追ってくるのは、愛にもとづく呪い
マスケッター
第一章 湧水と変身、古代ローマ
第一話 由来
フェリスにとって、忘れたくとも忘れられない記憶が二つある。いずれも彼の挫折や不満を思いおこさせてならなかった……たとえ穏やかな初秋の昼にまどろんでいても。
七年前……当時十六歳だった時分の、ある日の晩。二度ともどらないと固く誓った生家の一室……ローマにある義父の仕事場……は月光に濡れていた。義父は、壺や皿に絵をつける職人だった。
フェリスの実父は早くに亡くなり、実母が再婚してこの義父がきた。母も再婚から数年で他界した。兄弟姉妹はない。
あのとき、室内はフェリスを描いた絵で埋め尽くされており花まで飾ってあった。
『おおっ! これこそ……これこそわしの女神だ!』
ふだんは無口でなにを考えているのかろくにわからない義父が、みずからの仕事場で珍しくも雄弁に自らの本音をあらわにした。
『僕、男だよ』
事実を口にしたのは、せいいっぱいの抵抗といえよう。たしかにフェリスは女装しているし、なんなら大金持ち専門の男娼と自称しても誰も疑問に思わない。
いまにして思えば、自分が用意した服で女装して仕事場にきてくれという義父の願いごとなど無視すればよかった。心のどこかで、血はつながってなくとも家族だと思いたい気持ちがあったのだろう。
しかしフェリスは、肉体だけでなく性自認も男である。異性愛者でもあった。むろん、男娼でもない。仕事としては、義父の見習いをしていたにすぎない。
義父は花束を右手に持っていた。毎日毎日、壺や皿に花なり動物なりの絵を描くのが彼の仕事であり全てのはずだった。
『いまは女だ! わしと二人きりのときだけは女になるんだ!』
はちきれんばかりの股間をズボンごしに両手で抑えつけつつ、義父は命じた。礼服で正装しているのがいっそう
『でも、司祭様は……』
ローマ帝国はキリスト教の国であり、すなわち同性愛は許されない。
『あれはあれでいい! わしとの秘密をお前が守っていればいいんだ! だから、結婚するぞ! さあ、この書類にサインしろ!』
脇にある机から拾った紙をかざし、義父は二重三重に倒錯した興奮を隠そうともしなかった。フェリスは深いため息をついた。
『でも……僕、きめたんだ』
『なにをだ』
『ここをでていく』
フェリスの決意は固かった。前々から、許しもしないのに手だの顔だのに触ってくる義父がいやでいやでたまらなかった。だから、とある彫刻家に弟子入りをきめた。義父の許可はとったと嘘をついて。
フェリスからすれば、生家に満足できる点があるとすれば立地だけだ。ローマには、ヨーロッパからアジアに至るあらゆる産物が集まる。だからこそ、フェリスのような少年にも夢を与えてくれる。義父から離れるために手に職をつけるという夢でも。
『な、なんだと! わしの顔に泥を塗る気か!』
『僕の顔に泥を塗っといてよくいうよ』
そういいすてて、フェリスは背をむけた。
『どこへいこうがお前はわしのものだ! どうせ落ちぶれ果ててわしのところに帰ってくるしかないだろう!』
『知るか』
義父の罵声を無視して、あらかじめまとめておいた荷物を手に家をでた。真夜中なのを幸い、路地裏で義父から渡された女装を捨ててふだんの格好を回復した。
それにしても、きわどいタイミングだった。弟子入りの話が一日遅れたらと思うとぞっとした。
フェリスが新たな人生を期待し、住みこみで弟子入りした彫刻家はローマでもそれなりに名が通っていた。弟子として雑用を果たしながら技術を教えてもらい、衣食住の面倒を見てもらうかわりに給金はない。
だが……。基礎はたしかに学んだものの、三年たっても雑用係だった。同じ立場の兄弟弟子も数人いたが、皆フェリスを追いこして自立していった。
四年目にさしかかったある日、フェリスはついに『仕組み』を知った。真夜中に、たまたま手洗いにいきたくなって自分の部屋をでた彼の耳にうめき声が聞こえてきた。
うめいているのは新しく入ったばかりの弟弟子なのが、声でわかった。まだ十四歳だったはずだ。部屋は少し離れているものの、病気にでもかかったのかと思い近づいた。すると、ベッドが激しくきしむ音が聞こえてきた。
もしや、これは司祭達が教会の説教で口にする悪魔か。それが彼を苦しめているのかとフェリスは心配した。だから、弟弟子の部屋をノックもせずに開けた。
うつぶせになった弟弟子のうえに、師匠が覆いかぶさっていた。二人とも裸だった。
司祭達は、同性愛がいかに罪深いかをしょっちゅう語っていた。まして、相手は未成年。彼らの主張にもとづくならば、少なくとも師匠は地獄いき間違いなしだろう。
そこから先は、よく覚えていない。衝動的に自分の部屋に帰り、手早く身支度してからさっさと出奔した。長年世話になった感謝の印として、塀に小便をかけておいたことは確実に覚えている。
幸か不幸か、フェリスは貞操については守ることができた。しかし、自らの立志はおろか明日の食事にも事欠くはめになった。
どのみちローマにはいられない。逆上した師匠や義父がどんな仕打ちをしてくるか、考えたくもなかった。
以来数年、彼は流れの石工として行く先々で半端仕事をこなしつつ北へ北へと進んだ。いつのまにかアルプス山脈を越え、金髪で青い瞳をした蛮族達が巣くうという噂の森へと踏みこんでいった。
『だからいったろう』
森のなかで、小枝や茨をかきわけて歩くフェリスの前に父が現れた。女装用のかつらを持っている。
『父さんには関係ない』
フェリスはいいかえし、自らが右手に握るノミの堅い手応えを自覚した。
『なんだその口の利きかたは!』
『へぇ、父さんも怒ることがあるんだね』
フェリスの挑発に、父はかつらを振りあげて殴りかかってきた。フェリスはノミを突きだし、父の腹を刺した。
『や……やったぞ! やったぞ!』
『なにをやったんだ?』
想像もしていなかった、第三者の声がおぼろげに流れてきた。
『父さんを……父さん……』
『いい加減に起きたまえ』
はっと目が覚めた。頼もしさを柔らかく放つまなざし……茶色い瞳が自分を見おろしている。まだ若いものの、フェリスよりは明らかに歳上の男性だった。
「バオベさん……」
「ずいぶんうなされていたな」
バオベの気遣いに、フェリスは軽くうなずいた。小さくて低い、声にもならない声をもらしつつ、彼は上半身を寝床から離した。バオベは寝床の脇であぐらをかいて座っている。
大して広くもない室内には、飲み水や食料を入れた壺の他に大小様々な石がならんでいる。床に転がっている欠片といい、なんとなく人間らしい形になりつつある石柱といい、フェリスがこんな場所でも自分の志を失わないように心がけているのはたしかだった。
二年ほど前になろうか。最後に流れついたこの森で……正確にはこの小屋の軒先で……フェリスは蛮族ではなくバオベに会った。バオベはその当時から行商人をしており、この小屋が二人にとって最初の取引となった。
元々は、フェリスが現れる数ヶ月前にローマの入植者が建てたものだ。ちょっとした畑もあれば近所に泉もある。実は、小さな街へも数時間歩けばいけた。その入植者は病気にかかって亡くなり、遺族からバオベが買い取った。
フェリスは、長い放浪生活を通じて人恋しさが募っていた。小屋を背景にした初見の軽い挨拶から、バオベが少し水をむけただけでフェリスはほとばしらんばかりに自らの身の上を語った。
数十分間に渡るフェリスの弁舌を、バオベはいっさい口を挟まず聞き終えた。そして、フェリスがまだ作品を作る意欲を失ってないなら小屋を譲ると口にしたのだ。それだけでなく、不定期にこの小屋を訪問してフェリスが好きに作った作品を買い取るとも。さらには、街への地図までくれた。
フェリスは二つ返事で承諾した。そして気づいた。
芸術家として、なにを題材にすればいいのかなに一つきまってないことに。
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