第二幕 この匣庭の多様なる種族
カツコツと、硬い足音が鳴った。
なめらかな大理石の床と白い漆喰壁、等間隔で飾られたステンドグラスなどがきらびやかな──荘厳さを優先し、機能性を排した造りの建物の中に、不機嫌極まりない足音がひびく。怒りにあわせて、エルのふたつ結びの白髪が踊った。そのかがやきを見て、談笑していた天使警察の面々はそそくさと逃げだす。彼女たちには現在進行形でサボっていることへの後ろめたさがあるのだろう。だが、遠くで、今度はエルの陰口大会がはじまった。
わざとらしくも騒々しい、笑い声があがる。
エリートである、エルは短く舌打ちした。
(ほんっと、馬鹿ばっかり!)
スラム街から、エルは本部へ帰還していた。そして、考える。
天使とは基本高慢で、認めたがらないが怠惰でもあった。優雅に生きることこそを種族特権と考えている者すら多い。だが、エルに言わせれば、それはひと言で片付けられる。
とんだ思いあがりだ。
ノブレス・オブリージュ。社会的地位の保持には、必ず、義務がともなう。
いかに高貴たる天使とはいえ、戦わない警察など雑魚にも劣る。
(食って寝るだけなら、誰にでもできる)
エルもまた天使にふさわしい『純然たる傲慢さ』を身につけてはいた。その自覚もある。だが、彼女はこの『天使警察本部』に巣食うほとんどの連中とは違った。毎日気まぐれに他種族の弱者を適当に捕縛し、あとはお茶会やらサロンやらに勤しむ連中とは異なるのだ。
真面目さや勤勉さが仇となって、疎外されようともどうでもいい。
そう、エルは惰眠を貪る豚でもなければ菓子をつつきまくるだけの鴉でもないのだ──。
「誰が豚ですって?」
「うん?」
どうやら、口にだしてしまっていたらしい。
刺々しい声をかけられ、エルは顔をあげた。
漆喰壁に刻まれた葡萄柄の見事なレリーフ前に、天使警察の少女たち四名が立っている。
どれも淡い──水色の髪に、翠色の髪、金色の髪に、桃色の髪が花のように並んでいた。怒りをふくんだ口調とは正反対にその顔には他者を舐めきった笑みが貼りつけられている。
それが気に食わないと、エルは唇の端をあげた。
「エル、その表情はナニ? あなた、さすがに身のほど知らずではなくて?」
天使らしく色素のうすい少女たちは、エルがエリートである事実にもかまうことなく、ますます傲慢な目を見せた。コイツらの自信の源はいったいなんだと、エルは記憶を探る。やがて該当の理由に気がついた。確か四名の中のリーダーが上層部の誰かの後継だったか、お気に入りだったかだ。だが、興味がないと、その詳細は以前に記憶から切り捨てている。
確かなことはひとつだけ。
コイツらはみんな雑魚だ。
「アタシは、誰かを名指しで豚呼ばわりしたつもりはないけれども? 怠惰を食い散らかしている自覚があるようなら、なにより」
「ふうん、相変わらず、生意気かましてくれるわね。ねぇ、エル? あくせく働くのは結構だけど、『この私』にその態度はないんじゃないの?」
「『逃げ羽根のイヴ』に逃走されて焦り、広範囲殺傷天使武器を無断借用し、使用──人間に負傷者をだし、挙句の果てに逃げられたアンタたちが──その尻拭いをしてあげてるアタシに対して、逆になにを言うわけ?」
すぱんと、エルは容赦なく言ってのけた。
ざわりと、聴衆たちがざわめく。
先日スラム街で起きた一部天使警察の汚点──それは直後の違法薬物の一斉検挙でうやむやにされたはずだった。その事実を直視している者は、もうエル以外にはいない。だからと言って──反省もしない失敗を──記憶から消してやるつもりは、彼女にはなかった。
屈辱に震える四人組に対して、エルは鼻を鳴らす。
「天使警察としては言語道断。無様な失態にもほどがある。けど、少しは安心したかな」
「……エル……あなた」
「豚の自覚があるんだから、なによりじゃない?」
「『光よ!』」
相手は叫んだ。天使ごとに使用武器は異なる。高慢な少女は、レイピアを作りあげた。ゆるく、エルは白刃どりのかまえをとる。相手の自信とともに、へし折ってやるつもりだ。
ステンドグラスのせいで色づいた空気が、殺気と緊張でひりつく。
すぐにでも、ふたりは動きだそうとした。
だが、次の瞬間だ。
「薔薇入りの紅茶と、クッキー、お待たせいったしましたあああああああ!」
蜂蜜色を帯びた、甘茶色の存在が突っこんできた。
喧嘩相手の少女も、エルも目を丸くする。
嵐のように現れたのは、背が高めの娘だった。天使たちとは異なり、髪や肌は明るい色素を有している。紅茶のような長髪は、光沢を帯びながら腰まで流れていた。目は飴のような黄金色。そして、なによりも特徴的なのは獣の耳と尾が生えていることだ。黒の飾り気のない衣装に身を包み、彼女はコップと紙袋を少女へ押しつける。
そのうえで、ビシッと敬礼をした。
「はい、これでご命令は果たしました! 他に、言いつけはございませんか!」
「ない、けど……ちょっと、獣人のくせに空気を読みなさいよ! 今、私たちはそこの身のほど知らずなうえに下品な、天使警察の面汚しに一撃をね」
「ハッ、やれもしないことをよく言う」
「エル……貴様、いいかげんに」
「すみません、私、獣人なものでして、そういう知恵の必要なことはちょーっと、苦手でして。おお、そしてこりゃまた! お帰りなさい、エルさん!」
バッと、獣人の少女は両手をあげた。親しく、彼女はエルの肩を掴む。
そしてこっそりとダラダラ冷や汗を流しながら、エルの背中を押した。
「ささっ、行きましょう! 行きましょう! ちょうど、おやつの時間です」
「ちょっと、ルナ」
「さー、行きましょう、行きましょう。皆さまのほうは紅茶とクッキーを冷めないうちにどうぞ。署内での喧嘩は、私も嫌、皆さまも嫌、規則でも禁止! でしょ?」
ルナと呼ばれた少女は、笑顔で告げた。
うっと、喧嘩相手の娘は迷った。周りの視線を受けて、彼女はしぶしぶレイピアを消す。
そのあいだにも、ルナはどんどんエルの背中を押した。やめなさいとエルは軽くもがく。
だが、まままま、さぁさぁさぁ、と、ルナに連れられて場を離れた。
出鼻をくじかれ、動けなくなった四人組から、エルは距離を空ける。
遠い廊下の角を曲がると、ルナはほうっと息を吐いた。
「エルさん、ダメですよ……あんなふうに喧嘩を売ったら」
「失態の反省すらしていない相手が悪い」
「そりゃー、あの人たちはダメ天使ですしー、警察としては汚職に捕縛失敗に囚人虐待ありで、本当にもう最悪ですけれども、放っておくのが一番ですって。触らぬ阿呆は鳴くだけの阿呆ですから。かまっても無駄!」
きっぱりと、ルナは言いきる。確かにそうだがと、エルはふくれた。
それでも、納得はできない。彼女の顔を眺めて、ルナはニッと笑って続けた。
「それに、それがエルさんのためにもなります!」
「アタシのためになるかは、アタシが決める。それより、ルナ……アンタ、もしかして、使いっ走りどころか、アイツらに無理やり奢らされてないでしょうね?」
売店調達の薔薇入りの紅茶とクッキーについて、エルはたずねた。
獣人の地位は低い。あの四人組が、おとなしく金を払うとは思えなかった。
びくっと、ルナは顔をこわばらせる。彼女はすなおな性質で、不意打ちに弱い。面白いほどにぐるぐると、ルナは目を上下左右に泳がせた。その態度が示す答えはひとつだけだ。
情けないにもほどがある連中だった。天使警察が獣人相手にたかるとは。
そう、エルは深々とため息をついた。腕まくりをしながら、彼女は言う。
「アイツら……ここにいなさい、ルナ。ぶん殴ってきてやる」
「エルさん、ままままま、まままままま、まままままままま」
必死に、ルナはエルをなだめる。
だが、エルは止まらない。格闘技で、彼女に勝てる天使など誰ひとりとしていないのだ。
勝ち負けの問題じゃないですよーと、ルナはエルの服を掴んだ。だが、エルは前へ進もうとする。引きずられながらも、不意に、ルナはハッと顔をひきしめた。これ幸いというかのように、彼女は今になって思いだしたらしい用件を口にする。
「そうでした、署長がお待ちです!」
「アンタ、それを早く言うように!」
白髪を揺らして、エルは慌てて駆けだした。
お気をつけてと手を振り、ルナは見送った。
***
「この世界は、平等ではない」
それが署長の第一声だった。
天使警察本部は、基本的に装飾過多だ。窓にはステンドグラス、壁には様々な物語性のあるレリーフが彫られ、羽の生えた天使や、マリアヴェールに顔を隠された女王の彫像が点在している。頭上には複雑なシャンデリア。トドメのごとく、食器類は銀製とくる。
そのうえで、囚人の監獄や、配下の獣人用の寮の造りは劣悪だった。
それらの環境のすべては、確かに署長の言葉を象徴している。だが、
「お言葉ですが、シャレーナ署長」
「なんだ?」
「らしくない、宣言のように思いますが?」
エルがそう口にしたのには理由があった。
砂糖菓子めいたこの本部内で、署長室は機能性を保持している貴重な場所だ。
部屋の中には執務机と書類棚、革張りの椅子以外は置かれていない。甘ったるい飾りつけたちは、この一室からは排除されていた。それは部屋の主であり、妙齢の天使たるシャレーナが己の特権階級には無関心なことの証明でもある。それでも、彼女はくりかえした。
「確かに、私らしくはないように思えるだろう。だが、天使らしい無邪気な華美さを切り捨ててはいるが、私は誰よりも天使らしい天使を自負してもいる。それは事実で、動かしようはないのだ。この世界は平等ではない。いや、平等であってはならない……我らが秀でた同胞。天使警察、エル・フラクティア」
「はい」
「この世界を匣庭とするならば──中に生きる種族たちのすべてを言えるか?」
「まずは我々天使。敵対関係にある悪魔。配下たる獣人。そして、同盟者である吸血鬼。哀れな人間種……以上、五種族になります」
「そう、そして、各々の命は等価ではない」
高みから、シャレーナは言いきった。
ふむと、エルは眉を微かに動かした。
命の重み自体はどの種族も変わらないものと、彼女は思っている。心臓と魂の重量に大きな差異などない。だが、存在の価値が同じかと言われれば、それはまた別の話であった。
天使とは特権階級だ。エルにもその自覚と自負はある。
彼らは他とは違う。秩序をかかげて残りの四種族を縛り、管轄すべき立場の者たちだ。
次に、悪魔。彼らは天使に捕縛される存在だが、好戦的でやはり貴族主義だ。悪魔は悪魔で、己を特権階級と考えており、天使との対立は根深い。彼らの──周りのすべてに噛みつくような──品のない生きざまは、まるで肉食の獣といえよう。
その下につくのが獣人だ。彼らは天使や悪魔に従属しながら生きている。一種の家畜に等しかった。天使や悪魔の手足となることで、獣人たちは安定した糧と寝場所を得ている。
それよりも、哀れなのは人間だ。短命でか弱き種族は、吹かれて散る羽虫にも等しい。だが、最近では一部勢力が、地位の向上を目指し、天使と交流をもちながら動いてもいた。
唯一、明確に別といえるのは吸血鬼だった。彼らは天使とはまた別の特権を誇る。個体数こそ少ないものの吸血鬼は単体で強い力を持っていた。天使が軍ならば、彼らは尖鋭だ。
ゆえに、天使は吸血鬼とだけは不可侵条約を結んでいる。
「そのため、この匣庭ではいくら人間が死のうとも、本来ならばかまうに値しない。だが、我々、天使は秩序を冠に掲げた誇り高き種族……なればこそ、平等であってはならない世界においても羽虫の悲劇へ目を向けなければならない」
「おっしゃるとおりです」
「最近、吸血鬼による犠牲者が看過できる数を超えた」
シャレーナはついに本題を切りだす。
ここ数日のうちに目にした資料を、エルは脳内で閲覧しなおした。
同僚たちの記載はいいかげんで、被害者の所見すらも曖昧だった。だが、頭部切断に内臓破裂、八つ裂きなどの異様な死体の発見については、事実確認ができている。
思わず、エルは目を細めた。吸血鬼、と聞かされれば、自然と思い浮かぶ姿がある。
知りあいの、幼くも高貴な姿が脳裏をよぎった。
それを狙ったかのように、シャレーナは続けた。
「エル……現在抱えている案件に加えて、おまえの知りあいのもとを訪れてほしい。アレは、吸血鬼の中でも特別な地位にいる者だ。そして、忠告を頼む。規律のない時代に流行ったものと似た無意味な殺戮は、同胞ともどもやめるように、とな」
「……了解しました。まずは、事実確認を」
「ああ、助かる」
シャレーナは告げる。
回りくどかった話は、ようやくそれで終わりらしい。失礼しますと、エルは頭をさげた。靴底を鳴らして、彼女は踵を返す。だが、背後から、シャレーナの声が追いかけてきた。
「『逃げ羽根のイヴ』は捕まったか?」
エルは足を止める。繊細な絹糸のような白髪を揺らし、彼女は振り返った。
昨夜の屈辱とともに、エルはうすい唇を噛んだ。
「申し訳ありません、まだ……」
「よい。責めているわけではない。だが、完全に身を隠される前に、必ず捕縛するよう」
その指示に対して、エルは首をかしげた。
シャレーナが、たかが軽犯罪の悪魔ごときにそこまでこだわるとは珍しい。なにか理由があるのかと、エルは問おうとする。だが、質問を拒むかのように、シャレーナは続けた。
「この世界は、平等ではない」
だから、悪魔は必ず捕まえろということだろうか?
そう予測し、エルは続きを待つ。だが、今度こそ、話は完全に終わったらしい。シャレーナは横を向いた。ふたたび頭をさげ、エルは部屋を後にしようとする。しかし、扉を閉めるときだ。シャレーナの声がかすかに聞こえた。
「女王の栄光は、我々とだけともにある」
***
バサバサと、いく匹もの蝙蝠が飛んだ。
まだ昼だというのに、辺りはうす暗い。
坂道の先、エルの前には岩山が広がっている。そのひとつひとつが尖塔のように鋭く聖堂のごとく重厚にそびえていた。岩たちの影によって一帯は灰色に包まれてしまっている。
「ここでいい……止まって」
山へと続く私有地に入る前に、エルは馬車を降りた。
本部から支給されている回数券を切る。馬も御者も必要としない自走馬車は、二枚を受けとるとくるりと振り向き、荒いくだり道を去って行った。人間の辻馬車に乗れば一枚で済むのだが、しかたがない。なにせ、この山に草食動物は近づけないのだ。ゆえに、目に入る岩山には、馬も鹿も、兎や野鼠のたぐいもいない。棲むのは蝙蝠と、狼と、毒蛇と、魔獣ばかりだ。『彼女』が居をかまえて以来、狐ですら怯えて巣を捨てたという。
「……ったく。相変わらず、来るのに不便で、不吉で、辺鄙な場所」
エルは文句をつぶやいた。そして間近に建つ、岩山に大きくめりこむ館を見あげる。
城のように荘厳で古典的な建物だ。岩で造られた黒い壁面の中央には、見事な薔薇窓がかがやいている。ステンドグラスの色は紅。まるでガラス製の花が咲いているかのようだ。だが、奇妙にもそれ以外に窓はひとつとしてなかった。館の左右にはふたつの塔。頂点には鐘が座していると聞く。しかし、それが鳴る音をエルは今まで聞いたことがなかった。
「さて、と」
肩をすくめて、エルは館に近づいていく。
その前には、高い柵状の門があった。そこは、開かれている。当然だ。
塞ぐ必要などない。なぜならばここは『通ることができない』からだ。
「……それでも、行かせてもらうけど」
小さくつぶやき、エルは両手を開閉した。少し望めば指の間を光が走る。昨夜の疲れからは無事に回復していた。消耗の激しい迫撃砲は無理だが、拳銃くらいならば問題はない。
その事実を確認し、彼女は堂々と門をくぐった。
瞬間、エルは静かに目を閉じた。
なめらかに左手をあげ、パシッと閉じる。
そのてのひらの中に、嘘のようにナイフの柄が収まった。飛来したナイフを、彼女は目にも留まらぬ速さで掴みとったのだ。続いて、エルはコンッと右足のブーツの先端で石畳を叩いた。衝撃で仕込み刃を出現させ、前へ振る。速い蹴りに、金属音が重なった。
槍の穂先と、ブーツの仕込み刃が噛みあう。
「よっ、と」
「やりますね」
いつの間に現れたのか、メイド服姿の少女が槍を突きだしていた。青みがかった灰色の髪に囲まれた顔は、造りものであるかのごとく美しい。銀と蒼の目が宝石のようだ。だが、人形のように、その表情は硬かった。
エルは右足に力をこめた。ギッと強く押しこんだあと、穂先を横に弾く。メイドの槍は押し離せた。だが、エルはわずかにバランスを崩す。その機を逃さず、数本のナイフが左側から飛来した。すでに右手に出現させていた拳銃を向け、エルは的確にそれを撃ち抜く。
銃弾と刃がぶつかり、火花があがった。
あらぬ方向へと、ナイフは飛んでいく。
二方向からの襲撃への動揺もなく、エルは挨拶をした。
「久しぶりじゃない、シアン・フェドリン、エチル・フロール」
返事はない。だが、隠れていた、もうひとり──ナイフの射手──も姿を見せた。こちらは紅みがかった灰色の髪をしている。銀と紅の目が、やはり宝石のように美しい。愛らしい黒のリボンが特徴的だ。その口元には、イタズラ好きそうな笑みがたたえられている。
ふたりのメイドは、よく似ていた。
それでいて、大きく違ってもいる。
片方は退屈そうで、片方は楽しそうだ。片方は冷たい無表情で、片方は温かくほほ笑んでいる。片方はガラスのようで、片方は砂糖菓子のよう。双子のごとく見えるのに正反対。
不思議な印象のメイドたちを前に、エルは低くささやいた。
「アンタたちの主人に用があってね、通してほしいんだけれど?」
「許可はあるのですか?」
「許可は、もっていて?」
歌うように、シアンとエチルは問いかけた。シアンはまじめに、エチルは甘く。
エルは肩をすくめた。細く、彼女は息を吐く。
「ない……無茶言わないで。アンタたちときたら、事前に連絡する手段がないんだもの」
「ならば、諦めなさい。この門を踏む者は」
「許可なくば、死骸になると知りなさいね」
シアンが槍を構える。エチルは数本のナイフの柄を指に挟んだ。
門の警備が、このふたりの役目だ。
だからといって、話が通じないにもほどがある。
呆れたように、エルは首を横に振った。だが、文句を口にすることはなく、先ほど左手で受け止めたナイフをただ放した。くるくると回りながら、それは落ちていく。
石畳の隙間に、ナイフはトスッと突き刺さった。
瞬間、エルは左手にも拳銃を掴んだ。ふたつの銃口を、それぞれのメイドへと向ける。
同時に、メイドたちも動いた。ふたりは、二方向からの多重攻撃をしかけようとする。
だが────、
「もういいわ。やめなさい、シアン、エチル」
鈴を鳴らすような声がひびいた。可憐で、涼やかで、小さいのに堂々としている──美しくも、絶対的な──命令者の声音だ。とたん、メイドたちは嘘のように戦闘を停止した。
「ご主人さま」
「お嬢さま」
シアンは敬意をもって、エチルは愛着をもって呼ぶ。腹部に手を押し当てて、ふたりは姿勢を正した。それから、やわらかなスカートの裾をつまんで、完璧なお辞儀を披露する。
迷いなく、エルも銃口をさげた。そして、声の主へと視線を向ける。
「アンタねぇ、毎回メイドに襲わせるのやめてくれる? 時間の無駄」
「なにを言うの。無駄な時間こそ楽しいもの。そうでしょう?」
詩でもつむぐかのように、幼い少女が応えた。
白銀の髪に血のような紅い目をした、背の低い子供だ。だが、黒くうすく高価な生地のドレスに飾られた体からは、百年と、千年と時を重ねた者だけがもつ高貴さが発せられている。外見とは矛盾した雰囲気がひどく不吉だった。そして背中には白くしなやかな羽が生えている。手にした日傘をくるりと回して、少女は指先にまとわせた鎖を鳴らした。
その先に繋がれた者を見て、エルは言った。
「アンタも大変ね、ハツネ」
「うるさい。おまえ、私にはかまうな」
明るい桃色髪の少女が応えた。そちらは背が高く──怪我をしているのか──体のあちこちに、ガーゼや包帯をつけている。白いワンピースに包まれた姿は儚い。だが、翠の目には同情を拒む、頑なな棘があった。痛々しい姿で、ハツネと呼ばれた娘はそっぽを向く。
その首輪に繋がる鎖を引いて、幼くも高貴な少女は笑った。
「それで、エル。このノアになんの用かしら?」
邪悪なる吸血鬼、ノア。
高貴たる吸血姫、ノア。
彼女こそ、エルの知りあいの吸血鬼であった。
***
「たくさんの、たくさんの死骸……知っているわ」
「ってことは、やっぱりアンタたちがやったの?」
全面に刺繍がほどこされた、尋常ではなく座り心地のいいソファーの上にて──エルはたずねた。そこへシアンが紅茶を運んでくる。黒光りする机に薔薇柄のカップとソーサーが置かれた。エルのものはジャム入りで、ノアのものは血液入りだ。
紅い飲みものをとろりとかたむけて、ノアはささやく。
「そこには、吸血鬼への偏見があるのではなくて? あんな下品なただの死体を、ノアたちが作るとでも? あなたも死にたい? そうなのかしら?」
「アンタとお仲間に限ってはそうでしょうよ。でも、下等吸血鬼の暴走の可能性はある……アタシはそう見ているけど?」
「それはある。賢いといえるわね、エルは……頭のいい子は好きよ。賢しくてかわいい」
ゆるりと、ノアはほほ笑んだ。音もなく、彼女はカップをソーサーにもどす。
タイミングよく、今度はエチルが砂糖で飾られた、薔薇形のカップケーキを運んできた。自分のものをノアはフォークで割る。どろりと紅が流れだした。それも血入りなのだろう。
食欲を失いながら、エルは応えた。
「やめてよね、怖い」
「ハツネよりは下だから安心して」
カップケーキを切りとりながら、ノアは笑った。
エルは客間の奥を見る。金の狼の毛皮の上に横たわりながら、ハッネは退屈そうに足をぶらぶらと遊ばせていた。まるで、儚さと退廃と、諦念の象徴だ。その細い首には、鎖つきの革製の首輪がはめられている。吸血姫のペットは、今日も包帯だらけで飼われていた。
思わず、エルはつぶやいた。
「アンタ、本当にハツネが好きね?」
「かわいいペットだもの。それに美味しいし、齧りがいがあるから」
「ハツネに同情する」
「うっさい。だから、私にかまうな!」
鋭い声がひびいた。不機嫌に言い放って、ハツネはごろりとエルに背を向ける。その様は、ペットというよりもワガママな令嬢のようだ。客人への非礼に対して、ノアが指を鳴らした。エチルがいい笑顔で飛んでいくと、ハツネをガチョウの羽根でくすぐりはじめる。
やめそれひゃめ、あははっ、ははっとうるさい笑い声がひびく中、エルは話をもどした。
「で、結局、下等吸血鬼の線はあるの?」
「ない」
「ない?」
「ノアは貧しき者も、弱き者も、愚かな者も、吸血鬼のみんなはちゃんと監視している」
姫は言いきった。エルは口の端をあげる。吸血鬼とは孤立を好む種族だ。そんな同胞たちの動向を漏れなく把握できているのは、それだけこの少女が強者であることの証だった。
優雅に、気だるげに、ノアはささやく。
「誰も彼もが静か。今、くりかえされている殺人は別」
「犯人は?」
「そこまでは知らない……でも、そうね。お土産くらいはあげましょうか」
カップケーキを、ノアは上品に食べ進めた。最後のひと切れで、皿に零れた鮮やかな紅をぬぐう。エルは辛抱強く言葉を待った。ふたたび紅茶をかたむけたあと、ノアは続ける。
「たとえば、そう、ね……あなた、スラム街の担当になったそうじゃない?」
「なんで知ってるわけ?」
「さあ……耳も目もたくさんあるから」
なんでもないことのように、ノアは応える。
思わず、エルは舌打ちした。吸血姫は、弱き同胞たちと獣や蝙蝠たちから情報を得ている。天使警察にはない特技だ。足で稼ぐエルからすれば、うらやましいにもほどがあった。
その複雑な感情にはかまうことなく、ノアは涼やかに続けた。
「あそこは特に危ない。注意するべき……そろそろ、大きく動きそうな、波にも似た気配が闇の中にあるから」
「具体的には?」
「それはまだ誰にも見えていない」
だから答えられないと、ノアは小さく首を横に振った。
この吸血姫とて、万能なわけではないのだ。口元を押さえて、エルは考えこむ。
「……スラム街、か」
確かに人間の被害者は貧民ばかりだった。同胞の報告書には犯行現場の情報すら欠けていたが、犠牲者はあの一帯から多くでている可能性が高い。注意を払う必要はあるだろう。
続けて、エルは目を細めた。
うす紫の瞳と、乙女のリボンのような長い髪が頭に浮かぶ。
イヴはスラム街を根城にしていた。
あそこは今、危険なのではないか。
(……だからナニよ、アタシ)
「ねぇ、エル?」
「なに?」
「あなた、幸せ?」
「はぁっ?」
急に問われて、エルは面食らった。やわらかな紅色の目を、彼女は訝しげに細める。
だが、ノアはすぐに首を横に振った。彼女は言葉をすり替える。
「違う。適切に聞き直しましょうか……あなた、今、楽しい?」
「楽しいわけないじゃない。相変わらず、みんな馬鹿ばっかり」
「そう。でも、少し前の戦いは楽しそうだった」
チッと、エルは舌打ちした。スラム街に棲む、鴉の目で見られたのだろう。だが、エルは標的に逃げられたのだ。楽しいわけがない。そう続けかけて、彼女は言葉をとめた。
こっちを、涙目で見つめる姿を思いだす。白い月光の下、全力で手札をぶつけあったあと、ふたりは真剣に向かいあった。まるで、ともに激しいダンスでも踊ったかのように。
泣き虫なくせに、『逃げ羽根のイヴ』には根性があった。
あそこまで全力でやりあったのは久しぶりな気がする。
そう言われれば、確かに。
楽しく、なくはなかった。
「楽しいのは続くといい。ノアはそう思うの」
「つまり、なにが言いたいわけ?」
「さあ、それを考えるのは、エルのほう」
「……帰る。情報、ありがとう」
ぶっきらぼうに、エルは立ちあがった。
同時に、笑い声が途絶える。見れば、腹筋をひきつらせて、ハツネは泡を吹いていた。その頬を、エチルがつついている。ふたりの様子を眺めて、ノアは上機嫌にうなずいた。
ほぼ毎度のこととはいえ、呆れるものがある。肩をすくめて、エルは歩きだそうとした。
しかし、振り返ればシアンがいる。銀と蒼の双眸に見つめられ、エルは視線を返した。
「……なに?」
「カップケーキ、お持ちください」
「どうも」
紅いリボンで飾られた籠を、エルは受けとる。中からは、焼きたての菓子の匂いがした。
優雅に座ったまま、ノアは手を振る。
吸血姫は決して友人なわけではない言葉を続けた。
「────じゃあ、さようなら。元気でね、エル」
あなたが、この門をくぐれる強者であるかぎり、また会いましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます