人間検定

@Ichor

***

 わずかな違和感があった。

 気づかずに、間違って他人の靴を履いているような……何となく収まりが悪い。そんな違和感だ。

 でも何故そんなふうに感じるのか、理由はわからない。白いコンクリートから照り返す夏の日差しも、街路樹のハナミズキも、眩しい空の色も、自分が知っている風景と何も変わらないのに、何かが違う気がする。

―よく知っている風景だ―

 でも、知らないことがある。

 ここはどこなのか。

 自分は誰なのか。

 そして何故、血の付いたシャツを着て菓子パンを食べているのか……。

 突然、横殴りの風が左の頬を打った。顔を上げると、目の前を通過列車が通り過ぎて行った。私はそのまま視線を辺りに巡らせた。駅名には覚えがなかった。プラットホームには多くの人がいたが、もちろん知った顔はない。

 それにしても、この私の……かなりの量の血の付いたシャツを見ても、誰も何とも思わないのだろうか。それとも飲み物でもこぼしたと思われているのか。そんなことも私の違和感の原因の一つかも知れない。だが、そもそも人の社会とは、そんなものだったような気もする。とにかく、まずは自分が何者なのかを知る必要がある。名前や身分が無ければ何も始まらない。

―とりあえず、この食べかけのパンを食べてしまおう―

 私は自分が〝記憶喪失〟という厄介な状態なのかも知れないと感じつつも、不思議なほど冷静でいられた。それは周囲から感じられる違和感ゆえに、ひょっとすると異常なのは自分ではなく、この世界の方かも知れないと思えたからだ。

 私が左手に持っている菓子パンは、確かに私がよく知っている物ではあった。元は丸くて中央が凹んだ形をしていたに違いないが、既に半分以上食べてしまった後らしく、今は半月よりも細くなっている。噛み痕の断面には好物の〝つぶあん〟が見える。そう言えば口の中には、ほんのりと〝あんこ〟の甘さが残っている感じがする。でも……。

―本当に自分はこの〝あんパン〟を食べていたのだろうか。どこかで買ったという記憶はない―

「まあいい」

 私は残りの欠片を一気に頬張ると、ベンチから立ち上がった。

 パンの空き袋を丸めてズボンのポケットに押し込もうとしたとき、何か固いものが指先に当たった。指の間に挟んで取り出して見ると、それはプラスチック製のカードのようだった。ただどこを見ても、持ち主の名前も有効期限なども印字されておらず、カード自体の名称もない。裏面は真っ白で、表にはただ幾何学的な連続模様がプリントされているだけのデザインだった。

「何だこれ」

 何の価値もなさそうだが、自分が持っていたモノなら自分の正体につながるかも知れないと思い、ポケットに戻した。

―他に何か……―

 他のポケットも探ってみたが、サイフはおろか、ティッシュ一枚出て来なかった。

「金もなしか……」

 そうなると、急に腹の底の方で何かムズ痒いような焦燥感が湧き出した。もう永いこと〝お金無しで出来ることは何か〟なんて考えたこともないから、途方に暮れてしまう。

―交番でも探すか―

 ホームの階段を降りながら考えた。

「ダメか。……このなりじゃ、どう言い訳すればいいんだ? 待てよ。これ、ホントに血なのか?」

 シャツの胸の辺りをつまんで顔に寄せ、匂いを嗅いでみたが、自分の汗の匂いがするだけでよくわからなかった。

 匂いを嗅ごうと俯いた視線の先に、スマホを見ながら急ぎ足で階段を昇って来る若い女性が見えた。ちょうどスレ違う瞬間、私はシャツの染みを隠そうとして無意識に不自然な腕組みをした。

 その肘が彼女の肩に当たった。

「キャッ」

 彼女は腰砕けのようになってバランスを崩し、持っていたスマホが跳ね上がった。

「危ない‼」

 私は咄嗟に右手で彼女の肩を掴んで支え、左手を伸ばしてスマホを受け取ろうとした。だが無理な姿勢で足がもつれ、自分の方が階段を転げ落ちてしまった。

―くうっ―

 かなり痛かったが、肩と腰を少し打っただけで幸い怪我はしていないようだった。

「だ、大丈夫ですか⁉」

 彼女が駆け下りて来た。

「え、ええ、大丈夫です」

 私は腰を擦りながら起き上がった。

「きゃあ、すごい血が‼ どこか怪我をしたんじゃないですか⁉」

「えっ?」

「私がスマホなんか見てたから。……どうしよう、本当にすみません!」

―そうか、シャツの血……―

「いえ、これは。別にあの、怪我はしてないんです。……大丈夫ですから」

 私は立ち上がりながら言った。

「ダメですよ。すぐに病院へ行きましょう」

「あなたこそ急いでいらしたんじゃ……遅れますよ」

「そんなこと。それどころじゃないです」

 彼女は落としたスマホを拾って操作しようとしたが、壊れてしまったようだ。

「どうしよう。あの、どなたか……」

「本当に病院はいいんです」

 周囲に呼びかけようとする彼女を手で制して、私は階段を降り始めた。

「じゃあ、もし良かったら家にお寄りください。駅からすぐ近くですので」

 彼女はすぐに私を追い越し、すがるような目でそう言った。

―ちょっと、しつこいな―

 こういう場合、この娘が私に一目惚れをしたという可能性はまず無いので、ここまでする理由は二つだろう。

 一つは、後であれこれ言われたくないという〝保身〟のため。

 二つ目は、純粋に責任感と思いやりから私の身体を心配してのこと。

 私は彼女の目や言葉のイントネーションから後者だろうと思った。人は何をするかではなく、何故そうするのかが重要だと思っている。だから、私には他人の行動のウラを読もうとする癖があった。

―自分という人間は、もしかしたら疑い深い嫌な奴かも知れない―

「あっ⁉」

 ふと、まずいことに気がついた。

 乗車券を持っていない。お金も無いし、あの怪し気なカードを使ってみる勇気もない。

―どうやって改札を出ればいいんだ? しかたが無い―

「それではお言葉に甘えて……。でも、実は車内に財布ごとバッグを置き忘れてしまって、改札を出ることが出来ないんです」

 私は〝保身〟のために嘘をついた。

 彼女は少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに駅員に掛け合ってくれた。そして、たぶん決して見つかることのないバッグのことも、私の適当な話の後押しをしてくれた。


―親切な人―

 むしろ〝お人好し〟を絵に描いたような人だと思った。

「さっきはありがとう。お金まで払っていただいて、お礼のしようもありません。本当に助かりました。でも、これ以上ご迷惑をかける訳にはいかないし、もうここで……」

 彼女のおかげで無事に駅を出られたので、後は自分で何とか出来るだろうと考えた。

「でも、もう、すぐそこですから」

 彼女の親切心は、あまりにも不自然に感じる。やはり何かおかしい。

 そのとき、鼻の頭にポツリと来た。空を見上げると、いつの間にか雲の色が薄黒くなっていた。どの方向からか、遠くの空から雷の音も聞こえて来る。〝よくある〟ゲリラ雷雨の気配だ。

―どしゃ降りになりそうだ―

 彼女もフッと上を見上げてから私を見た。同じ見立てのようだ。

「雨みたい。急ぎましょう」

「ええ」

 私は、また保身のための選択をした。最近の雷雨は殺人的だったし、やはり降られたくはなかった。ただ、彼女の親切心に応えるという意味で考えれば、あながち保身だけではないかも知れないが、それも自分勝手な理屈に変わりはない。

 駅前から続く長さ五十メートルほどの小さな商店街に、一軒のベーカリーがあった。

 前面がガラス張りになっていて、通りからでも店内がよく見えた。歩きながら、何の気無しに店内の棚に目をやると、見覚えのあるパンが並んでいた。丸く、中央が凹んだ形のパンだ。棚の向こうで、店員がこちらに会釈をしたように見えた。

―あのパンはこの店で買ったのか? まさかな―

 それにしても、ベーカリーのガラスに映った自分は、全く初めて見る男だった。身なりはサラリーマン風に見える。

「あの、僕って何歳ぐらいに見えますか?」

 歩きながら尋ねると、彼女はちょっと笑ってから、「24……5、ですか?」と言った。

―そうなのか?―

 自分ではよくわからないが、そのぐらいに見えるらしい。

「正解です」

「ほんとですか?」

「はい」

「私はいくつに見えますか?」

「……19、かな」

 若いとは言え、やはり女性なので少し下目に答えた。

「正解です」

「本当、ですか?」

「ほんとです」

 商店街を抜けて10分ほど歩くと、閑静な住宅街が見えて来た。どの家もなかなかの邸宅だった。

「あそこ……あの角の家です」

 彼女は、角地に建つひと際立派な邸宅を指差して言った。

―彼女が呼び鈴を押して、家人にドアを開けてもらうのなら休ませてもらおう。もし、自分で鍵を開けて入るようなら辞退した方がいい―

 変な下心などは微塵も無いが、常識はわきまえているつもりだ。

 彼女の家が近づくと、道路に人だかりが出来ているのが見えた。人だかりは玄関先から数メートルの範囲がぽっかりと空いている。そこには二台の警察車両と救急車が止まっていて、屋根の上のライトが灯台のように辺りの風景を赤く明滅させていた。

「えっ、何⁉」

 小さく叫んで彼女が走り出した。私も小走りに彼女の後を追った。

 彼女は野次馬を掻き分けて玄関先まで行くと、静止する警察官に二言、三言告げるとそのまま家の中へ入って行った。

―何か大変なことが起ったらしい―

 私は半ば無意識に、野次馬を掻き分けて輪の中に入っていた。

「あなたは?」

 背の高い警察官が、私の前で手を広げて言った。

「あ、あの、僕は……さっきの女性の、その、知り合い、です」

「女性って?」

「さっき、この家に入って行った人ですよ」

「おい、誰か通したのか⁈」

 長身の警官は、少し離れた場所に立っているもう一人の警官に大声で聞いた。聞かれた警官はすぐに首を振った。

「ところで……その染みは、どうしたんですか?」

 こちらに向き直った警官は、私の胸の辺りを見つめて言った。

―シャツの染みか―

 すっかり忘れていた。一瞬で、気が遠くなるほどの焦りがこみ上げて来た。

「……これは、その」

 そのとき、家の中からスーツを着た中年の男が出て来た。

「あっ、警部、ちょっと」

「ん?」

 警部と呼ばれた男は、眉間に深い縦皺を寄せて近づいて来た。

「何だ?」

「この方が……」

 警官の言葉が終わらぬうちに、警部は視線を上下させて素早く私の全身を一瞥した。

 そして、警官に意味ありげな目配せを送ると、穏やかな口調で言った。

「どうぞ、こちらへ」

 私は促されるまま玄関の中に入った。土間には何足か革靴が並んでいた。きっと警察官が奥で捜査をしているのだろう。それにしても、足音も話し声も聞こえない。家の中に人の気配は感じられなかった。

「何か、あったんですか?」

 ずっと黙っている警部に、こちらから話かけた。自分は完全に無関係だ。だが、明らかに何か疑われている。それで、意識して部外者を主張するセリフで尋ねた。

「それを調べているんです」

 警部は、ゆっくりとこちらに向き直りながら言った。

「ところで……あなた、このお宅とはどういうご関係ですか?」

 言葉遣いは丁寧だが、声色に一枚、威圧するような重さが加わっている。

―ちょっと待ってくれ。本当に何の関係もないんだ―

「さっき、この家に入って行った若い女性がいたでしょ? その人と駅で知り合って……そうだ、彼女は? 彼女はどこにいるんですか?」

「若い女性、ですか……」

「まさか、さっきの警官みたいに『そんな人はいなかった』なんてホラーなこと言わないですよね」

「ホラー、ですか。うぅん……実にホラーですね」

 何が何だかわからない。とにかくこの場から逃れたくて、思わずドアノブに手を伸ばしていた。

「お名前を伺ってもいいですか?」

 警部の、ひと際大きな声にビクリとして、私は伸ばしかけた手を止めた。

―名前は……わからない。適当なことを言っても相手は警察だ。かえって立場が悪くなるだろう―

「わ……わかりません」

「ご自分の名前がわからない?」

「はい。どうも記憶喪失みたいで」

 言いながら、かなりマズイ状況だと感じていた。明らかにヤマしい者がトボけているようにしか見えない。しかも相当にお粗末な言い訳だ。だが、事実だから仕方が無い。嘘を言うよりはマシだと思った。

 白い手袋をはめた警部の手が目の前にあった。

「これは、あなたの財布ですね?」

 警部の手には、どこにでもあるような黒い革の財布が握られていた。

「え? いえ、わかりません」

「変ですねぇ。……この」

 警部は財布から一枚のカードを取り出してこちらに向けた。

「この免許証の写真、あなたですよね」

 確かに、さっきベーカリーのガラスに映った自分の顔によく似ている。

「あっ、でも、僕は財布なんて最初から持ってなかったし……」

―最初? いつの最初だ―

「これね、現場に落ちてたんですよ」

 警部は言った。

―現場って何だよ……いったい何が起きてるって言うんだ―

 私は身体から力が抜けて、がくんとその場にひざまずいていた。ひとつ、ため息が聞こえた後、警部が私の腕を掴んで立ち上がらせた。

「よろしい。それじゃ認証だけいただきましょうか」

「……認証?」

「カードをお持ちでしょ?」

―カード?……ああ、これか―

 私はズボンのポケットから、あの、何も書かれていないカードを掴み出した。

「これですか?」

 警部は無言で頷いて、シューズボックスの上を指差した。見ると、四角い小さな機械が乗っていた。赤いインジケーターが点滅している。

「カードをそのカードリーダーに通して」

 言われるままに、私はカードをリーダーに通した。インジケーターが青に変わり、私は気を失った。


「授業に遅れるぞ」

 肩を揺すられて、私は目を覚ました。

「何? ああ……そうか。俺、寝てたのか」

 周りを見回すと、そこは見慣れた大学の学食だった。

「大丈夫か、おい」

「……何か、変な夢を見てた気がする」

「夢?」

「うん。よく思い出せないけど」

 テーブルに両手を付いて立ち上がると、頭が少しフラフラした。

「おまえのキューコル、バグってるんじゃないか?」

 キューコルというのはクァンタム・コロニーの略で、量子スーパーコンピュータ上で運用されている人工知能とリンクした個人向け端末のことだ。片耳に掛けておくだけで脳波とリンクし、思考とネットワークがリアルタイムにつながるツールだ。スマートフォンが進化したものだと言われている。

 私は左耳からキューコルを外した。

「本当に夢か? 検定かも知れないぞ」

 友人がからかうように言った。

「検定だって? まさか」

 検定。いわゆる〝人間検定〟は十年ほど前にスタートした国家事業で、原則的には十五歳から二十歳の若者を対象に行われる。キューコルを使い、ランダムなタイミングと内容で、被験者の無意識に対してヴァーチャル・テストが課せられる。そこでの被験者の言動や行動、思考のすべてが評価され、Sランクを筆頭に十二段階のランクが与えられる。つまり、人工知能が〝人間の質〟を決める検定である。

 私は大学の医学部に入り、医者になるための勉強を始めたばかりだ。もし今見た夢が検定で、Sランクが取れなければ医者にはなれない。

 人間検定は、与えられたランクによって就ける職業の範囲が厳密に決まっている。医師や代議士のように、その行為が直接的に人の命や生活そのものに関わるような職業に就けるのは、Sランクのみである。人数不足など、特例としてひとつ下のAランクまで可能性はあるが、あまり期待はできない。

「次は、あのうるさい教授だろ? 早く行こう」

 私は自らの不安を打ち消すように、友人の背中を押していた。


 一週間後、キューコルにBランク決定のメッセージが届いた。それからほどなく、私は学部を換えた。


 『資格より人格』の時代が始まろうとしていた。



 <終>

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