何が欲しい?

@Ichor

***

 きれいな直線と曲線。

 高い所から俯瞰すると、街はただ、その幾何学的な二つの要素で出来ていることに気づく。自然の風景の中には無いものだ。だからそれらを見れば、そこに人の気配を感じる。

 街は人だらけだ。

 そして、人は他人との比較でしか幸福を感じることが出来ない。幸福を絶対値で量ることが苦手なのだ。だから、人にとって最悪の天敵は人であるかも知れない。街は人が最も生きにくい場所なのだ。

 とは言え、それは他人と接すると必ず利用されてしまう者にとっての話だ。人が多いとむしろ生きやすい者もいる。意識する、しないに関わらず、自己利益のために他人を利用出来る者にとっては、街は天国だ。

 気がつくと他人に利用され、いつも損をしている者たちは、時として自分のことを「運が悪い」と言う。そうとでも思わなければ心が潰れてしまうからかも知れない。逆に、他人を利用して得が取れる者たちは「運も実力の内」と言う。

 そもそも運とは何か。

 運の善し悪しとは、どういうことなのか。平たく言えば、自分の希望通りになるか、ならないか、ということだろう。

では、人は何を希望するのだろうか。


「そろそろ……いくか」

 ここに着いたときには、地平線の彼方にぼんやりと山々も見えていた。それらも今は紫がかった闇の中に沈み、街の直線と曲線は光の粒に縁取られている。

 男は高層マンションの屋上の縁に立っていた。男の薄手のジャケットの裾が風になびいていた。歳はまだ若い。三十を少し過ぎたくらいに見える。

 落下防止用の金属の柵は、まだ男の前にあった。勿論、男はただぼぅっと風景を眺めるために立っていたのではない。

 男の両肩が一度、大きく上下した。落胆のため息だったのか、それとも自身を鼓舞するための深呼吸だったのか。どちらにせよ、男は少しぎこちない動作で、ゆっくりと目の前の柵を乗り越えた。

 そのとき、一瞬の突風が男の身体に真正面からぶち当たった。男はよろけ、少し慌てて後ろ手に柵を掴んだ。今度は何度も、男の両肩が上下した。

「……⁈」

 そばで笑い声が聞こえたような気がして、男はそのまま首だけをひねって柵の内側を振返った。見える範囲の闇の中に人影は無かった。

―こんな時間、こんな場所に人がいるはずはない―

「で? どうする」

 今度ははっきりと、しかもすぐ傍らで声がした。はっとして素早く辺りを見回すと、男の左側、わずか一メートルほどの所に、明るい紫色の作務衣を着た小さな老人が座っていた。柵を乗り越えようとしたときも全く気がつかなかった。老人は両足の膝から下を建物の外にぶらつかせて、暗い虚空を見上げていた。

―いつの間に⁈―

 下方からの街の明かりに照らし出されたその顔は、まるでゴムのマスクでも被っているかと思うほど異様だった。老人の顔には毛という毛が一本も無く、ただ無数の皺が頭蓋の形に固まっていて、その皺の間に目らしきもの、口らしきものが収まっている。そんな風貌をしていた。

「死ぬのか?」

 老人が言った。

「えっ?」

 不意に、でもそれはたぶん当然の質問だったのだろう。当然だが、重たいことをあまりにもあっさりと聞かれたので、すぐには返事が浮かばなかった。むしろ……

「あんた、誰だ」

 そう返した。

 どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。都会では茶飯事のことだが、そのときの男には、ともすると心地よい子守唄のように感じられた。

「ここから落ちたら、かなり痛そうだ。それに……」

 老人は屋上の端に座ったまま、上半身を前に傾けて下界を見下ろした。見ている男の方がヒヤリとして、思わず柵を掴む手に力が入った。

「おお高い。こりゃ怖い」

「……」

「さっき突風が吹いたとき、怖くはなかったか?」

 そう言って、老人は初めて男の方に顔を向けた。

「あんたには、か、関係ないだろ‼」

「あながち関係のないことでもないんだが、まあいい。ただ、ほんのちょっと、このジジイの酔狂に付き合ってはもらえんかな? なあに、手間は取らせないから。その後で好きにすればいい。どうだ?」

 暗がりで上目遣いに見上げる老人の顔は、不気味そのものだ。

「だいたい、あんたは何者なんだ。いつからここに……」

「死神。それで、いいか?」

「ふ、ふざけるな‼」

「ふざけてないよ」

 老人は真顔だ。

「だって……そんな」

 全くあり得ないことだが、その老人の顔や態度を見ていると、やはり何か……底知れない怖いものを感じる。

「怖いか?」

「えっ⁉」

「心配するなって。俺はただの死神だ。おまえを取って喰ったりはしない。でも、な」

「……でも、何だ?」

 男はゆっくりと数センチ、老人との距離を開けながら言った。

「怖いってのは本能だが、まあ、生への執着心に他ならないってことだ。つまり、おまえは死にたくなどないのさ」

―くっ!―

「いいさ、その酔狂ってのに付き合ってやるよ」

 図星を付かれ、男は半ば捨て鉢にそう言い捨てた。老人の造り物のような顔が、笑った形に歪んだ。

「じゃ」

 老人はひょいと立ち上がると、胸の高さほどもある防護柵を軽々と飛び越えた。

「そこは危ない。とりあえず、こっちで話そうや」

 手招きをしながらそう言った。

 男も、手の震えを気づかれないように気をつけながら柵を越えた。


 柵の内側に入ると、痺れたように頼りなかった手足に力が戻ってきた。同時に、死神だと言う、その変な老人に興味が湧いてきた。

「俺の顔に何か付いてるか?」

 男の視線に老人が返した。

「あんたみたいなジイさんは、ワシゃとか、何々じゃとか言うと思ってた」

「おいおい。そんなのは漫画や物語の中だけだ。現実世界でそんなしゃべり方してるジジイに会ったことがあるのか?」

「……無い」

 言われてみれば、そうかも知れない。

「それで、お若いの。いったい何が欲しいんだい?」

「何の話だ?」

「何のって……。何かうまくいかないことがあったから、それで、そこから落っこちちまおうと思ったんじゃないのか?」

 そう言いながら、老人は顎で屋上の端を指した。

―死ぬ理由。……そういうことか―

 男は黒い空を見上げた。曇っているのか、星はひとつも見えなかった。

「欲しいものなんか……、ない」

 老人は、手の平で包むように禿頭をくるくると撫でていたが、小さくため息をつくと、手を止めて男の顔をいぶかし気に見上げた。

 男は続けた。

「クタクタなんだ。……ただもう、ぼろぼろで、クタクタで……」

「だから、何でそんなぼろぼろに疲れているんだ?」

「一生懸命何かをやっても……気がつくと自分の努力が他人の功績になってる。抜け駆けや裏工作に優れた者がいい思いをする」

「ズルい奴らにしてやられっ放しでクタクタで、いいことなんて何も無い。つまり……そういうことか?」

 老人は、鼻をほじくりながら早口でそう言った。

「そんな単純なことじゃ……」

「単純じゃあ無いが、ベタだな」

「ベタって⁉」

「ベタ。意味はわかるだろう。……よく有る話過ぎてつまらないってことだ」

「くっ」

「自然界にはよく有る淘汰ってヤツだ。環境に適したものが生き残る。で、不適なものは滅びる」

「人間は、そこらの動物とは違う‼」

「まあ待て。俺はどちらの側も肯定も否定もするつもりはない。でもよく考えてみなよ。そもそも、世の中の形を決めているのは、どんな奴らだ? 人の上に立つ者の多くは、少なからず他人を踏み潰してのし上がって来るんだ。お人好しがどう頑張ったって掴めるポジションじゃあない。そんな輩が自分たちに都合がいいように作った世の中なんだから、お前さんみたいなのが生きにくいのは当たり前のことだ」

「俺にはもう何が何だかワカラナイ! どいつもこいつも、どうしてあんなに自分勝手なんだ」

 男は崩れるように両膝をつき、激しく首を振った。

「まあ、そんなに興奮するな。一杯飲もう」

 そう言うと、老人はうなだれた男の前にあぐらをかき、どこからともなく一枚の丸い盆を取り出した。盆の上には琥珀色の液体の入った瓶と、グラスが二つ乗っていた。

「そもそも人間が自分勝手じゃないなんて、どうしてそう思うんだ? 人間は自分勝手な生き物さ、この上なくな。ただ、ちょっとばかり頭がいいから、そう見えないようにすることが出来る」

 男は差し出されたグラスに手を付けず、じっと俯いていた。

 老人は二杯目に口を付け、話を続けた。

「誠実である必要はない。誠実に見えれば、それでいい。いざ自分が損をしそうになったら、さっさと他人を裏切るだけだ。後は適当に言い訳をして無かったことにする。それが人間ってもんだろ、ん?」

「あんた……」

 男は老人に鋭い視線を向けた。

「あんた、死神だって言ったよな」

「まあ、そうだ」

「だったら、うだうだ言ってないで、さっさと俺の魂をあの世へ持って行けよ」

 老人は二杯目を空けた。

「最近は、あの世のキャパシティもパンパンでね。人は死んでから千年もすると別のものに転生する。いいか千年だぞ。その間にどれだけの人が死ぬと思う? 増える一方さ、特に最近はものすごい勢いでな」

「そんなこと知ったことか」

「冷たいね。それに、俺は確かに死神だが人間ほど冷血じゃあない。死ぬ必要のない者を諭したり、死にかけた奴を反魂したりもするんだ」

 男は盆の上のグラスを取って、注がれた酒を一息に飲み干した。

―うまい!―

 飲んだことのない味だった。ウィスキーかブランデーだと思ったが全く違う。

「ほれっ、もう一杯」

 男が口を拭ってグラスを差し出すと、老人はにこりとして酒を注いだ。

「何をして、どうやって他人にしてやられたか……。そんなことはどうでもいい。お前が死ぬ理由はそこではないはずだ」

「何だと⁉」

「何のために生きてきた? 何が欲しくて仕事をしていたんだ? 目的は何だ? それさえ手に入れば死ぬ理由なんてなくなる。そうじゃないか、と言っているのさ」

「……」

「けっこうな変わり者もいて、人生の目的が普通ではない奴もいるがね。俺の見たところ、どうやらお前は普通のようだ。まあ、男でも女でも、最近は普通が多い。人間の望みなんてものは、突き詰めてみれば皆同じってことだ」

「もういい、くだらない……俺は」

「そう言うな。少しは俺の顔も立ててくれ」

 老人はまた酒の瓶を差し出して言った。もうずいぶん飲んだはずだが、瓶の中身は全く減っていないように見える。

「それで、だ」

 数分の間があった。風に乗って、微かに甘い香りが漂ってきた。

 花のような香り。

 老人の顔の肉ひだが持ち上がり、丸い目が男の少し後ろを見つめた。

「あの……」

 背後から女の声が聞こえた。男はハッとして振返った。

 街灯も届かない屋上の闇の中に、人型に、そこだけ白く切り取ったように、全裸の若い女が立っていた。たぶん、全裸だ。

「あっ……」

 突然の、あまりにも異常で信じ難く、それでいて心が揺さぶられるような出来事に、全く言葉が出ない。しかも、その女は……

「どうだ、美しい女だろ?」

 老人は何杯目かの酒を呷りながら、そんな意味のことを言った。

「あっ、ああ」

 男は思わず相づちを打っていた。

「あ、いや。その……」

 老人のにやけた視線に気づいてすぐに取り繕おうとしたが、言い訳の言葉が出ない。

「だろう? 俺があと数千年も若かったら、そこからお前を叩き落として、さっさとかっさらいたいぐらいだ。……ささ、おいで」

 老人は女を手招きした。女は両手で乳房と秘部を隠したまま、恥ずかしそうに頷くと男の傍らに正座をした。

―何の冗談だ―

「お前、カノジョが欲しくはないか?」

「ほ、欲しくないかって……、あんた、何てことを」

 男は慌てて女の顔を見た。セミロングの髪の隙間から、女の、微かに潤んだ伏し目がちの瞳が見えた。

「ふはふは。その娘が欲しいか、何て売春じみたことは言ってない。恋人が欲しいか、と、言ったんだろうが」

 老人のにやけが笑いに変わった。

 男は自らの狼狽ぶりを隠すように、薄手のジャケットを脱ぎ、女の肩にかけた。そのとき、女の肩がびくんと震えるのを感じた。

「恋人は……欲しいさ」

 ぼそりと言った。

「そうか。その娘はな、心底お前さんにホレてるんだよ」

「か、勝手なことを言うな」

「私……」

「えっ?」

「私ずっと、あなたを見ていました」

 女は恥じらいとも、甘えともつかぬ潤んだ瞳で男の顔を見上げた。

「僕を知ってるんですか?」

 女は小さく頷いた。

「でも……ほ、本当に、僕と付き合ってくれるんですか? その……恋人として」

「……はい」

 男は胸の奥でムズ痒いものが蠢くのを感じていた。自分でも聞こえるほどに心臓が激しく鼓動を打った。

「……やっぱりダメだ!」

「金か?」

 老人は吐き捨てるように言って、丸い禿頭を撫でた。

「……」

「改めて聞くぞ。何が、欲しい?」

「そんなことを聞いて、どうするんだ!……今更何を言ったって、僕はただのダメ人間なんだ。その人に愛される資格なんてない」

 女は、そっと男の肩に手を触れた。

「……くそっ!」

 男の身体が小刻みに震えていた。

「ふぅ、まったく手間のかかる奴だ」

 老人は面倒くさそうにゆっくりと立ち上がると、右手を作務衣の懐に差し込んだ。

 一秒、二秒、三秒。

 そして風が止まった。

「餞別だ」

 老人が肉ひだの間で口を吊り上げた。

 次の瞬間、懐から取り出した老人の手のひらから、白い煙が涌き上がった。煙は見る間に膨れ上がり、マンションの屋上を覆っていった。

 男と女は中腰で抱き合ったまま、じっと煙を見つめた。

「⁈」

 突然、白い煙は白い蛾の群れに変わった。二人は思わず身を固くしてしゃがみ込んだ。

 蛾の群れは激しく渦を巻き、ロート状になって屋上の中央に下がり始めた。そしてロートの先端から、一匹、二匹と舞い落ちて、屋上の床に次々と降り積もっていった。

 男は目を見張った。

 屋上に落ちた蛾は直方体へと形を変え、まるでピラミッドの石のように積み上がっていく。白い蛾の群れが一匹残さず積み上がったとき、ピラミッドの裾野は屋上の半分を埋め尽くし、高さは男の身長の2倍にもなっていた。

 男が近づいてよく見ると、石は高額紙幣の束だった。

「こ、これは」

「餞別、と言っただろう。それとも香典の方が良かったか?」

「あ、えっ?」

 男はよろめいて、紙幣の山の前に膝をついた。

「……本物、なのか?」

「ああ。俺だって一応神さまの端くれだからな。ウソはやらん」

「くれるのか?」

 言いながら、男は女を振返った。女の唇が何かを言おうとして微かに動いたが、声はなく、女はただ男の顔を見つめ返した。

「好きなだけ持ってけ。俺は、今夜はこれで仕舞にさせてもらう」

 老人は鼻歌まじりで歩き出した。

「ちょっと待ってくれ。こんな大量の札束をどうやって運べばいいんだ」

「おい、そのくらい自分で何とかしろ。いらないなら置いてってもかまわん。お前の同胞には、そいつを欲しがる奴は腐るほどいるからな。放っておいてもすぐに誰かが片付けてくれるだろうよ」

 老人は肩をすくめて立ち止まり、二人に背を向けたまま言った。


 男なら、愛してくれる美しい女と使い切れないほどの金。

 女なら、輝くほどの美しさと使い切れないほどの金。

 それさえあれば、大抵の死ぬ理由は吹っ飛んでしまう。

 人間とは、たぶん、それだけのもの。



<終>

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