。ようやく、彼女は安堵を覚える。

 無事、ふたりは包囲網を脱出できたのだ。そこで、イヴは困惑した声をあげた。

「あっ……どこに行きましょうか? 私、元々遠くから来たので、スラム以外の人間の街をあまり知らないんです」

「天使警察本部へ」

「天使警察本部!?」

 エルのひと言に、イヴは怯えきった声をあげた。そんな愚行、鶏がシチュー鍋に飛びこむようなものだ。犯罪者の悪魔からすれば、恐ろしいにもほどがある提案だろう。

 だが、エルはかまわなかった。ごくごく自然な調子で、彼女は鋭く指示を飛ばす。

「なに? あそこ以上に安全なところはない。緊急事態なんだから、急いで!」

「ううっ、わかりました……エルさんを信じます」

『デケム』は、天使警察本部へと頭を向けた。スラム街からずっと、二人は建物の上を移動している。だが、通常の街は家々が密集していない。隙間を越えるために、高く、獣は屋根を蹴った。風が、エルとイヴの頬を撫でる。白とうす紫の髪が、美しく踊った。


 まだ円に近い月に、少女たちの影が映る。

 犬の背に乗ったふたりは、御伽噺のひと幕のように駆けた。


 そうして、本部に到着。

 エルはイヴを投獄した。


   ***


「なんでですか!?」

「そりゃ、こうするでしょ」

 檻の格子を掴んで、イヴは情けない声をあげる。一方で、エルは肩をすくめた。

 フッと、彼女はイヴの泣き顔を鼻で笑う。

「逃走補助には感謝してるけど? アタシは天使。アンタは悪魔。アタシは警察でアンタは犯罪者。この流れは当然じゃない? まさか、本気で予想できなかった?」

「いやぁですううう、だしてくださいいいいいいい」

「まあ、軽犯罪ばっかりだからそのうちでられるし」

「それっていつですかぁああああああああ」

「積もりに積もって、五十年くらいだけど」

「長いですよぉおおおおおおおおおおおおおおお」

「悪魔にとっては、それほどでもないでしょう?」

「だしてえええええ」

「嫌だ」

 やいのやいのと、ふたりは騒ぐ。不毛なやりとりは、いつまでも終わらない。イヴは嘆願をくりかえし、エルは慰めたり、笑ったりした。さしいれくらいはあげるからとのエルの言葉に、イヴは嫌ですぅうううと泣く。まあと、エルは思った。イヴは明らかに、他の悪魔の犯罪者とは違う。あとで、減刑の嘆願書を書いてやるのもやぶさかではない。

 そう、エルが考えているときだ。不意に、その場へと甘茶色の突風が駆けてきた。

 誰かと思えば、ルナだ。

 キキーッと、彼女は急停止する。かかとをそろえて、ルナは敬礼した。

「エルさん、お疲れ様です! 署長がお呼びです!」

「わかった。今、行く」

「あっ、それとですね」

「うん?」

 なにやら、ルナは言いよどむ。どうしたのかと、エルは目を細めた。己の額に手を添えたまま、ルナは獣の耳をぱたりと倒した。自身も困惑を覚えている口調で、彼女は続ける。


「『逃げ羽根のイヴ』も連れてくるようにとのことです!」


   ***


「……失礼します。イヴを連れてきました」

「ご苦労……ソレが、か」

「ううっ……手錠嫌です」

 新たな手錠をはめられてぴいぴいと泣く悪魔に、シャレーナは冷たい視線を投げた。なにかを確かめるかのように、彼女は目を細める。そのあいだも、イヴは幼い子供のように泣き続けた。やがて、シャレーナは不可解そうにつぶやいた。

「……『選ばれる』ようにはとても見えないが」

「シャレーナ署長?」

「ああ、すまない。スラム街での報告は受けた。大変だったな」

 シャレーナの労いに、エルは目を細めた。

 大変、どころの騒ぎではない。

 天使から見れば、人間とは羽虫にすぎない。だが、残酷に潰してもいい存在というわけでは決してなかった。一方で、呪いを刻んだ犯人は、人間のことを怪物の材料としか考えてはいないだろう。低い声で、エルは自身の推測を告げた。

「……残酷性と発生場所を鑑みるに、最近の連続殺人と此度の襲撃はおそらく関係があります。人間の安全のためには、早急な解決が求められるかと」

「うむ……そのためにも、スラム街をよく知る者が必要だ」

 真面目かつ重々しい口調で、シャレーナは続けた。

 うん? とエルは首をかしげる。

 なんだか、凄く嫌な予感がした。

 そこで、シャレーナはふたたびイヴをじっと見つめた。

 怯えて、イヴは身を縮める。もしや威嚇なのか、羽もパタパタさせた。効果がないことに気づいたのか、やがて羽ばたきは止められる。だが、ふたたび決意の表情で、イヴは羽をがんばって動かした。ぱた、ぱた……ぱたぱたぱた……ぱたっ、がくりかえされる。

 なにやってんのと、エルは呆れた。同様の表情をしながらも、シャレーナは口を開く。

「そこの悪魔は、スラム街の住人だ。天使警察の把握していない通路も、知っていることだろう。便利な道具がある以上、使わない手はあるまい」

「ちょっ、ちょっと待ってください。まさか」

「そのまさかだ。間近での監視の必要もある」

 シャレーナは息を吸いこむと、吐いた。

 身構えるエルに向けて、彼女は命じる。


「おまえたち、しばらくふたりでバディを組め」


 エルは目を見開く。

 イヴは言葉を失う。


 ふたりは顔を見あわせる。


 エルとイヴ。

 天使と悪魔。

 警察と犯罪者。

 戦闘のエリートと逃走のエキスパート。


 上司命令のもと、ここに真逆のバディが結成された。

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