知の果て

@Ichor

***

 木製のジョッキを一気に空にすると、小銭を数枚テーブルに置き、俺は剣を掴んで腰を浮かせた。

「あの……騎士様」

 そのとき、若い女が声をかけてきた。

 身なりから推すに、多分この近くに住んでいる農民だろう。少し怯えたような、すがるような表情で俺を見上げていた。

 俺は軽く溜め息をついて立ち上がった。

「悪いな。今は女を抱きたい気分じゃないんだ」

 このところ大きな戦も無く、世間はいくらか平穏になったが、金は一所に集まるばかりで一向に下へは降りて来ない。平民は貧しいままだ。身も心も切り売りしなければ生きてはいけない。

 いっぱしに剣など下げているが、俺だってこの女と大した違いはない。

 肉付きのいい、なかなか心地よさそうな女だが、仕方が無い。

「あの、私」

「それから……俺はもう騎士じゃない」

 騎士はとっくに辞めた。

 命を賭して、どれほど忠誠を尽くしても、肥え太るのは何もしない君主と取り巻きだけではないか。何故、一握りの人間たちに贅沢をさせるために、自分の人生を犠牲にしなければならないのか。そうしないと平民が生きていけない世の中は、誰が創ったのか。

 俺は、騎士を辞めて傭兵になった。

 傭兵には敵も味方もない。

 忠誠も名誉も関係ない。

 ただ自分のためだけに仕事を受け、そのとき敵だと言われた相手に剣を振ればいい。

 だが傭兵は、戦や揉め事が無ければ仕事は無い。つまり今は金が無い、ということだ。

「どうかお願いです、騎士様。夫の……夫の仇を打ってください‼」

 女は薄汚れた酒場の床に膝を落とし、胸の前で両手を握って首を垂れた。そうして、肩を振るわせながら何度も懇願した。

 店内の酔っぱらいたちが、好奇の目でこちらを見ている。

「……わかった、話を聞いてやるから付いて来い。おいオヤジ、金は置いたぞ」

 店を出ると、目抜きから外れて裏通りに入り、一本の太い菩提樹の陰に女を誘った。

「俺を知ってるのか?」

 女を斜に睨み、そう切り出した。

「噂を聞きました。……その、赤いヘビの革が巻かれた鞘のことを」

「そうか。だが俺は少々高いぞ」

 女は俯いたまま、ただじっとしていた。

「無いのか。金が無いなら……」

「お、お金は」

 俺が背を向けると、女は慌てて顔を上げた。

「お金は……ありません。でも、名刀を差し上げます!」

「名刀?」

「はい」

 改めて女を見た。短剣すら携えていない。

「どこにある? 見せてみろ」

 女は、また胸の前で両手を握り合わせた。

「ここにはありません。でも、どうか信じてください。その剣は……その仇が持っています」

「つまり、そいつを殺してぶん取れと言うことか⁉」

 呆れたものだ。俺は背を向けた。

「お待ちください‼」

 女は慌てて、倒れ込むように袖にすがりついて来た。

「いいか、俺は追い剥ぎじゃない。勘違いするな」

 振り向いて言うと、女は、

「この仇討ちは……きっと騎士様の名誉になります!」

と言った。

「いい加減にしろ‼ 何が名誉だ」

 振り払おうとしたが、女はしぶとく食い下がった。

「コギトウ‼ 剣の名は……コギトウ」

 引き摺られながら、女ははっきりと、そう言った。


 コギトウ、だと?

 それが本当なら、その剣の持ち主は一人しかいない。吟遊詩人の詩にも謳われる、鬼神のごとき伝説の傭兵。

 だが本当に……生きているのだろうか。

 伝え聞く武勇伝は、50年以上も前の出来事だったはずだ。

 女は嘘をついているに違いない。

 いや、だがもし本当だったら……。

 恐怖とも、期待ともつかぬ筋肉の震えが全身から涌き上がって来る。

 まさか俺は、鬼神と闘いたいのか?

 伝説通りなら、自分が太刀打ち出来る相手ではない。


 鬱蒼とした森の中を、もう半日近く歩き続けている。街を出てから2度目の夕日が沈もうとしていた。

 落葉や小枝を踏み砕く音に混ざって、後ろから激しい呼吸音が聞こえて来る。肩越しに振り向いて見ると、女は肩で息をしながら必死について来る。よろよろとおぼつかない足取りとは裏腹に、前方を睨むその目は少しも弱音を吐いていない。ギラギラとして、強い執念のようなものさえ感じる。

 夫の仇を打つ。ただその一心なのだろう。

「少し休もう」

 声を掛けると、女は力が抜けたように太い木の根元にへたり込んだ。

「まだ遠いのか?」

 水の入った革袋を手渡すと、女は喉を鳴らして飲み、一つ深呼吸をした。

「もうすぐ村が……森を抜ければ、小さな村があります。仇は、その近くの……」

「日暮れまでに着けるか?」

 女は頷いた。

 俺は立ったまま、木の幹に背と頭を預けて目を閉じた。


―俺は何故、この仕事を受けたのか―

 見知らぬ者の仇討ちなど、どうでもいいことだ。報酬も当てにならないだろう。

 この女を抱きたかったのか……違う。こんな面倒なことをして、間尺に合うものじゃない。

 やはり、コギトウが欲しいのか? 

 欲しい。

 だが、命を賭けるほどのものだろうか。いかに名刀とは言え、何百人もの血を吸った、ただの人殺しの道具なのだ。

 俺は善人じゃない。

 俺は悪人じゃない。 

 では何故ここにいる。

 やはり俺は……鬼神と闘ってみたいのだ。そして伝説を打ち負かす。きっと、そのためにここにいる。

 何故、伝説と闘う?

 それは名声のため。

 何故、名声が欲しい?

 金のため。

 何故、金が欲しいのか?

 生きるために……どうしてそんなに金が必要なのか。望まぬことをして、時には命を賭けてまで……どうしてそんなに……。

 いや、金のためじゃない。決して、そうじゃない。


「騎士様」

 目を開くと、女は俺の足下にうずくまっていた。

「あそこに、何かいます」

 女は怯えた目でこちらを見上げ、小声でそう言うと前方の茂みを指差した。

 気配を探ると……確かに木の下生えの陰に潜む何者かを感じる。距離は、荷馬車数台分はあるだろうか。抜け目無く風下に潜んではいるが、獣の気配ではない。

 だが、刺すような殺気を感じる。

「おい。俺を踏み台にしてゆっくりと後ろの木に登れ」

 そう言って片膝を付くと、女は言われた通り俺の背中を足掛かりに、2メートルほどの高さの枝まで登った。

「そこにいろ」

「はい」

 剣の柄に手を賭け、カエルのように姿勢を低くして前方の茂みの奥を睨んだ。そこに潜む何者かは、ただこちらを窺っているだけで、動く気配は感じられない。

 互いにまんじりともせず、小一時間が過ぎた。

―背を向けるのは危険だ。しかし、このままでは埒が明かない―

 俺は一歩前ににじり出た。

「あ、あの」

 途端、樹上から女の声がした。ちらりと、そちらに意識を向けた瞬間、何者かの気配は消えていた。


 辺りに薄闇が降り始めた頃、森の木々が開け、こんもりとした丘の上に細い煙が上がっているのが見えた。

「ちょっと行って、宿を頼んで来ます」

 村に入ると女は言った。

「いや、いい。仇はこの近くに居ると言ってたな。さっさと片付けてしまおう」

「えっ? でも少し休んだ方が……」

 村を見回すと、そこかしこに数人の人影がある。

 農民には見えない。

 木こりでもなさそうだ。

 嫌な雰囲気だが、殺気は感じない。

「ここで待っていろ。相手が本当にコギトウの使い手なら、お前は足手まといだ」

 女は軽く唇を噛んだ。

「仇の居場所を教えてくれ。明日、空が白み始めるまでに首を持って来てやる。もし、陽が昇りきっても戻らないときは、返り討ちにあったと思ってくれ」


―丘を二つ越えると、北西の林の中にひと際高い杉の木が見えます―

 不承不承、女はそう言って北の方角を指差した。

 俺はブーツの紐を確かめ、一人で北側の丘を登った。

 闇が深くなると、視覚以外の感覚が鋭くなって行くのを感じる。そうして、湿気をはらむ黒い空気の中をしばらく歩いて行くと、果たして、女の言ったとおり大きな木のシルエットが見えて来た。

―あそこだな?―

 いかに気配を抑えたところで、どうせ気付かれるだろう。俺はかまわず大股で歩き続けた。

 杉の大木の根元に、薄明かりの灯る傾いだ小屋があった。

 小屋には煙突のようなものはなかったが、屋根も壁も隙間だらけと見えて、小屋ごと蒸されているように、あちこちからゆらゆらと煙や湯気が上がっていた。

 戸口に立って内を窺ったが、人の気配はない。

―留守か?―

 俺は取っ手に手を掛けた。

「中は困る」

 突然、すぐ脇から声を掛けられて、全身の筋肉が固くなった。

 見ると、戸口の横に置いてある十ほどの薪束の陰に、小柄な者がしゃがんでいた。

 全く気配を感じなかった。そのことがムズムズとした焦燥感の塊となって、鳩尾の奥を不快にくすぐった。

「この屋の者か?」と聞くと、闇の中で小柄は身じろぎもせず「ああ」と答えた。

 暗がりで顔は見えない。声はひどくかすれて、男女の別も判然としない。

「主は、居るか?」と、聞いてみた。

 小柄は答えない。

 俺が一歩戸に近づくと、「中は困る」とまた言った。

「なぜだ?」と聞くと、

「狭い所で、そんなモノを振り回されるのは困る」

 そう言って、小柄のアゴと思われる尖りが、赤いヘビ革の鞘を指した。

「そういうことか」

 俺は足ごと小柄の方へ向き直った。

 もぞもぞと小柄は動いて、背を預けていた小屋の壁に後ろ手を付け、それを支えにゆっくりと立ち上がった。その様子は、かなりの高齢に見える。

 立ち上がるなり、

「急ぎなら、さっさとやるか」

 小柄は右手を懐に差し入れながら、そう言った。

「ある者の仇を討たせてもらう。覚えはあるか?」

「まあ……だがそれよりも、これを取りに来たのだろう?」

 懐に入れた、小柄の右手がするりと出た。

 途端、背の真ん中を氷柱が貫いた。殺気を感じたと言うより、悪寒に近い感覚だった。

 小柄の手には、一振りの短刀が握られている。どんな謂れのある業物かは知れないが、どうも禍々しい。

「何のことだ?」

「コギトウ」

 小柄はさらりと言った。


「もう少し近づかないと、暗くて見えやしない」

 女が言った。

 女の傍らに男がいた。二人とも、背の高い草の陰に身を潜めていた。男には左の耳が無かった。側頭部の髪の生え際ごと、顎にかけて削ぎ落とされたような傷跡で、骨も見えている。

「あいつならヤルかも知んねぇ」

 乾いた革の上を岩が転がるような声で、男が言った。

「本当かい?」

「ああ。森ん中であいつを見たときゃあ、さすがのオレも寒くなった。お前が助けてくれなきゃ、動けなかっただろうよ」

 そう言って、片耳の男はクックと笑った。

「あんただって解ってりゃ、あいつに知らせたりしなかったのに」

「なぁに、同じことさ」

 女は唇のささくれを噛んで、「賭けは、どうすんだい? 何も知らない客連中は、小さいのに勝ち目は無いと、挑戦者に大金を賭けてるんだよ。あいつが勝ったら大損じゃないか」と言った。

「コギトウさえ手に入りゃあ、金なんか関係ねぇ」

 片耳の男はギシギシと奥歯を噛み締めた。

「生き残った方は?」

 女が言うと、

「どさくさに紛れて、オレが仕留める」

と吐き捨てて、男は無い耳を擦った。


 勝手に大剣だと思っていた。何しろ幾多の戦いを無傷でくぐり抜け、おびただしい人血を啜って来たと言われる傭兵の剣なのだ。こんな小物のはずはない。

「馬鹿な」

 そのとき、小柄がヨロヨロと前に出た。俺は覚えず、左足を引いて剣の柄頭に手を掛けた。

「どうも……百年も生きてると何をするのも億劫になる。悪いが、どこかその辺に火を焚いてくれないか。ちょっと暗いようだ」

小柄は言った。

「火などいらない」と返すと、「お前のためじゃないよ」と言う。

―百歳なら、例えどれほどの達人でも、目ぐらい衰えたって無理はない、か―

 視線を逸らさず薪束を解いていると、小柄が「観客が見やすくなる」と言った。

「観客?」

「お前さんが良く知ってる女と……獣のような男。もう、その辺に隠れているよ」

 辺りを探ったが気配は感じられない。

―獣のような男?―

 森の中でこちらを窺っていた奴か。

「あんたの知り合いか?」と尋ねると、「あの、片耳の獣もコギトウを狙っている。女は片耳の女房だ」と言った。

「つまり、仇討ちは偽りということだな」

 ならばコギトウは……本物か?

 片膝を付いた足下で、枯れ草が小さな炎を上げ始めた。

 闇の中に、ゆらゆらと小柄の姿が浮かび上がったが、表情は判然としない。わら蓑のような長い白髪が顔のほとんどを覆っている。だがボサボサの前髪の奥に、こちらに向けられた視線をはっきりと感じる。

 くべた薪の一本に炎が這った。

 前髪の奥の視線が「そろそろ始めよう」と言った。

 俺は右手でするりと剣を抜き、そのまま腕を背後に回した。


 片耳の男が「いよいよだ」と言って、腰を落としたままゆるりと前に動いた。両眼は遠くの焚き火を見据えたまま、トカゲのように草の合間を縫って進む。

 女はただ、その場でじっとしていた。


 ほとんど無風だった。

 焚き火の炎だけがちろちろと動いている。

 小柄がゆっくりと、片足を引きずるようにして俺に背を向けた。短刀を握った小柄の右手は、切っ先を下に向けたまま無造作に下げられていた。

 敵に背を向けて、ただ立っている。つまりそういう風である。

「何の真似だ?」

「……」

 俺の問いに小柄は答えなかった。

―観客か?―

 遥か背後からわずかな殺気を感じたが、目の前の者に集中しなければならない、と全身の感覚が言っている。

 俺はそのまま小柄の背中を見つめた。

―短刀は、自分から見て右側に下げられている。相手の左腰から右の肩へ斜めに切り上げれば……。まずは右と見せかける―


 焚き火の穂先が、ふわりと小柄の方へなびいた。


 右前方へ、一気に炎を飛び越える。空中で背後の剣を左手に持ち替え、着地と同時に……。

「つ‼」

 突然、後頭部に細く鋭い殺気が迫った。

 俺は、着地と同時に左へ身体をスライドさせた。

 鋭い殺気は、風切り音とともに右耳をかすめて前方へ、小柄へ向かって飛んだ。

 キッと、軽い金属音が頭上で鳴ったが、構わず左下から剣を切り上げた。右手は懐の中で隠剣を握っている。

 二刀で相手を仕留める。それが俺の、自己流剣法だ。

―何⁉―

 小柄の背は、ぴくりとも動いてはいなかった。だが切り上げた長剣は、何かに当たって大きく弾かれた。

 刹那、一瞬の悪寒のような、全身が痙攣するほどの殺気が、顎の下から小柄の右手とともに突き上がった。

 俺は、それを自分で感じて動いたのか、それとも懐から放った隠剣の二の太刀が、たまたま弾いたのか。いずれにしても、俺は咄嗟に左後方へ転がって逃れた。そして、素早く構え形を戻し、小柄を見た。

 小柄と焚き火の間に細く光る物がある。地に突き刺さったそれは、手裏の類と見えた。恐らくはあのとき、自分の耳をかすめて飛び抜けたものに違いない。

―小柄は、俺の太刀とあの手裏を一本の短剣で同時に弾き、一瞬の間もなく、顎下に必殺の一閃を繰り出してきたのだ―

 焚き火の向こう側で、しゃがんでいた小柄が、ゆらゆらと立ち上がった。

 とても叶う相手ではない。俺は、死を覚悟した。だが……、

「そう簡単には死なん」

 俺はさらに腰を落とした。

 そのとき、小柄の右手がふわりと上がった。


「ちくしょう! あいつでも無理みてぇだ」

 痰を吐き捨てるように言うと、片耳はトカゲのように素早く草の間に滑り込んだ。

 低い姿勢のまま前に進み、左に動き、少しの間留まると、今度は後退し、また右前に進む。

 片耳は、風向きと自らの足音に細心の注意を払いながら、じわじわと焚き火に近づいて行った。


 小柄の右手にはコギトウが握られている。その九寸ほどの刀身は、焚き火の炎に照らされて、生き物のようにゆらゆらと鈍い光を放っている。

 俺は必殺の構えのまま動く事ができず、岩のように固まっていた。腹の底に、氷のように冷たい虫たちがムズムズと這い回る感覚があり、それが指先、つま先に痺れとなって伝わって来た。

―伝説は本当だった。たぶん俺は、ほどなくこの木乃伊のような小柄な老人に斬り殺されるのだろう―

 そのとき唐突に、小柄のしわがれた声が「おい」と言った。俺は黙っていた。

「これが……、お前を使ってみたいと言っている」

 小柄は白髪の隙間からそう言うと、コギトウを握った右腕を真上に掲げた。そうして、ゆっくりと手首を回し始めた。

「何を言ってる?」

 小柄は何も答えず、ただコギトウを回している。糸を巻き取るように、からかうようにゆっくりと手首を回し続けた。

 すると突然、焚き火の中で重なっていた太い薪が、音を立てて崩れた。パッと火の粉が舞い上がり、視界を遮った。

 薪が崩れた瞬間、小柄の斜め後ろの草陰から、黒い塊が音もなく跳び出した。塊は跳び出すと同時に、こちらへ向けて二本の手裏を放ち、そのまま、高く掲げた小柄の右腕に跳び付いた。

 火の粉の幕を裂いて狙い来る手裏を払おうと、身を反らざまに懐の小刀を抜きかけたとき、こちらに向かい、弧を描いて宙を舞うコギトウが視界に入った。

―放ったのか⁈ コギトウをっ‼―

 

そして、俺は見た。


 火の粉を越えると、コギトウは折れるように角度を変え、俺の眉間をめがけて急降下した。目のすぐ前でクルクルと回転し、二本の手裏を横へ弾き飛ばすと、コギトウは真下の地面に突き立った。

 小柄を襲った黒い塊は、コギトウを追って再び跳ねた。それは蛮刀を振り上げた男の影となって、当然、俺の頭上から雪崩のような殺気を降らせた。

 反射的に、俺の左手はコギトウの柄を握った。

 その瞬間。

 左腕が視界から消えた。

 いや、コギトウを握った左手は、自らが見失うほどの速さで中空に半円を描いた。

 軽い手応えの後、自分に振り下ろされた蛮刀は、それを握る男の両の手首と共に空中を舞った。

 片耳の男は地面を転がり、やがて亀のようにうずくまったまま動かなくなった。

―小柄は、どうした?―

 這うように焚き火を迂回すると、右腕を上げたままの格好で、仰向けに倒れている小さな身体があった。

「おいっ! あんた」

 声を掛けたが返事はなかった。

 近づいて首に触れてみた。

 小柄は既に死んでいた。

「コギトウを手放したからなのか?」

 俺は小柄の懐に手を差し込んで、コギトウの鞘を探った。

―まさか、女か……⁉―

 小柄は、老婆であった。

―あの戦いは、百歳の老婆にできる芸当ではなかった。やはりこれがコギトウの“力“なのか―

 俺は、何の変哲も無い古い革の鞘にコギトウを収めると、小さな亡がらに一礼した。それは、伝説となった百歳の“老婆“への敬意だったかも知れない。

 東の空が白み始めていた。

 気が付くと、大杉の元に女が立っていた。女は杉の幹に寄りかかるようにして、ただこちらを見ている。

「あの世から戻り来て、自分で自分の仇を討つとは……面妖なこともあるものだ」

 女に聞こえるようにそう揶揄すると、女はキーッと叫んでこちらへ走って来た。

「畜生、馬鹿にしやがって‼」

 そうして一声毒づくと、そのまま、うずくまって震えている片耳に駆け寄った。

 俺はコギトウを懐に押し込むと、背を向けた。

「待て‼」

 女の声が背を打った。

「お前がやったのか⁉ お前が、この人の腕を斬ったのか⁉」

―俺が斬った……? わからない。ただ、咄嗟に手裏を弾こうとしたのだ。腕を斬り落とすつもりは、無かった―

「何とか言ったらどうだい! それに、お前は仕事を果たしちゃいないんだ。コギトウは置いてってもらうよ」

 俺は振り返った。

「な、何だい⁉」

 女は怯えていた。

「お前は俺に嘘をついた」

「だ、だから、何だって言うんだ」

 じりと、俺は一歩前へ出た。

 女は片耳の陰に身を引いた。

「お互い様だと言っている。それに……コギトウは、お前にも、その男にも使えない」

―コギトウが、俺を使ってみたいと言っている。そう小柄は言った。俺はコギトウに選ばれたのだ。これは、俺だけの物だ―

 コギトウは、自ら考え、判断し、動くことができる“神の刀“なのだ。

「なあ、どうすればいい? あの女を斬った方が良いのか?」

 俺は着物の上から、その細長い塊を撫でながら、静かに問いかけた。

 コギトウの“声“は聞こえなかった。

 ただ細い風が、朝もやを裂いて耳元を吹き抜けて行った。



<終>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

知の果て @Ichor

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る